諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【2020年代的風景】ツイフェミ式架空戦記を超えて

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そもそも、たった半世紀ほど前の話なのに源氏鶏太サラリーマン小説1948年〜1974年?)」や山田風太郎忍法帖シリーズ1958年〜1974年)」が大人気だった「昔の保守道徳」全盛期がどれほど壮絶なものだったか忘れ去られつつあるのが問題なのかもしれません。

①アジアの最も後進的地域においては、そもそも「女性も自由意志や性欲を有する」と描写する事自体がポルノと目され「人倫に対して遂行される最も恐るべき犯罪の一つ」として刑事罰対象となるという。当時の日本においても(西洋文化流入への反感も手伝って)自称有識者階層が「日本女性に真の幸福をもたらすのは家同士が公認する正式の縁組だけ。自由恋愛や同性愛の様に人類に破滅しかももたらさない犯罪行為はやがて自滅しによって自然消滅する」なるコンセンサスを墨守し続けた。

  • 実際「忍法帖シリーズ」において恋に落ちた登場人物は例外なく悲壮な最期を遂げる。「サラリーマン小説」に至っては概ね「自由恋愛がいかに人を不幸にし、見合い結婚や妾契約などの自由意志と無縁な絆の形成方法こそが女性をはるかに幸せとする」基本方針を貫いた。f:id:ochimusha01:20190905035117p:plain
    源氏鶏太の方は割と確信犯っぽいが、山田風太郎の方は、ハワード=ヒューズら敏腕監督/プロデューサーが米国ハリウッド映画界の自主規範Hays Codeにおける「ギャングやその情婦は常に堕落した最低の存在として描き、悲惨な最期を遂げさせて観客に教訓的効果を残す事」といった項目を逆手に取って、かかる「絶対に救われない救われてはいけない)」人物像を悲劇の主人公に仕立て上げる作劇術によって「暗黒街の顔役Scarface、1932年)」の様なギャング映画を次々とヒットさせた展開に範を求めた感もある。

  • だから黎明期における日本少女漫画界は手塚治虫拳銃天使1949年、日本の児童向け漫画で初めてキスシーンを描く)」や「リボンの騎士1958年〜1968年、少女向けストーリー漫画先駆的作品)」辺りを筆頭に、舞台を外国やファンタジーに設定し「現実の日本とは全く無関係の物語です」なる体裁を必要とし続けてきたのだった。1960年代後半から1970年代前半にかけての少女漫画界におけるスポ根ブームも「女子生徒は勉強やスポーツに専念させ、化粧や恋愛にかまける自由意志を発揮する暇など与えるな」なる裏意図があった事が明白であったといえる。

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②同性愛者についても戦前から「倫理上の反面教師となるべく、すべからく堕落し尽くした人物として描かれ、必ず悲壮な最期を遂げる」事が要求されてきた。

そんな感じで以下続報…