諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

十字軍運動とヴェネツィアの覇権

欧米の歴史観では割と普通に「カール大帝の征服事業(9世紀)」「ヴァイキング(9世紀~11世紀)」「ノルマン人の征服事業(11世紀~12世紀)」「十字軍運動(11世紀末~13世紀)」「イタリア戦争(15世紀末~16世紀前半)」が連続的に語られる。その一方でウィリアム・マクニール「ヴェネツィア(enice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」も塩野七生「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年(1980年~1981年)」も、この時代におけるこの方面での勝者は第4回十字軍(1202年~1204年)で北イタリア諸侯に東ローマ帝国を滅ぼさせレパント交易の覇者となったヴェネツィアとする。

両者の関係がどうなってるかというと…

 不思議な事に「カール大帝の征服事業(9世紀)」「ヴァイキング(9世紀~11世紀)」「ノルマン人の征服事業(11世紀~12世紀)」「十字軍運動(11世紀末~13世紀)」「イタリア戦争(15世紀末~16世紀前半)」を連続的に語る歴史観ヴェネツィアの出番はないのである。

  1. ドイツにユダヤ人として生まれ、亡命先のフランスでカソリックとして死んだ詩人のハインリヒ・ハイネChristian Johann Heinrich Heine, 1797年~1856年)は、、カール大帝ザクセン併合(772年~804年)こそヴァイキングViking、北方諸族による略奪遠征)の発端だったとした。これ以降確かにラインラント(ライン川流域)を本拠地とするフランク王国と北欧が国境を接する様になったのは事実。
    *その後何があったのかは不明だが(概ね「強引なキリスト教布教に反抗して復讐を志す様になった」か「技術習得が進んで海に乗り出す道を選んだ」が二大主流)、大西洋や北海や地中海の沿岸を荒らし回り、デーンロウ(Danelaw/Dena lagu,、イングランド東部)やノルマンディ地方に恒常的泊地を設置。

  2. イングランドウェセックス(Wessex)王家がかろうじてデーン人と拮抗状態を保つ様になり、セーヌ川を遡ってくるヴァイキング’(ノルマンディー)やブリトン人(ブルターニュ)やアラン人(オルレアン)を撃退してきたパリ伯が西フランク王国王統と政略結婚してフランス王家となり、ザクセン辺境伯が北欧に残った諸族やマジャール平らげて神聖ローマ帝国皇帝として即位すると欧州秩序再建がはじまった。そして11世紀に入ると「(その起源がフランク王国時代にまで遡る)鐙で踏ん張る事で威力を増した衝撃重騎兵(Heavy shock cavalry)の集団突撃」をマスターしたノルマン人達の快進撃が始まる。ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England、1066年) 、ノルマン人の南イタリア征服(The Norman Conquest of South Italy、11世紀前半~12世紀前半)、ノルマン・ビサンチン戦争(The Norman Conquest of Greek、1059年~1085年)、そして北フランス諸侯と共同で取り組んだ第1回十字軍(1096年~1099年)、そして第2回十字軍(1147年~1148年)に連動する形で行われたシチリア王国ギリシャ遠征(The Norman Invasion of Greece、1147年~1149年)。日本語訳からは何故か連続性を意識させるニュアンスが駆逐されている。
    *ノルマン人達をここまでに突き動かしてきた原動力は長子相続制の広まりだったという。継ぐべき所領を持たない領主の次男坊以下や遍歴騎士達にとって遠征は「全滅しても領土獲得に成功しても社会の為になる」一石二鳥の口減らし事業だったのである。一方、当時の欧州ではノルマン人貴族を中心にロンバルディア貴族(6世紀から7世紀にかけて北イタリアに侵攻したランゴバルド族末裔)、アストゥリアス貴族(イベリア半島北部に残った西ゴート王国残党)、ブルゴーニュ貴族(ローヌ川上流域に移住したブルグント族末裔)らが緩やかなネットワークを構築しており、初期ロマネスク建築(8世紀~10世紀末)、クリュニー修道会運動(11世紀、ノルマンディ起源)、シトー修道会運動(12世紀、ブルゴーニュ起源)といった当時の文化活動の多くがこれに起因している。(そう言われているのを一度も見た事がないが)ある意味彼らこそが最初の欧州人だったのかもしれない。

  3. ノルマン貴族の足跡は13世紀までにすっかり途絶え(ノルマン朝イングランド(1066年~1135年)、アンティオキア公国ノルマン人君主時代(1098年~1119年)、オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年))、十字軍の向かう先も(アッコン陥落(1291年)までジリ貧状態が続く)中東方面でなく(開拓によって領土が増え続けていた)東欧やイベリア半島が中心となり、戦力の主体も(原則として王侯貴族や教会関係者の寄進によって運営される)修道騎士団へと推移していった。
    テンプル騎士団のパリ本部がフランス国王の命令で1307年に接収されて以降も他国(特にレコンキスタが現在進行形で継続中雨だったイベリア半島諸国)の関連修道騎士団は存続。特に名高いのはポルトガルにアヴィス朝(Dinastia de Avis、1385年~1580年)を開闢し、継承すべき生業を持たない領主や商人の次男以下を引き連れて「アフリカ十字軍(15世紀)」を敢行したアヴィス騎士団とキリスト騎士団(テンプル騎士団後継でエンリケ航海王子が率いた)辺り。当初の目標はマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)と西アフリカ諸国を結ぶサハラ交易(ムスリム商人が開拓した岩塩と砂金を交換するルート)に食い込む事だったが、最後は西回り航路開拓に成功し、欧州経済の中心を地中海沿岸から大西洋沿岸に推移させた大航海時代が始まってしまう。

  4. その間ずっとイタリア半島ではシチリア島ナポリを巡る争奪戦が続いてきた。現地ノルマン人貴族を駆逐したホーエンシュタフェン朝神聖ローマ帝国(1138年~1208年、1215年~1254年)はローマ教皇やロンバルティア諸都市を敵に回してしまい、あえなく断絶。直接手を下したアンジュー伯シャルル・ダンジューがさらに東ローマ帝国を滅ぼして手中に収めエルサレム王国を再建する野望を胸に秘めていたので、東ローマ帝国ジェノヴァ商人が干渉を決意し「シチリアの晩祷事件(1282年)」を利用してシチリア島統治権アラゴン王家に引き渡す。
    *アンジュー伯シャルル・ダンジューは第7回十字軍(1248年)、第8回十字軍(1270年)、第9回十字軍(1271年~1272年)にも参加しているが、全てはこうした個人的野望を果たす為だったとされる。そうやって私物化されたせいか、アッコン陥落(1291年)以降、この方面への公式の十字軍は途絶える事に。
  5. そして百年戦争(1337年~1453年)によってイングランドとフランスの国境が定まり、その後イングランドにおいては「薔薇戦争(1455年~1485年)」、フランスにおいては「公益同盟戦争(1465年~1493年)」を通じて「獅子身中の虫」が一掃される。イングランドがこの頃より羊毛輸出国から毛織物輸出国への転身に本気で取り組み始めたのに対し(それを契機にフランドルの経済的中心がブルッヘ/ブリュージュフラマン語オランダ語)Brugge、フランス語:Bruges、英語:Bruges)からアントウェルペン/アントワープオランダ語: Antwerpen、 フランス語: Anvers、 英語: Antwerp)へと推移する)、内患から解放されたフランス国王は「(エルサレム王国再建を最終目標とする)アンジュー伯シャルル・ダンジューの未完成の事業」に魅了され、イタリア戦争(1494年~1559年)を始めてしまう。
    *そしてハプスブルグ家のフランス王家に対する勝利が確定した頃には、大航海時代の影響でイタリアの獲得意義そのものが消失していたのだった。

 一方、ヴェネツィアを同時代の覇者とする歴史観はこうした状況をさらに上から俯瞰する。そこでの主役はもはや所謂「欧州」ではない。*緑字はユダヤ人関連動向

  1. ヴェネチア年代記によれば、ヴェネト人が沼沢地帯に逃げ込んだのはアッティラ大王(434年〜453年)率いるフン族による北イタリア侵攻があった452年の事だったという。
    *異民族侵攻に脅かされながらディオクレティアヌス帝(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、在位284年〜305年)以降、皇帝所在地としての首都をローマからミラノ(Milano)/メディオラヌム(Mediolanum)、次いでラヴェンナ/ラウェンナ(Ravenna)へと遷都してきた西ローマ帝国は次第にイタリア半島の維持さえおぼつかなくなり滅んだ。滅亡年はテオドシウス帝の娘で最後のテオドシウス朝西ローマ帝国の皇帝だったガラ=プラキディア(在位425年〜450年)が崩御した450年とも、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位された476年とも、東ローマ皇帝位にあった妻の叔父レオ1世(在位457年〜474年)の支持を得て挙兵した「最後の帝位請求者」ユリウス・ネポスが殺害された480年とも、シアグリウスがガリア地方北部にローマ領として維持してきたソワソン管区がゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世に滅ぼされた486年ともされる。ソワソン旧西ローマ帝国版図に成立したゲルマン系諸王国の多くは以降、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰いで東の皇帝に任命された地方長官(ドゥクス(Dux)公爵の語源)の資格で統治を行う様になった。

  2. イタリア半島以西を失陥して以降の東ローマ帝国キリスト教の国教化とローマ法の整備によってこの未曾有の危機を乗り切ろうとするが、かえってそれで茨の道に足を踏み込む事になった。
    *皇帝ユスティニアヌス1世(在位527年~565年)の時代に遂行されたゴート戦争(伊: Guerra gotica、羅: Bellum Gothicum、535年~554年)によって(ローヌ川上流域に割拠するブルグント族と緊密な提携状態にあった)東ゴート王国が滅ぼされ(プロヴァンス地方に拠る)フランク族や(シュヴァーベン地方に拠る)アラマンニ族の干渉も撃退され、イタリア半島ラヴェンナ総督府が建てられ。しかしその時点ではもうローマはわずか500人程度が暮らすのみの小集落にまで零落していたのだった。

  3. 東ローマ帝国の宗教非寛容政策は6世紀後半、ササン朝ペルシャとの戦争を泥沼化させる。そして7世紀に入ると代替交易地として栄えたアラビア半島に起こったイスラム教団がササン朝ペルシャを併呑し、東ローマ帝国から交易の要であるヒジャーズ地方、穀倉地帯であるシリアエジプトといった重要拠点を奪い帝都コンスタンティノープルへと迫る。その隙を突く形でラヴェンナ総督府も南下してきたランゴバルト族に奪われた。
    *同時進行でフランク族台頭によってピレネー山脈以北を失陥した西ゴート王国が、瞬く間にアフリカ北岸を手中に収めたイスラム教団にイベリア半島の大半を奪われ、わずかアストゥリアス地方(イベリア半島最北部)に割拠するのみとなる。

  4. アキテーヌ(フランス南西部)を抜けて(帝政ローマ時代から大西洋沿岸交易の要だった)ボルドーを目指すムスリム騎馬隊とラインラント(ライン川流域)に拠るフランク族歩兵隊がトゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء、732年)で激突したという事は、(ピレネー山脈に面したもう一つの大西洋沿岸交易の要)ナルボンヌを首都とするプロヴァンス、そのプロヴァンスローヌ川で結ばれたブルゴーニュブルグント族割拠地)、および通り道に当たるラングドックやトゥールーズの全てが陥落していた事を意味する。フランク族の反攻は(様々な意味でペルシャ人とヘレニズム文化圏のアラビア人に対する巻き返しを意味する)アッバース革命(750年)によるイスラム勢力圏の混乱に付け込む形で遂行された。困った事に当時は東ローマ帝国がその宗教非寛容政策のせいで西ローマ教会との関係を致命的に悪化させていた時期に該当し、フランク族遠征隊が(本来は東ローマ帝国領の筈の)ロンバルディア(ランゴバルト族割拠地)を奪取して西ローマ教会に教皇領として寄進したとする茶番劇「ピピンの寄進(754年)」が遂行されたのもまさにこのタイミングを狙っての事だったのである。
    イスラム圏と正面から対峙する立場上、西ローマ教会と決別してまで頑なに「偶像崇拝者はキリスト教徒にあらず」という立場を貫いた東ローマ帝国(および東方正教会)は、カール大帝の戴冠(800年)やそれによる西ローマ帝国の復活もなかなか認め様とはせず(一応、812年のアーヘン条約で承認)。この時代には「鐙で踏ん張る事で威力を増した衝撃重騎兵(Heavy shock cavalry)の集団突撃」という重要な軍事技術が開発され、それがザクセン併合(772年~804年)を含む数々の遠征を成功に導いたと考えられている。しかし騎馬隊を維持するには相応規模の所領が必要であり、ゲルマン民族の悪弊で財産の分割相続に執着し続けたフランク族はたちまちその恩恵から遠ざかって衰退。ヴァイキング(北欧所属の略奪遠征)やマジャール族西進の脅威にさらされる事に。

  5. まさにこうした東方正教会(および東ローマ帝国)と西ローマ教会(および「西ローマ帝国」)の亀裂こそがヴェネツィア共和国成立の重要契機となった。アドリア海沿岸は東ローマ帝国の制海圏内にあったのでイスラム勢力の侵攻からもカール大帝の弟が率いた遠征も失敗
    *810年に東ローマ帝国フランク族の間で結ばれた条約でも「ヴェネツィア東ローマ帝国に属する」と明記されていた。

  6. その一方でイスラム諸国ともフランク族とも交易しながら西ローマ教会にも東方正教会にも所属しない独自の司教区を立て、828年にはエジプトのアレクサンドリアにあった福音書著者聖マルコの遺骸を獲得して守護聖人に立てている。さらに992年以降は弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を獲得。
    *この時期に入ってやっと西欧世界から東ローマ帝国イスラム諸国と対等に渡り合えるプレイヤー集団が登場する。11世紀農業革命と長子相続制の普及によって「鐙で踏ん張る事で威力を増した衝撃重騎兵(Heavy shock cavalry)の集団突撃」を駆使する騎兵隊を安定的に維持出来る様になったノルマン貴族がそれで、ハスカール制(北方諸族に伝わる伝統的従士制度)によって統制される彼らと対抗し得たのは唯一、同様にハスカール制で統制されるヴァリャーグ傭兵隊(ドゥビナ川やドニエプル川経由で黒海に到達して東ローマ帝国に雇われた北方諸族)くらいだったという。もちろんただ強いだけで活躍出来た筈もなく、経験豊富なアストゥリアス貴族やブルゴーニュ貴族やロンバルティア貴族といった先輩格がその行動に指針を与え続けたのだった。もしヴェネツィア海上支援がなかったら、ノルマン人の東ローマ帝国領侵略は、もっとワンサイドゲームになっていた可能性が高い。しかしその対価として神聖ローマ帝国皇帝アレクシオス1世の金印勅書(1082年)によってヴェネツィアに与えられた特権はあまりに過大過ぎ、バランスを取るべく東ローマ帝国は同種の特権をピサ(1111年)やジェノヴァ(1155年)に与えていく事に(ちなみに11世紀におけるヴェネツィアの好敵手だったアマルフィは1073年にノルマン人の手に落ち1131年にシチリア王国へと併合され、1135年と1137年にピサから略奪され、1343年の嵐で都市の大部分が破壊され繁栄から脱落。シチリア王国経済圏ではむしろ近隣のサレルノが交易港として栄える事になった)。*ところで11世紀末にイタリア半島ユダヤ人共同体を巡ったセファルディム(スペイン)系ユダヤ人ベニヤニイモ・ダ・トゥーデラの旅行記においてヴェネツィアはまだ注目されていない。ユダヤ人のヴェネツィアへの本格的な進出はおそらくそれ以降。

  7. 第1回十字軍(1096年~1099年)によってシリアに十字軍国家が建設されたが、1011年の十字軍の失敗によって東ローマ帝国との陸路が失われたので海路を掌握するジェノバの影響力が躍進し、かつ東ローマ帝国との癒着を強めていった。第4回十字軍(1202年~1204年)で北フランス諸侯が東ローマ帝国を滅ぼして以降はイスラム諸国と結ぶヴェネツィアレパント交易の覇者となったので、ジェノヴァ商人は仕方なく(1248年にカスティーリャ王国がセビーリヤを征服してジブラルタルから大西洋への出口が確保されて以降、北海と地中海を結ぶ交易拠点として栄える様になった)ポルトガルや(現地で奴隷化された東方正教会信徒をイスラム諸国に転売するビジネスが盛んだった)黒海沿岸に転戦。14世紀にはジェノヴァ艦隊が持ち込んだ黒死病の流行でポルトガル人の1/3が死ぬ大惨事も起こったが、これが怪我の功名となって(ジェノヴァ冒険商人も先駆け役として多数参加した)アフリカ十字軍が敢行され、西回り航路が開通。アジア産香辛料の持ち込まれたアントウェルペン/アントワープオランダ語: Antwerpen、 フランス語: Anvers、 英語: Antwerp)に最初の黄金期(1501年~1521年)をもたらした。
    ジェノヴァ人は以降2回のアントウェルペン/アントワープ黄金期にも深く関わった。次の黄金期は皮肉にも「ジェノヴァ掠奪(Sacco di Genova,1522年)」によってスペインに屈服して「御用貸し」に成り下がった結果、新大陸より次々とアントウェルペン/アントワープに運び込まれる金銀を扱う様になった時期で、この時期のジェノヴァ銀行家私邸内装の絢爛豪華豪華さは目をみはるものがあるが、スペイン王室の最初の債務不履行の巻き添えとなってその多くが破産(1535年~1557年)。またイタリア戦争(1494年~1559年)が終焉してから八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog,1568年~1609年,1621年~1648年)が勃発するまでの間も一時的に活気が戻ったが、ユダヤ教正統派イベリア半島を追われたマラーノ(改宗ユダヤ人)、プロテスタントなども活躍するコスモポリタン的雰囲気に我慢がならずハプスブルグ家の軍隊が1576年に焼き払い、1585年に完全屈服させてジェノヴァ人以外の商人を全て追い出してしまう。その結果、ジェノヴァ商人は逆にどんなにお金を持っていても新たに応手経済の中心地として栄える様になったアムステルダム(Amsterdam)やハンブルグ(Hamburg)に入り込めなくなり、スペイン王室の2度目の債務不履行(1627年)以降、静かに歴史の表舞台から消えていく。*13世紀に入るとヴェネツィア政府はユダヤ人に対しヴェネツィア潟の島の一つスピナルンガ島(Spinalunga、後にユダヤ人居住区を意味するジュデッカ島という名になった)に住む事を強制した(それが最初でも最後でもなく、本土(ヴェネツィア共和国の大陸の領土)のメストレに住む事を強制した時期、黄色いバッジと帽子を被る事を義務付けられた時期もある)。それでも東方貿易の主役で「ユダヤ人が乗っていないヴェネツィア船はほとんど見当たらない」とまでいわれたヴェネツィアユダヤ人は栄え、ユダヤ人特別税を払う事でヴェネツィアの財政にも大きく貢献している。キリスト圏でもイスラム圏でもユダヤ人は裕福と噂になり、オスマン帝国聖ヨハネ騎士団はしばしばヴェネツィア船のユダヤ人を誘拐してはユダヤ人共同体に身代金を要求した。ヴェネツィアユダヤ人共同体は、言われるままにお金を支払う事が多く、イスラムユダヤ人やポルトガルユダヤ人が中心となってオスマン帝国との交渉のための特別機関を設けていた。また聖ヨハネ騎士団の本拠地マルタ島には代理人を置いた。代理人の仕事はユダヤ人が捕まった場合にヴェネツィアユダヤ人共同体に報告し、もし身代金が支払い可能ならばその手続きをすることであった。

  8. 1330年代から1492年まではフランドル行きガレー船団が定期運行されていた。それ以降は不定期になり1533年のそれが最終便となってしまう。ポルトガルの葡萄酒が、マディラとブラジルの砂糖が、ローマの明礬が「東地中海と北西ヨーロッパを結ぶ商品仲介者として利潤を上げる」ヴェネツィア(およびジェノヴァ)の既存貿易を破壊した結果であったとされる。

  9. 皮肉にも、ヴェネツィア共和国がイタリア・ルネサンス文化の担い手として欧州に多大な足跡を残す事になったのは、1480年代にオスマン帝国に致命的敗北を喫して「レパント交易の覇者」の称号を返上して以降だった。「携帯可能で安価な小型本の大量印刷」。「(観光の目玉となる)絢爛豪華な大劇場で上演される壮大なオペラ」。「(土産物に最適の)キャンパスに描かれる絵画」。その全てが生き残りを賭けてヴェネツィアが必死に開発した新商品であると同時に「特定の権力者に依存する形でしか食べていけない芸術家の悲哀」を打破する秘密兵器だったのである。
    *また、大航海時代到来がもたらした欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移は(大西洋沿岸における人口急増を背景とする)食料価格高騰をもたらした。このブームに便乗する為、ヴェネツィアは東欧諸国を真似して農場領主制を導入。この判断は間違っていたが、それが明らかになる頃には全てが手遅れとなっていたのだった。
    *1516年にはヴェネツィア本島の西北部カナレッジオ地区の新鋳造所跡にユダヤ人居住区が建設され、ヴェネツィアユダヤ人はここに移住を強制された。鋳造所はヴェネツィア語で「Getto」といい、これがユダヤ人居住区を意味する「ゲットー(Ghetto)」の単語の語源になったとされる(現在の「新ゲットー」(Ghetto Nuovo))。四方運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦でふさがれていた。ゲットー住民は日中だけは地の利の悪い所で商売を行う事を許されたが、夜は事実上ゲットーに閉じ込められ重いユダヤ人特別税も課せられたが、同時期の中欧のゲットーとは異なりヴェネツィア人が略奪や虐殺などを行う事はなかった。設立当初の新ゲットーの人口は700人ほど。1538年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはここもゲットー化した(現在の「古ゲットー(Ghetto Vecchio)」。新旧はゲットーが建設される前の鋳造所の建設順序)。新ゲットーが創設された当初は住民の大多数が(ヴェネツィア船が東方から運んできた品を買い取り、神聖ローマ帝国や中西欧に卸していた)アシュケナージュ(ドイツ)系ユダヤ人で、土着のヴェネツィア(イタリア)ユダヤ人はわずかであったという。しかしこの後、イスラム圏のユダヤ人やマラーノ(スペインやポルトガルの改宗ユダヤ人)といったセファルディム(スペイン)系ユダヤ人fが急増。イスラム圏のユダヤ人はヴェネツィア共和国にとって東方貿易における経済的ライバルであったので初めは商品の運搬を自国船に禁止していた。しかし後にこれが解禁され、更にローマ教皇が宿敵のイスラム教徒との交易を禁止するようになると両者の連携が重要となり、ヴェネツィア共和国居住も認められる様になっていったのであった。またマラーノはスペインでレコンキスタ完了と同年に発令されたユダヤ人追放令(1492年)の時代にポルトガルやモロッコに逃げ、スペインのポルトガルの併合(1580年)による異端審問激化でポルトガルにもいられなくなったユダヤ人だった。最盛期にはゲットーの人口は5,000人に達したという。ゲットー住民達はそれぞれの出自ごとにグループを形成して別個のシナゴーグユダヤ教会堂)とスコラ(教学館)を営み、それぞれ別々の風習や言語を保っていた。住民の職業は商業、金融、医師、船員、外交関係、通訳などが多かった。

  10. ヴェネツィア共和国は1797年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によって滅ぼされ、その後フランス帝国オーストリア帝国の領土を経て、イタリア統一国家イタリア王国の領土となった。
    *一時期オーストリア海軍のアドリア海艦隊の本拠地となっていた。

    *これ以降の時代、ユダヤ人はゲットーへの居住を強制されなくなったが、解放後もゲットーに留まったユダヤ人は多かった。ゲットーのユダヤ人のうち裕福な者はゲットー外へ移住することもできたが、貧しい者は移住の金が無いため、そのままゲットーで暮らすしかなかった為である。ゲットーの人口は少しずつ減っていたが、第二次世界大戦前まではヴェネツィアのゲットー地区ではヴェネツィアユダヤ方言が話され、伝統的な儀式がおこなわれていた。イタリア統一運動にはゲットーから解放されたユダヤ人達も協力を惜しまず、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も1866年に改めてユダヤ人に居住の自由を認めている。その後ローマ進軍(1922年)によってベニート・ムッソリーニファシスト党政権が誕生したが、ムッソリーニは人種差別政策を掲げなかったので1930年代末になってナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの圧力に屈してユダヤ人を社会から排除する立法が開始するまで迫害を受けなかった。1943年にドイツ軍がイタリアに侵攻すると、イタリアでもナチスによるユダヤ人狩りが行われる様になり、イタリア全土で約9,000人のユダヤ人がナチスの犠牲になったと見られている。ヴェネツィア・ゲットーで暮らしていたユダヤ人も五分の一がナチス強制収容所へと移送されている。

要するに「欧州中世とはローマ帝国滅亡によって)世界史から切り離された欧州が大航海時代の幕開けによって)世界史に復帰するまでの幕間に該当する時代区分」ということなのであろう。西ローマ帝国を滅ぼした蛮族達が自称文明人に変貌して戻って来る。その間およそ千年。

アフリカ研究から出発し「(先進国の発展が後進国に低開発を強要すると主張する)従属経済理論」「(歴史に長期的および短期的変動の組み合わせをみる)フランスのアナール学派の歴史家フェルナン・ブローデルの社会史、全体史」「(非市場社会に埋め込まれた経済機能に注目する)カール・ポランニーの経済人類学」などの成果を取り入れた米国歴史社会学者イマニュエル・ウォーラーステイン世界システム論は、まさにこうした時代区分の再末期にジェネヴァを見舞った破滅(利子が利子たる意義を喪失する「利子革命」)を「世界史上最も重要な展開点」と認識する。

水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」もまた、やはりこうした時代区分の再末期にジェネヴァを見舞った破滅(利子が利子たる意義を喪失する「利子革命」に注目し、現在日本が置かれている状況に酷似しているという。

むしろ重要なのは「この時代までのヴェネツィアの覇権は、どうやってオランダ経由で英国に継承され、最終的にアメリカの手に渡っていくのか?」といった話の様な気がするのだけれど、世界の常識は割とそうでもない?