諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【リベラル主義破綻の発端】「ウイルソン主義」とは一体何だったのか?

f:id:ochimusha01:20211120062725p:plain

以下の投稿をまとめながら高まってきた疑問。歴史上における「ウィルソン主義(Wilsonianism)」とは一体何物だったのか?

一応、Wikipediaにはこうあります。

アメリカ合衆国大統領(1913年~1921年)であったウッドロウ・ウィルソンの考えや提案に由来する外交政策に関する定見の一種。リベラルな国際主義の一形態。

彼は第一次世界大戦(1914年~1918年)を終結させ、世界平和を促進するための基礎として有名な「十四か条の平和原則(1918年1月)」を発表した。

また、国際社会が戦争を回避し、敵対的な侵略を終わらせることを可能にする為に国際連盟(League of Nations, 1920年~1946年)を提唱している。

ウィルソン主義に共通の原則には、次のようなものがある:

  • 民族自決の重視
  • 民主主義普及の提唱
  • 資本主義普及の提唱
  • 集団安全保障の支持、(およびアメリカがその助けとなる事を阻害する)アメリ孤立主義に対する(少なくとも部分的な)反対

歴史家ジョアン・ホフは「『普通の』ウィルソン主義が何であるかは、今日でも論争の的になっている。ある人にとってはそれは民族自決への固執に基づく『刺激的なリベラルな国際主義』であり、またある人にとってはウィルソン主義は『世界に対する人道的介入の模範』で米国の外交政策を慎重に定義された制限的な武力行使の模範としている」と述べている。

アモス・パールマターは、ウィルソン主義を「集団安全保障・開放外交・資本主義・アメリカ例外主義・門戸開放政策への支持と反革命を指向。自由主義的介入主義・民族自決・不介入・人道的介入から同時に構成されている」と定義した。

なんだか良くわかりません。一方、実際にやった事といえば…

  • ハプスブルグ君主国とオスマン帝国の解体「(国家維持に必要な火力と機動力を装備した常備軍を法実証主義に立脚する中央集権的官僚体制が徴税によって賄う)主権国家」として成立し得る区分を無視して小国を量産した結果、東欧や中東に今日まで続く地域紛争の種を撒いた。「十四か条の平和原則(1918年1月)」に「国家の大小を問わず、政治的独立と領土保全との相互保証を与えることを目的とする具体的な盟約の下で、諸国の包括提携が形成されねばならない」とあるが、実際にそれを担保するだけの能力を有する超国家的存在は当時も今も存在せず、また何を基準に裁定を下すべきかが明確にされてない。それどころか後者についてはそもそも「十四か条の平和原則」における提案内容そのものが問題山積みだったりする。逆をいえば「そもそも全員を満足させる回答など実在しない」なる悲観主義的立場から出発し、暴力的手段による当事者間の直接解決を禁じ手にし得るだけの武力を有する裁定者(すなわち「暴力を独占する」国家)が関係者一同を話し合いのテーブルに座らせ、そこでの合議内容の不履行を取締るのが現代社会を支えてる実証主義(Legal Positivism)の本懐だったりする。実際のその景色たるや、しばしば収益の最大化しか念頭にない(その意味合いにおいてのみ不毛な争いに心を痛めている)領主が村落間の水争いを裁定している様な人道主義の実現と程遠いものとなるのは致し方のないところ。

  • NSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国民社会主義ドイツ労働者党)台頭を許してしまったドイツの徹底的悪玉視十四か条の平和原則」に「1871年アルザス=ロレーヌに関してプロイセンがフランスに行った不正は、50年近くに亙って世界の平和を乱してきた訳であるが、皆の利益のためにもう1度平和を確保するためにも、この不正は正されるべきである」とあるが、それならシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(第一次1848年~1852年、第二次1864年)で国土の40%を奪われたデンマークの立場は一体どうなってしまうのだろう。まずこの辺りに不公平感が現れてきてしまうのである。実際、戦争勝者側による遡及法の恣意的運用は日本でも建武新政の崩壊を招いている。

    さらに軍保有を禁じられた上でベルサイユ条約による過大な賠償義務を背負わされ、ルール占領まで受けたら一般ドイツ人が国際連合の理念が信じられなくなり、ナチスの詐欺めいた主張に飛びついてしまったのも無理がないといえよう。また、こうして全体像を俯瞰してみると「(しばしば祖国米国に裏切られた)ウィルソン大統領自身の理想」と「(米国の現実に対応した)実在した存在としてのウィルソン主義」の間には相応の乖離があった事もみて取れる。

    イギリスの大蔵省A課はドイツに課す賠償額策定の任に当たっていた。1918年には責任者にジョン・メイナード・ケインズが就任した。A課は11月に「ドイツの支払い能力は高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」になるという見通しの報告書を作成し、閣議に提出した。

    一部閣僚が納得せず、オーストラリア首相のビリー・ヒューズを委員長とし、イングランド銀行総裁ウォルター・カンリフらを委員とする委員会が新たな報告書を策定した。この報告書では連合国戦費すべてをドイツに支払わせるという前提で作成され、大戦前のドイツ貯蓄を基準として賠償請求額は240億ポンドにするべきであるとした。おりしも12月の総選挙が迫っており、好戦的なノースクリフ系の新聞が対独強硬的なキャンペーンを行ったことで、ヴィルヘルム2世の裁判全額賠償を求める世論が高まっていたのである。

    ロイド・ジョージ11月29日に「ドイツはその能力の限界まで戦費を支払わねばならぬ」と声明し、12月11日には戦費全額を賠償させると言明した上にヒューズ委員会による240億ポンドという具体的な賠償請求額を公表した。このことによってタイムズ紙なども対独強硬な主張を掲載し、賠償金要求の声はさらに高まった。しかし選挙の結果、ロイド・ジョージ自身の与党である自由党はむしろ議席を減少させ、右派の保守党の勢力拡張に繋がった。

    1919年1月からパリ講和会議が開始され、賠償問題が協議された。この会議の当初で最も紛糾した争点は、「フランスによるザールラントの領有」、「フランスによるライン川左岸占領の継続」、そして「賠償金」であった。3月25日からはウィルソンロイド・ジョージクレマンソーにイタリア首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドを加えた4人で会議が行われた。クレマンソーは強硬に賠償要求を行ったが、ロイド・ジョージあまり長期にドイツを拘束することは復讐心をかき立てるとして反対であり、「賠償支払の期間は出来るだけ短くしなければならない」と説いた。

    一方で巨頭会談とは別に、1月23日には賠償委員会が設立された。慎重派のケインズは委員会に出席できず、ヒューズカンリフといった強硬派がイギリス代表となった。アメリカ代表は賠償を損害の補償に限定しようとしたが、ヒューズら戦費をも含めるべきと主張した。ウィルソンは戦費を含めることは認めないと指示を送った。これに対してイギリスとフランスは、対米債務の削減があれば賠償金削減があるとほのめかしたが、3月8日アメリ財務省いかなる債務削減にも応じないと拒否回答した。行き詰まりを打開するために3月10日に設置された米英仏専門家の三者委員会はドイツが支払い可能な額を考慮し、3月15日には総額1200億マルク(600億金マルクと600億パピエルマルク)という賠償額を勧告した。ロイド・ジョージクレマンソーも現実的な路線に転換し、イギリスは委員会代表にケインズを加入させた。しかし保守党や新聞世論を背景とするヒューズやカンリフ、ジョン・ハミルトン(初代サムナー子爵)常任上訴貴族 (Lords of Appeal in Ordinary) の抵抗は強かった。3月26日に米英仏の三政府案が提出されたが、アメリカが最大1400億マルク、フランスが1880億マルク、イギリスは2200億マルクと開きは大きかったのでロイド・ジョージクレマンソーは講和会議での決着を諦め、決定を先送りすることにした。一方で賠償に軍人恩給を含めるべきとする英仏の主張がアメリカを屈服させ、条約にはドイツの恩給支払いが盛り込まれることとなった。ケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国した。

    この問題にはさらなる強烈なオチがある。ナチスによる略奪・破壊と無関係に戦間期からドイツ企業が賠償に加担した(あるいはそれに便乗して借款踏み倒しや財産押収を働いた) 海外取引先に対して「買わない自由」を行使し、その幾つかを見せしめとして「のどかな中世の農村に戻した」ので、第二次世界大戦後のドイツへの賠償問題については利害関係の薄い米国やソ連を除くとこぞって及び腰になったのだった。皮肉にもこの辺りの機微について日本の支配階層が「江戸時代に確立した赤字藩の藩債踏み倒し方の作法(踏み倒して良いのは、以降経済的依存関係が切れる、すなわち二度と借金する必要がない相手だけ)」を通じて経験豊富で歴史上対外関係を上手く取り回したのに対し(薩摩藩を経済的に立て直した調所笑左衛門の伝記辺りを読むとまとめて学べる)、隣の韓国政府は「まさに最初の経験を得つつある」ところだともみて取れる。いずれにせよ、どの国でも一般民衆はこの問題について理解を示さない傾向があるが、とにかく歴史の教訓から確実に言えるのは「のどかな中世の農村に戻された」地域の大半には、前科もあって二度と再発展の機会が巡ってこないという事である。実はポーランドとドイツの関係って、割とこれ。

    さらにややこしい事に「(資本主義的発展が生み出す貧富格差の拡大などを吸収するシステムが伝統的に備わっていないので)発展がある程度以上の段階に進むと、必ず反動が生じてのどかな中世の農村に戻ろうとする地雷みたいな地域も存在する。マダカスカルがそうした地域の一つである事については、明治時代に既に福沢諭吉が気付いていて「迂闊に近くと火傷する」と警告を発しているが、近年になって久し振りに韓国企業がこの地雷を踏み抜いてしまった(マダカスカル・クーデター、2009年)。また最近顕在化した例でいうとアフガニスタンもその一つといえそうである。

    考えてみれば中国やロシアも一歩間違えればこの徹を踏みかねず、その欠点を共産主義導入によって克服しようとした(少なくとも試みつつある)のかもしれないと思えてきた。まさしく東欧などで流行したという「共産主義瘡蓋(かさぶた)」の世界であり、それに失敗すると原始共産主義、すなわち「のどかな中世の農村への自力回帰」なる反対方向での安定が待ち構えているという訳である。その一方でベトナムみたいに相応に上手く利用した上で「共産主義が国体になり果ててしまった」肉仮面みたいな国もある。さらに考えを進めると、英国における「領主が全人格的に領民と領土を代表する封建的構造のノルマン・コンクエストによる崩壊」や日本における「氏姓制度崩壊に伴う律令制導入」にも同様の効能があったのかもしれない。大国であるほど瘡蓋(かさぶた)を剥がす段階が難しい。英国に限らずノルマン王朝は様々な要因から自滅して勝手に消えていく存在だったし、日本が江戸幕藩体制から脱却出来たのは「最後の将軍徳川慶喜が「大政奉還」を敢行したからだったし、フランスが「革命とナポレオンの時代」から脱脚し得たのは皇帝ナポレオン三世セダンの戦いで捕虜になって自滅してくれたからだし、中国については最近独裁色を強めてる習近平こそが「待望のその人」になるんじゃないかと期待を集めているという話も聞いた。

  • イタリアをファシズム国家に追いやった…そもそも第一次世界大戦中、イタリアが三国同盟側から三国協商側に寝返ったのは「未回収のイタリア」返還をほのめかされたから。「14箇条の平和原則」にも「 イタリア国境の再調整は、明確に判別し得る民族的境界線に沿って為されるべきである」とあるが、戦後完全に黙殺されている。これでは暴れ出しても仕方がない。ましてや「14箇条の平和原則」で言及もされなかったアイルランド人の心境やいかに。佐藤優は「民族主義とは誰かが自らに与える不利益を針小棒大に語る一方、自らが誰かに与える不利益については最小限しか言及しない、あるいは完全に黙殺するイデオロギーである」と述べており、実際ナチスもこの皮を被ってたくらいだからその扱いについては本当に慎重を期さないといけないのである。

  • ウィルソン主義の信者が三一万歳事件(1919年3月1日)五四運動(1919年3月1日)」の背後で暗躍…活動範囲が東アジアに限られた点からみて、おそらくウイルソン大統領の民族自決の理念の純粋な遂行を目指したというより先に進出した中国や朝鮮に進出したドイツや日本の優位の「リセット」あるいはどちらも追い払った上でアメリカが救世主として登場して利益を独占する様なシナリオを描いていたと推察される。まぁこの辺りの主義的怪しさは日本の大陸浪人アジア主義者とそんなに変わらないが宣教師とか現地教会の聖職者とか「堅気の人」の比率が高い。ウィルソン大統領が脳溢血で倒れて大統領夫人が執務を代行する様になると各国大使館経由で活動自粛の勧告が出される様になり、鎮静化してしまう。

なんだか「リベラリズムの誤謬」ってこの辺りまで遡れる気がしてきました。

そんな感じで以下続報…