諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「数理から見たフェミニズム」?

そろそろ数理としての全体像をまとめたいと思って試し書きしてみましたが、まだまだ見逃してるファクターが多く色々難航しそうです。

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どうしてフェミニズムと数理が必然的に絡んでくるかというと、その大源流が「統計的多数決による決定論」を提唱したコンドルセ伯爵や「文明が発展するためには(人種や階級や性別による差別から解放され)個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」としたJ.S.ミルの様な数学者が数理的直感に基づいて構築した古典的自由主義(Classical Liberalism)まで遡るから。

現状を国際的に窺う限り、そうした考え方に「古典的=時代遅れ」のレッテルを貼り「我々は数理を超越した正義を遂行する」と宣言したオーギュスト・コント哲学的実証主義(Philosophie Positive)を大源流の一つとする社会的自由主義(Social Liberalism)が完全に破綻したとしか思えないので、そこまでバックトラックする必要が生じたという事。

要するにどういう事かというと…

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そして…

そして…

ここにおける「二つの座標系の点から点の移動を担うヤコビアン概念については以下を参照してください。高校数学に出てくる合成微分の考え方が出発点となります。

文系人間はまずこの「(指数写像・対数写像によってデカルト座標と往復可能な)単位円の直積」なる概念自体が苦手なのです。私もこれを克服するだけで1年以上掛かってしまいました。

指数写像(Exponential Map)
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対数写像(Logarithmic Map)
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image.gifこうして図示してみると何が起こってるか一目瞭然なんですが、まずそのプログラミング自体が結構面倒でQiita上でも私くらいしか公開してない様です(あまり数学の教科書で見掛けないオイラーの公式の特殊形を使う)。「そんなの誰だって頭の中で出来るだろ?」と思い込んであえてはやらないのが理系人間の思い上がりで、実際に試すと「(人類が知り得るネイピア数の桁数に限りがある以上)単位円は人間の理念上にしか存在しない」なる恐ろしい現実に直面する事になります。そう、古い時代の哲学者がその実在を信じて疑わなかった「永劫回帰」概念は、実は有限なる現実世界においては「その時点のハイスコアが塗り替えられる可能性が想定可能である事を無限の証とするイプシロンデルタ論法によってかろうじて担保される仮象の存在に過ぎなかったのです。こちらはこちらで文系人間に大ダメージですね。

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この変換に際して剰余群は2つの類、すなわち「(単位円1を法とする)周回数(添字が+の整数部)」と「(単位円の)分割数(添字が-の少数部)」に分割されるのですが、後者は総計が1となる事から統計学の対象となって、そこで一様分布を想定するのがQueerの理念。

ところで不偏分散(Unbiased Variance)とは二項演算(a+b)^nの中心=平均aを0と置いた場合の式形b^nに他ならず(平均算出の際に自由度が一つ死ぬのでn-1)、要するにここで「対角線化による無次元化」なる概念が統計学における分散の概念と結びつくという次第。文系人間として色々教わりたくてQiitaに投稿する様になったのに、かえってそういう考え方自体が珍しくて人気を集めちゃうってどういう事?

  • この原稿をまとめながら気付いた。対角線が1となる(正方形も含む)n次元立方体の1辺の長さは\frac{\sqrt{n}}{n}だが、その逆数が標本誤差に対応する?

何でも最初は均等分布を想定するベイズの定理が最近まで忌避されてきた歴史を知ってる人なら、この提言の挑戦性が直感的に理解出来る筈です。

もしかしたら学校の授業レベルの統計学線形代数の理解では「対角線=分散の無次元性」なる概念への到達は難しいのかもしれません。私自身もそうでした。否が応でもその事に気づかされたのはPythonのSympyに「パスカルの三角形」を線形代数的に解かせ様として失敗した時。

こう断言してみて初めて「それ以外の考え方もある」と気付きましたが、その話につてはおいおいと。

ここで何を言ってるか理解する為には「(Z軸に均等尺を採用した)円錐座標系」と「(Z軸に両対数尺を採用した高さ2の)円錐座標系」とリーマン球面座標系の往復をイメージする必要がありますが、Wikipediaの記述もそれを助ける形にはなってないんですね。そもそも途中段階で現れる「(Z軸に両対数尺を採用した高さ2の)円錐座標系」の呼称が分かりません。私自身は仮に「リーマン円錐」とか呼んでましたが。ここで重要なのはその「リーマン円錐」をリーマン球面座標系に変換する過程で0と無限大を両端とする正方形/立方体が現れ、その対角線として現れるZ軸が無次元化出来るという事です。

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突然文系話題に戻ります。これはこの話ですね。

今は亡きTumbrの思い出」シリーズでもそのうち取り上げる予定ですが、実はこの人には10年前も「ルーナ・ラブグッド村殲滅事件」なるファン間の内ゲバ事件をそれと意識しないまま扇動してしまった過去があったりします。この時は割と内輪だけで済んだのですが、とうとうという気もしないではなく…

まぁ全ては彼女が素晴らし過ぎて「彼女こそハリー・ポッターの伴侶にふさわしいのでは?」という声がファンから上がった事に端を発する訳ですが。危うく私のTumbrアカウントも焼かれかけたのです。

かかる意見の全体像についての是非はともかく、ここには「想像の次元」に関わる重要な提言が出てきます。「分散幅は確保しないと物語も成立しない」という事です。

一切の区別を消失させようとする」asex的対蹠への回帰でなく「任意のタイミングにおいて任意の観測者が共感し得る変態は常に変態の真部分集合としてしか存在し得ないが、だからこそあらゆる変態が守られねばならない」なる古典的自由主義への回帰。

そして…

まとめてる最中に次々と「気付き」が現れる様では、まだ全然話になりません。そんな感じで以下続報…