フェミニズム文学論がジェーン・オスティンの時代から「男の真価を見抜く眼を磨きなさい」と口酸っぱく繰り返してきたのは伊達じゃない?
今回の投稿の発端は以下のTweet。
ハーレムものなんてむしろ少女漫画によく見られる典型だろうに、なぜかエロゲとかの典型にされるんだよな
— (Ǝ)ɐsıɥıɥso⅄ ouɐɓnS (@koshian) 2022年7月24日
1980年代後半から物語文法の構造上「ハーレム物」が急増する経緯についての分析そのものは以下。簡単にまとめると「1話完結形式では許されていた事が連続キャンペーン性の高まりによって妥協を余儀なくされた」流れ。
というか、歴史的には「ハーレム=夫人間の仁義なき謀略合戦」であって、レディコミで長期連載してた「金瓶梅」みたいなドロドロしてるのがデフォだったりして。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年7月25日
あ、なるほど……
— (Ǝ)ɐsıɥıɥso⅄ ouɐɓnS (@koshian) 2022年7月25日
そっちも読んでたし、ちゃんとエロいんですが…「若い娘」が加わった時の「姉様方」の反応がにてるとはいえドス黒い(ただし若い娘側もちゃんとドス黒い)。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年7月25日
×にてる〇似てる。ちなみに四大奇書の一つに数えられる「金瓶梅(1573年~1620年)」では(まっとうに生き、まっとうにハーレムを取り仕切り、まっとうな最期を迎える)正夫人呉月娘の目を盗んで(「水滸伝」からのゲストキャラにして「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ同様に破天荒な生涯を送り悲壮な最期を遂げる)第五夫人潘金連とその盟友龐春梅(立場は女中だがハーレムの主人西門慶の愛人の一人)が新夫人に加わった第六夫人李瓶児(若いくて見掛けこそ可愛いがそれなりに腹黒。せっかく嫡子を生んだのに息子ともどもいびり殺され、その理不尽がハーレム崩壊の発端となる)をいびり殺すのがドロドロ部分(日本の漫画版では最初は純真なかまととに過ぎなかった李瓶児が、その純真さゆえに真っすぐ潘金連や龐春梅を超える悪に覚醒していく過程を見せ場としていた)。一方、近年のフェミニズム文学観点からは、むしろ正夫人呉月娘同様にそんなゴタゴタに巻き込まれず、自分なりの幸福を追求し続けてたくましく自らの人生をまっとうする第二夫人李嬌児(西門慶の。妓女出身で計算高く西門家の家計を取り仕切る。西門慶死後、真っ先に西門家を見限って身の回りのものを盗み出して廓に帰り 、さっさと他家に嫁ぐ)や第三夫人孟玉楼(多額の持参金を持って嫁いできた資産家の寡婦。 常識的でバランスの取れた性格の持ち主にして潘金蓮とも原則として良好な関係を保つが、陰謀に巻き込まれそうになった時のえげつない対応など世慣れていて「かまととの深窓の令嬢」のイメージとは程遠い)を高く評価する。
でも何故か双派閥から評判のいい「正妻」アスナさん。そう、正妻が厳しいとハーレも安定する?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年7月25日
フェミニズム文学論は女性(特に小娘世代)の「(正義感とその遂行能力のバランスが取れた)アスナさん」人気を「ともすれば権威主義に立脚する身分社会や差別を生み出す自分達の弱さ」の鏡像と解析したりもする。
あの2人は動かないという安心感があるからハーレムがどろどろにならずに済んでる感もあるというかw
— (Ǝ)ɐsıɥıɥso⅄ ouɐɓnS (@koshian) 2022年7月25日
よく考えてみれば「日式ハーレム」が荒れないのは「姉様が妹を迎える」感じで広がるからで、実際エスキモーのハーレムはそうして増える模様(というかむしろ夫が勝手気ままに選べない)。このパターン物語文法的に希薄だなぁと思ってたら…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年7月25日
「なきゃ作っちゃえ」って感じで森薫「乙嫁語り(2008年~)ペルシャ姉妹妻」編が発表されてますね。まぁこの作品他にも珍しい中央アジアの結婚風景をどんどん描いてる訳ですが。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年7月25日
この「姉妹妻」編で衝撃だったのが、全ての展開を鷹揚に受容する夫がドラクエに登場する「裕福な行商人」トルネコの様なキャラだった事。そういえば「耳袋」の様な江戸時代史料に登場する「全国のあちこちに現地妻を養う甲斐性持ち」もこのタイプで、逆を言えば「甲斐性=現地妻全員に持ち家を与え、かつそれを現地支店として適切に運用し得る経営能力」なる恐るべき現実面すら窺い得るくらい。ダーウィンの性淘汰理論によれば「意地悪=選んだ男性の遺伝子しか後世に伝えない能力」が雌性側の性暴力、「馬鹿=そう簡単に有用か無用か見抜けない不可思議な行動力」が雄性側の性暴力の根源となる訳ですが(ここで「性暴力」とは(本来は無相関の筈の)個体ごとの生存戦略と生殖行為を牽強付会的に関連付ける振る舞いを指す)、その観点からすれば「単なるイケメンや芸達者の雄を中心にハーレムを構築するだけでは子孫繁栄の目的は達成されない(それで滅んでしまった種も数多く存在する)」とか「女性がある程度以上イケメンで経済力のある存在しか男性として意識しない問題(性淘汰理論でいうと「それだけで男性の価値が大まかには足切りし得る」社会構造硬直化の方が問題。文化によっては「太った(すなわち太れるだけの経済的余力のある)男性しか女性から男性と意識されない」社会もある)」という問題もそのバリエーションに過ぎない。ちなみにこの問題、人口比で女性数がどれだけ男性数を上回っても「女性から(有用性を認められないなど)打算が合わないとみなされた男性が余る」一方で、男性数が女性数を上回ると男性が選ぶ側に回り「(男性間の力関係など)女性の打算とは無関係に配偶者が決まってしまう」問題が発生。一言にハレムと言っても、そういう形で様々なバリエーションが生じてくる次第。
まあ割ともともと一夫多妻制の理想は嫁さん同士が姉妹のようになかよくやってることっぽいですよな
— (Ǝ)ɐsıɥıɥso⅄ ouɐɓnS (@koshian) 2022年7月25日
フェミニズムに立脚する文学論や社会論の範疇を超えますが、前近代的身分制度崩壊にともなって、こうした人間集団の関係性も「汎性欲(Pansexual)-無性欲(Asexual)」の軸で捉え直していこうという動きもあります。
そんな感じで以下続報…