諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

産業革命と参勤交代

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世界史の窓:産業革命

イギリス産業革命の資金源 イギリス産業革命は黒人奴隷貿易と密接に関係するが、奴隷貿易で蓄積された資本が産業革命の資金になったとはいえない。奴隷貿易業者が綿織物製造業に転身したり、資金を提唱したという実例はない。また従来言われていたような毛織物業者が資本を蓄積し綿織物業者になったと言うことも実証することは困難である。ロンドンのシティのジェントルマンの金融資本が綿織物業に乗り出したとか出資したと言うこともない。ジェントルマンは製造業に直接関わることは原則としてなかった。それでは資金源は何であったか。結論は、産業革命当初は莫大な資本は必要が無く、機械を発明した人がパートナーシップによって集めた自己資金で十分であった、ということである。工場用地はジェントルマン(地主)から安く借りた。なお、当時は株式会社は禁止されていた(1720年の南海泡沫事件でバブルがはじけて以来、一般の株式会社は認められなかった)、そのような資金調達もなかった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.171-176>

産業革命におけるジェントルマンの役割
 では、イギリスが他の地域よりも早く産業革命を達成できたのは、資金関係ではどのような条件があったのか。それは他の国に先駆けて一国単位での社会的間接資本が整備されたこと、特に道路、河川、運河が整備されたことである。道路・河川・運河はいずれも通行料を徴収したから収益を産む。そのような道路整備や河川改修、運河開鑿に出資したのは地主ジェントルマンであった。つまり、ジェントルマンの資本は交通事業という公共事業に投資され、それが原料や製品、労働者の移動などを円滑に行えたという側面があった。産業資本家自身は道路や運河には出資しなかった。それは投資した資本の回収に時間がかかり、また公共性があるところから21年たつと無料にしなければならなかったからである。ジェントルマンはステイタスとして道路や運河の建設に積極的だった。<同上 p.177-179>

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その英国より来日したイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年〜1904年)が「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan、1880年〜1885年)」の中でこう書いてます。
イザベラ・バードの日本紀行(上)
イザベラ・バードの日本紀行(下)

開港場の日本人は外国人との交流のせいで品位が落ち、下卑ている。内陸の人々は「野蛮人」とはおよそほど遠く、親切でやさしくて礼儀正しい。わたしがそうしたように、女性が現地人の従者以外にお供をだれもつけずに外国人のほとんど訪れない地方を一二〇〇マイル旅しても、無礼な扱いや強奪行為にはただの一度も遭わずにすむのである。

まぁ日本は、それどころか十返舎一九東海道中膝栗毛1802年〜1814年)」や歌川広重東海道五拾三次(保永堂版1833年1834年)」が大流行して庶民の間で未曾有の観光旅行ブームが起こり、神社仏閣の年間行事や村祭りが次々と観光資源化され、タイアップ広告合戦が全国規模で繰り広げられた国でしたから。そのせいでかえってイザベラ・バード女史は日本の田舎で大人数に囲まれ「何か芸を見せるのです!! そうしないと彼らは納得しません!!」と従者に説得されてとりあえずハンモックを吊ってブランコの様に揺らしてみせたり(その従者は記念パンフ販売で大儲け)、深夜ふと目を覚ますと障子という障子に穴が穿たれその向こう側から好奇に満ちた眼が覗いているという「妖怪百目」じみた「怪奇現象」に遭遇したり、「観客」が蟻の様に群がる隣家がその重さに耐えかねてメリメリと押し潰されていく漫画の様な景色を目撃したりと散々な経験を積み重ねる訳ですが「きっとイエス・キリスト様もこうした目に遭われたに違いない!! ならば私も耐えねば!!」の一言で済ます辺り、中々タフです。

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1930年代に政権を獲得したナチスが真っ先に着手したのが、国家を挙げての慰安旅行徹底奨励による生まれてから死ぬまで故郷を一歩も出た事がない様な後進的国民の撲滅政策だったドイツとは異なり、日本は江戸時代にはもう「可愛い子には旅をさせよ」と言われていた様な国だったんですね。まぁ海外への慰安旅行の習慣は習慣で戦後日本も模倣するんですけど。海外旅行の際、ある熟練ガイドさんから「国際観光業界には四寇という言葉があり、ドイツ人、アメリカ人、日本人、中国人の大量襲来を指す」と告げられました。特にドイツ人と日本人は世界中の温泉地帯に二大裸族の悪名を刻んできたといいます。まぁ国民総消費者化に成功して内需が当て込める国に成長するにはこうした犠牲も払ってこなければならなかったという話…

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日本の場合、その源流は参勤交代遂行の為に全国規模で交通網が整備され、それに立脚する形で株仲間(各地の富農や富商を結ぶ全国規模でのネットワーク)が秘密裏に結成され、御用商人と癒着する形で戦国時代に形成された地域経済を守ろうとした大名が次々と破れていった時代まで遡ります。イメージ的には、元禄文化期、井原西鶴パトロンとして歴史に名を残した大阪豪商文化に精神的に反発した松尾芭蕉の門人ネットワークあたり。例えば「おくのほそ道(1702年)」辺りを読み返すと松尾芭蕉忍者説まで浮上してきたほど当時すでに全国規模で交通網が整備されていた事、これを利用して例えば菜種油の商業ネットワークなどが如何に張り巡らされていたかが明らかとなるのです。

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まぁ近世ドイツにおいても「宮廷ユダヤ人(Hofjude(n), Hoffaktor)」と揶揄された人達は、支配地の経済的独立性維持に汲々となっていた守旧派領主に信頼される為にそういう仮面を被っていただけで、裏ではフランクフルトなどを拠点とする国際的金融網と繋がっていたといいます。とはいえ(というかそれ故に)日本でもあった「都心の豪商」と「全国各地に張り巡らされた在郷富農や富商のネットワーク」の対立図式からは免れ得ず、これがユダヤ人大虐殺の遠因の一つとなったとする説もあります。実は日本にも都心文化を代表する井原西鶴支持者と地方文化を代表する松尾芭蕉支持者が対立し、「吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)」や「天明狂歌」関連本などの都心遊郭文化に立脚した文化展開の波に乗って大儲けした出版人蔦屋重三郎(1750年〜1797年)が、十返舎一九東海道中膝栗毛」の出版を何とか阻止しようとした黒歴史が存在しました。「言論の自由」に関する論争は、そこまで振り返って考えないと国際的水準に到達しません。そうしない限り「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」なる時代を超えて存続してきた恐るべきジレンマと向き合わずに済んでしまうからです。

http://www.hstad-online.de/ausstellungen/online/juden_der_vormodernen_zeit/Geschichte_der_Juden/Virtuelle_Ausstellung/Eintr%C3%A4ge/2007/11/10_Das_System_der_Hoffaktoren_files/shapeimage_1.jpg

浸透戦術によって封建制度を打ち破ってきた産業発展史は万事こんな感じ。日本でも苛酷な戦国時代を生き延びた大名が「(秘密裏に次々と領民を養蚕や機織の下請けに変貌させて地域経済の独立性を破壊する)西陣織商人とは、地獄が我々を滅ぼす為に地上に送り込んだ悪魔の僕(しもべ)に違いない」などと根を上げてる江戸時代初期の文章が残されており。現代人が読むとついほっこりしてしまいます。実際の両者の間には妥協の余地が多分にあり、例えば加賀百万石の繁栄などもそうした土壌から紡ぎ出された訳ですが、ちょっと古い地層を掘り返すと「天敵柴田勝家、我らが子孫が必ずや貴様を討ち果たす!!」などと刻まれた一向宗殲滅期の呪いの鬼瓦が出土したりして、日本史の闇の深さを思わせます。いつの時代にも炎上マーケティングならあったが最終的勝利など勝ち取った例はない、という事なのかもしれません。

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こうして全体像を俯瞰してみると「参勤交代こそ日本が自力で産業革命を達成できた原風景だったのかもしれない」なんて恐るべき可能性が浮上してくるのですね。そもそも参勤交代とは一体何であったのか?

 正直言って世界史分野と異なり日本史分野では参勤交代と産業革命を結びつけて考えるのがタブー視されている感すらあります。http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/12/13/21_311.jpg

というか、もしかしたら近世史と近代史は担当学者が異なり、互いの間に「素人が勝手な思い込みで専門領域を土足で荒らし回る様になったら、我々の商売なんて上がったりなんだよ。君も同業者なんだから、解ってくれるよね?」なんて遠慮が存在するのでそういう事になるのかもしれません。

参勤交代 - Wikipedia

各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。

鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。

この制度では諸大名は一年おきに江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。国元から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした、と言われているが、これはあくまで副次的なものにすぎず太平の世にある江戸時代に将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼であった。

さらに『御触書寛保集成』によると「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。」とあり、むしろ大名の参勤交代の際の支出を節減するように求めていた。これにより260年余りにも及ぶ長期政権・江戸時代を築く礎にもなった。

呼称

参勤は一定期間主君のもとに出仕し、任期が満了すると暇を与えられて領地に帰り政務を執ることを意味する。「参っ」て「覲(まみ)える(=目上の人に会う)」ことであるから正しくは「参覲交代」と表記するが、役人が「参勤交代」と誤って記録に記述してしまって以来、このように書くのが一般的になった。

参勤交代を規定した『武家諸法度』の条文には

大名小名在江戸交替所相定也毎歳夏四月中可致参勤従者之員数……

とあり、交代は「交替」とも書かれる。

 原義

参勤交代を制度化したのは徳川家光であり、武家諸法度の寛永令にあたる条文より読み取ることができる。

一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。

現代語に翻訳すると『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。』という意味になる。

目的

この制度の目的は、諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことにより謀反などを抑える効果、あるいは大名の後継ぎは制度上全員が江戸育ちとなることから、精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれるが、これらは結果論でしかなく、当初幕府にその意図はなかったという説が現在では有力である。

そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから、「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることが当時の幕府の文書から読み取れる。

対象

徳川御三家を含む全ての藩に於ける1万石以上の諸大名である。当初は譜代大名には参勤交代の義務はなく、寛永の大飢饉への対応を理由とした寛永19年(1642年)の改正によって、全ての大名が参勤交代を行うようになった。鎌倉公方(足利氏)の末裔である喜連川氏(喜連川藩)は石高五千石ながら十万石格の大名として扱われていたが、喜連川氏だけは例外的に参勤交代の義務が無く、妻子も喜連川に居住していた。藩主は年始の際に、自主的に参府していた。ただし、老中や大阪城代などの要職を務める譜代大名は、在任中は参勤交代が免除された。

最も江戸から遠い藩である薩摩藩は参勤交代に二か月弱、最も近い藩である下妻藩でも数日間を要した。


参勤交代には例外があり、水戸徳川家などの一部の親藩譜代大名、そして殆どの旗本は、領地が江戸に近いことや領地が小さいことなどから、参勤交代を行なわずに江戸に常駐し、定府と呼ばれた。更に居城の火災、領地の天災・飢饉、藩主の病気、代替わりなどの理由で参勤交代が免除されることもあり、これを“用捨”と言った。外様大名でも、内分分知や新田分知によって誕生した小大名は免除されることがあった。

大名に限らず、交代寄合と呼ばれる格式高い旗本もまた参勤交代を行った。

期日と期間

参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられたが、これは在国中あるいは江戸において談合などが出来ないようにしたものだと考えられる。各大名は4月、6月、8月、12月など国元を出発する月、および2月、8月など江戸を出発する月が定められていた。

基本的にはおよそ一年あまりを江戸で過ごすよう定められた大名が多かったが、関東の多くの大名は半年ごとに国元、江戸を往復するよう定められていた。また長崎警護の任を与えられた福岡藩および佐賀藩は2年のうち約100日を、交代で江戸で過ごすよう定められていた。遠国の対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月のみ江戸で過ごすことになっていた。多くの大名が同時期に参勤交代をしたため、街道および宿場はしばしば混雑した。当初西国には出来るだけ長い海路で大阪まで旅をする大名が多かったが、天候による日程の遅延を避けるために、次第に陸路を増やす傾向があった。

制度前

戦国時代には戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、豊臣秀吉大坂城聚楽第伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった。鎌倉時代には御家人が鎌倉に参集する制度があり、足利時代にも西国の守護は京都に、東国の守護は鎌倉に参集する制度が見られた。

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦い徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが次第に制度として定着していき、寛永12年(1635年)に徳川家3代目将軍徳川家光が『武家諸法度』を改定したことによって諸大名の義務となっていった。

当初は家老など有力な家臣も人質として江戸に住む制度があったが、徳川家康の50周忌をもって廃止された。

制定後

制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費などにより大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されていくのである。

この制度は江戸時代を通じて堅持されたが、享保7年(1722年)に上米の制と呼ばれる石高1万石に対し100石の米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり、結局享保15年(1730年)まで続けられた。

制度廃止

嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、その圧倒的な武力を背景に欧米列強が日本に対して開国を迫ることになる。200年以上も鎖国を続けていた徳川幕府はその体制を守るために、文久2年(1862年)8月に参勤交代の頻度を3年に1回(100日)とする文久の改革と呼ばれる条件緩和を行なった。これは日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的としていたが、同時に人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を認めたことで、結果として徳川幕府の力を弱める結果となってしまった。

この幕府の発言力低下を背景に元治元年(1864年)8月、京都で禁門の変と呼ばれる長州藩江戸幕府薩摩藩との武力衝突が起きる。これを期に翌月の9月に制度を元に戻そうとしたが、すでに幕府の威信は大きく損なわれており、従わない藩も多く存在したため、幕府の決定的求心力低下が露見することとなった。こうして慶応3年(1867年)、大政奉還と共にこの制度は姿を消した。

 素人目には参勤交代や価格革命の進行(貨幣市場経済浸透とインフレ進行に伴うランティエ階層(Rentier、大名や旗本といった地税生活者)の没落)こそが、明治政府が「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の政策をスムーズに遂行し得た背景だったとしか見て取れないのですが…

ochimusha01.hatenablog.com

それを判断する自由が「素人」には与えられていない様なので、ここでは可能性を指摘するだけに留めます。まぁ誰にとっても「飯の種」は最大の関心事なんですから、お互い不便に耐えざるを得ないのは仕方のない事なんて些事なのかもしれなくて?