諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「科学実証主義」以前

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欧州の科学実証主義は15世紀末から16世紀初頭にかけてパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部中心に広まった新アリストテレス主義哲学、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」に始まるとされており、トマス・ホッブスの法実証主義ガリレオ・ガリレイの天動説もこれに由来する。

当初は反感が物凄かったが、医術という分野は最大のパトロンたる王侯貴族や教会関係者の移行に究極の意味では逆らえないものである。

  1. まず最初に発達したのは、概ねデカルトの「方法序説(1637年)」に起源を求める演繹推論、すなわち「人類は誰でも死ぬ→だから私も死ぬ/貴方も死ぬ」といった(原則として)誰にも疑問の余地のない定言の積み重ねによって内側に矛盾を含まない幾何学的/言語学的体系を構築しようとする思考様式であった。国家を消費の主体に見立てる経済哲学を生んだナポリの歴史哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコが主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」を出版し「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史は無から人間の行為事業を積み上げたものである」なる提言をもって歴史学をその一環として組み込んだのがまさにこの時代。そして結果として密教やアラビア哲学やスコラ哲学を「内側に矛盾を含まない幾何学的/言語学的体系を構築しようとする試み」の一環として再評価するモデル構築志向モデルの胎動が始まる。「微積分計算の祖」ライプニッツが単子(モナド)論といった法自然主義的発想の制約下「二進法と二択の繰り返しで構成されるディシジョン・ツリー」の概念を基礎付けたのがまさにこの時代の事。

  2.  一方「帰納推論の父」フランシス・ベーコンの「学問の進歩(1605年)」や「ノヴム・オルガヌム(Novum Organum, 1620年)」は、まず「知識は力なり(Ipsa scientia potestas est)」なる主知主義的提言と学問体系再編の提案が百科全書派の様なフランス啓蒙主義者や図書館学者に受容され、サン=シモン主義者の手を経てパリ万博会場のコンセプトデザインにまで影響を与える事になった。「彼も死んだ。彼女も死んだ…おそらく人間の多くは死ぬ」といった検討の重ね方を特徴とする帰納推論(ヴォルテールいうところの「経験哲学」)は、演繹推論全盛の絶対王政期には、その様な「(視野の無限性を強調する)尽くし」方式でしか展開出来ず、それは当時における奇形学の流行と必ずしも無縁ではなかった。マクロコスモス(国家統括者として可能な限り全知全能に近づく事を要求される国王とその取り巻き)とミクロコスモス(臣民の日常的な営みだけでなく、神秘のベールに包まれた森羅万象も含む)を同一視する絶対王政時代の思考様式では、奇形の誕生や野蛮な辺境の異様な景色の掌握こそが神威の確認と認識されていたからである。旧約聖書収録の「ヨブ記」で神が「ワニやカバの傑作性」について長広舌を振るうのは決して偶然ではない。そもそも欧米世界においては「怪物(monster)」なる単語の語源自体が「神意の顕現者」という意味合いなのである。東洋にも奇形の誕生や奇獣の目撃が吉兆と結び付けられてきた伝統なら存在するから、それ自体は驚くに値しない。こうして一時期欧州を席巻した演繹推論的=絶対王政的発想は、図書分類学に大きな足跡を残す一方で、皮肉にも資本家と労働者の関係を国家統制によって是正するのではなく革命によって逆転する事を望んだマルクスイデオロギーを通じて共産主義諸国に継承され、最終的に完全破綻に至る。

  3.  ライプニッツが基礎付けた形式論理学が(全ての関係を頂点(node)と辺(edge)の結びつき方でトポロジカルに把握する)オイラーグラフ理論、(集合内要素をAND,OR,NOTなどの演算子で操作する)ブール関数の発見、(統計力学の影響を色濃く受けた)シラードやシャノンの情報エントロピー理論、(フィードバックの概念を採り入れた)ノーバート=ウィナーのサイバネティック工学、(アルゴリズムが明らかでないプロセスすら学習可能な)ニューロ・コンピューティングなどの積み重ねがコンピュータ技術を発展させ続けてきた。その一方で共産主義圏の迷走は、スタニスワフ・レムやストロガツツキー兄弟といったSF作家に「(マクロコスモスもミクロコスモスも全て擬人的に解釈する絶対王政的思考様式へのアンチテーゼとして設定された)人間の予測に全く従わない神」を発明させるに至る。そして2010年代に入ると、とうとう「自らの学習過程をも制御しアルゴリズムの客観視を不可能とするAI人工知能)」が登場。
  4. ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)がが「論理学体系(A System of Logic、1843年)」で体系化して以降次第に復権が進んできた帰納推論に発想の飛躍をもたらしたのは確率論の延長線上における正規分布の発見だった。社会調査の必然性に後押しされた統計学の発展、1%や5%を閾値とする仮説検定技法と全く異なるアルゴリズムで構成されたベイズ推論の鬩ぎ合い…そうした展開がもたらした多様性は「本来なら厳格に一意の答えだけを算出する筈の数学」を多数の党派に分裂させ、それぞれの信念に基づく宗教談義の次元に引き摺り下ろす事になった。

    正規分布はアブラーム・ド・モアブルによって1733年に導入された。この論文はド・モアブル自身による1738年出版の The Doctrine of Chances 第二版のなかで、高い次数に関する二項分布の近似の文脈において再掲されている。

    ②ド・モアブルの結果はピエール=シモン・ラプラスによる『確率論の解析理論』(1812年)において拡張され、いまではドモアブル-ラプラスの定理と呼ばれている。

    ラプラス正規分布を実験の誤差の解析に用いた。その後アドリアン=マリ・ルジャンドルによって1805年に最小二乗法が導入され、1809年のカール・フリードリヒ・ガウスによる誤差論で詳細に論じられた(ガウスは1794年から最小二乗法を知っていたと主張していた)。

    ④「ベル・カーブ」という名前は、1872年に2変数正規分布に対して「鐘形曲面」という言葉を用いた Esprit Jouffret にさかのぼる。「正規分布」という言葉はチャールズ・サンダース・パース、フランシス・ゴルトン、ヴィルヘルム・レキシスの3人によって1875年頃に独立に導入された。

    ⑤そして英国長老派牧師でもあった数学者トーマス・ベイズ(Thomas Bayes、1702年〜1761年)がロンドンで生まれ、1719年に論理学と神学を修めるためにエディンバラ大学に入学。国教徒でなかった為にオックスフォード大学ケンブリッジ大学には入れず、生前その名が知られる事はなかったが、ベイズの(定理 Bayes' theorem)の特殊な場合についての証明が死後発表され、これを発展される形でベイズ統計学が成立する。
    ベイズ確率…複数の命題の各々の尤もらしさ(あるいはその根拠となる信念・信頼の度合)を確率値と見做す主観確率理論の一つ。ロナルド・フィッシャー以降の推計統計学等の前提たる「頻度主義」、すなわちランダムな事象が生起・発生する頻度をもって「確率」と定義する考え方と対比される。

  5.  時期を同じくして管理工学の分野も近代的軍隊の運用術を経てこうした科学実証主義の最前線に足を踏み入れてくる。輸送網と冷房設備が完備し、通信速度が飛躍的に向上し始めるのもこの時期。

とはいえ最近は「非科学的なものを一切否定する方が非科学的」なんて言い回しも広まっている。