諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「ハリウッド脚本作成技術」?

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AI化が進むハリウッドにおけるラブストーリーの創作技法について。

そして…

ここで乱入。

フィンチャーは「フリードキンが『エクソシスト』の後に作ったかもしれない種類の映画」としてセブンを製作した。彼は映画撮影技師のダリウス・コンジと仕事をし、「肩越しに後部座席から徐々に見えるようカメラを動かす」というような(『全米警察24時 コップス』の影響を受けた)単純な撮影技法を採用した。

脚本のほとんどはアンドリュー・ケビン・ウォーカーがニューヨークにいた期間に書かれている。「ニューヨークで過ごした過去は嫌いだったが、もしそのことがなければ、私はおそらくセブンを書いていなかっただろうことは事実だ」と語っており、毎日犯罪の絶えないニューヨークでの生活と、それに見て見ぬふりする自身に嫌気が差したことを述べている。図書館でミルトンの『失楽園』やダンテの『神曲』などの古典を読み漁りながら数年かけて脚本を書き上げ、本編中にもそれらはそのまま反映されている。サマセットは俳優のウィリアム・ハートがモデルで、名前はウォーカーが好きな著者であるサマセット・モームにちなんで命名されている。

フィンチャーは、長編デビュー作の『エイリアン3』が酷評され興行的にも失敗したことで意気消沈し、「新たに映画を撮るくらいなら、大腸癌で死んだ方がマシだ」と述べて、1年半にわたって脚本を読まなかった。その後配給会社から提示されたウォーカーの脚本を読み、一度は放っておいたものの、読み返すうちに魅力を感じ、監督することを承諾した。フィンチャーはウォーカーの許可を得て脚本の一部を書き直した。

結末については、あまりにも過酷であることなどから、配給会社から「サマセットがジョン・ドゥを射殺する」という筋書きも検討されたものの、フィンチャーとウォーカーが反対したため採用されなかった。

ウォーカーはアメリカ合衆国ペンシルベニア州アルトゥーナに生まれ、少年期に同じペンシルベニア州メカニクスバーグに移り、そこで育った。メカニクスバーグ区高等学校を1982年に卒業後、映画キャリアのためにペンシルベニア州立大学に入学。フィルムとビデオの学士を取得し、1986年に卒業。

学業を終えるとすぐにニューヨークに移り、タワーレコードの店員として働いた。その傍らいくつかの仕事を手がけるが、これといった成果は得られなかった。1991年、『セブン』の脚本を書き上げたウォーカーは、その脚本を売るためにロサンゼルスに移る。そこでウォーカーは脚本家のデヴィッド・コープに個人的に連絡をとった。コープはニューラインシネマの重役たちにウォーカーの脚本を見せ、ついにはニューラインシネマが脚本を買い取った。しかしながら、映画の製作が始まるまでに3年かかり、その間にウォーカーはHBOのテレビシリーズ『Tales From the Crypt』の1エピソードや映画『ブレインスキャン』『ハイダウェイ』で脚本家として活躍した。

セブン』の製作は他の映画2本の間に開始され、監督はデヴィッド・フィンチャー、出演はモーガン・フリーマンブラッド・ピットケヴィン・スペイシーに決まった。製作中にスタジオ側が観客のターゲット層に対して内容が暗すぎるといくつか脚本の変更を提案したが、フィンチャーとフリーマンは反対し、最終的には何の変更もなく製作された。映画が絶賛され、興行的にも成功し全世界で3億2700万ドルの成績を得た結果、ウォーカーの名は映画業界で広く知られることになり、ピットやスペイシーも世界的なスターとなった。

しかしながら、ウォーカーはその後4年間ほどリライトで参加しているにもかかわらず脚本家としてクレジットされることがなかった。同じフィンチャー監督の『ゲーム』やポール・W・S・アンダーソン監督の『イベント・ホライゾン』などがそうである。

そんな中、1999年の『8mm』でようやく陽の目をみる。脚本料は125万ドルと言われている。しかしまたもや内容が暗すぎるとスタジオ側に要求されるが「監督がジョエル・シュマッカーならばリライトは必要ない」とウォーカーは感じた。ところがシュマッカーはスタジオ側についてしまい、レーティングのために脚本を大幅に変更した。その結果、シュマッカーとウォーカーの関係は悪化し、ウォーカーはもはや自分の作品ではないと撮影現場から去り、完成した作品を観るのすら拒んだ。結果的に映画は批評・興行ともに散々だった。

なるほど冒頭のアレ、脚本家の脚本執筆当時の心象風景でもあったんですね。

そんな感じで以下続報…