諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【中国拳法】「北派と南派」「外家拳と内家拳」の関係が分からない。

北斗の拳(原作武論尊、作画原哲夫、1983年〜1988年)」を知ってる人は、何となく中国拳法の北派と南派をこういうイメージで把握してるはずです。

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 ところが実際はこれ定説でも何でもないみたいなんですよね。中国拳法方面は完全に素人なので色々情報を集めてみました。

中国拳法を技法的観点から区分する際に最も一般的なのが、「外家拳」と「内家拳」に分ける方法である。

  • 外家拳は、鍛えぬいた肉体から生み出される筋力で技を打ち出していく拳法。主として、筋肉や骨、皮膚といった肉体を直接的に鍛える練習を行うため、初期の段階までの上達が早いのが特徴とされている。

  • 内家拳は、筋力に関係なく身体の内部から発せられる力(気功、内功ともいう)に、技の起点を求める拳法である。呼吸法や基本技を徹底的に反復練習することで技法の上達を求めるため、上達するまでには、時間がかかるが、それだけに熟練したときの実力が期待できるのが利点。

ただし両派の違いは絶対的なものではない。内家拳を学ぶ者も少なからず肉体を鍛えるし、外家拳を学ぶ者も気功や内功を技法に取り入れている。両派の区分基準は、主体にしている練習の違いに過ぎない。

ちなみに、北派拳法は内家拳に、南派拳法は外家拳に属するのが一般的である。また、外家拳内家拳それぞれの特徴として、門派が出家しているかどうかを挙げる説もある。その場合、基準は外家拳が出家している門派、内家は在家ということになるが、この説は例外が多いので使われることが少ない。

【Wikipedia】酔拳(すいけん、Zui Quan 、Drunken boxing 、Drunken Fist)

実際は中国武術に「酔拳」という名称の門派(流派)は無く、「酔八仙拳」や「東海酔拳」「武松酔拳」「酔酒魯智深拳」「魯智深酔拳」「酔羅漢拳」「酔酒拳」「酔盃拳」など、中国の南北に多数の酔拳と称される拳があるだけである。『西遊記』の孫悟空をモデルとした猿拳系の酔猴(コウ)拳もある。

  • 現在では、大会における表演武術としても知られている。代表的な手型、杯手(お銚子を象った手)は喉のツボを掴み喉を破壊するためであり、実戦時には鳳眼拳(人差し指をにぎりこみ突き出した拳)に変化し急所をつくこともある。他にも種類があり3本の指(親・人・中指)を広げた一般的な型、北派の酔拳が使う月牙叉手(親・人指を広げた形)等、演武する套路上に出てくる3種類の手型があるが使用法などはまったく同じである。

  • 中国武術の分類においては地功拳(地身尚拳)系や象形拳に分類され、地面の上を転げ回りながら戦うことに適し、また足場の悪い場所での戦いにも適すると言う。中国北部の雪深い地域にて編み出されたものであり、足場の悪い場所では寝転んで戦ったほうが良いという必然性により生まれたとする説もある。相手に圧し掛かり敵足を刈り、全体重を掛けて倒れこみ肘打を極め打ち倒す「倒極法」を技の根本とするものであるとする説もある。

  • 有名な映画のコピー「酔えば酔うほど強くなる」はよく知られているが、実際にはフィクションのように酒を飲んで戦う拳法ではない。水滸伝の登場人物(花和尚魯智深など)が伝説上の始祖とされることもあるが、あれはただ拳法の達人が酔って戦っているだけである。蛇足ながら、飲酒しながらの運動は生理学的に大変危険であり、生命にかかわることがあるため、避けなければならない。

  • 俗説によれば酔拳の酒に酔う様は古代中国のシャーマニズムを継承しトランス状態(道教の天人合一思想)を現したものとも。護身術を兼ねた娯楽あるいは郷土芸能としての側面もあると見る人もいる。水滸伝に登場する義侠心と人情に厚い「花和尚」魯智深や虎をも倒す拳法の達人「行者」武松のエピソードと酔拳の大衆的な人気は無関係ではないと見る人もいる。 

酔拳は中国では男性のみの拳法という見方が強い。そのため日本で活動する女性中国武術家の陳静は、日本のテレビ番組等で酔拳の演舞を求められても「女性は酒を飲まない」と言って拒否しており、彼女の武術の型を多く載せている学研の「図説・中国武器集成―決定版 (歴史群像シリーズ)」でも酔拳だけは彼女が指導している男性武術家の型を載せている。

地躺拳 または地趟拳ともいう、中国武術拳術の一種であり、地功拳とも呼ぶ。古来の名称はと言った。文献には明代のの中に記述がある。

 

  • 山東省一帯で盛んにおこなわれたが、 江南地方にも同様のカンフーを使う一派がある。九節鞭や単刀、双刀といった器械を用いて戦う場合も、同じく武器を手に地上を転げまわって戦う。「跌(ころぶ)、朴(倒れる)、滾(転がる)、翻(ひるがえる)」を特徴とし、すでに明代の「紀効新書」には「九滾十跌」、「続文献通考」には「九滾十八跌」の名で記載がある。

  • 特徴としては高く飛び上がり身体を空中で回転させたり、前転や後転、側転などを用い地上をころげ廻り、相手に捕らわれない技法を使い 非常に活発な動き自由自在に行う、倒れながら拳を打ち出したり腿法(蹴り技)を使用する。その一方で剪腿(柔道でいう「カニばさみ」)を得意とし、 狗咬粽、兎子鐙鷹、倒背錬、金後剪などの技法がある。

  • 高度な受身技や匍匐前進術などがあり、呼吸法と筋骨・皮膚まで意識して筋膜を張る能力が必要なので、その練功方法は簡単に真似ることはできず体得は非常に難しい。

  • 基本動作は前滾翻 後滾翻 搶背 盤腿跌 絞剪 飛交剪 烏龍絞柱 鯉魚打挺がある。この地躺拳の技術が酔拳や猴拳などにも多く取り入れられるようになった。

  • 攻防技術としては実戦面でも活かされる技が多くある、例えば意識的に転げながら相手を投げ飛ばしたり、技をかけて受身にあわせて相手を組み伏せたり、スライディングしながら蹴り技を繰り出したりして技を仕掛けられる側としてはその危険性が高い。もし相手が受身をとれなければ、顔面や頭部を打ち付ける あるいは、それが狙いであり 小が大に勝てる術でもある。

現代地躺拳には旋子転体や跳叉などの動作も多く含まれ難度が高く芸術性を高くする工夫がされている。

  • 1970年代の高手 牛懐録(Dat Tong Quan)
  • 1970年〜1980年代前半の名手 胡堅強(Hu Jian Qiang)…映画少林寺の中で地躺拳を演じ、その存在をより広くへ大きく知らしめた偉大な功績者。騰空側端腿+盤腿跌+発声や連続で頭翻をこなすスタイルの元祖であり、今現在は普通に行っている選手が多い技でも胡師抜きには語れないものが数多くある。

  • 1980年代中盤〜後半の名手 趙長軍(Zhao Chang Jun)…胡堅強師の後により発展させた名手。引継ぎ高い難度の項目(6種目)をこなし総合優勝した素晴らしい功労者でもあるが、以降は失敗しそうな動作を省き、無難にミスなしでこなすのが流行。3種や2種総合や規定では武術として物足りないスタイルになっていく。見る人の眼が追いつけないほど激しく動き回るスタイルの元祖。

  • 1990年代の名将 原文慶(Yuan Wenqing)

  • 1990年代後半の名手 朗栄標(Wushu Ditang Quan)…3連続の旋風脚+盤腿跌を初めて行った人物。現在のレベルアップさせた天津チーム(特に対練)を引っ張り揚げた功労者。彼を幼少時鍛え上げた師は名武術家「番清福」であった。

これ以降は嵩山少林寺の武僧たちによる「少林功夫」の復刻があり、高いレベルを発揮。ただし最近の武術競技会では残念ながら「武術アクション体操」になりつつあるのが惜しまれる。

ホパーク(ウクライナ語:гопак)

ウクライナ・コサックの踊りに由来するウクライナの伝統舞踊の一つ。身軽な動きと複雑な跳躍を含み、早いテンポで演技される。コサックダンスとも。ロシアの舞踊と誤認されることも多いが、ウクライナの代表的な伝統文化である。

  • 16世紀初頭にウクライナ・コサックの興隆とともに出現した舞踊で、その原型は13世紀半ばに古ウクライナ国家たるキエフ大公国を滅ぼしたモンゴル人によって持ち込まれた東洋武術。それはウクライナの軍人階級によって受容されて簡素化され、銃の普及によって体を鍛える曲芸的テクニックへと変容し、次第にコサックの舞踊として発展していった。

  • コサックは独身の軍事共同体だったので、もっぱら男性による世俗的な舞踊であり、当時のウクライナで一般的だった女性のみによる儀式舞踊と全く交わらなかった。踊りの動きは、体の強さと柔軟さ、また、戦でのコサックの武勇を表していた。コーブザ、バンドゥーラバグパイプ、太鼓、タンブリンなどの楽器で、一人または数人の武装したコサックにより伴奏された。

  • 17世紀半ばにフメリヌィーツィクィイの乱によってウクライナでコサックの国家が誕生すると、ウクライナ・コサックの舞踊文化はウクライナの各町村で流行し、ホパークはコサックのみならずウクライナの町人や農民の間でも広く演奏されるようになった。17世紀末にはウクライナの儀式舞踊の要素が加わり、その様式は円形舞踊となり、踊り手は一組ないし数組の男女となった。

  • 18世紀にウクライナロシア帝国に併合されるとウクライナ・コサックはロシア政府によって廃止され、コサックの舞踊はほとんど姿を消した。男女の舞踊としてのホパークだけがウクライナの農村部に残存した。しかし19世紀に入るとこのホパーク風舞踊が農奴と農民の劇場で演じられるようになり、それが人気を博すとプロの劇団もレパートリーに採り入れる様になる。

  • ナタールカ・ポルターウカ(1832年)」で初めてオペラの中で披露される。これをきっかけにウクライナの伝統舞踊への関心が高まり、20世紀初頭にウクライナ音楽学者、ヴァスィーリ・ヴェルホヴィーネツィがコサック・ホパークの復元を試みた。ヴェルホヴィーネツィが振付けた三部からなる舞踊[2]は,1935年にロンドンで行われた国際民族舞踊演奏会で発表され、最高賞を受賞した。現在、一般に世界中でホパークとして知られている舞踊はこのヴェルホヴィーネツィの研究成果に基づいている。

ウクライナ人はロシア人同様、普通に餃子(ペリメニ)とか食べる。モンゴル高原から黒海沿岸にかけては普通に単一文化圏なのである。

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また「グルジア・ダンス」の足腰の使い方も凄く、こちらも東洋武術起源の可能性が疑われている。

八極拳(繁体字: 八極拳; 簡体字: 八极拳; ピン音: Bājíquán)

清代の中国河北省滄州の孟村に発祥したと伝えられる回族由来の中国武術である。半歩拳法という別名も持つ。その理念は、「八極(『淮南子』にある八紘より外のこと)すなわち八方の極遠にまで達する威力で敵の門(防御)を打ち開く(破る)」というものである。数ある中国拳法の中でも屈指の破壊力を誇る。

  • 敵と極めて接近した間合いで戦うことを得意とする拳であり、その風格は中国において「陸の船」とも形容され、歩法の運用も細密なため、他派と比べて比較的遠い間合いでの戦闘に不利であることが知られている。 そのため、近接短打以外の技法を補完する目的で、劈掛掌劈掛拳)や蟷螂拳などと併習して学ぶ系統も存在する。

  • 独特の震脚動作を伴う重心移動や体勢の急激な展開動作を行うことを主な攻撃力(勁力)の源とし、馬歩椿歩などの基本功(基礎訓練法)と、小八極という套路(型)で基礎的な実力を養成し、やがて大八極、六大開拳及び八大招式などの套路(型)で威力に実戦技法を加えるといわれる。

  • また接近戦を重視する戦法をとる為、肘撃や靠撃(肩や背面部で敵を打ち付ける攻撃)など、近接での体当たり戦法的な技法も他派以上に重視される傾向にある。

  • 花招(見せかけのみの技)が全くなく、質実純朴にしておおらかでさえあり、一道一式といわれ、簡潔であり、その各動作の目的は抗敵・応敵にしかない。美観を追求せず、ただ実用効果のみを求める武術でもある。

八極拳の起源については複数の説が存在するが、はっきりしているものは18世紀に河北省滄州のイスラム教を信仰する回族の居住地域であった孟村の住人であり、勇敢かつ文武両道で知られた呉鐘(ごしょう)がこの拳技を授かったことに端を発したものである。また、孟村へ広めたのは呉鐘の娘である呉栄によるものであるという説もある。

  • 呉鐘がこの拳技を授かったとする説はふたつあり、ひとつは滄州地方の郷土史をまとめた「滄県志」の一項目「人物志-武術」に記載されたもので、呉鐘が癩(らい)と名乗る遊方の道士よりこの拳技を学んだとするものである。癩は呉鐘へ拳技を授けるとやがていずこかへ去ったが、その後、癩の弟子と称する癖(へき)と名乗る道士が呉家を訪れ、大槍法と八極秘訣という文書を一巻授けたとされる。

  • もうひとつは河南省焦作県にある岳山寺の僧、張岳山が還俗して遊歴している途中、その当時山東慶雲県後庄科村に居住していた呉鐘へ八極拳と六合大槍法を伝授したとされるものである。いずれの説でも習得したとされる六合大槍は21世紀においても途絶えず八極拳と併習され、主力兵器となっている。

  • また八極拳の古名は河北省滄県東南郷の土名(俗称)である巴子拳(Bǎzi quán)と表記されていたとされ、その名は戚継光が著した「紀效新書」に記載されている「巴子拳棍」に見られる。巴子拳の「巴子」とは五指の第二関節を折り曲げて握る中空の手形(拳の作り)のことであるが、この手形を多用していたために巴子拳と呼ばれる。劉雲樵が自著で語ったところによれば、中国北方においては巴は鈀の略字として記載されることが多く、本来は「鈀子拳」であるとしている。鈀子とは農耕用具の鍬を指し、手形がこれに似るところからそう呼ばれたという。この巴子拳が八極拳の源流であるとの説もあり、後年、呉鐘によって八極拳へ改められたとも言われている。

  • 明代には戚継光の「紀效新書」「拳経序文」を原典とした「武備志」が茅元儀により著されたが、これに記載されている把子拳(巴子が拳棍)も同種の拳であったとする説もある。資料によっては把子棍槍との記述もあり、八極拳の母体となったものは棍術ないし槍術などの長兵器術であったと思われる。

  • 八極拳は当初、孟村の回族を中心に伝えられていたが、漢族が多く住む地域の羅疃へも伝わり、やがて孟村の回族の系統と羅疃の漢族の系統に分かれて伝えられるようになった。八極拳が中国全土へ普及する切っ掛けとなったのは、南京中央国術館がふたつの教習学科「少林門」と「武当門」に共通する正課として、団体訓練用八極拳教材(別名・八極小硬架)を制定したことにはじまる。南京中央国術館の支部が拡大するにつれて八極拳知名度は上がり、普及していった。

  • 団体訓練用八極拳は、名前のとおり集団が一斉に練習することが容易になるよう八極拳套路を改変したもので、小八極を教わる前の段階で学ぶ套路の小小八極(八極架)と、大八極を基にして新たに作られた。大八極と混同され易いが技法内容は大八極よりも遥かに簡素であり、より対打としてそのまま使い易く出来ている。後にこの套路は軍隊においても採用され、軍隊用八極拳ともいわれた。

  • 伝承者としては、羅疃出身の李書文と孟村出身の馬英図などが著名である。李書文は比武(決闘)を好み、激しい気性の人物だったようで、彼に関する逸話は過激なものが多い。伝説ではほとんどの敵を最初の牽制の一撃のみで討ち果たしたといい、李書文に「二の打ちいらず、一つあれば事足りる。」との歌があったとされる。

  • 近年になって、八極拳のルーツであるとして「少林寺八極拳」なる門派が嵩山少林寺近郊において教授されているが、技術書を見る限りでは、どの套路もかつて多く普及したこの小硬架を模倣したものと思われる。

日本での八極拳の普及については武術史研究家・随筆家として著名な松田隆智の功績が大である。松田はその著書によって初めて一般大衆に八極拳を紹介し、武術愛好者たちの興味を喚起した。当初松田が紹介した系統は台湾に伝えられた武壇系八極拳であったが、その他の系統についても松田の影響を受けた後進たちが続々と導入し、殆ど全ての系統が日本には出揃った。なお、在日華僑の武術家であった張世忠は全日本中国拳法連盟創始者佐藤金兵衛の要請によって、松田の紹介以前から八極拳の指導を行っていたという。

【北派】松田隆智と中国武術【南派】

1 :1:04/02/28 05:20 id:MTJPXImH
日本に中国武術の夜明けをもたらした松田隆智氏。 しかし氏に対する、反感や異論、中傷も多く見掛ける。 それでも彼の功績は計り知れないだろう。 冷静な価値観から、松田隆智氏の良い点、悪い点や、日本の中国武術界にもたらした影響を語らい合いましょう。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 22:57 id:CcFZ3Q0E
何を言おうが、今ココで中国武術について語れるのも全て 松田さんのおかげであることは確か。

11 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/12(火) 09:06:29.49 id:oRUg6KPf0
冷戦時代は台湾と韓国は国交もあったし、「反共の盟友」ということでそれなりに仲良くはしてた。70年代初頭、台湾軍の軍事訓練には八極拳が取り入れられていたが、蒋経国総統(当時は行政院長=首相)が 訪韓した際、韓国のテコンドー部隊のデモンストレーションを見て感激し、台湾でもカンフーをやめてテコンドーを 取り入れるように指示している。それで台湾ではいまでもテコンドーが盛んなんや。 まだテコンドーが国際的スポーツではなかった頃、世界大会の上位を占めるのは韓国は当然として、台湾もけっこう健闘してた。

21 :名無しさん@一本勝ち:2015/05/12(火) 12:34:38.17 id:MSwQleJD0

戦場でテコンドーのハイキック使う局面あるのかな

23 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/12(火) 12:56:48.11 id:oRUg6KPf0

>>21  そういう問題ではなく、軍民一体の士気を高めるのに効果的やと思うたんやろう。実際いまでも台湾ではテコンドーのことを「跆拳道」と呼んでいる↓

130 :黒魚老師:2015/05/13(水) 20:35:29.84 id:oCFh7d450
例えば、川に浮かべた小舟の上で 太極拳を練習して安定して いることが優れた功夫の基準になっている中国の田舎もある。 昔からそういうものなんだよ。

137 :名無しさん@一本勝ち:2015/05/13(水) 22:33:11.99 id:bHw5WF3m0
船の上なら詠春拳とかじゃないか。 もっと足を開くほうが安定するような気もするが。

150 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/14(木) 08:17:11.01 id:PHBGWtiT0

「一胆二力三功夫」と言うたけど、結局昔日の武術家の場合胆と力は功夫を学ぶ以前の問題として備わってたわけ。北方ではモンゴル人や満洲人というのは子どもの頃から騎馬や相撲なんかで鍛えあげられているし、 日本人と違って羊の肉と小麦粉が主食の肉食人種やから体格も骨格も全然違う。いま夏場所やってるけど、現代のモンゴル出身力士みたいな連中がゴロゴロしてたわけ。

151 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/14(木) 08:32:31.37 id:PHBGWtiT0
南方中国人の場合、体格は下手すりゃ日本人より小柄だが、タイとかビルマとかベトナムとかの山岳民族、ジャングル民族の血がだいぶ入っているので、猿のように敏捷で腕力なんかも相当に強い。ウチの先生も台湾の客家人やけど、ああいうブルース・リータイプの人が多いんよな。

674 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/20(水) 08:01:22.83 ID:Y2/WDqDy0
>>667 中国…とくに清代までは北方よりも南方のほうが文化レベルが高かった。北京は首都なんで各地のエリートが集まるという点では例外的やけど、民間の文化度は概して南方のほうがはるかに上やったと思う。実際科挙の試験に合格して北京にやってくるのは南方出身者が大半を占めてたらしい。彼らは南部の方言が母語で、しかも出身地によって言葉が異なるため、北京の中央省庁では共通語として「官話」という共通語をつくり、意思疎通に支障をきたさないようにしたくらい。この「官話=Mandarin」が現代の「普通話」の原型であり、俗に北京語といわれている言葉なわけ。


676 :赤い国民党員 ◆RPLwh/ddCk :2015/05/20(水) 08:10:09.28 ID:Y2/WDqDy0

つまり本では「秘密結社の少林拳」などとなっているが、武術の理論化に関してはむしろ南方のほうが先んじていたかもしれない。前に書いたけど私は北派というのはほとんどがモンゴル族満洲族回族といった民族・・・それも決して教育水準の高くない階層で発生・発展したものと考えている。騎馬民族遊牧民族でもともと体格・体力・運動能力に優れた彼らの武術は、細かい技術や難しい理論など考えずとも力任せに闘っても十分強かったんやないかな?かな? 一方南方中国人の多くは漢族で、これは農耕民族…我々日本人に近いから、白鵬や朝青竜みたいな北の武術家と力だけで対抗したのではどうにもならん。それでトレーニング法の(当時の知識)科学化を図り、「小よく大を制する」ための研究が進んだのではないかと思う。松田隆智先生が「北は(理論化されていて)高級だが、南は(力任せで)低級」などと述べたのはこの点においても大いに誤解があるとしか言えん。
*確かに言われてみると確かに言われてみれば中国では北方より南方の人の体躯の方が倭小なイメージがある。南拳北腿という言葉があるくらいで、ほどで 学ぶのに相応しくて 北拳は身体能力が最初から高い人向き、南拳は気骨壮大な人向けという印象もある。

ベルクマンの法則 - Wikipedia

ドイツの生物学者クリスティアン・ベルクマン(Christian Bergmann)が1847年に発表した生物分布の法則。「恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する」というもので、これは体温維持に関わって体重と体表面積の関係から生じるものである。類似のものにアレンの法則がある。

  • 例えばよく例に挙げられるものに、クマがある。熱帯に分布するマレーグマは体長140cmと最も小型で日本からアジアの暖温帯に分布するツキノワグマは130-200cm、温帯から寒帯に生息するヒグマは150-300cm、北極近辺に住むホッキョクグマは200-300cmにも達する。また日本国内のシカは北海道から慶良間諸島まで分布するが北海道のエゾシカが最大であり、慶良間諸島ケラマジカが最も小柄である。

  • この現象の理由は、体温保持との関わりで説明される。恒温動物は、常に体温を一定に保つために体内では常に熱を生産している。この熱は、筋運動やさまざまな代謝によって生み出される。他方、体表面からは熱が放出され、それを促進するためには発汗による気化熱が利用される。したがって体内での熱生産量はほぼ体重に比例し、放熱量はおおよそ体表面積に比例する。つまり放熱量は体長の2乗に、熱生産量は体長の3乗に比例する。これは、体長が大きくなるにつれて体重当たりの体表面積は小さくなることを意味する。いわゆる2乗3乗の法則の例の一つである。温暖な地域では体温を維持するためには放熱を十分に行う必要があるから体重当たりの体表面積は大きくなければならず、小型であるほうがよい。逆に寒冷な地域では放熱は簡単であり、むしろ体温を維持するためにはそれを抑える必要があり、そのためには大型であることが有利となる。

  • 類似の法則にアレンの法則がある。1877年にジョエル・アレン(Joel Allen)が発表したもので、「恒温動物において、同じ種の個体、あるいは近縁のものでは、寒冷な地域に生息するものほど、耳、吻、首、足、尾などの突出部が短くなる」というものである。これも体温維持に関するもので、このような体の突出部は体表面積を大きくして放熱量を増やす効果がある。温暖な地域では、そのような部分の拡大は放熱量を増やすことで体温維持を容易にすることになる。逆に寒冷な地域ではその部分から体温を奪われるという点と共にそのような部分の体温を維持するのが困難なため、凍傷になりやすいという問題点がある。例えばキツネ類ではアフリカから中東の砂漠地帯には非常に耳の大きなフェネックが生息し、極地に生息するホッキョクギツネでは耳が丸くて小さいことなどその例に当たる。あるいは、(ヒトを除けば)最も寒冷な地域に生息するサルであるニホンザルが近縁のものと比べても極端に短い尾を持つこともその例に挙げられる。

  • ベルクマンの法則とアレンの法則はほぼ同じ理由による現象を述べたものであり、実際にはこの両方が同時に出現することが珍しくない。例えばホッキョクグマはヒグマにはやや劣るものの巨大な体格を持ち、同時に耳は小さい。またフェネックギツネは小柄であって、同時に耳が大きい。ただし耳や尾、足といった構造は生活に直結するものであるし体の大きさも体温保持だけが決定要因ではない。ホッキョクグマの小さな耳は海中に入ることが多いことから、水中生活への適応と見るべきかもしれない。フェネックギツネの大きな耳は地中の小動物を捕捉するために有効であるから、そのために発達したものであるとの考えは有り得る。もっともこれには放熱のために発達した器官を利用する習性が産まれたという、いわば前適応の例と考えることもできるし両者が関わって発達したと見ることもできる。具体的証拠なしに考えを進めると、進化の議論はどうにでもなるという一例である。

  • なお変温動物においては体温維持の必要がないが、やはり暖地と寒冷地とで動物の体格に差がある例がある。日本でもコオロギやヒキガエルなど多くの変温動物に寒冷地に行くほど小型のものが生息する傾向が見られる。ヘビやトカゲでは、ニシキヘビやオオトカゲのような大型種は低緯度地方にしか生息しない。このような現象を、逆ベルクマンの法則ということがある。コオロギでは寒冷地では活動できる時間が短いので、成虫になるまでに摂取できる食料が少ないためと言われる。さらに小型のスズムシ類では本州南部では年3回発生、北部では年2回発生する種があり、この場合、本州南部から北に向かうにつれて小型の個体が生息するが年2回になる境界線を越えると一旦大きな個体が現れ、そこから北へふたたび次第に小型になってゆく現象がある。ヘビやトカゲ、カエル等の多年生生物では低温時では体温を日光浴などで上昇させなくてはならず体が大きいと上がるのに時間が掛かり、充分な活動ができないからではないかと言われている。例えば、ユーラシア北方に広く分布するコモチカナヘビでは成体の方が同所的に生息する幼体よりも春秋共に活動期間が短い(冬眠期間が長い)。これは1日の活動可能気温の時間が短くなるにつれ、体温上昇に時間のかかる成体の方が実質活動期間が短くなるため(活動可能な体温になるまでに気温が低下してしまうから)ではないかという説がある。

生物分布の法則としては他に「グロージャーの法則(寒い地域に住む個体群ほど体色が薄くなる)」「ラポポートの法則(低緯度地域ほど狭い地域に多くの生物種が生息する)」「フォスターの法則(島嶼部においては、大型動物は小さくなり、小型動物は大きくなる)」なども知られる。

ベルクマンの法則には例外が多く、法則と呼べるほどの普遍性がないため、今ではベルクマンの規則と呼ばれるようです。そのベルクマンの規則が人間に当てはまるかどうかという問題ですが、答えは否だと思います。

  • たしかに北欧の人々の体はとても大きい(身長が高い)ですし、緯度がそれほど高くなくてもやはり寒いところに住んでいるスイス人も体が大きいです。ところが、同様に寒いところに住み続けていたエスキモーの人々は低身長です。

  • ベルクマンの規則は、体が大きいほど体重当たりの体表面積が小さくなるため寒冷なところに生息するのに有利になると考えるもので、体が大きいだけでなく手足が相対的に短いほど体表面積的に有利になるのですが、しかし北欧やスイスの人々の手足はとても長く、これは不利なことです(手足が短いのはエスキモーの人々の体形です)。それに、人間は寒冷に対して衣服や靴・手袋・帽子をまとうという形で適応したため、その分だけ身体的適応は弱いはずです。

  • では、北欧やスイスの人々はなぜ体が大きいのか、正確にはなぜ手足が長くて身長が高いのでしょうか。それは、骨格系の発達に負うと考えられます。寒いところは植物が育ちにくく、そのため植物性食物の比率が小さくなり、エスキモーの人々において典型的だったように、動物性食物の比率が大きくなります。牧畜民にとっての動物性食物とはふつう乳類(それもかつては保存性の悪い牛乳ではなくチーズやバターのようなものでした)であり、乳類は骨格形成に必要なカルシウムの含量がとても多く、しかもカルシウムの吸収率がよいのです。北欧やスイスの人々の乳製品の摂取量はとても多く、対してエスキモーの人々の動物性食物は海獣の生肉や内臓でした。 

バルト海では古くから交易がおこなわれていたが、中世初期には商業そのものが衰退していた。6世紀から10世紀にかけてバルト海の貿易を担ったのはゲルマン民族の一派フリース人(フリジア語Friesen、オランダ語 Friezen、ドイツ語Friesen(フリーゼン)、英語Frisians(フリジアン))。現代オランダ人を思わせるその巨躯と金髪碧眼で名を馳せた。都市生活を知らなかった点で後のハンザ商人と異なるが、平和的・恒久的な貿易を基本としワイン・木材・穀物・織物を扱った点においてその先駆者としての側面も備えていた。

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アングロ=サクソン人と使用言語が似ている事から、ウェセックス王国出身の聖ボニファイキウスがフランク王国の後援を受けて積極伝教した事で知られる。ザクセン併合(772年〜804年)を契機としてヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)が始まると最初の標的とされた。以降もフリースラント(フリース人の土地)は、ホラント(オランダ)領の一部ながら神聖ローマ皇帝カール5世が1524年に併合するまで「無主の地」であり続ける。

8世紀末頃よりヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)に襲撃される様になったアイルランドだったが(「アイルランドの諸国との戦争(Cogadh Gaedhil re GallaibhまたはCogad Gaedel re Gallaib、12世紀成立)」が記すところによれば)、1014年にアイルランド上王 (Ard Rí、High King) ブライアン・ボル(Brian Boru、ブリアン・ボルーとも)がクロンターフでヴァイキングを破って以降、侵入が収束。
*実際には「ヴァイキングの襲来」ではなく(アイルランド教会の後援を受け人口が50万人以下なのに大小さまざまな地域に150人以上の王が乱立していたアイルランドを統一した)ブライアン・ボルと反上王同盟の盟主モール・モルダの内戦に過ぎなかったとも。アルスター地方すべてとコノート地方のほとんどが日和見に回った為、モール・モルダは従兄弟でアイルランド系ノース人の王国ダブリンを支配するシトリックをヴァイキング支配下オークニー諸島マン島に派遣。領土獲得より略奪を求めるノース人傭兵を徴募。一方上王側もリムリック、ウォーターフォード、ウェックスフォード、コークといった都市のアイルランド系ノース人ばかりか(いくつかの出典によれば)マン島のノース人傭兵達と宿敵関係にあるグループを味方につけた。しかも決戦の結果は双方の陣営の対消滅としかいえない壮絶な消耗戦となり、その結果として平和が訪れたという側面も。
ブライアン・ボル - Wikipedia
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一方、デーンロウ(Danelaw、イングランド東部のデーン人占領地、9世紀~11世紀)の中心地として栄えたヨーク(York)は、アイルランド東岸に拠点を構えたノース人と、スカンディナヴィア半島からバルト海(Baltic Sea)と北海(英語 North Sea、ドイツ語 Nordsee、フランス語 Mer du Nord、オランダ語 Noordzee、デンマーク語 Nordsøen、ノルウェー語 Nordsjøen)、古名はゲルマン海(ラテン語 Mare Germanicum、英語 German Ocean))を越えて訪れるデーン人の交易で賑わった。現地にはフリース人も数多くの足跡を残している。
*どんな交易が行われていたかに関する詳細は不明。幸村誠ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA、2005年~)」ではイングランドにおける軍事活動の副産物たる戦争奴隷がスカンジナヴィア半島に転売されて使用人や開拓地の農奴となったという説が採用されている。

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北欧諸族のうちでも、ノース人は独自に北方へと進出した。8世紀にはオークニー諸島シェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島や東アイルランドへと進出し、9世紀中旬までに拠点としてアイルランド東岸にダブリンを建設。さらに9世紀末から10世紀にかけてフェロー諸島経由でノース人とアイルランド人(ケルト人)それにスコットランド人はスカンディナビア人が随伴する形でアイスランドへと移住していった。彼らは王による統治ではなく民主的合議による自治を目指し、その結果930年には世界最古の民主議会「アルシング」が発足。
*やがてアイスランドキリスト教を受容したノルルェー王国の属国となり、有名なエッダ (Edda) の主要収集地となる。また後世まで「蛮族」として恐れられ続けるスコットランド高地人も、出自的にはケルト諸族と北欧諸族が混合した産物だったらしい。

ハンブルクは6世紀にもうエルベ川河口に存在する港湾都市として知られていた。808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞が築かれ、811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂が建設されている。この大聖堂は間もなく北ヨーロッパキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃されてきた。834年には大司教座がおかれたがヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)襲来を受け848年に近くのブレーメンに移された。
*以降もデーン人やスラブ人の襲撃に持ちこたえ続ける。

 「どうして北欧人といったら巨躯」というイメージがあるかについての真相はともかく、19世紀は進化論の形成期でもありました。そして当時の「博物学から科学へ」の流れに取り残された要素が後世における疑似科学の源となっていった訳です。

それにしても集めた材料が一向に集約の気配も見せません。どういう事?

例えば三浦建太郎ベルセルクBERSERK、1989年)」における「コロコロ剣法」と「野太刀自顕流」の対比。こういう精神修養性ゼロの話なら割と容易に理解できます。

イシドロはちっちゃい。それでコロコロと地面を転がりながら下から不意を突く剣法を編み出した。

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  • 足場に頼らないので、揺れまくりの船上における白兵戦にも強い。
  • 運動の制約上「円(球)の動き」は否応なく意識する事になる。
  • メンタル面における修養性は皆無。

背の低さをカバーする必要がなくなれば(インド系の武器を駆使する)バーキラカの長シラットの「飛んだり跳ねたり戦法」となる。

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ここに「ひたすら力任せに立木を叩き続けて筋力と瞬発力を養い続ける野太刀自顕流の如きガッツの「ドラゴンころし殺法」と対をなす一つの理想モデルを見出す事が出来る。

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あと、歴史的観点からこういう話も十分理解可能です。

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  • 「秦の始皇帝による中華統一(紀元前221年)」に至る古代中国史に燦然たる足跡を残したのは「秦国軍=(中央アジアから流入したイラン系を中心とする)巨大な体躯の歩兵の大量動員による物量作戦(主要武器は鍍金した青銅製)」や「呉越軍=(東南アジアの航洋民族なども混ざった多種多様な)矮小な体躯の烏合の衆を切れ味鋭い鉄製武器や船の機動性を利用して強化したゲリラ戦術」など。実際、漢代の史書では「陰陽家」に分類されている孫呉の「孫子の兵法」もまた物量で勝り訓練も行き届いた敵の意表をいかに突き、局所的優位を生み出すかを主目的としている。
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    確かに中国戦国時代においては既に「戦車から騎兵へ」という時代の流れを受けて趙が武霊王の時代に強勢となったり、燕の楽毅が英名を馳せたりしている。
    *趙(紀元前403年〜紀元前228年)の武霊王(在位:紀元前326年〜紀元前298年)…紀元前307年に胡服騎射を採用し遊牧民族国家中山を滅ぼして併合したが、司馬遷が「史記」に「後継を逡巡し、餓死したことで天下の物笑いとなった(為天下笑、豈不痛乎)」と記した様に悲惨な最期を遂げる。まさしく「邯鄲の夢」。

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    *燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)の昭王(在位:紀元前312年〜紀元前279年)…国政を宰相の子之に任せ切りで最後は禅譲の儀式まで遂行して燕を斉の属国にまで貶めた燕王噲の庶子。「隗より始めよ」の故事で有名な郭隗や中山国の亡将で趙にも居着かなかった楽毅を抜擢して斉を逆に滅亡寸前まで追い込んだ。次代の恵王(在位:紀元前278年〜紀元前272年/紀元前271年)が暗君で斉将田単の離間策に引っ掛かって楽毅将軍を趙への亡命に追いやり、それまで斉から奪ってきた70余城も全て奪還されて以降は衰退。ところがその首都だった薊(けい)は満州開発が進んで高句麗などの周辺勢力が強大となり、防衛と交易の拠点として重視される様になっていく。河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷として知られるし「燕人張飛」はその粗暴さと精強さで歴史に名前を残した。また隋の煬帝が築いた大運河の北の起点に選ばれる。モンゴル帝国元朝)はここに大都を建設してカラコルムに代わるモンゴル帝国の中心となし、明代以降は1402年にクーデターを成功させた「燕王」朱棣(後の永楽帝)の本拠地として南京に代わる中華王朝の首府に選ばれ、その呼称も「北京」と改められる。

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    しかしながら、北方系遊牧民族が中華王朝史の盛衰に本格的に関与する様になるのはあくまで匈奴が解体してその残党が傭兵的に当てにされる様になったに後漢代(25年〜220年)末期以降となる。仏教教団の影響で道教教団が成立したのもこの 時期(張角黄巾の乱)。
    黄巾の乱 - Wikipedia
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    歴史家は遼東から朝鮮半島にかけてを支配し半独立状態を保った公孫氏が3世紀初頭、纒向に倭国最初の首府を築造した豪族連合と何かしらの関係を保っていた可能性を指摘する。その遼東公孫氏を滅ぼしたのもまた(魏の司馬懿に指揮された)上掲の様な出自の騎兵隊であった。当時の記録を見る限り戦力差は歴然で、一方的蹂躙に近かった。
    公孫氏 (遼東) - Wikipedia
    *その一方で司馬懿が蜀の軍師孔明との戦いでは華々しい戦果を挙げられなかった事が(その司馬懿の末裔が国姓となった)晋の時代に編纂された陳寿撰「三国志」において「魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝」が異様なまでに長大な長さとなった主要因と考えられている。日本で有名な「魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)」はその一部。

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    「騎兵隊襲来」の悪夢は高句麗の広開土大王(在位391年〜412年)南征において再び繰り返される。洛東江流域に分布する加羅諸国(3世紀〜6世紀中頃)においても随一の強国だった「任那加羅(金海大成洞遺跡を王墓と比定)」が一瞬にして壊滅。この事が新羅ヤマト王権を三燕文化に急接近させる契機に。
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    *日本では河内平野の古市古墳群百舌鳥古墳群に次々と超巨大サイズの大王墓が築造され、大規模な土木工事が次々と行われ、巨大サイズの陶窯設備や倉庫街が運営されたが、技術面でこの展開を支えたのは栄山江流域や蟾津江流域の馬韓人や彼らが連れてくる大加羅(高霊伽耶)の技術者や職人達だったと目されている。最近の考古学的研究によれば(「古事記」や「日本書紀」の記述とは異なり)少なくとも5世紀段階では(金海地方を実質上併合した)新羅馬韓地方併合の機会を虎視眈々と狙う漢城百済(?〜475年)や熊津百済(475年〜538年)とヤマト王権の関係は必ずしも良好ではなかったらしい。その一方で上越地方や琵琶湖沿岸の在地有力者達は新羅の在地有力者達と良好な関係を続けており、このあたりの葛藤が所謂「雄略天皇から武烈天皇の御代(5世紀後半)の混乱」や「継体天皇代(507年?〜531年?)の政変」で噴出したとする向きもある。

    http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/892/62/N000/000/007/145833867491718710177.png

  • ところで中国沿岸部には太古の昔から(古代には百越の土地だった)広東を接続ポイントに東南アジアのタミル人交易網と接続する中継交易網が存在してきたのである。時代によって外洋走破能力のある崑崙船で黄海を押し渡ってきたり、山東半島遼東半島の峻険な沿岸に設けた泊地をリレーしたりと航洋手段は異なる。しかしとにかく(朝鮮半島西岸部に割拠する)栄山江流域や蟾津江流域の馬韓商人や(九州北部や山陰山陽四国北部の沿岸部に割拠する)日本の海人族経由で黒潮交易網、(加羅諸国が抑えていた)洛東江の鉄、(ヤマト王権が抑えていた)日本の木材(当時は崑崙船築造に欠かせない巨木がゴロゴロしていた)などにアクセスしてきた。時期によって「百済人(朝鮮半島三国時代)」「新羅人(統一新羅時代)」「渤海人や高麗人(7世紀〜13世紀)」「唐人(元代や明代の史書での呼称)」と呼称や民族構成を変えてきたが「多種多様な航洋商人の中継交易網」なる全体像だけは不動。そしてこの存在が(長江文明発展を担った)百越の時代から北方遊牧民族と中国沿岸部を結び中華王朝における「北方文化」と「南方文化」の境界線を曖昧にしてきたとも。
    春秋時代から戦国時代にかけては中原を包囲する形で鉄器製造技術を共有したりしているが、中国史書が伝統的にこうしたルートの存在そのものを黙殺してきたので詳細は不明。明朝が滅亡に追いやられる一因となった「北虜南倭」との関係も指摘されている。
    北虜南倭
  • 船上斬り込みに際して力任せに長大な両手剣を振り上げて先陣を切り、片手剣と片手盾を構える相手を粉砕する戦い方」を「倭寇戦法」という。明軍と戦った鄭成功(1624年〜1662年)の「偽倭戦法」はその陸戦への応用だし、九州の野太刀自顕流も割とこれ。ひたすら立木を叩いて筋力と瞬発力を養うその修練方法はアプローチ的に外家拳のそれと重なる。
    鄭成功
    *その一方で片手剣と片手盾という伝統的兵装ではこれに太刀打ち出来なかった明軍は日本より苗刀(両手剣)を大量輸入。これを使いこなす為に兵書輸入と武芸者招聘に努めたが、その過程で剣技の伝授システムが整備され日本の武道が基礎付けられたいう。中国武道もこの時代まで遡る流派が少なくない。要するに日中ともに以降武芸が「マニュアル教育」の時代に入っていく。

    https://i1.read01.com/image.php?url=0Cnq5K0T

  • その一方で内家拳と縁深い「道教の天人合一思想」と密接な関係を有する「土俗的シャーマニズムからトランス状態を継承する仙道系アプローチ」は山岳宗教をベースとする事が多い。例えば「義和団の乱(1900年)」を起こした山東省起源の秘密結社は「自らをトランス状態に追い込む事で鉄砲の弾は回避可能」なる信念を抱いていたとされる。ただしあくまでその事自体に南北関係との依存性は原則として存在しない。

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太極拳(Wushu Tajiquan)

中国武術の一派。東洋哲学の重要概念である太極思想を取り入れた拳法で、形意拳八卦掌と並んで内家拳の代表的な武術として知られる。健康・長寿に良いとされているため、格闘技や護身術としてではなく健康法として習っている者も多く、中国などでは市民が朝の公園などに集まって練習を行っている。

  • 武術・戦闘術として継承されてきた太極拳は『伝統拳』と呼ばれる。しかし、近年では伝統拳を参照元にした制定拳も存在するために、混同を避ける目的で『民間の太極拳』という表現も使われることがある。 基本功に始まって、套路、推手、散手と進むのが一般的な流れで、これによってそれぞれの門派における太極拳の技法を習得する。套路は緩やかで流れるようにゆったりとした動きで行うことで、正しい姿勢や体の運用法、様々な戦闘技術を身に着ける。しかし実際の戦闘における動作はゆっくりしたものではなく、熟練者においてはむしろ俊敏で力強いものとなる。なお、套路の中でも“快架”と呼ばれる速い動きのものもあり、“快架”との対比でゆったりした動きの套路は“慢架”と表現する場合がある。 また、推手の練習では、套路の正しさや[1]・相手と適切な接触を保つ技術(粘連黏随)・相手を感じる能力(聴勁)など武術・戦闘術としての理解度を深めることができる。昔から推手と套路は車の両輪と言われ、実は推手をやらなければ太極拳は本当の意味で理解できないと言われている。

  • 徒手の応用として、太極剣、太極刀、太極棍、春秋大刀、槍など武器術の套路も伝承されている。

  • また、太極拳套路は健康法としての一面がよく知られており、一般に太極拳と言う場合、武術ではなく健康法・健康体操の一種として捉えられることも多い。武術としての鍛錬を第一義とせず、各派に伝わる伝統の套路を基にして編集委員等によって競技・表演用に整理された太極拳や、健康体操として簡易化された太極拳などを、伝統拳に対して『制定拳』と呼ぶ。

日本で武術太極拳と呼ばれている競技は、世界的には『武術(ウーシュウ)』と呼ばれているもので、太極拳長拳南拳を採り入れ、一定のルールの下で体系化したスポーツである。採用されているのは制定拳であり、伝統拳との間に直接的な関連性はない。

  • 元代、張三豊が少林寺で武術を修めた後に武当山に入って修行し、道教の陰陽五行思想や吐納法と呼ばれる呼吸法を取り入れて編み出したとされている。但し、張三豊は中国の他の伝説にも現れる不老長寿の仙人の名前であり、この説については伝説の域を出ていない。

  • しかし、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度である考証学の祖である黄宗羲が記した王征南墓志銘には、張三豊が内家拳法を創始し、王征南はその使い手であると記されている。その拳法の詳細を、黄宗羲の子息である黄百家が「内家拳法」[4]に記録して残しており、また、太極拳を含む内家拳は武当門とされており、中国武術の全国的統一組織であった南京中央国術館の武当門の門長に楊氏三世の楊澄甫が就任していることなどから、太極拳は張三豊が創始した内家拳法が源流である可能性があり、一般に普及している太極拳と区別して武当派と呼ばれている。この内家拳法は太極拳の源流の一つであることが明らかであるとの研究もある。

  • その他の起源については、明代に河南省温県常陽村(現・陳家溝)に強制移住させられた陳一族に家伝として伝えられていた武術に、陳氏9世・陳王廷が様々な武術の要素を組み合わせ、明代末期から清代初期にかけて創始されたとする、武術史研究家・唐豪の研究がある。その後清代末期に入り、陳氏14世・陳長興の弟子だった楊露禅が、北京に赴きこれを普及。武術理論として王宗岳の『太極拳論』が重視されたため、そこから取って『太極拳』という名称が用いられるようになったと言われる。現在では、陳家太極拳楊式太極拳武式太極拳を始めとして様々な門派が存在する。

  • 一方、太極拳の健康効果は古くから知られていたが、その習得は容易ではなく、万人向けと言えるものではなかった。そのため中国政府・国家体育運動委員会は、第二次世界大戦後、伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を作ることを計画。著名な武術家に命じ、楊式太極拳を基に簡略化した套路を編纂、1956年に簡化太極拳(二十四式太極拳)を制定した。これが制定拳の始まりである。制定拳という名称は本来、「国家が制定した套路」という意味を持つ。

  • 制定拳は一種の健康体操として世界的に広められ、またそれと並行して競技化や新たな套路の編纂も行われていた。現在はグループ表演や競技会も盛んに催されるなど運動競技としての一面も強くなり、その一方で、武術的な側面から制定拳を再編する動きも生まれている。

日本国内でも愛好者は多く、『太極拳のまち』を宣言した福島県喜多方市のように、自治体単位で太極拳を推進している例もある。楊名時が1970年に簡化太極拳を紹介しており、その後1972年の日中国交正常化を機に、来日した中国人教師などから太極拳の存在が徐々に知られるようになった。また中国政府の普及政策によって中国から太極拳を持ち帰る日本人も現れ、健康体操としての制定拳が広まっていった。激しい運動を伴わず場所を選ばずに容易に行えることから高年齢層を中心に人気となり、現在では全国に草の根レベルで太極拳教室が存在している。

義和拳 - Wikipedia

19世紀末に誕生した中国の拳法の一派。当時は中国山東省で武術組織とキリスト教との間で頻繁に争訟が発生していた。梅花拳の武術家もこれに関与し、1897年に教会襲撃事件(曹州教案)を起こしたが、伝統ある梅花拳全体に影響が及ぶことを避け、自らを義和拳と称したとするのが通説である。彼らは義和団と呼ばれ、義和団の乱に深く関与する。

  • 義和団の乱から日中戦争に至る一連の動乱の中にあって、民間宗教としての側面を持ち合わせ村単位で伝えられた為、その誕生や系譜については、なお釈然としない面もあり、研究途上にある。白蓮教の支派であり、1808年にはすでに秘密宗教結社として存在していたとする説もあり、その中には天理教 (中国)との密接な関係を指摘する説も存在する。

  • 拳法自体は義和団の中心人物である張義が伝えたと言われている。義和団を組織した山東省平原県で流行した。手、眼、身、法、歩、精、神、気、力、功の運用を重視する。また剛柔を備え、外見よりも実用性に重きを置いている。

  • 義和団の乱後も当時の武術家が山東省や満州に多数いたとされる。宗道臣少林寺拳法創始者)によると、彼は戦前から戦中にかけて仕事で満州をまわる中で、その中の一人である陳良に師事し、さらに陳良の師匠である北少林義和門拳二十代師父の文太宗に師事した。新たに武術を学ぶ者が少なかったこともあり、宗は文から二十一代を継承した。

宗は日本に帰国した後に少林寺拳法を開いたが、義和門拳を整理し義和拳としてまとめた。単演の連攻防の基本形を指し、義和拳第一系と呼ばれる演武は天地拳第一系と並んで同拳法の基本に位置付けられている。

随分と隙間だらけでラフな年表だけど、まぁ投稿初回としてはこんなもの?