諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【スパイス概念の起源】スパイス、それは惑星アラキスの特産品?

f:id:ochimusha01:20211017054848p:plain

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版「砂の惑星(Dune,2021年)」を見に行くか悩んでます。

そもそも私、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品とは相性が悪いんですね。どうしても「もうタルコフスキー風味は充分だ!!」と思ってしまうところがある訳です。

とか言いながら、これまで一応は「どうせなら劇場で見て後悔したい」派を通してきた訳ですが、フランク・ハーバートの原作への独特な形での思い入れもありまして…

そう、私はどちらかというと以下の様な歴史観を展開してきた立場だからこそ、素材をほぼ同じくしつつ全く別の世界観を展開するドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作風にどうしても馴染めないという側面もあるのです。

それではこうした世界観の分岐点は何処かというと…

で、香辛料(スパイス)メランジ=ドラッグが(砂漠でしか採れない貴重な資源)石油、ドラッグによるトリップ体験が恒星間飛行に重ねられている訳です。

え?「砂漠の神皇帝」以降のビジュアルを担った加藤絵師がまだ未鑑賞? しかもナウシカの飛蟲やラピュタの飛行装置と比較する様な「スタジオぬえ」的アプローチ?

第二世代人口知能全盛期に、それを象徴する人工知能言語Plorogを触って全能感を得ていた立場から言わせれば「多くがベイズ過程(条件付き確率)で説明出来てしまう(それが明らかになった時点でPlologの様なバックトラック言語は廃れた)」現実は絶対なんですね。そうやって全体像を俯瞰すると1980代以降メンタート=ラリってコンピューターを超越する演算能力を発揮する超人」なる概念を、その分野の導師だったティモシー・リアリーが否定したのが終わりの始まりだった景色が浮かび上がってくる訳です。

サウダルカー(皇帝の新衛兵)」とかモロにその事を暗示してる訳で…

そう、その背後に垣間見える「人間の知性(特にドラッグ摂取によって拡張されたそれ)はコンピューターで演算可能な領域を遥かに超越する」なる第二世代人工知能イデオロギーとどう向かい合うかという肝心の問題についておそらく雑にしか絵が描いないであろう事が予測されるからこそ、今一つ鑑賞しに行く気が起こらないのですよね。

その点はある意味「時代に殉じた」クローネンバーグ監督映画「スキャナーズ(Scanners,1981年)」やデビットリンチ版「砂の惑星(Dune,1984)」の方がある意味潔かったといえましょう。メンタートの白目表現、そんなの「スキャナーズ」のオマージュに過ぎない訳で。

これらの作品に含まれる時代錯誤間から出発し、どうやって「数理が全てとなった第三世代人工知能イデオロギーに到達するかが現代の課題と、私は考える訳です。そんな感じで以下続報…