諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【2020年代的風景】「実家の太さ」について。

とりあえずメモがてら。

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そういえばフェミニズム界を国際的に震撼させたJane Austen Shockについて日本のフェミニストが語る場面を全然目にした事がないのです。

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  • 内容としては21世紀に入ってから「英文口語小説の祖」と目されるジェイン・オースティンJane Austen, 1775年~1817年)の生原稿が発掘されたものの、それはスペルミスと文法ミスに満ちており(男性)編集者の執拗なまでの校正によって真っ赤に染まっていたというもの。要するにサマセット・モームら後続が熱狂的に模倣し、東大に初めて開設された英文学講座で教えた小泉八雲夏目漱石シェークスピアに匹敵する熱意で日本に伝えた「英文口語小説」は、殆ど(スペルミスや文法ミスなど全然気にしない天真爛漫な)女性作家と(かかる誤謬をスジ肉を煮て灰汁を取る様に執拗に追放し続けて作品グレードを出版可能なレベルまで高めた)男性編集者の共同作業の産物から出発したという次第。

    そういえばシャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë、1816年~1855年)やエミリー・ブロンテ(Emily Jane Brontë、1818年~1848年)すら当時は男性名で作品を発表せねばならない様な、そんな時代ではあったのです。

    さらにはジェイン・オースティンの小説は「フランス革命ナポレオン戦争のせいでゴシック小説の供給が断たれたのを契機に、田舎の郷紳娘が自らペンを取る」なんて経緯で執筆されているので致し方のない側面も。

    一応は当時一般の少女よりは充実した教育を受けてはいたものの(相応のブルジョワ家庭に生まれレディング修道院女子寄宿学校で学び、英訳されたゲーテ「若きウェルテルの悩み」を含む多くの文学作品に触れたという)日本の女性文学史でいうと「蜻蛉日記」「更級日記」未満のグレード。あくまで古代オリエント時代に月神ナンナアッカド語:シン)に女神官として仕えながらさまざまな詩や文章を残したアッカド王女エンヘドゥアンナEn-hedu-ana, 紀元前2285年頃~2250年頃)や、平安王朝時代に女官として栄達した紫式部(970年/978年~1019年~?)や清少納言966年頃~1025年頃)、アンジュー帝国時代のアリエノール・ダキテーヌAliénor d'Aquitaine,オック語: Alienòr d'Aquitània, 1122年~1204年)やその宮廷の構成メンバーだった詩人マリー・ド・フランス(Marie de France, 12世紀後半)とは格が違うのであり、むしろ(国際的に近代口語文学の最初のマスターピースとなった)英国口語文学が、そうした「体制側」でなく、文法ミスもスペルミスも気にしない奔放な田舎娘と(執事的に「やれやれ」といった調子で)その作品を出版可能なレベルに到らせる為に黙々と校正を続ける男性編集者の二人三脚を起源としている事に痛快さすら覚えるのは私だけでしょうか?

  • もしかしたら近年国際的に(後に男性編集者の手になる「改竄」が払拭された)エミリー・ディキンソンEmily Elizabeth Dickinson、1830年~1886年)の評価が上がっているのも、このJane Austen Shockのせいかもしれないと思うと陰鬱な気持ちになります。別に彼女の才能を疑う訳ではないのですが(そもそも評価可能な領域まで作品に触れてない) 、ざっと何作か当たった限りでは(その独特の肉体主義といい、セクシャル・マイノリティ的揺らぎ加減といい)同時代のウォルター・ホイットマン (Walter Whitman, 1819年~1892年)と相違点より共通点の方が多く、そういう観点からの当時の時代背景分析も含めた後期アメリカン・ルネサンス文学論が読みたいと思ったほどです。

  • 日本人女性(およびポリコレに感染してない健全な米国人女性)は、こうしたウルトラ・フェミニストの「一人で出来るモンイデオロギーからは比較的自由な印象があります(性的に奔放だった当時のTumbrで第三世代フェミニストが「男性が精液で文学を綴ってきた様に、これから女性は経血で文学を綴るのだ」みたいなフランス人ウルトラ・フェミニストの決めつけ宣言に「ゲェー、同じ女から見てもキモい発想」「これから始まるじゃねぇ。もうとっくに始まってんだ、そんな事も認められない老害め!!」と反応していたのを思い出す。英語でのやり取りだったし、そういう話に男性が割り込むと瞬殺されるので、黙って傍観していただけだったが)。実際「日本に英米性文学を紹介したのは夏目漱石小泉八雲尾崎紅葉だった」とか「日本の戦後少女漫画界を最初に担ったのは(「恋愛御法度」のレギュレーションを忠実に守った)横山光輝赤塚不二夫松本零士、そして(そのレギュレーションに最初の抜け穴を貫通させた)手塚治虫石ノ森章太郎である」と歴史的事実を指摘しても何の角も立ちません。むしろ彼らを蹴落として「女性読者が求める内容は女性作家が供給する」イメージを樹立した後続女性作家達の功績が讃えられるばかり。そもそも日本の場合、前期アメリカン・ルネサンス文学を代表するナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne, 1804年~1864年)ですら、(作中に女権伸長WO揶揄する記述があれほどあるにも関わらず)出版社に「私より教養も文才もない女性作家が私より稼いでるのが解せない」と捻じ込んで「それは売れてるからです。貴方も売れる作品を執筆すれば仲間入り出来ます」と返された様なエピソードが中々見出せないのです。それと併せ、現代人の観点からは(恐らく当人は女性心理の理解者と信じていた)「緋文字(The Scarlet Letter,1850年)」におけるホーソーンや「ボヴァリー夫人(Madame Bovary,1856年)」におけるフローベールや「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles,1891年)」におけるトーマス・ハーディバ美肉おじさん仕草についてどう考えるべきなのでしょう?(とりあえずTumbr上の第三世代フェミニストの間では評判が悪かった。そこには女性が共感し得る要素が欠落しているというのである)。

  • こちらの系譜に駄目出しするなら、代わって急浮上してくるのは英国人文学者ダニエル・デフォーの手になる「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe,1719年~1719年)」。

そんな感じで以下続報。