諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「測定者」の意識は何を体験しているのか?

 

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エヴェレットの多世界解釈(many-worlds interpretation; MWI) - Wikipedia

量子力学観測問題における解釈の一つ。 プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレット3世が1957年に提唱した定式を元に、ブライス・デウィットによって提唱された。

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  • ヒュー・エヴェレットは、量子もつれと一貫した歴史を前提とした、射影仮説のない量子論の新しい定式化を試みた。 エヴェレット自身はその論文中でこの理論は決定論的であると述べている。

  • 論文によれば、量子もつれにより相関した多数の分枝を相対状態として波動関数に記述しており、それらの分枝同士はお互いに干渉できないまま常に並存している。 観測者のうちのひとつの分枝の主観では、それと相関した分枝のみが観測可能な世界であって、相関していない他の分枝は観測できない。

  • 清水明は、射影仮説は実験事実と合致しかつ無矛盾な理論体系になるために必須であり、ヒュー・エヴェレットの原論文には射影仮説がないのでユージン・ウィグナーの厳しい批判に遭ったとしている。

    第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。

    第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。 

ブライス・デウィットは、ヒュー・エヴェレットの論文に世界の分岐の概念を付加して、多世界解釈と名付けた。 その後、Heinz-Dieter Zehによって提唱されたデコヒーレンスにより、世界の分岐の理論付けがされた。

  • 清水明は、自分自身がどれかひとつの分枝のみを知覚するとする現代多世界解釈は射影仮説と等価なことを仮定しておりコペンハーゲン解釈を言い換えているだけだとしている。
  • コリン・ブルースは、多世界解釈は非局所的効果を含まないとしているが、森田邦久は、世界全体が瞬時に別れるならそれは非局所的な効果であるとしている。 和田純夫は、多世界解釈は概念的には確率と無縁になるとしている。

その一方で多世界解釈の考え方はSFに多用されてきた。1976年SF誌『アナログ』がエヴェレットの理論を取り上げる。

ドイチェは1985年平行世界の考えを使って計算する量子コンピュータを提唱した。ただ、量子コンピュータの原理は現在では量子力学の別の解釈でも説明可能でもある。ホーガンのSF『量子宇宙干渉機』もエヴェレットの多世界解釈量子コンピュータを扱った作品である。

きちんと量子力学の基礎を押さえている研究者達は、多世界解釈自身が首尾一貫した体系として完成されていない不備だらけの理論であることを十分に知り尽くしている。

しかもその不備の1つは小手先で解決できる類ではなく、多世界解釈が本質的に抱えている不可避な欠点に由来している。

決定論的な宇宙の波動関数から、人間の意識が時々刻々確率的にただ1つの体験を選択し、経験しているという事実を導くことが不可能だからである。

これをしたければ、最初に宇宙全体の波動関数から「人間が意識を持つこと」を科学的に説明することが必要になる。

そしてその創発された意識が、各時刻において多数ある可能性の候補の中から確率的に「1つを選択して」経験することを説明しなくてはいけない。

つまり意識の創発及び存在の合理的検証が求められるのだ。

しかしこれは科学的に反証可能な問いではない。

観測問題(Measurement Problem) - Wikipedia

量子力学における問題のひとつで、観測に伴う問題を言う。
*白井仁人, 東克明,森田邦久,渡部鉄兵『量子という謎 = Quantum Enigma : 量子力学の哲学入門』 勁草書房 2012年 ISBN 978-4326700752 p.7-13 (渡部鉄兵が『第1章 量子力学における観測とその問題』を担当している)

あるいは観測(観察)過程を量子力学の演繹体系のなかに組み入れるという問題と言い換えることもできる。
*T.バスティン編『量子力学は越えられるか』(柳瀬睦男村上陽一郎、黒崎宏、丹治信春 訳、1973年 東京図書株式会社、"Quantum Theory and Beyond: Essays and Discussions Arising from a Colloquium", edited by Ted Bastin, 1971、但し訳書は第5部の一部割愛)第3部 観測問題

概説

説渡部鉄兵は、観測における次の3つの条件のうち、いずれの2つも整合的であるにも関わらず、3つを同時に仮定できないことを観測問題と呼んでいる。

 (A)固有値と固有状態のリンク

 (B)孤立系のシュレーディンガー方程式に従った波動関数の時間的発展

 (C)測定により測定値が得られる事実

渡部鉄兵は、いずれかの条件を否定することで観測問題は解決できるとし、条件(A)の否定として隠れた変数理論、条件(B)の否定として標準理論の射影公準、条件(C)の否定として多世界解釈をそれぞれ挙げている。

さまざまな解釈

この問題について説明を与えようとする様々な解釈がある。

  • コペンハーゲン解釈は基本的に収縮を認める立場であるが、収縮を道具(実用的な利用価値だけを認め、解釈には触れない)と見做す道具主義的な立場である現代コペンハーゲン派の立場と「収縮の詳細を積極的に解釈すべきである」とする立場に分かれる。
  • アルベルト・アインシュタインは、「どの波動関数になるかについて、人間の知識が不足しているだけで、実際には決まっている」とし(と主張し)(隠れた変数理論)、1926年12月にアルベルト・アインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙で、"He does not throw dice" (「彼(Old One、創造主)は賽を投げない」あるいは「神はサイコロを振らない」)と書いた。だが、このアインシュタインの解釈では、ベルの定理によりクラスター分解性を失うことが知られるなど、不適切だと考えられるようになった。
  • 1960年代になると哲学的な研究が盛んになり、パリ大学オルセー理科大学(La Faculté des Sciences d'Orsay、現在のパリ第11大学)の理論物理学者 B.デスパニヤ(Bernard d'Espagnat)の最初の著作『量子力学と観測の問題―現代物理の哲学的側面(1971年 亀井理 訳 ダイヤモンド社、Conceptions de la physique contemporaine; les interprétations de la mécanique quantique et de la mesure.,1965)』が出版された。この本は当時の観測問題の代表的な説を俯瞰するようになっている。

  • さらに 1968年7月には、ケンブリッジ大学でE.W.バスティン(Ted Bastin)とデヴィッド・ボームの企画による非公式のコロキウム(シンポジウム) "Colloquium : Quantum Theory and Beyond" が開催され、1971年その成果である同名の論考・討論集が出版された。訳書『量子力学は越えられるか』には一部割愛があるものの、当時の代表的な研究者の執筆や討論が収録されている。

その他の新しい解釈としては、マクスウェルの電磁方程式から導かれる遅延波と先進波(先行波)に基づく、アメリカの理論物理学者ジョン・クレイマー (John G. Cramer) の「交流解釈(transactional interpretation(The transactional interpretation of quantum mechanics, John G. Cramer, Rev. Mod. Phys. 58, 647 – Published 1 July 1986))」がある。
*これはシュレーディンガー方程式の相対論的な拡張であるクライン-ゴルドン方程式の2つの解が、当初波動関数と見なされたため確率解釈に困難をきたし理論から放棄されていたが、遅延波と先進波(先行波)が干渉して合成したところに電子が実体化するという解釈として提起された。

 要するに「シュレディンガーの猫」はあくまで「半分生きて半分死んでる超自然的存在」ではなく「すでに死んでいるかまだ生きているかだが、観測者がそれを知らない状態」なのだが、ミクロの世界ではまた考え方が違ってくるという話。

そんな感じで以下続報。