諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】私自身の自認は「第三世代フェミニスト」だったりする。

f:id:ochimusha01:20211110054924p:plain

米国人女性作家レベッカ・ウォーカー「第三の波になる(1992年。最高裁判事にトーマスが指名されたことに反発しての「ミズ」誌記事)」

だから私は全ての女性に(特に私と同世代の女性に)対する嘆願書としてこの文章を書いている。トーマスが判事として承認されたことで私が気づかされたのと同じ形で、この戦いの終わりがはるか遠いところにあるということをあなた達が思い出すように。1人の女性が体験したことを訴え、それが退けられたことに対して、あなた達が怒りを覚えるように。その激情を政治的な力に変えてほしい。私達のために仕事をしないうちは票を投じるのはやめよう。自分の身体と生命を私達こそが管理する自由を最優先にしないのなら、セックスをすることも、パンをちぎって口に運ぶことも、育みそだてることもやめよう。私はポストフェミニズムフェミニストではない。私は第三の波だ。

むしろこういった政治的プロパガンダより以下に本質が表れてる気も。

第三波フェミニズムの起源は、1991年に全米でテレビ放映されたアニタヒル証言(全員が白人男性である上院司法委員会において、アメリカ連邦最高裁判事の判事の候補となり後に正式に就任するクラレンス・トーマスからセクシャル・ハラスメントを受けていたことを告発)と並んでライオット・ガールに遡る。これは1990年代初頭アメリカ合衆国ワシントン州オリンピアワシントンD.C.で始まったフェミニズムとパンクミュージックを組み合わせたサブカルチャー文化だった。

要するに「史上最悪の披露宴粉砕曲」と呼ばれたこの曲独特の雰囲気? 

 

最近の世相に従って私の発言も「フェミニズム」的色彩を帯びる事が多いのですが、実は私自身の立場は2010年代前半に(TumbrをフロントエンドにPIxivやPinterestやsound cloudが統合された)国際SNS上の関心空間に集った匿名女子アカウントの影響を色濃く受けた「男子第三世代フェミニスト」というものだったりします。現時点から振り返ってその時点で学んだ事をまとめてみると…

  • 男女間の二項対立を成立させている権威主義(Authoritarianism)概念を「くすぐったさ(Tickele)」「支配力(Discipline)」「拘束性(Bondage)」の三概念で解体する。その過程で「化粧と矯正下着は他者の視線を支配する上での武器であり、かつ自らの身体性を自らの精神性の支配下に置いて自分自身の全人格的代表者となる為の重要な儀礼である」なる概念が登場し「女性は(自らを男性の視線の支配下に置く儀礼たる)化粧と矯正下着から解放されるべきである」としてきた第二世代フェミニズムまでの伝統的価値観と決別した。
  • 興味深い事にこの結論の導出過程において国際SNS上の関心空間に集った匿名女子アカウントは自らの主体性の根幹を「私はぐっすり眠ってお肌も髪の毛のキューティクルもツルツルの自分が好き」と置く様になり「(徹夜明けの朝日に象徴される様な)高揚する精神と疲れ果てた肉体」を理想視するロック文化とも決別を果たす。
  • 男性としてこの価値観に従おうとすると「下着を脱がすものでなく、着けるものと認識する男性は自分自身も女性下着を付けている(あるいはそうなる素養を潜在させている)」とか「女性にとっての化粧と矯正下着に該当するのは筋肉の鍛錬である、特に下腹部と尻の回転(どうやら男性にとっての「おっぱいブルンブルン」が女性にとっての「尻グリグリ」らしい)」みたいな理不尽で不連続な他者性を強要されるが、これをそれまで女性が強要されてきた非対称的欲求の裏返しと考えると興味深い。

実はこのあたりちゃんと統合しようとすると意外なまでに(どうして21世紀に機械学習の分野が急浮上してきたかに至る)高度な数学的素養が求められたりするんですね。そして…

そして…

そして…

そして…

そして…

そして…

そして…

どうやらこの展開に一つの収束点が見えてきた様だ?