それは、こんな時代の物語…
今回の投稿の発端は以下のTweet。
ピンクレディーの前にも、天地真理なども完全に「子どものおもちゃ」的なキャラ消費をされていた例はあったし、そういう人気の出方をする歌手や芸能人というのは、ちらほら萌芽的に出現してはいたような。概ね60年代末あたりには。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年6月9日
デビュー当時の公称は、身長158cm・体重46kg、スリーサイズはB83cm、W56cm、H88cm。趣味は靴の収集。好きな食べ物はメロン。
楽曲のイメージを増幅させるテニスウェア等の衣装、「恋する夏の日」におけるテンポのよい振付、「虹をわたって」における歌詞の合い間に挟まれるファンからの「真理ちゃ〜ん」コールなど、後に続くアイドル歌手の基本スタイルを確立した。キャッチフレーズは「(あなたの心の隣にいるソニーの)白雪姫」。なお、デビュー当初には「可愛いアヒルちゃん」という愛称も用いられた。
所属事務所はその後、渡辺プロダクション傘下の渡辺ワークショップ→エヌ・エンター・プライズ→スムーズクリエイツ→サムシングリアル→有限会社ケイワイと所属替えし、現在は天地の個人事務所「天地真理ファンクラブ事務局」で活動している。
1970年代初期には天地真理ブームがあった。
1971年
- 6月6日TBS系人気番組『時間ですよ(第2期・第3期)』の、銭湯「松の湯」従業員役(川口晶の次のレギュラー)のオーディションを受け、西真澄と一緒に最終審査まで残ったが、合格は西真澄であった。しかし選考時に天地を見た主演の森光子が不合格を惜しみ、台本にない急ごしらえの新登場人物として出演させることを同番組演出の久世光彦らに提案したため、堺正章演ずる「松の湯の健ちゃん(宮崎健)」がひたすら憧れる「隣のまりちゃん(マリ)」役として登場、一躍脚光を浴びた。7月21日の初出演時には「松の湯」隣家の2階の窓辺で白いギターを爪弾きながら「恋は水色」を歌った。
- なお、久世は「小谷夏」名義で作詞家としても知られており、天地の持ち歌である「ひとりじゃないの」「思い出の足音」「風花のさよなら」「さびしかったら」「出不精のピーターパン」「二月の風景画」「ひこうき雲」「返信」「ポケットに涙」「涙から明日へ」などの作詞も手がけている。
- 10月1日アイドル歌手として「水色の恋」でデビューし大ヒットした。
- 以後、1974年までの間「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」からなる一連の大ヒット曲を発表する。
- 同じく1971年に歌手デビューした南沙織、小柳ルミ子とともに『三人娘(のち『新三人娘』)』と呼ばれた。ヒット曲は主に森田公一とトップギャランで知られる森田公一が手掛けていた。オリコンシングルチャートでは5曲が1位を取っている。
1972年
- 2月5日「ちいさな恋」発売。3月19日「青山タワーホール」にて第1回ファンクラブの集いが開催され、2000人が集合。
- 5月21日「ひとりじゃないの」発売。28日、日比谷公会堂にて初コンサート「真理ちゃんと日比谷でデート」が開かれ、5000人の観衆が集まる。
- 7月5日より、TBSテレビ水曜劇場「おはよう」にレギュラー出演。
- 9月1日「虹をわたって」発売。30日から封切りの松竹映画『虹をわたって(監督:前田陽一)に主演(星野マリ役)。
- なおこの年より冠番組の「真理ちゃんシリーズ(TBS系列、毎週木曜日19:00-19:30)」を担当。「真理ちゃんとデイト(1972年10月5日~1973年3月29日)」「となりの真理ちゃん(1973年4月5日 - 9月27日)」「とび出せ!真理ちゃん(1973年10月4日~1974年3月28日)」「アタック!真理ちゃん(1974年4月4日 - 9月26日)「はばたけ!真理ちゃん(1974年10月3日 - 1975年3月27日)」の5シリーズが放送される。内容は主に人形たちとともに、天地が童話等を題材とした小歌劇を演ずるというものであった。
- 11月16日「ひとりじゃないの」で第3回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。
- 12月3日、第5回日本有線大賞大衆賞受賞。5日「ふたりの日曜日」発売。24日「日本武道館」にて「3人娘クリスマス・ショー」開催。31日には第14回日本レコード大賞大衆賞を受賞し、「水色の恋」ピアノ演奏と「ひとりじゃないの」歌唱を披露した。
1973年
- 3月、春の選抜高校野球甲子園大会において「虹をわたって」が入場行進曲に選ばれ、天地も同センバツ大会の開会式にゲスト出演した。
- 同年3月、第10回ゴールデン・アロー賞特別賞(1972年度)受賞。同年4月7日、埼玉県所沢市の西武園ユネスコ村での「若葉のささやき(3月21日発売)」の新曲発表会において、3万人の入場を予定していたイベント「真理ちゃんと3万人のウィークエンド」に、全国から10万人に及ぶファンが集まる。29日から上映の松竹映画『愛ってなんだろ(監督:広瀬襄)』に主演(浅見麻里子役)。
- 7月1日「恋する夏の日」発売。同月19 - 27日、急性盲腸炎のため銀座・菊地病院に手術入院。同年8月14〜20日に大阪・梅田コマ劇場で初のワンマンショーを行う。
- 10月21日、「空いっぱいの幸せ」発売。
- 11月18日、ファンとのイベント「真理ちゃん気球に乗って大空へ」が開催され、5000人が参加。
- 12月31日、「若葉のささやき(編曲:竜崎孝路)」が第15回日本レコード大賞編曲賞受賞。さらに同月、第6回日本レコードセールス大賞ゴールデン賞受賞。なお、この年の7月19日、天地の母が東京・新宿に小料理店「てまり」を開業。
1973年のブロマイド年間売上枚数が女性部門で1位になる。また人気アイドルとして、下敷きなどの文房具やトランプなどの玩具といったキャラクターグッズが多数つくられ、さらにはブリヂストンサイクル工業(現:ブリヂストンサイクル)から女児向け自転車「ドレミまりちゃん」が発売された。「ドレミまりちゃん」には3歳用・5歳用・7歳用があり、当時の女児向けテレビ番組などでCMが流された。なお、同時に発売された男児向け自転車には当時流行した『仮面ライダー』が宣伝キャラクターとして採用されていた。
ピンク・レディー (Pink Lady) は、1970年代後半から1980年代初頭にかけて活躍したデュオのダンス・ミュージック系アイドル。ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。所属事務所はT&C ミュージック、音楽出版権利・管理はバーニングパブリッシャーズである。
- 『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。作曲家・都倉俊一は「カクテルのピンク・レディーに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。
デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。
- デビュー・シングル「ペッパー警部(1976年8月)」は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。第2弾シングル「S・O・S(1976年11月)」、第3弾シングル「カルメン'77(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。
第4弾シングル「渚のシンドバッド(1977年6月)」は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配,1977年9月)」もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。
- 1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。
- 第6弾シングルの「UFO(1977年12月)」もミリオンセラーを記録し、1978年末「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。
- 第7弾シングルの「サウスポー(1978年3月)」もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。ピンクレディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。
さらに、次のシングル「モンスター(1978年6月)」も、「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」と続いた“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録した。
- このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリジナル・コンフィデンスの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42.5%を占めた。
- 1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間(1978年9月)」などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。
人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。
ピンクレディの楽曲、当時は当然ジャンルなんて全然考えず聞いてましたが、今聞き返してもまるで分かりません。様々なジャンルの最先端の方法論を、わざとチャンポンに混ぜて叩きつけて視聴者を試してくる感じ? その荒っぽさ(YMOの細野晴臣と高橋幸宏が熱狂して坂本龍一が毛嫌いした)第一期ウルトラヴォックスっぽいとも。
1972年(昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。
- 3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし、『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。松崎が担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。
- 1973年(昭和48年)9月1日に「あなたに夢中」で歌手デビュー。またデビュー前から人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、3人の内で最年少ながら、当時最も歌唱力が高かったスー(田中好子)が起用された。
- だが当時のマネージャーである諸岡義明が、3人の中でラン(伊藤蘭)だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、1975年(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「年下の男の子」で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターのラン(伊藤蘭)をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又オリコンでも初のベストテン入りを果たした。
- 翌1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。
- その後1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばす。
- それ以降のシングルでは「わな」がミキ(藤村美樹)のセンターである以外、全てラン(伊藤蘭)がセンターを務めた。その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ!全員集合』や、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。
キャンディーズのデビューから3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、スー(田中好子)とケイ(増田恵子)などはとても仲がよかった。セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで、怪物とまで呼ばれたピンク・レディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあって、バラエティーへの対応力など、活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的な形で70年代末のアイドルシーンを牽引した。
ピンクレディと違ってスカート幅の分散範囲が広い事がかえって「清純ビッチ感」を増幅させるという…あと「ピンクレディのガニ股がエロい」というけど、ずっと両足揃えたままだと振り付けがシェイクヒップ系に寄るという…ちなみに当時最先端のシェイクヒップはこの辺りだった模様…
芸能人が「おもちゃ」としてキャラ消費される/できることが「発見」されていった過程。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年6月9日
主な消費者は「おんなのこ」であったこと。 pic.twitter.com/DC1VbE2JiH
ここに色々と乱入。
ポピーちゃん人形にアイドルシリーズがあったかなと。リンリンランランまで… https://t.co/Xtlj3iRtHT pic.twitter.com/ZJiwpdWxi6
— yass_2nd (@yass_yass_2nd) 2022年6月9日
1971年に『Second Folk Album』と題するオムニバスアルバムでジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」を姉のアイリーン・チャンとカバー。シングル化されてヒットした。
1972年には姉と張徹監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給されたマレーシア、タイなどの東南アジアでも人気がでるようになった。
香港のテレビ番組『Agnes Chan Show』のゲストとして知り合った平尾昌晃によって日本に紹介され、1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」でデビュー。当初の衣裳はロングであったが、翌年ミニスカートに変えて人気が急上昇した。
1973年7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、同年12月に第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。
1973年10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、初のオリコンチャート1位を獲得した。
1973年大晦日、『第24回NHK紅白歌合戦』に「ひなげしの花」で初出場。その後も1974年・第25回、1975年・第26回まで、『NHK紅白歌合戦』へは3年連続3回出場した。
1974年3月、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位を獲得。この頃のコンサートではバックバンドに鈴木慶一とムーンライダース、司会は植田芳暁を起用していた。1976年には「恋のシーソーゲーム」でホットケーキがバックをつとめ、さよならコンサートなどのコンサートに参加した。
1974年、上智大学国際学部に入学。父の勧めもあって、1976年に芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学(編入学)。社会児童心理学を専攻。1978年、トロント大学を卒業。同年8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開する。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。
1979年に香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。
1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。
1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。
なんと2010年代のキズナアイに連なる「(女子から選ばれる)足タレ元祖」でもあったとは。
当時ははアイドルだけでなくアニメや特撮のヒロインのスカートも短い。
ちなみに当時の「パンチラ問題」の大源流は「日石ダッシュ100のCM(1969年)」で、その大源流が地下鉄からの風でマリリンモンロー
これの元ネタが映画「七年目の浮気(The Seven Year Itch,1955年)」でマリリン・モンローの『スカートがまくれ上がるシーン』であるのは有名な話。
永井豪「ハレンチ学園(1968年~1972年)」は「この真似が学校で流行している景色」を描いただけでしたがPTA父兄はそういう事情を一切黙殺して作品攻撃を続けました。
一方、以下の記事で「スター人形ポピーちゃん」における「じゅん子ちゃん」が桜田淳子である事を確認。
ただし桜田淳子はその後「アイドル」というより「スター」の道を歩む。
中学2年のとき、毎週観ていた『スター誕生!』で森昌子がグランプリに輝いた。自分と同じ年の合格者に驚き、乗り出すように画面を観ていると、秋田地区でオーディションをするので応募したい人はどうぞと字幕スーパーが出た。瞬時のためらいもなくハガキを出し、両親にも学校にも言わずオーディションに向かった。その日は夏台風の接近で交通機関の運休があり、応募7000人のうち、会場に集まったのは5000人だった。
- 1972年(昭和47年)7月19日(放映は8月6日)、中学2年生(14歳)の時に日本テレビの人気オーディション番組『スター誕生!』の秋田県民会館で行われたテレビ予選で牧葉ユミの「見知らぬ世界」を歌い番組史上最高得点となる573点で合格(挑戦者は7人で、合格ラインは250点。会場が500点、プロは各自100点の計500点で、合計が1000点満点)。同年9月6日(放映は9月17日)、後楽園ホールで行われた第4回決戦大会で、これも番組史上最高の25社から獲得の意向を示すプラカードが上がり、審査員からの評価も圧倒的で最優秀賞(グランドチャンピオン)を受賞した。
- ホリプロ創業者の堀威夫の自伝『いつだって青春』によれば、当初、桜田はホリプロ入りの意向を示していたが、ホリプロには既に同番組出身の森昌子が所属しており、(スター誕生!の出身者が)同じ事務所ばかりに偏るのはどうかとの日本テレビ側の配慮もあって、サンミュージックに所属することになったという。桜田本人は、芸能界の悪いイメージの中にあって、森田健作はさわやかで清潔な印象があり、森田さんの所属事務所なら間違いないという、ただ一つの理由で、秋田にやってきた日本テレビのプロデューサーに「森田さんの事務所に行かせて下さい」と言ったと話している。
- 1972年(昭和47年)10月中旬、先の大森の叔母宅に寄宿し、私立品川中学校(現・品川女子学院中等部)2年生に転入した。3年時に同じクラスに山口百恵が転入してきて、よく似た境遇でもあり、すぐに打ち解け親しくなる。 同年3月23日に二人で卒業するも高校は別々になった。
- 1973年(昭和48年)2月25日にビクター音楽産業より歌手デビュー。デビュー曲「天使も夢みる」は、オリコンチャートでも12位につけるなど好スタートを切った。また、歌う時に被っていたキャスケット(2枚目のシングル「天使の初恋」まで)も桜田のトレードマークとなり、当時「エンジェルハット」と呼ばれて話題になった。この時点で既に人気アイドルの仲間入りを果たしていたが、その後、同じ『スター誕生!』出身で、同世代の森昌子・山口百恵と共に花の中三トリオ(当時)と呼ばれるようになり、トリオとしての名称は3年後の「高三トリオ」まで続いた。3枚目のシングル「わたしの青い鳥」のヒットで、第15回日本レコード大賞新人賞、第4回日本歌謡大賞放送音楽新人賞を受賞。さらにその年の大晦日には第15回日本レコード大賞の最優秀新人賞にも輝いた。
z同年11月にリリースされた4枚目のシングル「花物語」で初めてオリコンチャートのベストテン入りを果たす。
続く「三色すみれ」「黄色いリボン」「花占い」も順調にベストテン入りし、8枚目のシングル「はじめての出来事」ではオリコンチャート第1位を獲得。- その後も「ひとり歩き」「十七の夏」「夏にご用心」「ねえ!気がついてよ」「気まぐれヴィーナス」「しあわせ芝居」「リップスティック」「サンタモニカの風」などなど、数々のヒットを飛ばした。シングルは累計で600万枚近くを売り上げ、トータルで18曲をオリコンチャートのベストテンに送り込んでいる。デビュー3年目の1975年(昭和50年)には、オリコン・シングルレコード年間売上、マルベル堂のブロマイド売上、『月刊明星』の年間人気投票において、いずれも女性歌手部門の1位を獲得するなど(「マルベル堂」『明星』『平凡』『近代映画』首位の4冠は美空ひばり・吉永小百合に続くもの)で、名実共に1970年代を代表するトップアイドルのひとりであった。
- また、コメディーリリーフとしてのセンスもあり、特に『8時だョ!全員集合』で見せた志村けんとの「夫婦コント(『私って駄目な女』シリーズ)」での絶妙なかけ合いは、音響、照明効果も相まって人気を博し、お茶の間だけでなく、井上ひさしら放送作家達からも絶賛された。
- 歌手として活躍する一方で、女優としても1975年の映画『スプーン一杯の幸せ』を皮切りに『遺書 白い少女』『若い人』『愛情の設計』『愛の嵐の中で』と、5本の映画で主演を務めていたが、1978年には東宝歌舞伎の大御所、長谷川一夫の指名により、『おはん長右衛門』で舞台女優にも挑戦。初舞台ながら長谷川一夫の相手役を演じたことで、役者としての資質が改めて注目されるようになった。その資質は翌年の市川崑監督作品『病院坂の首縊りの家』での一人二役を経て、1980年の初主演ミュージカル『アニーよ銃をとれ』で大きく開花し、その年の芸術祭大衆芸能部門(2部)優秀賞を、当時史上最年少で受賞するなど高い評価を得た。この頃から次第に女優としての活動に比重が置かれるようになっていき、1983年に発売された小椋佳作曲のシングル「眉月夜」のリリースを最後に歌手活動を停止、完全に女優業へ転向した。その後は数多くのテレビドラマ、舞台、映画で活躍、歌手時代のみならず女優に転向してからも、芸術選奨新人賞(大衆芸能部門 文部大臣新人賞)や菊田一夫演劇賞(演劇賞)を始め数多くの賞を受賞している。
『週刊プレイボーイ』、『平凡パンチ』、『明星』、『平凡』などで何度もグラビアを飾っている。またしゃべり方に特徴があり、ものまね番組などでサ行の発音をデフォルメして真似されることも多く、フジテレビのシチュエーションコメディ『やっぱり猫が好き』内でも、出演者の一人である小林聡美がたびたび桜田の物真似を披露している。アイドルでありながらリクエストされれば秋田弁でしゃべってみせたり、秋田音頭や持ち歌をお国訛りで歌ったりするなどサービス精神が旺盛で、1970年代後半に井関農機の田植機『さなえ』のCMに起用された際も、「やっぱし早苗だべさ」というお国訛りのセリフが有名になった。重度の近眼。
当時の例に漏れず結構太腿剥き出し系…それにつけてもブロマイドなる伝統あるキャラクター商品。懐かしい響きですが当時の重要なキャラクター商品の一種でした。
ブロマイドは、写真用印画紙、又はこれを用いた写真のこと。またはマルベル堂などが発行している、タレントなどのコレクション用肖像写真、「プロマイド(Puromaido)」のこと。
- ブロマイド(Bromide)は本来の英語で臭化物を指す語だが、臭化銀(シルバー・ブロマイド)を感光剤として用いた印画紙(Bromide paper)を指す和製英語となった。
当時は「ブロマイド」とは呼ばれなかったが、事後的に以下も「ブロマイド」と呼ばれている。
- 江戸時代には「役者絵」「相撲絵」などの浮世絵があり、人気歌舞伎俳優、力士の肖像として賞翫された。
- 明治以後、写真術が輸入されると、これが写真にとってかわられ、手札型の力士・歌舞伎俳優の写真が販売された。
「プロマイド(Puromaido) 第1号」は日活の尾上松之助のもので、大正9年(1920年)に発売されている。大正10年(1921年)、松竹キネマが蒲田撮影所を設立したときに、当時の人気女優・栗島すみ子、川田芳子らの写真を、街の写真屋が大量生産。栗島すみ子のプロマイドは「一日に4千枚売れた」との記録が残っている。
- これをコレクション商品として世に広めたのが浅草の「マルベル堂」である。同社の発行したプロマイドの「時代劇スタア」で最も売れたのは林長二郎(長谷川一夫)で、『雪之丞変化』扮装のそれは、2年以上も売れ続けた。
- 戦前のファンたちの気質は「その人オンリー主義」だったそうで、マルベル堂の店頭に飾られた林長二郎のプロマイド写真が少しでも汚れているとそっとハンカチで拭いて行く、傷が入っていれば「取り替えておいてくださいね」と頬を染めて行く、といった女性ファンの姿があったという。マルベル堂では「プロマイドはファンのための写真」との意味から、すべて目線を正面に向けてもらい、若々しい顔に修正したものを使った。こうした要求を「スッと撮らせてくれた」のも長谷川だったという。
また、メンコサイズの小型のプロマイドは「豆プロ(Mamepuro)」と呼ばれ、一枚一銭で駄菓子屋で売られた。図柄の題材は封切り前後の時代劇活動写真で、男女スタアの肖像、劇中の名場面などがあしらわれていた。これらはトレーディングカード同様、1枚毎に紙袋に入っており、買って開けてみるまで中身が分からなかった。
そして…
アメリカ人の父と中国人の母を持つ一卵性双生児のハーフ。1972年から香港で「樂家姊妹(ロッカーシスターズ、The Lokka Sisters)」として活躍。来日後にオフィス星野(岡山県)でダンスや日本語を学び、サンミュージックプロダクションに紹介をされ、1974年に日本テレビのテレビ番組『スター誕生!』でアシスタントとしてデビュー。
代表曲は、デビュー曲ながら最大のヒット曲となった「恋のインディアン人形」で、ロングのお下げ髪に、インディアンのような衣装を着て歌い、アジア系の雰囲気も持っていたため、先住民族と誤解されることも多かった。
ほかに「陽気な恋のキューピッド」、「恋のパッコンNO.1」など。また、人気絶頂期に東京・芝公園(最寄り駅は御成門駅)にあった中華料理店「留園」のCMに出演し、「リンリンランラン留園…」とCMソングを歌ったこともあった。
日本での活動が下火になってからも、香港で桜田淳子、岩崎宏美などの楽曲を広東語でカバーしたレコードをリリースした。日本でおなじみであったお下げ髪は香港でもしばらく続けていた。
芸能界引退後はアメリカ合衆国で生活している。
なるほど、アジアの影響も強まってきたと。
モスラ(1961)の小美人としてのザ・ピーナッツが草分け的存在かもしれません
— hear synth (@hear_synth) 2022年6月9日
ザ・ピーナッツ (The Peanuts) は、日本の双子の元女性歌手(デュオ)、女優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ、同県名古屋市育ち。略称「ピーナッツ」。発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。
- 姉 伊藤エミ(本名、澤田日出代(さわだ ひでよ,旧姓伊藤))…1941年(昭和16年)4月1日 - 2012年(平成24年)6月15日。享年71。
- 妹 伊藤ユミ(本名、伊藤月子(いとう つきこ))…1941年(昭和16年)4月1日 - 2016年(平成28年)5月18日。享年75。
主に名古屋市内にあるレストラン「ザンビ」の経営者谷村一、専属バンドで演奏していた大浦郁夫に歌の指導を得て「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける。1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー。4月、「可愛い花」でレコードデビュー。事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに所属。同社の専属タレント第1号であった。レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコードと契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日にキングレコードと契約した。
- 1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢。その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。
- 『夜のヒットスタジオ』には1969年(昭和44年)1月13日に初出演(曲は「ガラスの城」)して以来、約6年間の間に40回に渡り出演。まだ「歌謡バラエティ」の色が強かった夜ヒットにおける常連歌手の一組であり、『シャボン玉ホリデー』での経験から当時の人気コーナー「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。
- 引退前最後の出演となった1975年(昭和50年)3月31日放送では番組史上初の「サヨナラ」企画が組まれ、ハナ肇、坂本スミ子、伊東ゆかり、中尾ミエ、こまどり姉妹ら歌手・タレント仲間が数多く駆けつけ「情熱の花」や「心の窓にともし灯を」など計4曲を熱唱。
- 日本国外でも活躍し『エド・サリヴァン・ショー(アメリカ)』『カテリーナ・バレンテ・ショー(当時の西ドイツ。現・ドイツ)』『ダニー・ケイ・ショー(アメリカ)』にも出演したことがある。和製ポップスを海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手といえば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍ぶりも高く評価された。
女優活動も行っており、映画などにも数作出演。中でも『モスラ(1961年)』での「小美人」役は2人のキャラクター性を活かした役柄であった。東宝作品では、ゴジラシリーズやクレージー映画に出演したほか、主演映画も制作された。
株式会社渡辺プロダクション(Watanabe Productions Co., Ltd.)は、芸能事務所など10社1財団(自社含む)を統括する持株会社でしばしばナベプロと呼ばれる。
- 創業者は渡辺晋。晋の妻の渡邊美佐は名誉会長兼グループ代表。代表取締役会長は晋・美佐夫妻の長女である渡辺ミキ(ワタナベエンターテインメント社長)、代表取締役社長は同次女の渡邊万由美(トップコート社長)が務める。
- 元々は1950年代当時、まだ差別や偏見の目で見られることもあった芸能人の待遇改善と地位向上を目的として、ジャズミュージシャンであった渡辺晋が、妻の渡辺美佐、松下治夫、河合聡一郎らと共に、芸能事務所の位置付けを変革したことが始まりである。
- それまでは、タレントに仕事先を見つけ出演料の一部を受け取ることだけで、個人商店、徒弟制度的な意味合いが強く「一人のマネージャーがデビュー時から引退までタレントと一蓮托生の運命を歩む」というマネージメントのあり方を変更し、一人のタレントに対し数人のマネージャーを付け、何年かで担当を交代させることで、芸能事務所の仕事を組織化し、あらゆる分野に精通した人脈や知識を蓄えた人材の育成を目指した。また『シャボン玉ホリデー』や『ザ・ヒットパレード』、クレージー映画シリーズなどを自社制作し所属タレントを出演させて、番組制作費や興行収入を得る仕組みを導入したほか、傘下に音楽出版会社(渡辺音楽出版)を設立しレコードの原盤権を保有するなど、現代における日本の芸能ビジネスのスタイルを作った。
- タレントのあり方についても、従来は俳優、歌手、コメディアンなどが分業し、それぞれの領域を侵さなかった芸能界に対し『新春かくし芸大会』などでは歌手や俳優に寸劇や余興を行わせ、今日のマルチタレント時代の先駆けとなった。
- 最初期にはミッキー・カーチス、ハナ肇とクレージーキャッツ、浜村淳、ザ・ピーナッツらが所属し、その後は中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、ザ・ドリフターズ、沢田研二、布施明、森進一、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズ等の大スターを多数抱え、番組も多数制作した。
- いまも国内有数の規模を誇る芸能事務所だが、1960年代半ばから1970年代初頭にかけては「ナベプロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの独占状態を呈していた。筒井康隆は当時、短編小説『あらえっさっさ』でその権勢ぶりを狂騒の芸能界とともに風刺しているが、同時期にNHKや創価学会を俎上に乗せた作品よりは若干好意的で、副社長である妻を前面に押し立てて目立たないようにしているが実権を掌握している社長、という描写になっている。
- 1979年にザ・ドリフターズがマネージャーの井澤健とともにイザワオフィスを設立し独立し、資本関係は存在しないが互いに関連会社として公式サイトなどにも記載している。その他にも一部タレントは、渡辺プロダクションおよびその系列事務所が51%出資することを条件に、傘下の事務所としてグループ内独立を認めている。2000年には機構改革を行い、残っていた芸能マネジメント部門をワタナベエンターテインメントに分社し、渡辺プロダクション自身は持株会社に移行した。そのため現在は子会社のワタナベエンターテインメントが「ナベプロ」と呼ばれることも多くなっている。
グループは現在でも株式を公開していないが、過去には株式公開の話を幾度となく持ちかけられていた。しかしながら渡辺晋の「芸能市場は長期的なスパンが必要であり、株価を気にし、株主に常に配当をしなければという状況下では成立しにくい」との判断のもとで、株式の公開は行なっていない。
そして「グループサウンズ」時代における「偽外国人」の暗躍…
GSだと、せいぜいこのへん、「人形」までだったのかな。これはザ・タイガースだが。 pic.twitter.com/iHIeg2BYes
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年6月9日
70年代半ばに渋谷パルコかどこかで、キッスの抱き人形的なぬいぐるみ?が売られていて、ジーン・シモンズが欲しかったけど小学生には手が出ない値段でした。作家さんの作品だったのか?公認のわけがない謎商品でしたが、キッスは「おもちゃ」になったロックバンドの先駆けかも…
— mikiko_k (@mikiko_k) 2022年6月9日
歌手ではないけど、「8時だよ全員集合!('69年放送開始)」なんかは小学生をターゲットに番組作りをしていましたね。
— さや (@RetroSayaFuture) 2022年6月9日
子供を特にターゲットにしていたわけではない、「ゲバゲバ90分」なんかも子供に人気あったけど。 https://t.co/yhEn7Oo53Q
ザ・ドリフターズの人形(通称:首チョンパ)が流行ったこともありました。鉛筆をダース買いするともらえるノベルティでした。https://t.co/hcCgrPhKpN
— Chihiro Nakashii(名佳椎 千紘) (@chitheetackmame) 2022年6月9日
ドリフのクビチョンパは市販されなかったけどプレミアムな景品です。https://t.co/CLNQiVANtW
— K - usa (@KJUSA) 2022年6月9日
ここに乱入。
「フィンガー5」はギリギリ直前?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
天地真理のすぐ直後って感じですかね。70年代初頭。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年6月9日
確かにピンクレディ以降、急にグッズ展開が増えるんですよね。そういえばポンキッキ挿入歌もソフビ人形が登場したのは「泳げたい焼き君(1975年)」以降でしたね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
事務所の資金を総会屋の小川薫に出させた話とか、これはグッズの販売も 結構その筋の人がやってたりしたんでしょうかねw
— 矢次一夫@運動界隈のちょっといい話 (@JaHi8SXKvGxebKx) 2022年6月9日
この時代は謎が多くて、それまで躍進してきたアニメ/特撮系がオイルショックで一旦駄目になって「UFOブームにあやかるしかない‼︎」みたいな流れになるんですが、このトレンドに一番上手く乗れたのもピンクレディだったという…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
今から思えば「ソウル・ドラキュラ(1976年)」とは一体何だったのか?https://t.co/GQqr7TMsTK
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
当時の現役小学生は「渚のシンドバット(1977年)」で初めて「セクシー」なる単語を覚えたりしたもんです。しかもイケメンに掛かる形容詞として。本当にあの時代何だったのか…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
「これもマジンガーDNA継続の為‼︎」と番外編的位置付けで「UFOロボグレンダイザー」が、富野監督が「勇者ライディーン(1975年〜1976年)」で「子供のオカルトブームに媚びねばならんとはな‼︎」が制作された時代、ピンクレディは「UFO」「モンスター」「透明人間」をな…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
日本語が拙いので補完します。
①「これもマジンガーDNA継続の為‼︎」と番外編的位置付けで製作された「UFOロボグレンダイザー(1975年~1977年)」
富野監督が「子供のオカルトブームに媚びねばならんとはな‼︎」と嘆きながら制作したとされる「勇者ライディーン(1975年〜1976年)」。
雁屋哲/土山しげるの原作では「宇宙人の狙うエナジーハートの力を借りて最終回のみ巨大化する」だけだったがアニメ版は「人型ロボットが合体して人型になる」初例となった「UFO戦士ダイアポロン(1976年~1977年)」。アメフト要素の由来は謎。
これよりはピンクレディの方がうまくやったんじゃないかという話ですね。
その一方でこの時代の男の子が一番夢中になっていたのは「ロボコン(1974年~1977年)」や「ロボダッチ(1975年~1980年代初旬)」だったという。
それは同時に「輪切り戦艦」や「生首カー/手足だけジェット」や「マグネット・部品交換ロボ」が(田宮のミリタリーや長谷川のウォーターラインの後押しを受けた)宇宙戦艦ヤマト艦隊や超合金軍団やガンプラに駆逐されていった時代でもあったのです。
日本語拙くて申し訳ありません。さらに興味深いのが、同じ路線で売り出した高橋留美子「うる星やつら(1978年~1987年)」に「怪奇ディスコ」への言及はあっても「ピンクレディ」への言及がない事。もしかして「業界」を怒らせてタトゥーみたいに「言及禁止令」が出てしまった?https://t.co/NDfQ4oB6nB.
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
そういえば「ピンクレディ」と同時代の漫画といえば水島新司「野球狂の詩(1972年~1977年)」、矢口高雄「釣りキチ三平(1973年~1983年)」、手塚治虫「三つ目が通る(1974年~1978年)」、特に「野球狂の詩」は完全「サウスポー」の元ネタ。そういえば当時の謎の一つに「実態不明なアメフトブーム」も。 pic.twitter.com/ydpcHSrMup
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月9日
この話ですね。
本当に子供向け作品の何もかもがアメフトになった時期ありましたね…ストロンガー、ダイアポロンは言うに及ばず レッドタイガーにマッハバロンゴワッパー5 なんだったんだあれは
— 味噌グラム (@misogram) 2015年10月19日
@misogram @macleod1997 時期的な検証していませんが、フィンガー5のヒットが元ではないでしょうかね。
— 関口コフ (@isdmausfd) 2015年10月19日
@isdmausfd @macleod1997 確かに。東映まんがまつりの挿入歌にもなっているし、きっかけには絶対なってますよね。
— 味噌グラム (@misogram) 2015年10月19日
そんな感じで以下続報…