諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「総力戦の時代」が生んだ「魔術的リアリズム芸術」

産業革命の行き着いた果ては、大不況 (1873年-1896年) を経た後の大衆消費社会、すなわち「大量生産は(庶民の消費者化といった施策が生み出す)大量消費に支えられねばならぬ」なる新手の効用主義経済学(Utilitarianism Economics)的信念。それがまさに「グラン・ギニョール恐怖劇場(Le Théâtre du Grand-Guignol、1897年〜1962年)」とかモーリス・ルブラン「泥棒紳士(gentleman-cambrioleur)ルパン(1905年〜1939年)シリーズ」やら「ファム・ファタール(femme fatale、運命の女)」やら「オム・ファタール(Homme fatale、運命の男)」といった無数の暗部を抱え込んだベル・エポック(Belle Époque、フランス語で「良き時代」。一般には「普仏戦争(1870年〜1871年)の痛手を克服したパリを中心に栄えた欧州文化」と規定される)を現出させた訳である。

「帝国主義イデオロギー」とは何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

しかし第一次世界大戦(1914年〜1918年)は人類に新たに「総力戦(対立し合う国家間における生産力全てを注ぎ込んだ最終決戦)」なる概念を吹き込んだ。これによって大衆の自由な消費がもたらす可能性を一切無視する本来の形でのマルクス主義が「(一人残らず死に絶えるまで)国民に総力戦を強制し続ける夢の督戦システム」として新たな生命を獲得する。もちろんロシア革命(1917年)を契機とする実際の成立過程はもっと複雑だが、とにかくそうやって今日の我々が知る「マルクスレーニン主義」は台頭してきたとされているのである。

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 西部戦線で展開された塹壕戦によって「攻撃側が圧倒的不利」というイメージが定着した第一次世界大戦(1914年〜1918年)

  • シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)」第一次世界大戦直前の時期において、ドイツ陸軍は西方諸国の攻勢にあたって、シュリーフェン・プランと呼ばれる計画を作成していた。これは戦争勃発直後にベルギーを通過してフランス北東部へと侵入し、その後南方へと方向転換して首都のパリごとフランス軍を片翼包囲する計画で、ロシア軍の動員力の遅れを前提に作られており、ロシア軍が動員を完了させる前に迅速に西部戦線の英仏軍を撃破しなければならない想定となっていた。この計画は小モルトケによって一部手直しされたものの、おおむね計画通りに戦争は開始される。

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  • 第一次世界大戦(1914年〜1918年)最初期におけるドイツの躓き」…ドイツは1914年8月2日、ベルギーに対し軍の通行権を要求したが、ベルギー国王アルベール1世は中立国としてこれを拒絶する。ベルギーの中立自体は1839年のロンドン条約によってイギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアから保証されていた。古証文とはいえ「所謂ローカントリーズ(Low Countries、ベルギーを含むフランダース地方とオランダのいわゆる低地諸国)を一強国の支配に任せたくない」という英国の伝統的思惑もあって実質的に機能してきた訳だが、アルベール国王は中立自体に価値があるとし「結果はどうであろうと、拒絶する。我々の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」と述べ、どの他国の侵犯に対しても徹底的に抗戦する決意を表明したとされる。しかしながら、こうした国王の勇ましい発言とは裏腹に当時のベルギー軍は長期間の中立と勢力を増した社会主義政党の軍事軽視ないし無関心により最悪の状態にあった。主にフランスで教育を受けた参謀本部の将校達が攻撃精神ばかり身につけ、ベルギーの実状とはかけ離れた攻勢作戦計画ばかりを練っていたのに対してその兵力(開戦時、現役兵4万8000人と予備役10万人)は6個師団と要塞守備隊を充足するに足らず、装備も旧式で軍服に至ってはナポレオン時代の物を使いまわしている有様だったのである。とはいえルクセンブルク無血占領(1914年8月2日)を受けて8月4日ドイツ軍の第1軍司令官アレクサンダー・フォン・クルックと第2軍司令官カール・フォン・ビューロウがにベルギー侵攻を開始すると、最初に包囲したリエージュ要塞の周囲に複数の堡塁が構築されており、これによってドイツ軍の進撃が2日間食い止めらる(後の参謀次長エーリッヒ・ルーデンドルフの独断専行によって陥落。その後ベルギー軍はアントウェルペンおよびナミュールへと後退した。ドイツ軍はアントウェルペンを回避して進撃し23日にナミュールを陥落させたが、これにより後背に危険が残される事になり2個軍団相当を現地に残していかざるを得なくなった)。予想しなかった抵抗に遭遇したドイツ軍は連日の強行軍により兵士達を憔悴させたし、さらにはベルギーの軍民が国内の鉄道網を破壊し為にシュリーフェン・プランに基づいた左翼から右翼への輸送が困難となる。

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  • 塹壕戦の始まり」…戦争前のフランス軍においては対ドイツ戦を想定し「プラン17(Plan XVII)」と称される計画案が作成されており、そこでは(いかにも攻撃精神の塊たるフランスらしい)「戦争開始と同時にアルザス=ロレーヌを奪取せよ」と定められていた。それで8月14日より開始された進撃においてはロレーヌのサールブールとアルザスのミュルーズが第一目標に選ばれ、ベネルクス三国突破に思わぬ労力を費やす羽目に陥ったドイツ軍を多大な犠牲と引き替えにじわじわと後退に追い込みつつミュルーズを占領し、サールブールの一歩手前まで迫ったが、フランス北東部での大敗により撤退を余儀なくされる。ドイツ軍はパリまで70キロの地点にまで到達したが、9月6日から12日までの第一次マルヌ会戦(9月6日〜12日)において進撃が停止した。莫大な損害を顧みず「第一次エーヌの戦い(9月12日〜15日)」で反撃に転じたフランス軍によって、ドイツ軍はエーヌ川のラインにまで後退し、その位置で持久をはかるために塹壕を構築し始めた。緒戦において攻撃側の不利を悟っていたフランス軍もこれを見ると進撃を停止。それに続いた「海への競争(敵の後背を突こうとして両軍が争って進めた北への延翼運動)」によってスイスからイギリス海峡に至る塹壕線が形成され、その後3年間継続される西部戦線が構築される事になったのだった。以降ドイツ軍は「既に西部前線の突破は不可能であり、この戦争に勝利するには、フランス軍に戦争継続が不可能なほどの死者を出させるしかない」と考える様になっていく。

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  • 「浸透戦」…戦車が実践に初投入された事で有名な「ソンムの戦い(Battle of the Somme,1916年7月1日〜11月19日、第一次世界大戦中でも屈指の会戦)は、遂に数百人単位での一斉突撃が限界に達し、歩兵が十人前後の分隊を束ねた小隊単位で運用される様になった契機として知られる。「浸透戦術」とはこの時以降各国の軍隊で塹壕攻略戦の主軸となった防御の手薄な箇所を小部や分隊単位で各個突破し、敵地後方で合流して背後から奇襲する戦術を指す。実は日本軍も第二次上海事変(1937年〜10月26日)において「ナチスドイツの派遣した塹壕戦のプロの指導に基づいて築造されソ連が派遣した赤軍将校が防衛隊を組織した」塹壕線を突破する際にこの戦術を採用。「軽機関銃装備によって小隊並みの火力を誇る歩兵分隊による撹乱戦術」が「数百人規模の中隊単位でしか動けない鈍重な国民軍」を翻弄し圧倒的勝利を勝ち取っている。
    *ここには「古い時代の戦闘精神への回帰」という側面もあった。
    騎士修道会と「武人の覚悟」の奇妙な変遷 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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  • 「総力戦」概念の形成第一次世界大戦当時のドイツ軍は(上述した様な経緯で)パリにすら到達出来なかったが、ナチスドイツはフランス全土の征服には成功したし、大日本帝国軍も上海塹壕線は突破して(それまで中華民国の首都だった)南京までは何とか手中に収めた。その一方でナチスドイツの場合は「英国とアフリカ植民地の残敵」、大日本帝国の場合は「重慶政府」が攻略出来なかった事が致命傷となって敗戦する。ここまでは純粋に軍事的歴史的事実に過ぎないが、するとナチスドイツで流布した「背後の一突き/匕首伝説(Dolchstoßlegende)」や現在なお中国や韓国で信じられている「日本人は南京で軍民を大量虐殺した戦争犯罪者」といったプロパガンダは一体何処から現れたのだろうか。

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    実は第一次世界大戦中に芽生えた「総力戦思想」、すなわち「これからの戦争は、戦争継続が不可能なほどの死者を出して戦意を喪失した民族が滅ぼし尽くされる形で決着が付く様になる」という信念の統制下、教育の目的も「国民全員に最期の一人になるまで兵士として死んでいく覚悟を植え付ける」事が最優先課題となる状況の産物であった。カール・シュミットも「陸と海と―世界史的一考察(Land und Meer: eine weltgeschichtliche Betrachtung、1942年)」において「陸の国(ナチス・ドイツ支配下に入った欧州連合)と海の国(英国と米国)の総力戦が始まった」というプロパガンダを成立させる為に「地中海などどこまでも遠浅で湖みたいなものだから沿岸諸国は全て陸の国」「スペインも伝統的に海軍が話にならないくらい弱かったから海の国」「南米大陸なんて小島みたいなものだからアメリカは海の国」といった詭弁を積み重ねている。彼の「敵友理論」は現実の束縛から一切離れた自由な発想に基づいて「敵=最後の一人まで殲滅する事が国際正義の実現につながる絶対悪」と「味方=一切の意見の相違が存在しない自分と完全に同質の存在(それを拒絶する相手は全て「敵」に分類される)」の線引きを強要するのが特徴で、逆を言うならその手の内で踊ってる限り、現実に目を向けて内省的になる必要性など一切発生しない事になる。当時世界中にありふれていた思考様式であった。
    カール・シュミット「陸と海と―世界史的一考察」
    ジェラルド・ホーン「人種戦争――レイス・ウォー――太平洋戦争 もう一つの真実」

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    *この思考様式が戦後の「スペクタクル史劇的歴史観」に立脚する保守主義へと継承されていく。

  • 「日本人は南京で軍民を大量虐殺した戦争犯罪者」…当時の中国人は「上海陥落は断じて(当時世界最先端の戦術だった)浸透戦術まで駆使した大日本帝国軍の輝かしい軍事的勝利などではなかった。あらゆる国際ルールを無視した卑劣な不意打ちと残虐行為の産物に過ぎなかった」と信じたがった。軍人大統領時代の韓国に至っては「大韓民国臨時政府は劣等な野蛮人に過ぎない日本人の攻撃から上海を完全に守り切った」と教えられており、そもそも大韓民国臨時政府重慶疎開して終戦を迎えた事実すら国民に知らされていなかったという。もっともそうした展開を呼んだ落ち度は大日本帝国軍部側に存在した。そもそも「上海を陥落させたらその時点で停戦し、国民党政府と平和条約を取り結べ」という日本政府から受けた訓令を完全黙殺。一気に南京まで支配下に置こうとする意図を察知されない為、欧米マスコミの取材を一切シャットダウン。しかも国民党政府が重慶に脱出するのを許してしまい華々しく勝利宣言する機会を失った挙句の果てにどれだけ無差別爆撃を繰り返しても重慶は終戦まで陥落する事はなかったのである。大日本帝國を滅亡に導いた完全な失態と言ってよく、エドガー・スノー「アジアの戦争 (The Battle for Asia、1941年) 」における「本当にやましい事が何も行われてないなら、欧米報道陣の完全シャットダウンも必要なかった筈だ」という指摘もその意味では正しい。

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  • 「総力戦」と慰安婦問題…こちらも当時可能な限り秘密裏に扱った事が仇となって付け込まれた実例。所謂「大日本帝国軍が強制徴用した慰安婦」は年々その数を急増させ最近では「最低でも50万人以上、どんなに少なく見積もってもナチスドイツがホロコーストで虐殺したユダヤ人数を下回る事はない」とされ「徴用の実態」もその残酷性を強調しようとするあまり「日本兵から「試し切り」を含むありとあらゆる性的暴行を加えられ続けるせいで徴用された慰安婦の平均寿命は数週間に満たず、生還者も数百人に過ぎなかった」「3歳児でさえ残虐な徴用を免れる事は出来なかった」「資源が欠乏した大日本帝国においては慰安婦の遺体から搾り取る脂肪が航空機や軍艦を動かす主要燃料となり、その髪の毛が軍服の主要材料となった」とエスカレートする一方。2014年にニュージャージー州で行われた「国際社会は日本人を決して許さない」デモに至っては、バラバラにされた血塗れのマネキンをシンボルに掲げ「アメリカ人も一刻も早く我に帰り、食人族日本人を今でも人類の一員と考えているレイシスト全員を一人残らず地上から撲滅する聖戦に加われ‼︎」と声が枯れるまでシュプレヒコールを続けたという。ただしこの種の「アメリカにおける反日デモ反日プロパガンダ」はその主体が中国人や北朝鮮人である事が多く「アメリカ人の在米韓国人に対する嫌悪感を煽り、日米と韓国の連帯に楔を打ち込むのが主目的」という指摘もなされていたりする。そうカール・シュミットの「敵友理論」の対象は何も味方ばかりとは限らない。いずれにせよ今日なお「総力戦」を続け様としてるのは誰なのか、「総力戦」に「総力戦」で応じるのが正しい事なのかなどについては慎重な判断を要する。

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 実は「大日本帝国軍兵士のバンザイ突撃」を「フランス攻撃精神」起源とする立場もある。その契機となったのは第二次上海事変に際して「ソンム戦を勝利に導いたフランス軍の浸透戦術」を研究し、その成果を軍事訓練に反映させた事。第一次大戦中に「浸透戦の英雄」として名を残した「英雄的(魔術的)リアリズム作家」エンルスト・ユンガーも「数万人の敵が籠もる堅牢な防衛線にわずか数人で自ら足を踏み入れる勇気を奮い起こすにはある種の狂気が必要」としており、確かにあり得ない話でもなかったりする。浸透戦術を始めたのはドイツ軍側なのだが「(日露戦争に際しては日本の騎兵がその攻撃精神を採用した)フランス側から学んだ」となってる辺りも興味深い。

「欧州封建時代」とは何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji12:11 - 2015年2月23日
政治思想でいえば、右翼におけるモーリス・バレスや、左翼におけるジョルジュ・ソレルの存在もそこにある。右翼のバレスは近代的な右翼を逸脱しており、左翼のソレルは近代的な左翼を逸脱している。そして近代以後は、この逸脱に萌芽するのであり、現象的には左右は混戦し影響しあうことになる。

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji18:54 - 2015年2月22日
革命という言葉には、二つの、およそ異質な、時には相反する内容がある。一つは、現実の変革という理解であり、もう一つは、根源的な力の噴出という理解だ。前者は左翼リベラルに多い革命観であり、後者はニーチェ主義的観点に見られ、ヘーゲル経由のマルクスバクーニンは双方にまたがっている。

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji2:00 - 2015年2月24日
思想とは言説だと考えるのは間違いだ。思想は、政治とは異なり、また政治とは対立する物理的な実力的な現実でもある。そうした政治ではない現実としての思想の端的な現れとして、分かりやすい物理力として軍事があるが、思想の物理力は政治の現実(例えば選挙)と対立し、しかも禁欲的に存在している。

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji2:22 - 2015年2月24日
ユンガーのナチス批判やナチスとの対立の思想的な消息も、このあたりにある。つまりエアハルト旅団やコンスルの物理的暴力は思想であって政治ではなく、政治(選挙)としてのナチスと敵対した。だからユンガーは民主主義者ではなく、ナチスが民主主義者ということになる。
映画:「シャトーブリアンからの手紙」――人間を命令の奴隷に変える戦争という狂気 | クリスチャン新聞オンライン

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji2:32 - 2015年2月24日

1968年闘争期における新左翼はエアハルト旅団やコンスルであり、共産党ナチスだったといえる。その意味では、反政治的な物理力としての思想から政治(選挙)への転向は,1968年闘争期の思想に対する背教者的な裏切りになるだろう。
「エアハルト旅団/コンスル…1919年春にバイエルン王国社会主義者が打ち建てたバイエルン・レーテ共和国の打倒に参加したドイツ義勇軍(フライコール)の一つ。「エアハルト海兵旅団」が正式名称だが、カップ一揆1920年)でベルリンを掌握したが社会民主党政府の指令によるゼネストにあって数日で失敗。解散命令が出されて以降は「コンスル」の偽名で活動。

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji2:52 - 2015年2月24日
1968年闘争期の日本の新左翼には政治(選挙)はなく、あったのは物理力としての思想であり、それがゲヴァルトであり、革命戦争であり革命軍だった。そして戦争はクラウゼヴィッツがいうような政治の延長ではないことだ。革命戦争や革命軍の思想が、政治(選挙)を志向するのは最悪の転向だろう。

 
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji2:52 - 2015年2月24日
1968年闘争期の革命の戦争や軍、つまりは物理的暴力としての思想が現実には不可能ならば、表現という力としての文学や芸術を選ぶべきであり、どう間違っても政治(選挙)ごときであってはならない。文学や芸術が駄目なら隠遁でもすべきであり、政治(選挙)は醜態だろう。

千坂恭二 ?@Chisaka_Kyoji11:58 - 2015年2月24日
ユンガーは、ナチスの政治(選挙)を強く批判したが、そこにあったのは物理力としての思想だった。だからユンガーによれば、政治(選挙)としてのナチスには数量や勢力が重要なのだが、ユンガーやエアハルト旅団、コンスルなど武装闘争派は数量や勢力はさしたる問題ではなく力の強度が重要なのだった。

千坂恭二 @Chisaka_Kyoji15:45 - 2015年2月24日
この問題は、今朝方の夜中にも連続ツィートしたが、現在の思想や政治においても同様の問題がある。1968年闘争期の闘争の意義は物理力の肯定にあり、現在も問われているのはその物理力の思想化であり、政治(選挙)に乗り出すことではない。政治(選挙)を批判する物理力の思想化こそが問題なのだ。

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内田樹中田考対談「一神教と国家」付録「中東情勢を読み解く為の現代史」

ムバラク独裁政権崩壊後のエジプトにおいて議会選挙を制したムスリム同胞団と大統領選挙を制したムルシー大統領はイスラーム主義者と誤解されてますが、その実体は生き残りの為にイスラームを歪曲し政権分離を容認した反イスラーム主義者集団に他なりません。なにしろ神の定めたイスラーム法への絶対帰依を人間野幸福とみなすサラフィー・ジハド主義者の立場からすれば、人間野定めた法律に基づく民主主義の選挙への出馬自体が背教であり、万死に値するのです。それにも関わらず彼らはイスラーム政党を僭称し、中途半端な偽イスラーム主義をスローガンに掲げ、無知蒙昧なエジプト国民に彼らこそイスラーム政権と信じ込ませた上にエジプトのイスラーム化に失敗し、民衆にイスラーム主義の政治関与への嫌悪感を植え付け、軍に反イスラーム主義キャンペーンの口実を与えてしまったからです(そして世界中のサラフィー・ジハド主義者は、イスラーム主義革命が成就するとしたら暴力革命によってでしか有り得ないという決意を新たにした)」
*皮肉にもサラフィー・ジハード主義者はその原理主義的立場故にスーフィーイスラム神秘主義)や聖者崇拝に耽溺する在野のイスラム教徒も世俗政権同様に憎悪しており、それ故に民衆の支持が広がりにくいという点で日本の新左翼運動と近い側面を備えている。そういう意味でも宗派を問わず寛容に接してまず福祉団体として成功を収めたムスリム同胞団は「万死に値する裏切者集団」だった訳である。

こうして政治的利用が不可能となった鬱憤が「魔術的リアリズム芸術」に投影される展開が起こった。その原風景を19世紀フランスの小ロマン派に見てとる向きも存在する。

ochimusha01.hatenablog.com

エルンスト・ユンガー(Ernst Junger 1895年~1998年)名言集

「神話は先史時代の遺物ではない。時代を超越して歴史の中で繰り返される現実である(Myth is not prehistory; it is timeless reality、 which repeats itself in history.)。」森の小径(The Forest Passage)


「今日では最早誰もハッピーエンドなんて信じておらず、それを意識的に放棄する事が生きる事なのだ。もはや幸せな世紀は存在しないが、幸福な瞬間なら、自由な一瞬なら存在する(Today only the person who no longer believes in a happy ending、 only he who has consciously renounced it、 is able to live. A happy century does not exist; but there are moments of happiness、 and there is freedom in the moment.)」

「詩人によっても業火によっても救済されてしまうのが我々さ(We will either be saved by the poet or by fire.)」

*国際SNS上で検索してきたら、この辺の引用が今日なお好まれてる模様。これが「ニヒリズムと表裏一体の関係にある魔術的リアリズム(カントのいう「物そのもの」、ウシャニパッド哲学のいう「ブラフマン/梵天/弥勒菩薩」、法華経のいう「久遠の仏」、華厳経の「盧遮那仏」、密教の「大日如来」etcがチラリと垣間見える瞬間の追求)」って奴か。厨二病向けでもある…
4世紀から5世紀にかけて流行した「剣と法の天秤」信仰 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

魔術的リアリズム、マギッシャーレアリスムス(Magischer Realismus)

日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。幻想的リアリズムと呼ばれることもある。 MAGIC(魔術)の非日常、非現実とREALISM(リアリズム)の日常、現実という相反した状態が同時に表すこの技法はしばしばシュルレアリスム(超現実主義)と同義とされることがあるが、魔術的現実主義(マジックリアリズム)は、シュルレアリスムと異なり、ジークムント・フロイト精神分析や無意識とは関わらず、伝承や神話、非合理などといったあくまで非現実的なものとの融合を取っている手法であるとされることもあるが、先行する芸術作品の影響はやはり顕著である(例えばマルケスの小説において顕著なフォークナーやヘミングウェイなどの影響(直接的モチーフ・パロディなど)や、技法の観点からはシュールレアリズムからの影響も容易に見て取れる)。

http://2.bp.blogspot.com/-tm6Z1TCydPg/UJNXCCasmKI/AAAAAAAAH6Y/F2jygHMEQUU/s1600/Rob+Gonsalves+arte+pintura++%285%29.PNGドイツ…「魔術的リアリズム」とは元々、ドイツ人の写真家、美術評論家であるフランツ・ローが1925年のマンハイム美術館で行われた『新即物主義展(ノイエ・ザッハリヒカイト)』で展示されていた「冷静に現実を表現することによって現れる魔術的な非現実」を感じる作品群の美術的表現であるが、次第に文学表現にも使われるようになった。ヴァイマール時代の魔術的リアリズムの最大の作家はエルンスト・ユンガーだろう。まさに「魔術的非現実」と「合理的現実」を同時に見るという複眼的視線に基づくユンガーの文学は、ドイツの魔術的リアリズムの代表とされ、また夢への強い志向や高度な幻想性を持つユンガーの立場は、ドイツ固有のシュルレアリスム、あるいはシュルレアリスムのドイツ的代替として評価されている(Karl Heinz Bohrer:Die Aesthetik des Schreckens.)。またフランツ・カフカギュンター・グラス魔術的リアリズムにカテゴライズされることがある。

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ロシア魔術的リアリズムとしては、ニコライ・ゴーゴリミハイル・ブルガーコフが挙げられる。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-46-82/gh_jimaku/folder/581170/21/18851821/img_3?1301746013

ラテン・アメリカ…しばらく文学において魔術的リアリズムは使われていなかったが、1940年代ヨーロッパから帰国したアレッホ・カルペンティエールミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどがラテンアメリカの文学表現として使い始めたことにより主にラテンアメリカ作家が好んで使う技法となった。元々、ラテンアメリカ文学の土壌にはホルヘ・ルイス・ボルヘスという魔術的リアリズムの根底(注:ボルヘス魔術的リアリズムの作家とする説もあるが、ボルヘスの作風は魔術的リアリズムという言葉が生まれる前に確立しているためここでは魔術的リアリズムの根底としている。ちなみにボルヘスは、前記のユンガーと交流がある)があり、また、土地柄としてもカリブの土着性と魔術的リアリズムとは親和性が高かったため多くのラテンアメリカ作家がこの表現を好んで使うようになった。60年代の<ブーム>と呼ばれるラテンアメリカ文学のブームが起き、小説における魔術的リアリズムは全世界に知られるようになった。とりわけガブリエル・ガルシア=マルケスの作品『百年の孤独』の影響は強く、多くの人が百年の孤独をモデルに魔術的リアリズムの作品を手がけていった。ほかメキシコのカルロス・フエンテスイサベル・アジェンデレイナルド・アレナスパブロ・ネルーダがいる。

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英米圏…イギリスにはアンジェラ・カーター、インド出身のサルマン・ラシュディ、ジャネット・ウィンターソンがおり、アメリカにはキャシー・アッカートマス・ピンチョンらがいる。

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日本・中国…日本や中国の小説にもマジックリアリズムによる作品を見ることができる。日本へのマルケス紹介に大きな役割を果たした安部公房の小説、『百年の孤独』に強く影響を受けた大江健三郎の諸作品などである。日本版『百年の孤独』とも謳われる中上健次の『枯木灘』『千年の愉楽』などの「路地」小説は熊野を舞台にした魔術的リアリズムであり、阿部和重の『ニッポニアニッポン』『シンセミア』『グランド・フィナーレ』『ピストルズ』は東根市神町を舞台にした魔術的リアリズムである。マジックリアリズムによる作品はほかに池上永一池澤夏樹筒井康隆などラテンアメリカ文学の影響を受けた諸作家の作品に見ることができる。また、村上春樹スリップストリーム的作品などもマジックリアリズムの小説と呼ばれることもある。日本ではマジックリアリズム=純文学という見方が一般的であるが、近年では森見登美彦桜庭一樹など、エンターテイメントに属する作家もこの手法を取り入れている。中国でも1990年頃から魔術的リアリズムを取り入れた作家が増えてきており、代表的な人物としては莫言、鄭義などがいる。

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それ以外にもイタリアのイタロ・カルヴィーノポルトガルジョゼ・サラマーゴ、モロッコのタハール・ベン=ジェルーン、チェコミラン・クンデラ、ナイジェリアのベン・オクリらがいる。

美術マジックリアリズムを使った美術家としてはジョージ・トゥーカー、ルネ・マグリットやオットー・ディックスなどが挙げられる。

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シュルレアリスムとの視覚的な近接性が存在するほか、新即物主義との境界もあいまいである。種村季弘の著書『魔術的リアリズム』では、「魔術的リアリズムマジックリアリズム)」という言葉と「新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)」という言葉をほぼ同義で用いている。

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フランスにおける「近代写真の父」ジャン=ウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget, 1857年~1927年)の作品にシュールレアリズム絵画やヌーベルバーグ映画の起源を見る向きもある。

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 圧倒的エネルギーの迷走が引き起こす現実と幻想の境界線の消失…それこそがこの時代における世界の最大の特徴だったのかもしれない。

そしておもむろに第二次世界大戦が始まる。思いもかけぬ奇妙な形で…

「まやかし戦争(Phoney War,1939年9月1日〜1940年5月10日)」

チェンバレンの弱腰外交」なんて全体像のごく一部に過ぎない。第二次世界大戦(1939年〜1945年)そのものが「ナチス・ドイツとソ連によるポーランド分割(1939年)」や「ソ連フィンランド侵攻(1939年〜1944年、冬戦争/継続戦争)」などを欧米諸国が黙殺する「まやかし戦争(Phoney War,1939年9月1日〜1940年5月10日)」として始まった。それは第一次世界大戦で「攻撃側が圧倒的不利」というイメージが定着していたせいでもあった。

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実はナチスドイツやソ連でさえ開戦当初は「侵攻範囲をこれ以上広げなければ和平に持ち込める」と考えていた節が見受けられる。結局説得を諦めて翌年にフランス侵攻し僅か6週間で占領を達成してしまう訳だが、確かにこの時期フランス国内で和平の絶対反対だったのはあくまで政府と一部右翼だけで、世論は意外と「僕達はもう戦わない。戦わない事こそ国際正義の実現」なる一国平和主義や「フランス人はもう没落していくだけの衰退民族です。いっそドイツに占領された方が新しい門出になる」といった敗北主義者の方が圧倒的多数だったのである。

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「世界を巻き添えにして滅ぼす好戦的右翼」…ロマン・ロラン(Romain Rolland,1866年〜1944年)の様に「絶対悪たるナチスを打ち倒せ」と叫び続ける平和主義者もフライコール(ドイツ義勇軍)の精神的主導者だったエンルスト・ユンガー(Ernst Jünger、 1895年〜1998年)も一緒くた。

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「敗北主義者達」…皮肉にも終戦後、対ナチス協力者の摘発と処刑を苛烈に要求する一方で、(極左の蜂起をフライコール(ドイツ義勇軍)を招聘して鎮圧させたワイマール体制の様に)自分自身の手を汚したがらなかったせいで「ド・ゴール独裁政権」誕生の最大の立役者となった。

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この辺りの複雑怪奇な経緯がちゃんと頭に入ってないと何故今日なおオーストリアやフィンランド徴兵制を続けているのか(ポーランドも2009年まで継続)とか「カミュ=サルトル論争(1952年)」が何を巡る議論だったとかが理解出来なくなってしまう。第二次世界大戦は「絶対悪たるナチス大日本帝國を倒す正義の戦い」と簡単に要約できてしまう様な戦いでは決してなかった。すでにその事実そのものが忘れ去られつつある…

 結局、人類が「総力戦」の呪縛から解放されたのは1970年代に入ってからだったとも言われている。日本やドイツの戦後復興期から高度成長期までがすっぽりと収まってしまう計算となる。

欧州の経済規模が第一次世界大戦前のベル・エポック期の水準まで回復したのもまさに同時期の話だった。共産主義が真の意味でその実現可能性を信じられていたのもこの時期だけだったとする立場も存在する。とどのつまり、その時代だけ通用したファンタジーが存在したという話になってくる模様なのである。

さて、我々は何処に向かって漂流しているのだろうか?