久し振りにえのきず「琴浦さん(2011年~2015年)」を思い出しました。
今回の投稿の契機は以下のTweet
ちち おかえり#SPY_FAMILY pic.twitter.com/nNzZDV0mlJ
— じのう (@Jinou_rakugaki) 2022年5月8日
一発でキンダーハイム511絡みだと分かるヤバさ
— k_simabara (@k_simabara) 2022年5月8日
アーニャかくれんぼした…さいごのひとりまで…
— じのう (@Jinou_rakugaki) 2022年5月8日
そういえば確かに「パイナップル・アーミー」や「マスター・キートン」や「モンスター」も、日本の「第二次世界大戦後の東欧」の重要なイメージ・ソースだったりしますね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
その一方で「未来予知犬ボンド」についてはディーン・R・クーンツ「ウォッチャーズ (Watchers,1987年)」を思い出したりして。ただ20世紀にはこの種の実験動物物がナチスや冷戦絡みであちこちで見られたものです。
心に深い傷を負った男は子供の頃の楽しかった思い出を辿ろうと山に登る。そこで人懐こい賢そうなゴールデンレトリーバーに出会う。犬は何かに怯えていた。犬を連れ帰った主人公トラヴィスは、その犬をアインシュタインと名付ける。
同じ頃、一人の殺し屋が依頼を受け、ある研究所に関わる研究者たちを次々と殺害していた。
国家安全保障局の人間たちもまた連続殺人鬼を追っていた。残酷にズタズタに切り裂く殺しには必ず一つの特徴があった。それは被害者の目を抉り取っていることだ。なぜか。やがて研究所から成功した実験体二匹が逃げ出したこと、一匹は犬のアインシュタインで、もう一匹はアウトサイダーと呼ばれる、醜いがやはり知性の高い生き物だとわかる。アウトサイダーはアインシュタインを憎悪し、殺すために追っていた。二匹には断ち切れぬ絆のようなものがあり、アインシュタインは完全に逃げ切るのは不可能にも思えた。
そして…
ヨルさんNTRシチュ、『殺しの現場を目撃されてしまい旦那にバラすぞと脅される』ならワンチャンいけるんだよな…国家と平和のために戦ってるから私事での殺しはしないだろうし。ただ、アーニャと会った途端すべてがバレて上手いことロイドに伝わって間男は処理される。ワンタイムNTR
— おむ (@PlatyCiony) 2022年5月4日
>国家と平和のために戦ってるから私事での殺しはしないだろうし。
— ハインケルフリーク (@PanzerFraulein) 2022年5月5日
アーニャの合格枠確保のために暗殺を妄想するくらいなのに、なんで私事での殺しはしないと思えるのか?
後処理がめんどいからだろ
— レッド@掠風竊塵 2nd (@Spooky_Red999) 2022年5月5日
ヨルさんと違って、黄昏は「潜入中のスパイ」だぞ?
なんならボンド→アーニャ→以下同文で、予知オチにもできそう。
— イーバモラ (@UN_M_sp_B) 2022年5月4日
この発想はなかった…座布団1枚。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
「人妻」概念が、絶賛暴走中?
日経に広告が載ったことで騒動になった「月曜日のたわわ」の中身については、これが1番わかりやすく説明していると思う pic.twitter.com/OvehogxzT1
— 信賢💉💉 (@Shing_keng) 2022年4月12日
— 信賢💉💉 (@Shing_keng) 2022年4月12日
確かに「猫背を止めて背筋を伸ばす様になった」は基本を押さえてますね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月12日
ちなみに吉田秋生「桜の園」にも背筋を伸ばす事を決意した瞬間、バラバラで全身不恰好だった身体が統合されて「花形女優」が誕生する短編が収録されてました。何せ古い人間なので、吉田秋生とか氷室冴子の古典作品からの引用が多くすみませんr
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月12日
そして胸の話題に…
今宵の癒し
— あゆで珍@英検4・5級 (@naomi3kiki) 2020年10月31日
ヨルさん
なかなかグラマー作者の好みかしらw pic.twitter.com/qkziDMgnhl
トランジスタ・グラマーとはヨルの為にあるのだ^_^
— TOSHI-SKYWALKER=Ø こまちゃんずトシ (@tskywalker4) 2017年11月8日
古かったかなΣ(゚д゚lll)
— TOSHI-SKYWALKER=Ø こまちゃんずトシ (@tskywalker4) 2017年11月8日
調べてわかっただろ?
ヨルさん描いてるけどなにげにグラマーなんだよね
— ペロ🐻ひぐらし (@pero_nya) 2022年4月17日
ヨルさん細いからきっと綺麗に着こなしちゃいますよ(*´ω`*)私はダメかな。グラマーだからなぁ…腹周りが…
— みゅうず (@myuuzu0126) 2018年4月26日
最近、クール教信者「小林さんちのメイドラゴン(2013年~)」にせよ、丈(たけ)「宇崎ちゃんは遊びたい!(2017年~)」にせよ比村奇石「月曜日のたわわ(2016年~)」にせよ「胸の大きな女性はそれなりに胴回りもある事を踏まえてしっかり可愛く描く」路線が主流だったので、こういう「スレンダーかつグラマラス」系に逆に新しさが生じてしまった?
吉田秋生の『桜の園』では、胸が大きいことはコンプレックスとして描かれていて、その原因は男や大人から「ませている」と言われた経験だったり、どとらかと言えばボーイッシュとされるルックスからのギャップだったり。女性にとっての「胸が大きいこと」のリアルは少女漫画でこそ描かれてるんだよね。
— 珈音(ケロケロ) (@gohstofcain) 2021年5月15日
そういう女性身体のままならなさに言及するような漫画の「胸の大きい女性」より男性向けコンテンツの「普通の女性」の方が胸が大きかったりするくらいに男性向け漫画における胸の大きさは誇張された表現になっている気はする。
— 珈音(ケロケロ) (@gohstofcain) 2021年5月15日
まぁ、比較的グラマーな女性をよく描くタイプの男性向け漫画でさえ、かつては今ほどは胸ばかりを強調した描き方はされていなかったと思うんだけど。(あとは最近の漫画イラスト、ほんとデッサンおかしくて、顔と胸にしか興味がないのはわかったけど、腕の骨折れてるぞ!みたいなの結構あって気になる)
— 珈音(ケロケロ) (@gohstofcain) 2021年5月15日
男性向け漫画にありがちな「胸の大きな女性に向けられる夢見るような視線」、それこそが女性にとって生きづらさやコンプレックスである事をリアルに描いているのが少女漫画。ものすごいギャップ。創作と現実。男性向け漫画で描かれる女性は空想上の生物である可能性を常に意識しながら見るべきだろう。 https://t.co/2xhbULHLZ9
— 空蝉(∃🍤むし・ゴースト) (@utsusemi2010) 2021年5月16日
ただねえ…この作品、「おじさんホイホイ」でもあるのを感じてる。 https://t.co/zLPRU5e8Gu
— 🔥ややも🔥 (@yayamo_wanko) 2021年5月16日
自分が見てきた少女漫画にはグラマーな人があまりいなかったように思う。
— カーツウェル (@q_jgov) 2021年5月15日
単に萩尾望都や山岸涼子がグラマーを描かないという可能性もある。 https://t.co/tLrMWBWoT2
そして胸の話というと…
海女やら女性炭鉱夫は上半身裸で仕事をしていたようだし。昭和の西成では婆ちゃんが半裸のドリフのギャグみたいな姿で夕涼みしてたし。胸は今と比べればそれほどエロくなかったのかも知れない。>RT
— 土と油 (@tutitoabura) 2021年12月13日
それ以前に江戸時代までの日本は「性行為だけがエロい」文化でした。「裸に興奮する」様になったのは文明開化後で、それも肉食導入同様に懸命の努力の結果成し遂げられた成果だったのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
日本に導入された最初期の西洋画は「写真をそのまま転写した/実物を型取りした彫刻の様な」美意識の投影が欠片も感じられない最低の代物で、これにまずギリシャ系アイルランド人の小泉八雲と、ロンドン留学経験のある夏目漱石(東大英文学科の初代/二代目教授)が反応します。https://t.co/Hyr6uigd9p
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
「例えば古代ギリシャ彫刻は目にした肉体をそのまま写実的に刻んだ訳ではない。脳内抽象化段階を経て幾何学的に美しいと作者が感じた曲線を刻んだのである」。ただ、惜しむらくは二人とも黎明期ボディビルダーであった事から、その言及範囲は自ずから筋骨隆々の男性の肉帯のそれに限られたのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
×肉帯○肉体。従って江戸川乱歩らの記述に登場する「ギリシャ彫刻の様な肉体」なる表現は戦前、主に「(ボディビルで鍛えた様な)筋骨隆々の男性の肉体」に掛かる形容詞となったのです。Bururururu!!
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
その一方で夏目漱石は「草枕(1906年)」で「浴室の湯気に浮かぶ女性の全裸ヌードのシルエットはエロい」と感じる次元まで到達。太宰治「美少女(1939年)」に至っては「(元来志賀直哉の分野だが)ふくらみ始めの少女のおっぱいはエロいかもしれない」なる言及まで登場します。https://t.co/L3LuJgYpgi
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
ただしそれを目にするのが混浴の湯治場で、隣で女房が一緒に湯船に浸かって「ほほほほ、確かに可愛らしいわねぇ」と笑っている様では、まだまだといえましょう。https://t.co/urrojrlBWC
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
ところで「こういうのは志賀直哉の専門分野なのだが」は、彼が少女小説黎明期の成功者の一人であった事を指します。つまりこの系譜は1970年における「少女小説中興の祖」氷室冴子に繋がっていくのです。https://t.co/9nVnaLMU7K
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
そういえば氷室冴子の初期小説にも、少女自身の「おっぱいがふくらみ始めた事への戸惑い」についての記述がありました。この路線は吉田秋生「桜の園(1985年~1986年)」榎本ナリコ「センチメント・シリーズ(1997年~)」などに継承されていきます。https://t.co/xmTl81CgjY
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
その前夜に目を向けると「魔女っ娘メグ(1974年~1975年)」で「二つの胸のふくらみは何でも出来る証拠なの」なんぞと歌ってますが、同時代にヒットした「ベルサイユのばら」「キャンディ・キャンディ」などをみても、まだまだ「おっぱいより拳や剣」の時代だったのです。https://t.co/KZ2c3CR0bv
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
それが1970年代も後半に入ると竹宮恵子や萩尾望都の少年愛や…https://t.co/rk6wpN3tsV
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
池野恋「ときめきトゥナイト(1982年~1994年)」が登場して色々様変わりしてきた訳ですね。https://t.co/nSAAoSdVp2
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
あれ? この路線って女性側に集約してますね。そう、日本人男性も「裸に興奮する」様になる流れには、また別の物語が存在するのです。そんな感じで、以下続報…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年12月13日
*あらすじ。 妻に付き合って温泉に出かけた「私」は、混浴の浴場で湯治に来ている美少女を見かける…
私と対角線を為す湯槽の隅に、三人ひしとかたまって、しゃがんでいる。七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪である。同じ年恰好の老婆、小さく痩せていて胸が鎧扉のようにでこぼこしている。黄色い肌で、乳房がしぼんだ茶袋を思わせて、あわれである。老夫婦とも、人間の感じでない。きょろきょろして、穴にこもった狸のようである。
そのあいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うとヒヤリとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。
少女は、きつい顔をしていた。
一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫なでたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。
「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、元気にならんじゃ。」すると、もう一組の老夫婦も、そうだ、そうだ、という意味の合槌を打って、みんな笑い出し、だしぬけに指輪の老爺がくるりと私のほうを向いて
「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」
と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、肋骨が醜く浮いて見えているので、やはり病後のものと思われたにちがいない。老爺のその命令には、大いに面くらったが、けれども、知らぬふりをしているのも失礼のように思われたから、私は、とにかくあいそ笑いを浮べて、それから立ち上った。ひやと寒く、ぶるっと震えた。少女は、私にアルミニウムのコップを、だまって渡した。
「や、ありがとう。」
小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。
「調子がええずら?」
指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。
隣で湯船に浸かっている家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢たるものがあった。
氷室冴子「 アリスに接吻を (1979年)」
その夜、あなたはいつものように鏡の前に立つ。
昼間見た絹の輝きが、耀子の寂し気な微笑が眼の前にちらついている。
こどもじゃないわ!
このごろは癖になっているつぶやきが、ふいと口からこぼれる。そうだ。あなたはこどもではない。初潮をむかえて半年以上たつ。鏡に向かって話しかけても、六つの幼女と同じではない。
こどもではない。耀子もいった。もうすぐよ、と。
けれど何がもうすぐなのか、あなたにはわからない。弓子のように、好きなのといえること?耀子のようにウエディングドレスを現実のものにすること?あなたはいらいらしたように頭を振る。
わからない。
わからない。
あなたは思いきったように、パジャマのボタンを下からはずしてゆく。ゆっくりと、ひとつずつはずしてゆく。第一ボタンをはずし終わると突然、隆起しかけた胸が現われる。鏡に映る胸は、確かに隆起しかけている。片手のひらで、すっぽりと覆える大きさなのに、鏡の中のあなたの胸は、バランスよく、かすかに揺れてさえいるようだ。
七十五センチのブラジャーさえ受けつけない、小さな胸のくせに、それでいて、決して六つのみよちゃんと同じ胸ではないはずなのだ。あなたの胸は活火山だ。今はまだ、小康状態が続いているが、いつ爆発するかわからない不安と苛立たしさに、あなたは唇をかむ以外、術がない。こどもでいるには熱すぎる胸、おとなになるにはあまりに痛々しい胸をその腕に抱いて、泣くしかないのだ。
あなたは、もはやこどもではない。こぶのような不格好な胸はそれを告げている。
けれどおとなではない。
こどもでもなくおとなでもない。
何か得体の知れないもの。あなたは三差路に立ちつくしている自分を感じる。あと一歩を踏み出せば、あなたはあなたでなくなるだろう。弓子のような、耀子のような、何かしっかりした、強いものを感じさせる女性になるのかもしれない。おとなの女のひとに、なるのかもしれない。
けれど今のあなたは危うい。
鏡の国に住む、何の経験もない、たわいないちっぽけな少女だ。
あなたは悲しい。
とても悲しい。
けれどあなた、その悲しみが本物であればあるだけ、あなたはあなたを愛するといい。そんなにもちっぽけなあなただから、そのちっぽけな時間を愛しなさい。
鏡の国にいられるのも、あとわずかなのだから、鏡は今しもひびわれるかもしれないのだから、鏡の国を、そこに住んでいるあなたを愛しなさい。
さあ、あなた、鏡の中の悲し気なあなたを勇気づけるために、接吻なさい。
あどけない、優しい、夢みがちなその唇で接吻を。
こどもでもなく、おとなでもないあなたを祝福するように。
海外ネットの女子アカウントでも「おっぱいが膨らみ始めたら、もはや幼女ではない」なる自己表現はする事があります(ただし黒人幼女の発育は早く、状況によっては人種差別発言になってしまうので要注意)。この方面については第三世代フェミニストのいう「胸を強調するのも太腿を剥き出しにするのも自分をcheer upする為の化粧の一種。背筋がちゃんと伸びてるか、顔つきが凛としてるかちゃんと見届けろ」が正しい立場で、ヨルさんの描かれ方も概ねそれで説明出来てしまうのです。
一方「予言落ち」は「二次元エンド」みたいに乱用される世界まで幻視しました。この路線の開拓者はマルキ・ド・サドとされ、実際「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校(Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage,1785年)」や「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え(l'Histoire de Juliette ou les Prospérités du vice,1801年)は実際そういう終わり方。
そして…
個人的メモ。久し振りにtumbrを覗きに行ったら、かつて「さんかれあ」の散華礼弥や「鬼滅の刃」の竈門禰豆子に夢中になってた女子アカウント層が「SPY×FAMILY」のアーニャちゃんのファンに転身してました。時代遅れになりたくないので、一気に9巻まで通読。https://t.co/tSyYezxlGq
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
まさしく「2010年代に彼女達が探し続けた何か」の完成形といえなくもありません。そうかぁ「スキャナーズ」や「ローズ家の戦争」や「琴浦さん」などが築いてきた死体の山は、決して無駄にはならなかったのだ…https://t.co/djvWJ0VXbD
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
ところでアーニャちゃんの名前の由来が米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」としか思えないのは私だけ?「東側の学生生活」とかそういう雰囲気も継承してる様に見えるのですが…https://t.co/l6tqYp197u
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
一番興味深かったのが、久し振りに「ヘイズ・コードの有効性」が再確認出来た辺り。2010年代、海外では「Better Left Unsaid」出版を契機に表現規制派と規制反対派の衝突があったんですが…https://t.co/gHQfdLsvHr
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
ほとんど「イエズス会のカキテズモ」としか言いようがない鋭い社会分析に立脚する社会改造論という側面も備えた「ヘイズ・コード」の精神をそのまま履行したフランク・キャプラとウォルト・ディズニーが1930年代を制した事実については双方が基礎教養として共有してたんですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
まさか21世紀に入っても「こういう形の意識の仕方なら十分有用」なるエビデンスが出てくるとはねぇ…暴走Jフェミや暴走Jリベの皆さん、これこそが本当の「理想主義の勝利」って奴なんですよ?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
もうそっち系の方々はこっちの話でまとめればいい気がしてきました。https://t.co/Ogl6lexk1i
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
そして…
なるほど、やっと最近流行の「ダミアニャ」を理解した。だが「テレパシー少女とのラブストーリー」妄想としてはまだまだ甘い。ここでまさに「琴浦さん」を思い出すべきでは? pic.twitter.com/AQCZML4zjF
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
「テレパシー少女とのラブストーリー妄想」の道は険しい… pic.twitter.com/HyhGJK9yIa
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
本当に険しいのである… pic.twitter.com/RPEDxtOiov
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月9日
とりあえず、メモがてら…