諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】隠れBLファンに心の休まる暇はない?

なるほど「判断の次元が潰れている」とはこういう事なのか…

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今回の投稿の契機はこのTweet

ここに乱入

もしかしたらこの人「隠れBLファン」?

そう、こういうタイプは平気で「たかが絵でしょ?文句をつけられたら書き直すなり、引き下げるなりしなさいよ。たったそれだけの事も出来ないの?人をバカにしてるの!!」とか平気で言い出すのです。そもそも商業主義自体を革命によって打倒すべき旧悪程度にしか捉えていないのかもしれません。

ある意味、カール・マルクスが「ドイツ・イデオロギー(1868年)」で全面否定を試みた対象としての「唯心論者マックス・シュテルナーそのもの。

その一方で哲学史上のマックス・シュテルナー自身はニーチェニヒリズムの前身と目され、かかる絶対自我を中心とする理論はゴビノー伯爵の人種イデオロギー論と併わせ「距離のパトス」論に到達する展開を迎えます。これはこれで(19世紀的ロマン主義に基底を提供した)それなりの堅城で、容易に論破は出来ません。

いずれにせよ彼らを動員して敵にけしかける「社会自由主義」側は、自分の手駒がそのレベルである事を別に気にしない模様。どうせ最終勝利の場面では生き残ってない想定だからでしょうか?

アントニオ・ネグリの「マルチチュード」論の気持ち悪さの根幹はそれ。

まぁ別に誰かに動員されなくても、こういうタイプは常に盲目的に誰かに喧嘩を売り続けてる訳で、それに付け込んで「もったいない。ならばその力、使わせてもらうよ」と考えるのが第二世代/第四世代フェミニストの基本戦略とも。実際にうまく回る場面を幾度も目にしているので、一概には否定出来ません。私には到底それが正しい事と思えないだけで。

そう、tumbr上においては、第三世代フェミニストの姉様達ニンフェット世代(女児が成長速度で男児を追い抜く小学生高学年くらいから、再び抜き返される中学生時代にかけての少女)/ハイニンフェット世代(ニンフェット時代の余韻を残す高校生くらい)にこういう考え方をインストールしてたのです。

  1. 相手だけでなく自分の側も相応には攻撃性を備え、その安心を脅かし得る存在である事を認識せよ(第二世代フェミニストや第四世代フェミニストが強要する「弱者の仮面を被る事」を第三世代フェミニストは自らに許さない)。
  2. とにかく最初に為すべきは「均衡状態」を生み出す事。そして「駆け引き」の積み重ねによって斬新的に状況を改善していく事。
  3. 駆け引き」が通じる相手と無理矢理、強引に敵対する必要はない。お互いどういう影響力を及ぼし得るか計算し抜いた上で、地道な戦略的駆け引きの積み重ねで状況を好転させよ。
  4. 相手に馬鹿と思わせるのも戦略の一つ。だがその手は相手も使ってくるかもしれない(この講座、我々男性アカウントも閲覧可能な状態で開催してる訳で、背後に計算に計算を重ねた演出が透けて見える)。

インストールされる側の小娘達はこれをある種の護身術として受け止めていた様です。そして映画「未来を花束にして(Suffragette,2015年)」が公開されるとボディーガード役で登場するヘレナ・ボナム・カーターの名台詞「あなた達の正義が正しいか間違っているか、私には分からない。だが目の前に暴力に脅かされた存在がある以上、身の守り方は教授しよう」を絶賛。

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こういうタイプのこの種の台詞、実は「自らも相手を脅かす攻撃性を備えている事を認められない(自分自身に対しても隠してる)ジレンマ」を暗示しています。上掲の「第三世代フェミニスト達が小娘達に授けていたある種の護身術」のまず第一項が身についていない訳です。するとどういう展開を迎えるのか?

上掲の投稿では汎性愛(Pansexual)の「Queer球面上における北半球の北極」としてヅカファンの「本当に綺麗な物に触れ、正く破壊される」「それには体力もいるのでしっかり食べてしっかり寝て体を作らないといけない」なるディスクールを取り上げていますが、ここまでラディカルでなくとも「推しに入れあげるにも体力がいるから、しっかり食べてしっかり寝ないといけない」くらいの言説は普通に見掛けます。これを「男軸と女軸が直交するQueer球面の赤道面に対して垂直方向を目指す」と幾何学的に捉えると、それは傾き=∞(無限大)を目指すのと同じであり、それだけ身体負担も伴うのです。この感覚自体はゴス少女達の身体意識OK、本当に病気に分類される内容については大人しく治療を受けて薬も飲むよ。で、それ以外の問題についてはしっかり食べてしっかり寝て髪の毛ツルツル、お肌もキューティクルもツルツル、頭シャッキリの状態で対応するよ」にも登場してきますね。この考え方で「本当に病気である場合の問題除去」「拒食症や寝不足への依存の回避」が同時成立するのが素晴らしいのです。こうして目指される「北半球の北極」はまた「(原則として同性と無相関なだけの)異性愛」「(原則として異性と無相関なだけの)同性愛」「(原則として異性とも同性とも無相関なだけの)無性愛」の交点でもあります。はからずしも二十世紀中の大問題の一つ「異性の間に友愛は成立するか?」が解けてしまいました!!

それではこうした心理と共軛関係を為す真逆のベクトル「南半球の南極に向かう諸要素」とはどういう種類の力でしょうか。つまりは上掲の「北半球の北極に向かう諸要素」の真逆を取ればいいのです。「同性への嫌悪から出発する異性愛」と「異性への嫌悪から出発する同性愛」と「性嫌悪そのものから出発する無性愛」のおぞましき交点(全てを破壊し尽くした後に残る虚無)にして「まず真っ先に対処すべき病気の症状を放置し、寝食も忘れて打ち込む暗い情熱」。考えてみれば見覚えがあります。私屋カヲルこどものじかん(2004年~2013年,アニメ版は脚本岡田麻里)」で九重りんが密かに抱える「全てを塗り潰さんと待ち構える真っ黒な心」、そして岡田麻里脚本作品「LUPIN the Third -峰不二子という女-(2012年)」で語られる「ヒースクリフの暗い復讐心」。誰だって本当はこちらの方向になんて進みたくないですよね?むしろそれゆえにこういうタイプの方々は自分自身の心に嘘を吐いて「間違ってるのはお前達の方だ!!(「その真逆を目指してる敵を私は叩かずにはいられない」と脊髄反射の言い訳をした上で、さらにそうした自らの心の動きを「冷静に客観的に反応してるのは私の方(取り乱して暴走してるのは相手の方)」と自己弁護する二重隠蔽)」と叫ぶのです。まるで戦況が思わしくなくなればばるほど「悪の巣窟ウクライナを滅ぼす事こそ正義の実現!!何故世界はそれが分からない!?」と態度を強硬にしていくプーチンの態度。本来なら第三フェミニズムが立脚する「駆け引き優先主義」と対峙する上で第二/第四世代フェミニズムがそれだけは回避すべき「自らの脊髄反射を支離滅裂の言い訳で繕おうと試みて失敗し続ける」最悪のフェイズへの突入…

もし本当に好きな作品が存在しないなら「なまじどの作品にも触れてない私こそが、良心からの命令に忠実に従う事で本当にあるべき作品の姿を思い描ける」と考える実証主義神秘主義となります。

そうドストエフスキー罪と罰」でラスコリニーコフが嘯く「天才を法で裁く事は出来ない。何故ならその法をも自ら発明してしまう存在だから」の世界ですね。

逆に自分の好きな作品が同じ俎上に昇るのを恐れて例示出来ない様なら「「信頼出来ない証人」としての女性」の典型例の一つとなります。

上掲の様に「南半球の南極へと落ちていこうとする不健康なベクトル」は必ず自己欺瞞を伴うものなのです。そしてそれを指摘されればされるほど怒り狂います。ちゃんと真逆の「北半球の北極へと昇り詰めようとする健康なベクトル」がイメージ出来てたら、本当に馬鹿にしか見えません。不満があったらあったで「駆け引き」で解決しようとする筈なのです。

この辺りの話ですね。

もちろん、こういう嫌味も通じません。1960年代の映像で10代の白人少女がTV番組で「言っときますけど私には黒人への偏見なんて一切ありません。ただ常識があれば公の場に自分がそぐわない事くらい分かってるって言いたいだけです。何か私おかしい事言ってますか?」と得意げに語って拍手喝采を受けてる場面を目にした事があります。こういう相手はもう論破出来ません。しかし実際にはもう、その時にはTV番組で10代少女にそう宣言させずにはいられないほど黒人公民権運動の脅威が白人の意識を占める様になっていたという次第。

その後の独り言(このタイプは必ず後でこっそりこうやって相手をくさす。そこまで追っ掛けて覗かれる事を想定してないのである)。誰もが同じパターン「バカには本当に何言ってもわからん」。こうしたパラダイム不一致の行き着く果てを、コロンビア大学紛争(1968年)の際にエーリック・フロム教授は経験させられた訳です。

そんな感じで以下続報…