諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「羊頭を掲げて狗肉を売る」の逆パターン?

真の意味で世に爪痕を残す天才は大空を羽ばたく翼だけでなく、自在に離着陸を繰り返す為の着陸脚も備えているものなのです。

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という事はつまり?

 

 「A long time ago in a galaxy far, far away.(遠い昔 はるかかなたの銀河系で…)」

坂本龍一アバンギャルドパフォーマーPhewと組んでアレンジと演奏を全担当した「終曲(1980年)」なしにYMOBGM(1980年)」「テクノデリック(TECHNODELIC,1981年)」はなく、エレクトロポップとは一線を架した「シリアスな」テクノ文化の勃興はなかったと言われています。発売されたレコードは、針が自動で上がらないプレイヤーなら本当にいつまでも最後のフレーズがループする恐怖仕様だったとか。

終曲」の影響は映画「The Handmaid's Tale (1990年).」サントラ2曲目「Prison Camp」にまで及んでいる様に見えます。坂本龍一1990年の曲としては甘くて切なくピアノソロ演奏向けの「The Sheltering Sky(1990年)」の方が遥かに著名ですが、「終曲」と連続して聞くと「あれで着手した事が技術の進歩でこう花開くのか」と感慨もひとしお。The Sheltering Skyと違ってピアノ生音ではなくFM音源シンセサイザーらしさ全開なのもかえってプラス要素だったりします。

そういえばYMOにはTalking Headsの影響を受けた 時期もあったのです。

当時はこの方面における細野晴臣の突っ走り方も半端じゃありませんでしたが…

むしろそれ故に当時のYMOにとっての「着陸脚」が何に該当するかが気になります。そういえば細野晴臣って「人形劇三国志(1982年~1984)」のテーマとか手掛けたりしてました。当時は話題にもなりませんでしたが…

もちろん大島渚監督映画「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence,1983年)」主題歌は重要な「着陸脚」の一つとなったが、当時の国際的評価はむしろ「外国人が見たがるエスニックな日本」を前面に押し出した「楢山節考(1983年)」の方が高かったりした。まぁ阿部定事件に取材した大島渚監督映画「愛のコリーダ(1976年)」にインスパイアされたクインシー・ジョーンズが「Ai no Corrida (1981年)」を発表したかと思えば、次第に過去の人になりつつあった「プログレ界の大御所キース・エマーソンが角川アニメ「幻魔大戦(1983年)」の音楽を手掛けたりと「東西文化交流」の内容が複雑化した時代でもあったのです。

次第に「過去の人」になりつつあったキース・エマーソン…何しろ当時の他の「プログレの大御所達」はしっかりエレクトロ・ポップ・ブームに便乗して名前を挙げていた。それこそ無節操なまでに…

まぁもちろん当時を代表する「無節操」といえば「Let's Dance(1983年)」を発表したデビッド・ボウイナイル・ロジャースだった訳ですが。

ここで興味深いのがYMOメンバーはその名前こそ候補に挙げられながら最終的に「風のナウシカ(1984)」を任されなかったというエピソード。

高橋幸宏細野晴臣が英国のエレクトロ・ポップバンドUltravoxの影響を色濃く受けて「Solid State Surviver(1979年)」のベースを総入れ替えしたり「Cue(1980年)」を作曲した逸話を以前紹介しましたが(「音楽的堕落」だと激怒した坂本龍一も後に「Cueの続編」と呼ばれるポップな「Key(1981年)」を発表)…

それでは高橋幸宏はポップ方面一辺倒だったかというとロンドン・パンクムーブメントの落とし子ともいうべき青春映画「Times Square(1980年)」OPにインスパイアされたと思しき「Ballet(1980年)」を陰鬱で無機質な感じに仕上げたりしているのですね(高橋幸宏本人談:坂本龍一のドビッシュー流作曲法をそのまま流用したとの事)。

そういえばポップな曲を揃えた「浮気な僕ら(1983年)」にもラインナップ中最もハードな「Focus」を提供しています。

1981年3月に発売された『BGM』に「ラップ現象」という曲が入っています。当時、“ラップ”はそれこそまだ大きな現象にはなっていませんでした。ヒップホップという言葉もまだ一般的ではない時代です。グランドマスター・フラッシュの「ザ・メッセージ」が発売されたのも1982年です。ラップを取り入れたブロンディの「ラプチャー」を収録した『オートアメリカン』が出たのは意外に早くて1980年トムトム・クラブの『Wordy Rappinghood』(邦題:おしゃべり魔女)は1981年の発売ですね。それらとほぼ同時進行で、細野さんがすごく早くラップをやっています。もっとも、この曲で歌われている“ラップ”は心霊現象のこと。ドアをトントンとノックすることもrapと言いますけど、それと言葉のラップをかけているわけですね。それに合わせて、僕もラップ調の歌詞を作っているんですが、意外に上手く出来たかなと思っています。

お三方との歌詞作りは、通常はどのように行われていたのでしょうか。

バラカン いわゆる共作になるのは幸宏でした。彼は、日本語で作りながらも、それが英語に訳されることを念頭に置いていました。だから、日本語としては逆に不自然だったかもしれません。ちょっと英語的な表現を使うこともありました。僕としては作業がしやすかったですね。細野さんは、部分的に英語の言葉を使っていましたが、意図ははっきりしていました。僕がそれらを含めて、上手くメロディに乗るような英語にしていきました。教授の歌詞は、ポップス・ソングからかけ離れたものが多かったですね。どちらかというと抽象的な歌詞が多かったと思います。

抽象的な歌詞を英語にするのも大変だったのでは?

バラカン 普通の歌詞として訳すことはできませんから、その抽象性を残したまま、ある意味機械的に訳すというか。その際に「この部分はこういうメロディにはめたい」と言われたらまたひと工夫加えるとか、そういうキャッチボールがあったような記憶があります。英語の歌として、最も普通に作業したのは幸宏の曲でしたね。

時代を先取りしていますね。

1983年当時のYMOは、なかなか海外で聴いてもらえませんでした。僕は事務所の仕事としてYMOやソロの音源をヨーロッパの音楽出版社やレコード会社に売り込んでいましたが、思うようにはいきませんでした。幸宏のソロ・アルバムのレコーディングでロンドンに行くと、向こうの雑誌のインタヴューを受けることがありましたが、ライターの人たちはYMOのレコードを聴いても、この感覚の良さを分かってくれないんですよ。冷たいと言われたりして。いま聴くとすごく格好いいんだけどね。このところ、海外でもYMOが遅ればせながら注目の対象になっているのも分かる気がします。

まぁ高橋幸宏は元々以下の様な曲を演ってた人だったりする訳です。むしろ共通するのは(坂本龍一のソロアルバム「千のナイフ(1978年)」でスタイリストを務め、後に自らデザインブランドを立ち上げる程の)ファッション・オリエンテッドな美学とも。

え? 高中正義後藤次利が参加してた 時期もあったの? Yard Birdsかよ…

高橋幸宏にはある意味ファッション・モデル出身の漫画家たる荒木飛呂彦画伯に通じるものがあるとも? 深淵な音楽論や哲学など持ち出して相手を退屈させる事なく「ただ魅せる」立場に徹する辺りにある種の共通項を感じてしまうんですね。

ただし「YMO高橋幸宏細野晴臣が影響を受けたUltravox」と「ロンドン・パンクとニューロマのチャンポン状態からJRockが立ち上がってくる過程で重要な役割を果たしたUltravox」は違うので要注意。後者はあくまで「そのパンク魂故にVisageに留まれなかったミッジ・ユーロが移植して国際的にメジャー人気を獲得した 時期のそれとなるのです。

後世で確認可能なエビデンスとしてはアニメ「うる星やつら(1981年~1986年)」EDに採用されたバージンVSの「コスミック・サイクラ(1982年)」山口百恵作詞・沢田研二作曲のアン・ルイス曲「ラ・セゾン(1982年)」THE MODS激しい雨が(1983年)」辺り。

それに加え当時海外で流行していた他のエレクトロポップの影響もあって「純度は低い」とはいえアルフィーメリーアン(1983年)」「星空のディスタンス(1984)」辺り?

今回の検索で独仏合作映画「わが青春のマリアンヌ(Marianne de ma Jeunesse,1955年)」がアルフィ「メリーアン」と松本零士銀河鉄道999( 1977年~1981年)」のヒロイン像の大元にあったと初めて知りました。まぁ1970年代~1980年代らしいエピソード?

当時の「エレクトロポップ分野の純度の低さ」はとにかく異常。ロックの大御所が喜んで自バンドにキーボードを導入したり…


メタル系バンドが乱入してきて斬新なグルーブを提供して後のゴス音楽に思わぬ足跡を残したりたりしているのです。

わずか数年でかかる異常事態は終焉し、それに参加した多種多様なミュージシャン達はそれぞれ自分の分野に回帰していく訳ですが、当時台頭したJRock勢やゴス勢は当時のノンジャンル性を自らの基本状態として継承していくのです。

そういえばこれまでの投稿でも繰り返し述べてきた通り「エレクトロポップのハード面」が好きでVisageThe Anvil(1982年)」の延長線上でLiving ColorType(1990年)」を聞いてた口なんですが(当時はヴァーノン・リードのギターテクばかり礼賛していたが、今から思えばう意識のうちにジム・モリスンっぽい魔力のあるコリー・グローヴァーの声に聞き惚れていたのかも)…

*Typeをつい繰り返し聞いてしまうのは、木霊見たいなディレイエフェクターの反響感を取り入れた独特のグルーブ感のせいでもある。これがジム・モリソンめいた催眠効果を感じるコリー・グローヴァーの声と相まって独特の効果を発揮するのである。

その一方で次第に当時は同じくらい熱狂して聞いてた「Cult of Personality(1988年)」は聞かなくなっていったのは、どうやら先行するフィージョン界の大御所達の作風に近過ぎたせいの様です。機械学習的プロセスを経て勝手に出来てた引き出し…その一方で何故か時々「I.G.Y.(1982年)」は無性に聞きたくなったりします。

  • Perfumeの国際的人気の背景にはドナルド・フェーゲンらが切り開いてきたSF式(スチームパンク)ユートピア=ディストピア的歌詞世界感との連続性があるという。ただしPerfumeは明らかに故意に「フィーチャー=レトロ」の「レトロ」部分、「ユートピアディストピア」の「ディストピア」部分を欠落させており、その事についてどう考えるか問われたりもするという。

  • そのコンセプト、意外と北欧「ハウス」と近くね? ただし、そちらの行き着いた果ては、究極のディストピア

  • まぁ、こうした小賢しい計算の積み重ねなんぞ、最後は必ず電気グループ辺りに粉砕されてしまうのである。ストロングスタイルの時代?

当時は何も考えず聞き流していましたが今の私の引き出しだと「Elvis Is Dead(1991年)」は坂本龍一Broadway Boogie Woogie(1986年)」やプリンス「Batdance(1989年)」に分類される様です。何これ基準は「コラージュ系」? これも機械学習的プロセスを経て勝手に出来てた引き出し…

あれ? すっかり「着陸脚」の話から離れてしまいました…あるいは「自分にとっての着陸脚」の話をするのが精一杯だったとも。

そして1990年代の自分の視点から回顧するとラインナップが全く変わってしまう不思議…そもそも当時日本のミュージシャンがこぞって真似た「ロンドン・パンク+ニューロマ(with レゲエ)」なるジャンルがイギリス本国に存在しなかった(客層が全く別物だったので、その境界領域を攻めるチャレンジがまとまった形で意識される事がなかった)事が、かかる認識の曖昧さに結びついてくるとも。「近傍」とはこういう事?