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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「なろう系小説」と「対コミュ症男子包囲殲滅戦」について。

今では名作という定評の確立した「ゴジラGodzilla、1954年)」も、公開当時は日本国内における映画評論家の評判が悪かった様です。

おかぽん電撃大作戦 on Twitter: "東宝三大怪獣、当時の評価です。

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*それにつけても「我々はゴジラなる怪物の人格的個性が見たかったのにその描写が一切ないとは拍子抜けも良いところだ」とは興味深い評価。今から思い返すと当時の日本文化は「私小説こそ至高の文学」「推理小説SF小説も純粋科学たるべき」「漫画もテレビも社会の敵」「婦人の健全な発育を促すべく少女向け雑誌から恋愛要素は一切排除されねばならぬ」といった無数の理想論に拘束され、ある種の閉塞状態に陥っていた。

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*ここに戦前まで引き摺ってきた「日本民族の古代性」の投影を見てとる向きもある。

  • 江戸川乱歩(1894年〜1965年)は「戦後五人男=これから推理業界を牽引していくべき若手き才能」として香山滋(1904年~1975年)、島田一男(1907年~1996年)、高木彬光1920年~1995年)、大坪砂男(1904年~1965年)、山田風太郎(1922年~2001年)の5人の名前を挙げたが、結論から言えば江戸川乱歩を含む全員が本格推理小説の世界に残らなかった。そしてゴジラはそのうち一人だった香山滋の原作。「成功の目なんて片鱗もあってはならない」と考える人間がいても何の不思議もないのが当時の時代精神というものであった。

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  • この閉塞感を念頭に置かないと当時の日本の実像が見えてこない。漫画中において初めてキスシーンを描写した手塚治虫に「社会悪の権化は死ね」なる脅迫状が舞い込み自称「進歩派政治家」がパフォーマンスとして学校の校庭で焚書を遂行した「悪書追放運動」が横行した時代。書籍出版社が漫画の発展を、映画業界がテレビの発展を必死で阻止しようとした時代。「ゴジラGodzilla、1954年)」のドキュメンタリー・タッチや「太陽族映画(1955年)」における(既存の映画作劇術を無視した)手持ちカメラ乱用を評価する動きは、むしろ海外において高まった。後者に至ってはフランスのゴダール監督に強烈なインスパイアを与え「勝手にしやがれ(仏題À bout de souffle、英題Breathless、1959年)」「気狂いピエロ(Pierrot Le Fou、1965年)」といったヌーベルバーグ運動の嚆矢となる作品まで撮影させている。ちなみにゴダール監督は「明日に向って撃て!(Butch Cassidy and the Sundance Kid、1969年)」監督の話が回ってきた時、舞台を当時の日本の学生運動に移し「青春を交番襲撃と銀行強盗と無差別テロに費やす若き革命者達への賛歌」に仕立て上げる構想を表明したとか。当然ハリウッド映画界は却下し、それでこの話はなくなったが、考えてみれば「公民権運動の英雄マルコムX賛美が規定のあるゴダールの「カルメンという名の女(Prénom Carmen、1983年)」やヒッピーの末路を描いた「ドラッグストア・カウボーイ(Drugstore Cowboy、1989年)」も筋書きとしては同じだし、船戸与一の「海外に脱出した左翼運動家が日本人を代表する英雄として国際社会を股にかけ大活躍する冒険活劇」だってイラン革命クルド人独立運動に取材した「砂のクロニクル (1991年)」まで続く。この系譜は思うより後世に深刻な足跡を残し続けるのである。少なくとも湘南でよさこいを踊る少女チームが主役の日常4コマ浜弓場双「ハナヤマタ(原作2011年〜、アニメ化2014年)」のアニメ化に際して「どんな話だ?」「湘南で居合抜きの達人の日本少女と、忍者並みにパルクールに秀でたアメリカ少女が太陽族の末裔と戦う話だ」なんて冗談が国際SNS上で流れるくらいには。こうした息の長い展開を背後から支えてきたのは、実は湘南と南仏とカリフォルニアの景色の相似性だったとも。要するに今日の観点からすれば、こうした展開そのものが「風景オリエンテッドな展開」だったともいえそうという次第。

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  • しかし皮肉にも「私小説こそ至高の文学」「推理小説は純粋科学たるべき」とする風潮は(皮肉にも、ある意味その急先鋒だった木々高太郎坂口安吾の後援を受けてデビューした)松本清張の「点と線(雑誌「旅」連載1957年〜1958年、単行本化1958年、映画化1958年)」「眼の壁(「週刊読売」連載1957年、単行本化1958年)」に始まる社会派ミステリー・ブームによって完全駆逐されてしまう。エミール・ゾラの自然科学小説から田山花袋の紀行物や菊池寛作品に至る系譜こそ日本文学の本命と確信していた松本清張にとっては時代の要請に応じた必然の結果に過ぎなかったが「罰がなくなれば逃げる楽しみもまたなくなる」の定言通り結果は事実上の対消滅で1960年代に入ると推理小説SF小説の世界は翻訳ブーム一色に塗りつぶされていく事に。そうした流れについてはこう要約する事も出来る。
    瀬古あゆ美「ミステリ(October 11.2000) 

    19 世紀末頃には、民主主義、市民社会のある程度の達成、成熟により、犯罪解決のための合理的立証が必要になっていた。市民社会において、復讐や決闘は禁止され、また特権階級による合法的な殺人も減少し、犯罪を取り締まる側も、権威や組織力だけでは犯罪者を処罰することができなくなる。つまりここにロジックを担うものとしての探偵(職業探偵、探偵役の素人や警官)なるものの介在する余地が生じたのである。

    戦後民主主義の日本においてミステリが一貫して人気ある読み物であった理由もそこにとれる。同様に、科学的イコール普遍的に正しい、という了解が共通のものになったことも、ミステリが成立する大前提としてあった。

    そして松本清張「点と線(1957 年)」を契機に主に社会人層を読者として、社会派ミステリがブームとなる。本格ミステリのように謎解きを主眼とするのではなく、社会的テーマを取り入れたこれらの作品群は、ミステリの進化であるととらえられ、本格ミステリの地位は低下していく。社会派を受け入れられなかった青少年の本格読者は、この衰退とともに海外小説や SF へ移行することになる。

    高度経済成長という時代の流れが社会派を受け入れたということが、それら主題性をむしろ排除する本格ミステリの不遇を招いたことは確かである。しかしながらそこには、相互批判、論争、優秀な批評の欠如による本格ミステリの腰の弱さも、少なからず原因としてはたらいていたと言える。

  • 婦人の健全な発育を促すべく少女向け雑誌から恋愛要素は一切排除されねばならぬ」というルールを最初に破ったの自体はおそらく手塚治虫石ノ森章太郎らで、少女漫画的キャラクターを最初に基礎付けたのも彼らとされるが、そもそもそういうルールを律儀に守る男性作家陣(なんと赤塚不二夫横山光輝松本零士などの事だ!!)が駆逐され「原則として女性作家が女性読者に向けて少女漫画を発表する」伝統が生まれた契機となったのは同じトキワ荘出身の水野英子石ノ森章太郎が創刊した漫画同人誌「墨汁一滴(1953年〜1960年)」が「西武池袋線沿線グループ(石ノ森章太郎に加え松本零士久松文雄、斎藤ゆずる、江波じょうじ、宮谷一彦、ひおあきら、河あきら、細井雄二らの名が挙がる)」に発展していく過程でプロデビューし、学園ラブコメ漫画の開拓者となった西谷祥子らの登場とされる。全体としては「(海外のオペラやバレエの古典、宝塚公演の翻案としての)ファンタジー物や海外時代物の世界でしか恋愛が許されない時代」「海外を舞台とした現代物でなら恋愛が許される時代」などを経て全面的解禁に至る展開となった。同時代流行していた源氏鶏太のサラリーマン小説(1951年〜1974年)では「家と家を結ぶ見合い結婚こそ日本の伝統。自由恋愛なんて毛唐の持ち込んだ一刻も早く撲滅すべき悪癖に過ぎない」なる主張が「大人」の大多数の支持を得ていた事を思えば、まさしくその過程はSocial Hackingそのものだったのである。そうした不断の努力が何を生んだかについては、水野英子のこのコメントに集約される。

同じ様に私達はミヒャエル・エンデ(Michael Ende)「はてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」の真価を誤解していたかもしれません。

あらすじ

バスチアン・バルタザール・ブックス(Bastian Balthazar Bux、イニシャルBBB)は現実世界に飽き飽きしていた。デブでエックス脚でのろまな少年に過ぎず、いつもいじめに遭っていたからである。ある日、カール・コンラート・コレアンダー(Karl Konrad Koreander、イニシャルはKKK)の営む古本屋から一冊の本を盗み出し、学校の物置で読み始める。表紙は赤金色の絹で装丁され、互いの尾を咬んで楕円になっている明暗二匹の蛇が描かれている。題名は「はてしない物語(Die unendliche Geschichte)」。

それは子供が訪れて夢と希望を託してくれなくなったせいで存続の危機に立たされているファンタージエン世界の物語だった。一刻も早くこの世界を虚無から救ってくれる「名代」を見つけなければ、この世界を束ねる女王「幼ごころの君((Die Kindliche Kaiserin)」別名「望みを統べたもう金の瞳の君」の命が危ない。しかし世界中どこを探しても「名代」は見つからなかった。最初からそれはこの本の中で見つかる性質のものではなかったのである。


この本はファンタージエンのありとあらゆる事柄を記録に残す「さすらい山の古老(Der Alte vom Wandernden Berge)」が執筆しているという設定で、その古老にバスチアン少年は発見されてしまう。最初は「名代」となるのを渋っていたが、この本は無限ループ構造になっており(第1部の最後のページが、古老が「はてしない物語」を最初のページから読み返す場面で終わっている)遂に根を上げる。


バスチアン少年が「名代」として繰り広げる冒険によってファンタージエンの世界はたちまち活気を取り戻す。しかし実はバスチアン少年にとって「夢が叶う」という事はそれ以上追い求め続ける意義を失う事でもあったのである(実際何でそれがやりたかったかすら思い出せなくなってしまう)。こうして最初は「夢多き少年」だったバスチアンは次第に空っぽな人間になっていき、次第に冷酷で足る事を知らぬ暴君へと変貌していくのだった…

当時はこんなホラーめいた童話、到底映像化なんて不可能で1984年に制作された映画版は単なる「虚無を倒す勧善懲悪物」へと改変されてしまいました。 でも最近 ‥むしろ原作版のこの展開の方がリアリティが感じられる時代になってきたとは思いませんか?

 抜粋

「なろう系異世界転生小説」とはどのような作品なのか……?それは一言で言うなら「コミュ障が暴れる物語」というのが私の主張です。

そもそも、なろう系を馬鹿にする人たちはなろう系小説の最初の50ページくらいってどんな話してるか分かってますか?大体「俺はコミュ障で友達がいなくて家族との仲も険悪で云々」って話が繰り広げられてるんですよ!少なくともサンプルの4作品すべて!

では、なろう系主人公はなぜコミュ障なのか、という話に移りたいと思う。

なろう系異世界転生モノの主人公のコミュ障ぶりは凄まじい。何がすごいって家族との仲がベラボーに悪い。私はエロゲーマーですが、エロゲーだと「血のつながった妹とセックスしても生活費を払ってくれる親」なんてのがいますがそんなん無縁である。


大体「話の都合上要られると邪魔なので適当な理由で追い払われる」のがラノベの親ですが、その場合大抵「生活費はちゃんと支給してくれた」わけで、そういったフォローをしないレベルで親子仲が険悪なラノベってのはそれだけで新鮮でした。

んで、家族との仲がそれだけこじれているだけに、一般社会での生活は言わずもがな……ということですよ。

んで、そんなコミュ障が主人公なのが「なろう系異世界転生モノ」なわけですが、この手の作品の他のお約束は概ね「コミュ障」という特徴から演繹して導出可能じゃないかなあ、というのが私の考え。

まず「異世界転生」ですが、これはもう明らかですね。この日本が現在リア充至上主義の国(だと思われている)以上、コミュ障主人公が活躍するには異世界に行ってもらうのが一番手っ取り早いです。「外国」という選択もありますがその場合読者がおそらくついてこない&作者の下調べが大変すぎる

んで、「ハーレム」ですが、これも「コミュ障の産物」じゃないかなあと思うんですよ。

コミュ障に男女関係のいざこざを適切に処理するなんてスキルあるわけないじゃないですかヤダー、ということで、必然的に複数のヒロインが主人公を狙っていがみ合うハーレムになってしまうのですよ。

また「なろう系の異世界モノはなぜ奴隷制がしょっちゅう出てきてしかもそれを主人公が利用するんだ???」という疑問を以前ツイッターのどこかで見かけましたがそれも簡単に説明がつきます。

つまり、「コミュ障」なので当然一対一の人間同士の付き合いなんてものはできないんですよ。主人公に出来る人付き合いは格下の奴隷相手のみ……そう考えれば主人公が異世界で奴隷制を抵抗なく受け入れるのも納得だなあと思います。

「俺TUEEEだけで単純」という批判について答えておきます。「男性向け娯楽作品でご都合主義で精神論で勝利!」って流れじゃない作品がオタク界にどれだけあるんだ?という反論は封じたうえで答えますね。

そもそも、日常系の少し前に流行った「現代日本が舞台で不思議な能力を持つ女の子とボーイミーツガールして超能力をもらってヒロインのために体張って戦う」って作品群と比較すれば、なろう系の作品の主人公はそこまで無双してないんじゃないかなあ?というのが私の意見ですね。

現代文明の知識を持って剣と魔法のファンタジー世界に転生するなんてのは、前述の学園バトルもので主人公が持っている超能力と比べれば大きなアドバンテージではないと思います。なので「無双する」「主人公強すぎ」ってのは昔の作品を知らない・忘却しているが故の勘違いではと思います。

ただし、なろう系の主人公は「コミュ障」であるがゆえに、学園バトルモノの主人公にはない圧倒的なアドバンテージがあり、それが「強い」ように見えてしまう、ということはあるでしょう。

なろう系主人公は「コミュ障」であるが故の強さへのアドバンテージがあります。それは「相手(人間含む)への容赦が全くない」という点です。

学園バトルモノでは「力を使いすぎて性格が変わったらどうしよう」「代償を払うことになったらどうしよう」「ヒロインと別れることになったらどうしよう」といった悩みゆえに主人公が全力を出せず、ピンチになるというのは珍しくありませんでした。

でもなろう系主人公がそういう悩みをしているの見たことがありません。「生きるのに必要」「ヒロインを奴隷として買い取るのに必要」となれば、直立二足歩行の言語を操る知能を持つモンスターだろうが、犯罪者とは言え人間だろうが、容赦なくSATSUGAIします。これは従来にない特徴かと

「人間・もしくは人間に類似したモンスターを殺傷することに抵抗がない」というのがおかしいと思えない人は「GATEというアニメで自衛官たちがPTSDを発症しないのはおかしい」という苦情が寄せられたことを挙げておきます。

何にせよ「異世界に転生して早々、人間を平然と殺せる」ってのがなろう系主人公が無双している・強そうに見えることの根っこなんじゃないかなあ、と私は思っています。

一部界隈では「さす兄」こと魔法科高校の劣等生以来、自分の快楽を満たすためだけに生まれたとみなされることも多いなろう系チーレム作品について、自分なりに整理してそうじゃないってことをきちんと主張してみたいってことからここに書いたことを考え始めました。

もう一つ言いたいことあるの忘れてた!

大学のゼミで現代文化を考える基礎として宇野常寛ゼロ年代の想像力とリトル・ピープルの時代を読んだんですね。

私が宇野常寛のこれら2作品を読んで感じたことは「男ってどう生きたらいいの?」ってことです。

というのも、宇野常寛がこれら2作の中で肯定的に評価を与えていた人物・キャラクターは概ね「女性、もしくは同性愛者や不能の男性」なんですね。そんな話されたら「男はどうやって生きたらいいんだ!」って男としては言いたくなるわけですよ!

んでまー、その宿題を持ち出すと、気づいたら男がちゃんと物語の中心に立って戦っているなあ、というのが私の意見。ただ「ためらいのなさ」などから来る極端なクールさはどこか人間っぽくないような印象を受けるのも事実ですが

 これまでの投稿と突き合わせてみましょう。

①既視感を感じると思ったら、ロバート・E・ハワード「英雄コナン・シリーズ( Conan the Barbarian、1932年〜1936年)」だった。

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  • 大半の作品の筋書きは「現実社会のルールなんて一切構わない野蛮人コナンが、拷問され怪物に生贄に捧げられようとしているヒロインを手段を選ばぬ暴力で救出する」というもの。そのままだと救出されたヒロインが溜まってハーレム状態になりそうだが、各短編の時系列が曖昧だから、その隙間に全てのヒロインがどんどん消え失せていっても何の問題にもならない。

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  • 実はクトゥルフ物の太祖の手になるアーサー・マッケンの「パンの大神(The Great God Pan、執筆1890年、刊行1894年)」が発表大変な物議を醸した事などもあり、当時パルプマガジン位掲載されるSF小説ファンタジー小説では恋愛や一般的な性描写が御法度になっていた。
    アーサー・マッケン パンの大神

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  • それで「ヒロインが半裸状態や全裸状態で拷問されたり怪物の生贄に捧げられる場面」目当てで読者が群がったとも。ちなみに作者は外観こそ全身の筋肉を鍛え上げたムキムキ男だったが重度のコミュ障で、母が病死したら自分も後追い自殺してしまう。翌年文学仲間のラブクラフトも餓死し、「ウィアード・テールズ御三家」最後の生き残りたるクラーク=アシュトン=スミスも次第に筆が振るわなくなってパルプ・マガジン文化はある種の曲がり角を迎える事に。

  • ちなみに、当時はなんとこのパターンの性別逆転版なんってのも存在した。「シャンブロウ(Shambleau、1933年)」で有名なC・L・ムーアの「ノースウェスト・スミス(Northwest Smith)シリーズ(1933年〜1940年)」。こちらは毎回「理想のイケメン(ただし見掛けだけで受専)が美女の姿をした怪物に襲われて生命の危機に直面するも、助手のヤロール君(これも無駄にイケメン)などが「美女=怪物」を倒して救出」という展開。「どうして性別逆転するとこういう筋立てになるか?」は、同種の展開を辿るジェイムズ・ティプトリー・Jr.「接続された女(The Girl Who Was Plugged In、1974年)」と併わせ、今日なおアメリカ文学上の重要設問であり続けている。
    ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「接続された女」 -- 慶應義塾大学SF研究会
    *ちなみにC・L・ムーアロバート・E・ハワードラブクラフトクトゥルフ・サークルの元となったCosmic Horror推進組のメンバーでもあり合作もしている。

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  • 昔の投稿で「ある種のグランギニョール様式」という表現を用いた。これは全盛期のグランギニョール劇場が「人気女優がヒロインが無慈悲に虐殺されるだけの寸劇の主演を連続して演じるスタイル」が流行したのにちなむ。まさにしの全盛期だったのである。
    江戸川乱歩の「蜘蛛男(1929年〜1930年)」「盲獣(1931年〜1932年)」「人間豹(1934年〜1935年)」といった「特定の女性イメージに執着し続ける」連続殺人鬼、代々殉死を強要される一族の悲劇を中村錦之助が1人7役で演じた「武士道残酷物語(1963年)」などにも影響を与えた。

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  • もっと「大人向けの対応」というのもあり「(小池一夫原作漫画の様な)大人向けハードボイルド作品」では今も続いている。モーリス・ルブラン「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン・シリーズ(1905年〜1939年)」やイアン・フレミング「007ジェームズ・ボンド・シリーズ(1953年〜1965年)」で採用された「救出が間に合わずヒロインが最後の瞬間に(シャーロック・ホームズから撃たれたりして)死んでしまう」「前回救出されたヒロインは、みんなほどなく死んでしまう」というパターン。
    *「ノースウェスト・スミス・シリーズ」日本語訳の表紙を手掛けた松本零士も「あえて大人向けを心掛けた」SFスパイ漫画「セクサロイド(1968年〜1970年)」以外でも結構こっそり使っている。1975年にデビューしてアンチヒーロとしての座を固めたX-Menウルヴァリンも単発シリーズは割とこれ。当時のマーベルコミックは彼の人気と英雄コナンシリーズのコミック化に支えられていた側面もあるので、ある種のリヴァイヴァルといっても良いかも。「コブラCOBRA THE SPACE PIRATE、1978年〜)」でブレイクした寺沢武一も割と容赦ない。

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②こうした景色を「コミュ障が自分好みの娯楽に困らない黄金期」と呼んでもいいかもしれない。だが1960年代後半から英国を震源地にニューウェーブ運動が始まり「SF小説ファンタジー小説に恋愛沙汰や一般的性描写は御法度」という物語文法の崩壊が始まってしまうのである。だがそれはそれで「新しい遊び場が出来ただけ」という認識もあった。

  • 平井和正はこのムーブメントに大きく乗った口と言える。1971年には漫画「ウルフガイ」を小説化した「狼の紋章」を日本で初めて「文庫本書き下ろし」という体裁で発表。また同年には日本SFにおけるサイボーグテーマ作品の草分け「サイボーグ・ブルース」が書籍化され、SFマガジンに後の幻魔大戦シリーズに繋がる劇画ノベル「新幻魔大戦」の連載を開始し人気小説家の仲間入りを果たした。
    *1970年代前半は不思議な時代で「日活アクション映画の短い春(1970年〜1971年)から(海外女囚映画ブームに連動した)東映ピンキー・バイオレンス(1972年〜1973年)」といった流れがあったかと思えば小池一夫原作「御用牙(1970年〜1976年)」や横山光輝ウイグル無頼(1972年〜1973年)」の発表期だった。それ以前の時代からエロやバイオレンスは日本エンタメ業界全体に横溢していたが、この頃から読者の要求に質的変化が起こり始め、当時なまじ人気だった作品は1970年代後半には一掃されてしまう。

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  • その一方で1975年に創刊された朝日ソノラマ文庫より菊地秀行魔界都市〈新宿〉シリーズ(1982年)」「吸血鬼ハンターDシリーズ(1983年〜)」、夢枕獏キマイラ・吼・シリーズ(1982年)」などが定期刊行される様になったのも大きい。こうした流れが夢枕獏サイコダイバー・シリーズ(1984年〜)」などのエロス&バイオレンス満載の伝奇ロマン路線を切り開いていく。
    *「伝奇ロマン路線」そのものは半村良石の血脈(1971年)」などの作品が開拓したもの。これに先行する形で山田風太郎忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」が、同時代作品として「君よ憤怒の河を渉れ(1975年)」「犬笛(1996年)」といった西村寿行の「ハードロマン」などがあった。

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  • 栗本薫をして「グイン・サーガ(1979年)」執筆に着手せしめた事で有名な高千穂遥 「美獣(ハリィディール)~神々の戦士(1978年〜)」が発表されたのも1980年代。横山光輝「ウィグル無頼」の様なマチズモを継承する形となった。
    著者インタビュー:宵野ゆめ先生

③そして「ラブコメ作品の少年誌への進出」が思わぬ形で始まる。柳沢きみお「月とスッポン(1976年〜1982年)」そして「翔んだカップル・シリーズ(1978年〜1987年)」。また別の形で新しい「遊び場」が出来た。

181 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 23:52:52.94 id:jFbZJjOF0
今でこそこんなすごい絵を描いているきみお先生も36年前は萌えマンガ家だった。
日本最初の萌えマンガ家である。

柳沢きみおがラブコメを作った」という事実だけは知られているが、
あまり知られていないその内容についてまとめてみた。

※日本ラブコメ年表(~1984)
1976
「月とスッポン」柳沢きみお
1978
翔んだカップル柳沢きみお
うる星やつら高橋留美子
1980
「Good Girl」柳沢きみお
「みゆき」あだち充
めぞん一刻高橋留美子
「胸さわぎの放課後」村生ミオ
さすがの猿飛細野不二彦
1981
「タッチ」あだち充
「初恋スキャンダル」尾瀬あきら
「さよなら三角」原秀則
Theかぼちゃワイン三浦みつる
「ストップ!!ひばりくん!」江口寿史
1982
「キックオフ」ちば拓
1983
「スキャンドール」小谷憲一
ウイングマン桂正和
1984
きまぐれオレンジロードまつもと泉


194 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 23:56:53.57 id:jFbZJjOF0
きみおはこの最初の2作品で後の100年分の仕事に匹敵するラブコメの公式を生んでいる。

★公式1「月とスッポン」
さえないダメ男が、何故か可愛くて優しい女の子に好かれる。

★公式2「翔んだカップル
クールな美少女と可愛い系の女の子の間で優柔不断な男が迷う。
もうこの二つだけでラブコメを90%完成させていると言ってもおかしくない。

つまりラブコメというジャンルは、

【その時代の最も可愛い女の子の絵を描くマンガ家がきみおの設定を受け継いでいく】
伝統芸能のようなものだ。

*ちなみにラブコメ大源流と言われるジェーン・オスティン「ノーサンガー僧院(Northanger Abbey、執筆1798年、刊行1817年)」には「男は自らの自由意志に従って女に求婚したと信じたがる。その幻想を壊すことなく自らの望む相手に求婚させる手管をこそ女は磨くべきである」なる宣言があるし、以降の作品では「自分の高慢や偏見による視野狭窄で選ぶべき男を選び損なうのは一生の恥」なんて観点も浮上してくる。要するにそれは身分流動性の激しいジェントルマン階層の淑女としてのサバイバル術。自他共に認める納得のいく結婚をするのが「勝利」。親に決めさせるのではなく自分の目でしかるべき相手を見出すのが「自由」。出発点がこれの「少女漫画のラブコメ」と「少年漫画のラブコメ」は歴史のこの時点において既に決定的齟齬が発生してしまっていたのである。ただし1960年代から1690年代にかけては戦前的家族制度の崩壊期にも当たっており、「少女漫画のラブコメ」もまたその主題を「(経済面も含めた)しっかりした自分の確保」といった内向きな内容にシフトさせていく。

高橋留美子うる星やつら(1978年〜1987年)」「 らんま1/2(1987年〜1996年)」や北条司シティーハンターCITY HUNTER、1985年〜1991年)」 は既に実質上ハーレム物の体裁を整えていたが「タイムシフト(一つ一つのエピソードに登場する恋敵は数が絞られ原則として三角関係が描かれるだけ)&パラソル構造(恋敵同士は互いに離散して生活しており互いの事をほとんど知らない)」 などによってそれなりに巧みに処理されていた。だが1990年代に入るとこうした仕組みが上手く回らなくなってくる。「全員一緒に愛でたい」といった新たなニーズが発生し「ハレム物」というジャンルが成立してしまうのである。
*とはいえ「源氏物語(10世紀頃成立)」において既に女性作家が女性読者向けに「雨の夜の品定め(光源氏の女全てに対する総評)」とか「光源氏の女全てを集めた演奏会」なんてスペシャルイベントが提供されている。以前から「語る側の都合(恋敵同士が常時同じ空間に共存していては物語展開の制約が大き過ぎる)」を侵害しない範囲でなら、そういう事も許されてきたとも。

  • 試せる可能性全てにアタックしたくなるループ構造を特徴とする「美少女ゲーム」というジャンルが台頭したせい。この次元ではコミュ症男子と制作側の思惑が一致する。「恋敵ごとに生活空間を切り分けて衝突を回避する方向に割くリソースなんてある筈ない」。
    *「美少女ゲームの台頭」…「エロゲー業界最大手」エルフの「同級生(1982年)」「同級生2(1984年)」、コナミときめきメモリアル(1995年)」「ときめきメモリアル2(1999年)」カクテルソフトPiaキャロットへようこそ!!シリーズ(1996年〜)」辺りを嚆矢とする。

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    *こうしたゲーム様式(試せる可能性全てにアタックしたくなるループ構造)はコーエーアンジェリーク(1994年)」を講師に女子へも受容されていくが、そもそも「自らの高慢や偏見による視野狭窄で選ぶべき男を選び損なう事なかれ」「男は自らの自由意志に従って女に求婚したと信じたがる。その幻想を壊すことなく自らの望む相手に求婚させる手管をこそ女は磨くべきである」といった信条から出発した「少女漫画のラブコメ」はハレム物に行き着かなかった。代わりに「すべての攻略可能な男子について、弱らせて看病したり励ましたりするイベントを用意すべし」なんて斜め上の欲求が浮上してきたりするのである。その筋金入りの「投資家気質」故に「いっそのこと全部に投資したい」という発想自体が想定外で「誰か選ぶなんて到底無理」が甘えにとしか映らない? とはいえ次第に「互いにイチャイチャし合う男子を背後から見守っていたい」という方向に関心がシフトしていった点では男子向けの「美少女ゲーム」とそう変わらない側面もあった。

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  • また背景に「1960年代から始まった戦前の社会制度や家族制度の崩壊が1990年代にほぼ完了した事」を挙げる向きもある。

    新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

    どうして父親は娘から嫌われるのか?

    ①昭和型マチズモ
    *1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

    • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
    • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
    • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

    ②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
    *「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

    • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
    • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
    • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
    • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
    • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
    • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

    要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

  • また「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の綾波レイ人気に端を発する無表情系キャラ人気の高まりから2000年代前半に流行した「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」という図式への流れに一つの重要な契機を見出す向きもある。
    *こうした流れが「らき☆すた(原作2004年〜、アニメ化2007年)」「けいおん!(原作2007年〜2012年、アニメ化2009年〜2012年)」といった「女子のする可愛い事をひたすら愛でる系」作品につながった側面もある。一貫して進行していったのは「きみとぼくとの関係性の徹底的な排除」だったとも。
  • ちなみに同時期、一部女子は志村貴子放浪息子(2002年〜2013年、アニメ化2011年)」「青い花(2004年〜2013年、アニメ化2009年)」いけだたかしささめきこと(2007年〜2011年、アニメ化2009年)」浅井いにお「おやすみプンプン(2007年〜2013年)」「うみべの女の子(2009年〜2013年)」に傾倒していく。ある種の「本物志向」が強まった時期とも。

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    *ある種の「本物志向」が強まった時期…そもそも生物学的に考えても「想像の世界で欲望解放の自由を得た人間が志向するベクトル」が男子女で異なるのは当然の事。むしろ時々「奇妙な合意」が形成される点にこそ不思議さがあるとも。そういう意味で「ハーレムもの」「百合物」には確実にある種の同床異夢性が存在するのである。

    抜粋

    今まで、人間の「性欲」の調査は非常に困難であったが、インターネットによりそれを可能にした。1年間にネット検索された4億の語句を収集。その中で13%を占めていた5500万のエロワードと、4万のアダルトサイトを調べ上げた。


    年齢に関係する性的検索ワードで、「ティーン」「若い」に次いで多かったのが、なんと「ママ」だった。男性に人気の女性の年齢は圧倒的に10代なのだが、次のピークはなんと50代

    「その気」になるための男性の脳が単純なスイッチだとしたら、女性の脳は「F1戦闘機のコックピット」のようなもの。ワイヤーやボタン、信管が複雑に張り巡らされている。しかも肉体的な興奮と心理的興奮が原則として分断管理されている。

    女性は、リラックスして安心できて、求められていると感じられる状況で、そのうえ身体的にもそそられないと性欲が高まらない。

    *他に「男性器の大きさを気にするのはむしろ男性、おっぱいの大きさを気にするのは女性」とか「女性の性欲は思うより女性器の機能から制約を受けない。少なくとも男性器の性欲が男性器の機能に制約を受ける様な形では。むしろそれを拘束するのは視線と皮膚感覚」とか、色々… 

  • ところで文化人類学などの観点では原則として一夫多妻制は女尊男卑文化、多夫一妻制は男尊女卑文化に紐づけられる。その尺度は「特定個人がどれだけ良い思いをするか」ではなく「どちらの性が大人数相手を見つけられないか」。また前近代基準である以上、当然「財布の紐を誰が握るか」「閥族の影響力がどこまで及ぶか」といった生々しい問題も織り込む形でさらに細分化されていく。
    *逆を言えば「女尊男卑社会=女性がのびのび自由に振る舞える」という訳でもない。(中東では一般に財産管理の名代が女性なので)ハドラマウト貧民から一代で大富豪に成り上がったムハンマド・ビン・ラーディンが石油利権獲得の為に片っ端から現地族長の娘達を嫁に迎え続けた結果、その一族からウサーマ・ビン・ラーディンの様な「不肖の息子」が生まれてしまった不幸な例もある。文化人類学などは「持参金の配分方法」などに気を回すだけで、そこに愛があるかどうかは証明不可能として関心を持たないのである。

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⑤あまり話題とならないが「ゼロ年代を牽引した文化英雄」として後世教科書に載るのは当時電撃文庫編集者だった三木一馬かもしれない。「全ての創り手に対して、批判的な意見より「静かなるBUYサイン」を届け続ける事」といった編集者マインドを受験生が暗記させられる日もそう遠くはないのかもしれない。
三木一馬 - Wikipedia
*「必ずしも良い業績ばかり残した人ではない」という意見もあるが、アメリカには「良い業績しか残さなかった政治家なんて、手抜きしたか優等生でいたかった臆病者に過ぎない」なんて格言まである。

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⑥ここにスウェーデン人作家スティーグ・ラーソン「ミレニアム(Millennium)シリーズ(2005年〜、2011年ハリウッド映画化)」やピエール・ルメートル「その女アレックス(Alex、2011年)」といったウルトラ・フェミニズム勢のエンターテイメント業界への進出という要素が加わってくる。

  •  日本では一般に宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」が角川書店の「少年ケニア」を下し「ピーターパン・シンドローム(1981年)」が和訳されベストセラーとなった1984年が「フェミニズム元年」と記憶されている。その動きは1960年代から1990年代にかけて本格的に進行した「戦前から継承されてきた身分差別的社会制度や家父長的家族制度の崩壊」を追い風に受けて確実な成長を遂げてきた。
    *いわゆる「角川商法」によって1970年代から1980年代にかけて日本エンターテイメント業界を牽引した角川春樹のモチベーションが、1970年における「いちご白書(The Strawberry Statement 、1969年)」エリック・シーガル「ある愛の詩(Love Story)」に込められた「父親と息子の対立」という図式に感動しての熱狂的翻訳に端を発している事を思えば随分と皮肉な結果を迎えたものである。


    *この動画に「Cops doing what they do best.」なるコメントがつくのが2010年代。日本では今でも「国家や企業が裏で何をしてるか知った人間は、いやもし本当に君が人間なら、今すぐ目の前の警官やATMに殴りかからずにはいられない」という扇動が盛んに行なわれている訳だけど。

    *この流れ、少なくとも「B級映画の帝王ロジャー・コーマンが飛びついてくるくらいには確実に「本物」だったのである。それを後押ししたのが本当に「国際的なフェミニズム運動の高まり」だけだったかどうかは別として。

  • 2010年代に入るとディズニー映画すらその影響を免れ得ず、ディズニー・ファン女子層をして「ディズニーはウルトラ・フェミニストに乗っ取られた」「まるで体に良いからと言い張って口にブロッコリーを押し込む母親みたいになり果ててしまった。しかもここでいうブロッコリーは、全ての女は全ての男を憎んで倒せという政治的プロパガンダなのだ」と散々の評価の評価を受けた。この状況への苦肉の回答が「ズートピア(Zootopia、2016年)」だったとも。

 ⑦こうしてみると「コミュ症男子への包囲殲滅網」がじわじわと完成していく図式が浮かび上がってくる。そしてこうした展開がアメリカにおいては、より深刻な影響を及ぼす事になったとも。
*まぁこういう事にあまり男女の違いはないのかもしれないが。

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  • まぁ起源はアメリカを19世紀末から牛耳ってきた(少なくとも当人はそういうつもりでいた)WASP男性まで遡る。彼らは「進歩主義者」を自認しつつ、その実態はWASP男性優越主義で移民や非プロテスタント系アメリカ人に対して寛容でなく1930年代からじわじわと批判が高まっていく。

  • 決定的破局が訪れたのは公民権運動やヒッピー運動が吹き荒れた1960年代後半に入ってから。だが不思議とその時期に21世紀につながる決定的動きがあったという訳ではなかった。

  • 2010年代に入ってからの危機感の高まりが「オルタナ右翼」台頭につながったという分析すらある。

もしかしたらリベラルな人達は国際的に、エドモンド・バークいうところの「時効の憲法(prescriptive Constitution)」の枠組みを超えてやり過ぎてしまったのかもしれません。まぁ日本も未だ無反省に「たった一人でもこの世の人間を不愉快な気持ちにさせる発言は全てヘイトスピーチであり、レイシズムであり、ナチスである。そんな発言をする人間は全員、精神病院か監獄に送り込め。連帯責任で親族もろとも絶滅収容所で殺し尽くせ」なんてシュプレヒコールを続けてる人達がいる訳ですが。
*まぁ2010年代の人間がゼロ年代の批評を容易に覆せてしまう様に(何しろ当時の動きのその先を知っている)、こうした分析も2020年代に入れ大半が容易く覆されてしまうであろう。だがまぁ、だからといって発言を慎んでも後世から臆病者の謗りを受けるだけであろう。いずれにせよ誰にだって逃げ道なんて残されちゃいないのである。

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また、こういう話とは無関係に、多くの歴史的課題が20世紀中に片付いてしまって「罰がなくなれば逃げる楽しみもまた失われる」ジレンマに製作者側が本格的に苦しめられる状況も浮上してきました。そういう混乱を含めての「ズートピア(Zootopia、2016年)」の賛否両論なんですよね。これについていけないと日本が本当に終わっちゃう?