諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「大西洋三角貿易」について思う事

さて「世界史上最大規模の奴隷貿易(16世紀から18世紀にかけての約3世紀だけで大西洋を渡ったアフリカ原住民数が1,500万人以上)」と悪名高き大西洋三角貿易についてですが…
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

フィリップ・D・カーティン氏によれば、アフリカ黒人奴隷の輸出量は1451年〜1600年27万人、17世紀134万人、1701年〜1810年605万人、そして1811年〜70年189万人、合計955万人であったという。それぞれの期間において、ブラジル向け輸出量が占める比率は18.2、41.8、31.3、60.3パーセント、合計38.1パーセント(364万人)となっている(『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、1969)。

*大西洋奴隷交易においてはポルトガルのブラジル領への輸出量が圧倒的であり、それに次ぐのがカリブ海諸島である。ブラジルの輸出量の多さについては、ブラジル内において奴隷の再生産が行われなかったことが指摘されている。

それではこんな話について、ご存知でしょうか?

ウォーラーステインの提唱する世界システム論はこの件について「カリブ海域で砂糖がとれたからこそ奴隷制度があったのであり、奴隷制度があったからこそ産業革命があったのである」というテーゼを掲げるが、どうやら話はそう単純でもないらしい。 

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①奴隷は白人ではなく西アフリカ諸国の住民自らが狩り集めていた。その背景としては大航海時代が始まって(陸路、岩塩と砂金を交換する)サハラ交易が崩壊して従来の形での交易立国が不可能となった事、その結果小国に分裂して内戦が果てしなく繰り返される様になった状況が奴隷狩り立国に最適だった事などが挙げられる。

*西廻り航路を開拓して1500年代から1530年代にかけて黄金期を迎えたポルトガルだったが、次第に儲かる香辛料ビジネスが持ち逃げされていき、気づくと奴隷交易ビジネスが主要財源となっていた。1452年にはローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル人に「異教徒を永遠の奴隷にする許可」を与えている。これを用いてマディラやブラジルに奴隷制砂糖農場が建築された(15世紀〜16世紀)。

*実際、ポルトガルの奴隷交易は、16世紀前半のポルトガル王室にとって重要な収入源であった。1550年代末の奴隷交易による王室収入は約3000万レイスに達している。他方、16世紀初頭のミナの金交易による王室収入は約4800万レイスであったが、50年代にはそれが半分以下に低下したので、王室はますます奴隷交易への依存を余儀なくされていったのだった。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

*西アフリカの奴隷供給国化は既に1450年代から始まっている。最初に手を挙げたのはカシェウ(ポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島(セネガル)、クンタ・キンテ島(ガンビア)、ウィダー(現在のベニンのギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(コンゴ)などの地元勢力で、1480年代にエルミナ城(黄金海岸)が建設され、ギニア会社(ポルトガルとスペインと独占契約を結んだ奴隷貿易会社)が設立されるとウィダー王国(古くから大西洋に面する貿易港として栄えてきたベナン南部の都市国家。1727年以降ダホメ王国に併合される)やダホメ王国(17世紀以降ペガンを本拠地として栄えた奴隷貿易を主要財源とする軍事専制国家)やナイジェリア(ラゴス)やセネガンビアセネガル川流域とヴェルデ岬を拠点とするフランスとガンビア川流域を拠点とするイギリスの狭間で16世紀以降育まれた文明圏)などが次々と台頭。ヨーロッパ人に売却する奴隷を狩り集める為に盛んにコンゴ遠征が行われる様になった。

*ちなみにこの時代には戦国時代日本(特に九州の戦国武将)も戦争奴隷供給地として有望視されていた。特に文禄・慶長の役(1592年〜1593年、1597年〜1598年)に際しては国際的奴隷価格が1/4に暴落するほど大量の奴隷が出荷されている。江戸幕藩体制はまず内戦を終結させ、次いで傭兵輸出を禁止する事でポルトガルやオランダの奴隷商人との腐れ縁を完全に断ち切った。

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世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

スペインの場合

エンコミエンダもまた、まさにいま生まれ出ようとする「近代世界システム」の「 周辺」地域の生産機構の一つだったのである。もっとも、その能率があまりにも悪く、頼りにすべき先住民が労働力として十分に機能できなかったために、システムの外部、つまりアフリカから導入した別種の強制労働、すなわち黒人奴隷制とそれに基づくプランテーション制度によって代位されていくのである。

もっとも、スペインは西アフリカに拠点をもっていなかったために、1516年アシエント と呼ばれる奴隷供給契約を商人と結んで、労働力の導入に力を入れた。この契約は、商人の側からいえば、きわめて利益の大きい利権となったため、以後数百年にわたって、 国際紛争の大きな原因となった。
「アシエント(asiento)」スペイン語で「契約」を意味する歴史用語で、王室がある特定の個人や団体に徴税や貿易などの独占権を与えることを意味した。日本語で「アシエント」という単語が用いられる際には、16世紀から18世紀半ばにかけてスペイン政府が特定の個人や会社と交わした黒人奴隷の供給契約を指すことが多い。はじめはスペイン人やポルトガル人が個人や集団としてスペイン政府と契約し17世紀後半にはジェノヴァ人やオランダ人も参加するようになった。1701年からはフランスのギニア会社と契約が結ばれた。1713年にユトレヒト条約が結ばれるとイギリスの南海会社が契約し、年間4800人の奴隷と船1隻分の商品(500トン)を新大陸に供給する権利を獲得した。この契約は当初は会社に莫大な利潤がもたらすと考えられていたが、予想したほどの利益を上げることができなかったため、1750年にこの契約は放棄された。その後は、カディス黒人会社が1765年から1779年に契約をおこなったが、供給量は年間1000人以下に落ち込み、これ以降は契約はおこなわれていない。

ポルトガルの場合

ところで16世紀にアメリカ開発に従ったのは、スペイン人だけではない。ブラジルにおけるポルトガル人の活動もあった。スペイン領のエンコミエンダ経営者に当たる者は、 ここではドナトーリオスと呼ば れた。ブラジルは、近世のヨーロッパ諸国で強い需要 のあったログウッドと呼ばれる染料などの産地として知られていたが、まもなく北部で 砂糖プランテーションが広がり16世紀末には早くもその数が300ほどに達したといわれ ている。ドナトーリオス制度もまた、ポルトガル本国の封建制度が新世界に移転された ものなどというよりは、資本主義的世界システムによる南アメリカ開発の一つの経営形態であったというべきである。


ともあれ、16世紀と17世紀の境目になると、ヨーロッパで急速に消費の増えはじめた砂糖の大半が、ブラジルでつくられ、リスボンアムステルダムで製糖されたもの、ということになった。しかし、そもそもポルトガルの対外進出には、イタリアからきたユダヤ人の資本が大きな役割を果たしていたことが知られているが、このころになると、独立を宣言して間もない新興のオランダ資本が、しだいにブラジル経済を内部から侵食し ていたことには、注目すべきであろう。このほか、初期のブラジルでは、タバコ栽培も盛であったが、砂糖に押されて目立たなくなっていった。

アントワープには1556年段階で19ヶ所の製糖所があったが、1600年にはオランダのアムステルダムに60ヶ所の製糖所があった。
「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

②また17世紀以降、砂糖農園を非人道的なまでに効率化された奴隷制プランテーションに変貌させ、砂糖を世界初の「国際商品」へと変貌させたのはオランダ商人という指摘も存在する。実際ブラジルに(今日我々が知る形での)奴隷制プランテーションが登場するのはオランダ統治期(1624年〜1654年)以降だし、イギリス領バルバドス島やフランス領マルチニク島といったカリブ海の島々に砂糖黍栽培を広めていったのもやはりオランダ商人だった。

プランテーションで砂糖黍から絞り出されたジュースは煮詰められ、精製され、茶色の原糖とされた状態でヨーロッパに送られ、イギリスのリヴァプールブリストルやロンドン、オランダのアムステルダム、フランスのナントといったヨーロッパの港町でさらに精製されて純白の砂糖にされるのが常だった。これらの町の「紳士録(名士住所録)」には、奴隷交易や砂糖黍栽培で財をなした商人と並んで精糖業者がズラリと名前を連ねている。その一方で南北アメリカ大陸ではオランダ商人が現地で精糖工程までこなすフランス植民地製品を非公式ながら扱い続けている事が社会問題化した。オランダ商人はアジアの砂糖栽培拠点たるマラッカ(中国人労働者を使役し、風車で砂糖黍搾汁器を回いていた)でも現地で(日本に「唐三盆」の商品名で輸出される)砂糖の精製作業を遂行していたから、もはや確信犯でやっていたとしか思えない。

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TRINIDAD&TOBAGO「奴隷解放150年記念切手」

奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人で、「奴隷狩り」から「奴隷貿易」への転換(シフト)は、1450年代に起こっているとされています。1450年代に入ると、セネガルベナンなどのギニア湾岸、コンゴなどの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになりました。16世紀には、カリブ海地域のスペイン領向けとしてポルトガルの独占下で、奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われましたが、その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞・商館・収容所兼用の拠点を置き、現地勢力と取引して奴隷を集めて、それを船に渡すと言う形式のみとなりました。

そして時代が下るにつれて、ワイダ、ダホメ、セネガルガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになりました。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などでしたが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われました。奴隷貿易はアフリカ人が始めたことではなく、アフリカ人もその一翼を担いましたが「アフリカ人が売り込んだのが先か、ポルトガル人が買いに行ったのが先か」ははっきりしていません。*皮肉にも奴隷貿易廃止はこれらの国々から生計手段と武器調達手段の両方を一気に奪った。それで再び小国に分裂しての内戦状態に戻り、欧米列強に好き放題分割されてしまう。

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③戦国時代日本も危うく奴隷供給国に仕立て上げられるところだった。そしてその状態から脱却出来たのは(人道主義による取り締まり強化のせいではなく)内戦状態が終結して戦争奴隷の産出が止まったからに過ぎない。

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ここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた…キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ても、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。」*ちなみに「キリシタン大名が信者を売った」は誤解。奴隷貿易は異教徒しか扱えないのが建前で、だからこそイエズス会が南米で遂行した現地インディオに対する布教活動が本国で死ぬほど嫌われた訳である(なまじキリスト教徒化すると奴隷狩りの対象に出来なくなるから。もちろんイエズス会も分かってやっていて、南米ではさらに武器を与え白人との戦い方まで教えていた。ちなみに日本でも日本人奴隷や朝鮮人奴隷を買い取れるだけ買い取り、キリスト教徒化するだけでなく読み書き算盤を叩き込んで就職斡旋するなんて採算度外視のミッションを遂行している)。ポルトガル奴隷商はあくまで、戦国時代日本で「雑兵の乱暴・人取り」が黙認されていた状況に付け入っただけに過ぎないのである。ちなみに甲斐武田氏や薩摩島津氏の様な鎌倉時代からの守護大名の方が(伝統によって雑兵達の既得権益が庇護されてるせいで)黙認の程度が酷かったらしい。それ自体は当時の欧州の戦場でもよく見掛けられたありふれた景色に過ぎなかった問いう次第である。

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④不思議と「大量生産によってそれまで王侯貴族や聖職者の口にしか入らなかった砂糖の値段がどんどん下がり、ついには庶民の口にまで届いて労働者の貴重な栄養源として活用された事」自体は(英国産業革命の重要な原動力の一つとなった)カロリー革命として当時も今も絶賛され続けている。そしてこの先例を綿布で繰り返したのが英国産業革命の本質であり、まさにその事が大西洋三角貿易を終焉に向かわせたのだった。

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1630年代以降、西インド諸島はブラジルを手本にアフリカ奴隷の労働力を用いた砂糖きび栽培の導入に力を注ぐ様になる。その結果、砂糖の値段は16世紀中頃までに1620年代の半値となり、17世紀後半にはさらにその半値となった。一方供給量の方も17世紀後半までに5倍、アメリカ独立戦争後にはさらにその4倍に拡大している。

問題はイギリスの砂糖業界がどうしても外国産の砂糖に価格競争で勝てず、政界に手を回して保護貿易的政策によって存続を図った事だった。そもそもアメリカ独立戦争(1775年~1783年)勃発の遠因の一つとなったのは、彼らが「英国植民地に国産砂糖以外買う事を禁じる法律」を通そうとした事だったし、当時の産業業界にとっても「(砂糖価格が高止まりしているせいで)英国労働者の栄養状態が大陸労働者より悪い」「保護関税合戦を引き起こし輸出に大ダメージ」と言った状況は望ましくなかった。それで「収入源そのものを奪う」作戦が遂行され、奴隷貿易禁止法(1807年)、西インド諸島で大農園を経営している様な有産者が不利となる第1回選挙法改正(1832年)、奴隷制度廃止法(1883年)が次々と成立。*ちなみに「18世紀、イギリスの砂糖業界がどうしても外国産の砂糖に価格競争で勝てなかった理由」について同時代のアダム・スミス国富論」もちゃんと分析出来てないが、最近では(狩られる側の数が激減し、しかも賢くなった事による)奴隷価格高騰が大きかったとされる事が多い。そういえば「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto,1764年)」を残したホレス・ウォルポールや「ヴァセック(Vathek、1786年)」を残したウィリアム・トマス・ベックフォードなどの財源でもあった。

「英国は歴史上一度も勝利してない‼︎(涙目)」史観 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

「世界システム論」が人類を裁く? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

追い上げてきたのは、例えば工場で生産されるベルギーの砂糖などであった。

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そして実は「英国砂糖業界の敗北」は、英国の産業革命推進派の望むところでもあったのである。

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ジェントルマンも働かなければならないほど貧しくなればジェントルマンではなくなる。次男や三男には常にこの危惧があったが、彼らの受け皿となり、ジェントルマン支配の安全弁となったのが植民地であった。彼らは植民地に行って現地の高級官僚になるか、農園の経営か貿易で成功するかということによってジェントルマンの地位を確保した。またジェントルマンでない若者も、野心を持って植民地に渡り成功してジェントルマンになると言う途があった。

「砂糖王」と「煙草貴族」は何が違った? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

 世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

19世紀初頭のイギリスは、世界で最初の工業化にほぼ成功し、その完成期に入ってい たが、この時代は、いまや「 世界経済」のヘゲモニーを握りつつあったこの国の食糧 政策─ ─のみならず、食生活そのもの─ ─が大転換を遂げつつあった時代であった。 工業化にともなう都市化を反映してか、穀物に関する世論 が、生産者、つまり地主や 農業経営者保護から、都市労働者を主体とする消費者と、彼らを雇用する工場経営者の 利益を保護する方向へと急速に傾いていくのである。1838年に成立した、反穀物法協会(のち に反穀物法同盟となる)に結集した、コブデンやブライトら、いわゆるマンチェスター派は、この傾向を強力に推しすすめた。

イギリスで、穀物法のような生産者保護政策がとられるようになったのは17世紀中ごろのことであった。それ以前のイギリスでは絶対王政のもとに、むしろ輸出制限など、消費者保護の政策が採用されていたが、ピューリタン革命前後 境に、地主ジェントルマン の支配( いわゆる「 地主支配体制」)が 確立したために、生産者保護の政策に転換し たのである。その結果が、1670年代における穀物輸出奨励金制度の確立であり、この政策体系が19世紀の穀物法につながる。1846年の穀物法廃止は、 穀物法に守られて国際価格に比べ て異様に高く維持されてきたこの国の穀物価格を押し下げ て「 安上がりの 食事」をもたらし、ひいては労働コストを下げようとする試みであった。これ以後、イギリスの輸入食品への依存は急速に進み、ついに農業人口は数パーセントにまで低下し てしまう。

穀物輸入の自由化をめざしたイギリスのこのような動向は、よく知られている。しかし、同じことが、砂糖や茶についてもいえることはあまり知られていない。

工業化の開始とともに、砂糖入り紅茶が労働者の朝食となり、「 ティー・ブレイク」 が一般化したといっても、なお茶も砂糖も、労働者にとってはかなり高価なものでもあった。イギリスの砂糖が、フランスのそれよりはるかに高く、国際市場ではまったく競争 力がなかったこともすでにみた。ただ、本国議会の強力な「 西 インド 諸島(カリブ海)派」のおかげで禁圧的高関税に守られていただけである。多少事情は違うが、東インド会社の強固な独占体制に守られた茶も、本質的に似た状況にあった。18世紀のうち から、オランダなどによる茶の密輸が猛烈に展開したのは、正規 ルートのそれが、高 関税のせいもあって異様に高価になっていたからにほかならない。

西インド諸島派」の打倒と東インド会社の独占廃止 が、マンチェスター 派 の 最大 の 政治目標となったのもうなずける。「西インド諸島派」への攻撃は、まずは奴隷貿易奴隷制度への批判というかたちをとった。そうすれば福音主義者の運動ともタイアップできたからである。その成果は1808年の奴隷貿易の禁止、1833年奴隷制度の廃止 となって現れた。奴隷制度の廃止は、さしもの強固な「西インド諸島派」を消滅させ、 砂糖の特恵関税の引き下げという、 マンチェスター 派 のほんらいの目的を実現させ た。すなわち、1842年にはいったん失敗したものの、1844年にいたって、関税は30パーセントに引き下げられ、1852年には、内外の砂糖関税が同率となった。「 朝食を無税に」というスローガンは見事に達成されたのである。同じころ、東 インド会社の貿易 独占も廃止されるにいたったことは、教科書的常識であろう。

奴隷解放以後

イギリスの奴隷制度廃止が「 安価な朝食」の確保を目的としていた証拠は、むしろその後の政治動向をみれば、より明白となる。人道主義的な立場からすれば、奴隷制度の廃止は、当然イギリス領以外の地域にも及ぶべきであった。ところが、現実にはこの問題 に関して1833年を境に、奇妙な逆転現象が起こったのである。

イギリス領での奴隷貿易奴隷制度が廃止されてしまうと、それを推進したマンチェスター 派が、ブラジルなど外国の奴隷制砂糖生産を容認し、逆に「西インド諸島派」が その廃止を求めはじめたのである。イギリス領植民地のプランターたちは、なお当面 は、「徒弟制度」によって黒人を不自由労働力として利用しつづけようとしたが成功せ ず、しだいにインド人、中国人などアジア系の「契約労働者」に労働力の基盤を切り替えていった。それにしても彼らは、なお砂糖生産に執着していたから、外国領では奴隷 の使用が容認されている状態が、理不尽にみえたのも当然である。したがって、かつて 自己の奴隷制の維持に熱中していた「西インド諸島派」が、いまや奴隷制度に頼る、ブラジルなどの砂糖の排斥を主張しはじめる。大プランターの一族であった首相グラドストーンは、こうした見解を強力に代表していた。たほう、かつては、熱心 にイギリス 領植民地の奴隷制度に反対したはずの「マンチェスター 派」の代表コブデンは、こんな 奇妙な議論を展開した。「( 奴隷の生産した)綿製品の消費者であり、その輸出者でも あるイギリス 人には、綿製品を満載した船でわざわざブラジルに赴き、ブラジルには 奴隷制度があると知って大げさに驚いてみせたうえ、そら涙を流しながら、奴隷制度によって栽培された砂糖などは受け取れません、とうそぶく権利などあろうはずがない」、と。

長期的にみると、結局は、イギリス以外の国でも、たしかに、イギリスを中心とする国際圧力によって奴隷貿易奴隷制度は廃止されていった。しかし、スペイン領のキューバ では、砂糖生産の中心となっていっ た1880年代まで継続した事実が、ことの本質を 示しているように思われる。

当然、現代人の感覚では人道的に許せる話ではない。しかし当時は欧州で農奴が、日本で武家が経済的矛盾を押し付けられて地獄を見せられた時代でもあった。

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16世紀から18世紀にかけては国際的に経済学の黎明期。もしかしたらそれは貨幣経済浸透によって(それまで伝統的社会に埋め込まれていた)経済機能が本格的に機能停止に陥り出した事が主要因だったのかもしれない…

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そして同様の悲惨な競争は今日なお続いている…

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それにしても、どうしてイギリスの砂糖は外国製のそれに全く歯が立たなかったのか? 同時代人たるアダム・スミス「富国論( An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、1776年)」は「(英国人砂糖業者に儲けさせる為の)製糖税が高過ぎる事」「奴隷の扱いが自由国家より専制国家の方が格段に巧妙である事」「本国の繁栄を最優先に考えて本国からの投資で運営される英国植民地より、自己資本で回っているフランス植民地の方が経営判断が適切で理に適っている事」などを列記する。

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奴隷の状態が、自由な政治のもとでよりも専制政治の場合のほうが良好だということは、あらゆる 時代あらゆる国民の歴史に徴して明白だ、と私は信じている。ローマの歴史をみても、奴隷所有者 の暴圧から奴隷を保護するために行政長官が最初に干渉したのは、帝政時代のことであった。ヴェディウス・ポリオが、自分の奴隷の一人がオーガスタス帝(在位紀元前27年〜紀元14年)の面前で些細な過失を犯したので、奴隷 を寸断して池に投げ込み魚の食にせよと命じたとき、皇帝は激怒し、この奴隷ばかりでなく、ポリオが 所有していた他の奴隷も全部解放せよと命じた、と言う。 ところが、 ローマ が 共和制だった頃の行政長官は、だれひとりとして奴隷を保護する権限をもつ ことがなく、ましてや、その所有者を罰するなどとは思いも及ばないことだった。

フランスの砂糖植民地、とりわけサント・ドミンゴの大植民地の土地の改良を行なわせた資本が、ほとんどまったくこれらの植民地の漸次的改良と耕作から生じたものであることは注目すべき点で ある。それは、 ほとんどが、その土地の生産物と住民の勤労との生み出したもの、つまり、上手 な経営によって漸次に蓄積され、ますます生産を増大するために用いられた生産物の価格であった。ところが、イングランドの砂糖植民地の土地を改良し耕作に用いられた資本の大部分は、母国 から送られてきたものであって、換言すれば、イングランドの砂糖植民地の繁栄は、その大部分が 母国の富裕による もので、この巨大な富の一部があふれ出て植民地へ流れ込んだにすぎない、と 言ってもよかろう。これにたいして、フランスの砂糖植民地の繁栄は、まったくその植民地住民の 上手な経営に由来するものであるから、この点は、イングランドの植民地住民の経営よりも いくぶんとも優っていたに相違ない。そして、このフランスの優越性は何よりも、かれらの奴隷管理が巧みであったからなので ある。

 まぁこうした鬱憤が積もり積もった結果勃発したのがアメリカ独立戦争(American War of Independence、1775年〜1783年)、英国砂糖業者が、それで態度を改めるどころかむしろ政界に手を回し、英国産業革命そのものの進行を遅らせよう試み始めたので、彼らを失脚させるべく仕組まれたのが奴隷交易禁止運動奴隷廃止運動だったという事になる。

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それにしても、英国砂糖業業者を廃業に追い込んだのが北フランスやベルギーや(当時はオーストリア帝国の一部だった)チェコの砂糖大根栽培農家辺りだったというエピソードは実に興味深い。

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