諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】民主主義と人権主義の危険?

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しばらく前まで当たり前と思えていた事が、コロナ禍のせいですっかり疑問符だらけになってしまった感があります。

人権は個人のこと、民主主義は国家のこと

人権はひとりひとりの人が有する権利であり、基本的には個人的な事柄です。これに対し、民主主義は国家運営に市民の意思を反映させるということであり、国家や地域社会の運営方法に関わる事柄です。両者は一見すると直接的な関係はないように思えますが、実は互いに切っても切り離せない密接な関係にあります。

「人権のない民主主義」

人権と民主主義の深い結びつきを理解するには、「人権のない民主主義」や「民主主義のない人権」という状態を想定してみると分かりやすいです。まず、「人権のない民主主義」を考えてみましょう。民主的な国家運営が行われているにもかかわらず、人権が保障されていない社会では、どういうことが起こるでしょうか。民主主義がうまく機能するためには、市民が自由にものを考え、自分の意見を自由に言えることが必要です。にもかかわらず、「○○という思想はいけない」、「××というようなことは言ってはいけない」といった束縛を受ければ、人びとの本当の考えが政治に反映されることはなくなり、結局、一部の人の意見だけで国家が運営されることになります。つまり、「人権のない民主主義」はそもそも成立しないのです。

「民主主義のない人権」

次に「民主主義のない人権」を考えてみましょう。人権が保障されているにもかかわらず、民主主義が実践されていない社会では、たとえ自由にものが言えたとしても、国家運営は一部の人びとによって一方的に行われます。その「一部の人びと」が、善良で心優しい人なら問題ないかもしれません。しかし、往々にして人間は、権力を持つとそれを濫用し、一部の人の利益のみを優先しがちです。しかも、非民主的な社会では、権力者は自分への批判や反対意見を封殺しようとするのが常であり、その結果、反対勢力の人権が抑圧されることになります。結局、「民主主義のない人権」も長くは続かないのです。

人権と民主主義の結合

このように、人権は民主主義を成り立たせるための前提条件であり、一方、民主主義は人権が保障されるための必須要素であるといえます。人権と民主主義が「車の両輪」として調和的に結びつくことによって、人権が尊重される社会が生まれるのです。

とはいえ実は「主権在民」概念は「(神聖ローマ帝国(800年/962年~1806年)後継国としての)ハプスブルグ君主国(1526年~1918年)」や「(アッバース朝(750年~1517年)後継国としての)オスマン帝国(1299年~1922年)」や(中華王朝(紀元前221年~1909年)末代としての)清朝(1644年~1912年)」「帝政ロシア(1721年~1917年)」の様なそれを認めない大国が実在しているうちは理想の一つとして語り継がれてきたに過ぎず、やっと主権国家間の国際競争が全てとなった総力戦体制時代(第一次世界大戦前後~1970年代)においてすら共産主義圏においては「民主集中制(個人単位での遂行の非効率性を乗り越え、党が全て代行して遂行する様になったより先進的な段階)」の前段階に過ぎないと定義され、今日なお(その経済的成長を背景に国際的影響力を増す一方の)中華人民共和国は頑なにこの姿勢を守り続けている訳です。案外基盤としては脆い?

そんな感じで以下続報…