諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【バンド・デシネ】【ハンナ・バーベラ】【ランキン・バス】【UPA】【年表】ディズニーだけではない「アニメーションの歴史」

そもそも「フランス製アニメーション」や「バンド・デシネ(bande dessinée)」の起源からして日本人の想像を絶していたりします。

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【映画前史】ファンタスマゴリー(フランス語:Fantasmagorie, 英語:Phantasmagoria, Fantasmagoria)

18世紀末にフランスで発明された、幻灯機を用いた幽霊ショー。ギリシア語: φαντασμα(幻影)と αγορευειν(公言)から作られた言葉である。 
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  • ベルギーのリエージュ出身の物理学者のエティエンヌ=ガスパール・ロベール(フランス語版)、通称エティエンヌ・ロベールソン(1763年 - 1837年)がパリで行った興行によって有名となり、ヨーロッパ、とくにイギリスで、19世紀を通して流行した。

  • 幻灯機によって、壁、煙、半透明の幕に画像を映写した。しばしば後ろ側から映写し、幻灯機を動かすことで画像を動かし、複数の幻灯機を使用することで画像の瞬時の切り替えを行った。

映写されたのは、骸骨、悪霊、亡霊などの画像で、降霊術に深く関わるものであった。

アニメーションの起源

映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックはジョルジュ・メリエス月世界旅行(仏題Le Voyage dans la Lune, 英題A Trip to the Moon、1902年)」において既に見られる。最後にはロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられているのである。

  • 作品としては、フランスで作られたエミール・レイノー「哀れなピエロ(Pauvre Pierrot、1892年)」を初めとする一連の作品もあるが、これは純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。
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  • アメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督による「愉快な百面相(Humorous Phases of Funny Faces、1906年)」は、黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメだった。この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。

  • 世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる「ファンタスマゴリ(Fantasmagorie、1908年)」である。以後数年間、アメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンのキリーノ・クリスティアーニによって製作された。

  • 1914年にセル画によるアニメーション技術がアール・ハードによって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった。「クレイジー・カット・シリーズ(Krazy Kat、1916年)、「フェリックスの初恋(Feline Follies、1919年)」辺りが有名。またアルゼンチンやドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。

そしてアメリカでは1928年から『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まる。アジアでは中国において万籟鳴と万古蟾の万氏兄弟監督で公開された「西遊記 鉄扇公主の巻(1941年)」が最初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画「桃太郎 海の神兵(1945年)」を制作させる動機となった。

バンド・デシネ(bande dessinée)

ベルギー・フランスを中心とした地域の漫画。略称はB.D.(ベデ)。バンデシネとも呼ばれる。「bande dessinée」の呼称は名「描かれた帯」という意味のフランス語に基づく。意訳すれば「続き漫画」であり、英語では「comic strips(コミック・ストリップ)」に相当する語である。フランス語圏で、漫画は「9番目の芸術」(le neuvième art、ル・ヌヴィエム・アール)として認識されており、批評や研究の対象となっている。
*ちなみに「第1芸術=文学」「第2芸術=音楽」「第3芸術=絵画」「第4芸術=演劇」「第5芸術=建築」「第6芸術=彫刻」「第7芸術=舞踏」「第8芸術=映画」。

  • その源流は19世紀にスイスのフランス語圏で活躍したロドルフ・テプフェールの作品にあると考えられている。テプフェールの考案したコマ漫画形式の作品は、書籍としてフランスでも多数出版され、多くの漫画家に影響を残した。
    *バンデシネ(以下BD)の前史とされるロドルフ・テプフェールやギュスターヴ・ドレなど19世紀絵物語は大人向けであったが、20世紀初頭より子ども向けの雑誌が主な掲載媒体になり、1960年代に「ピロット」「アラキリ(Hara-Kiri)」といった大人向けBD専門誌が登場するまで、約70年間はフランスではBDは子供のものと見なされ、厳しい検閲の対象となった(1949年に作られた「子ども向け読み物に関する法令」が現行法としてBDに適用されている)。

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  • 20世紀最初の数十年、フランス語圏の漫画は一般的には一冊の書籍としては出版されておらず、新聞や月刊雑誌上の連載作品あるいはギャグ漫画として掲載されていた。またこれらの雑誌とは別に、カトリック教会は「健全かつ正しい」子供向けの雑誌を発行し配布していた。1920年にベルギーにあるアーヴェルボーデ修道院の院長が、多くの文章と少数のイラストから構成された雑誌『プティ・ベルジュ(Petits Belges)』 を創刊した。

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  • 最初期の本格的なベルギーの漫画の一つは、エルジェの『タンタンの冒険旅行』である。タンタン・シリーズの第一作である『タンタンソビエトへ(Tintin au pays des Soviets)』は、1929年に「20世紀子ども新聞(Le Petit Vingtième、ル・プティ・ヴァンティエム)」に掲載された。この作品は後のタンタンとは全く異なり、後期の作品と比べるとその作風も単純素朴で、子供向けだった。初期のタンタン作品にはしばしば政治的に偏向した表現が含まれており、後になってエルジェを後悔させることになった。

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  • 現代に通じるフランス語圏の漫画の歴史は、ハンガリーのポール・ウィンクラーがキング・フィーチャーズ・シンジケート社との契約により1934年に創刊した、ジュルナル・ドゥ・ミッキー(Journal de Mickey、『ミッキー新聞』)誌から始まった。この書籍は週刊発行された8ページの漫画誌であり、事実上、フランス語圏で最初の漫画誌である。

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    *この雑誌が商業的に成功すると他のあらゆる出版社もアメリカ合衆国の連載シリーズを用いた雑誌を大量に出版し始めることになった。続く十年間は、海外から輸入された素材を用いた数百冊の雑誌が、市場の大半を占めていた。

  • ドイツがフランスとベルギーに侵攻すると、アメリカン・コミックの輸入は不可能になった。同様に、ナチスの見解で問題のあるキャラクターの登場する漫画は、全面的に発禁処分となった。
    *漫画への需要はこの時期にも存在し、孤立したフランスやベルギーの漫画界は競って新たな素材を手に入れようとした。例えば、後に『ブレイクとモーティマー(Blake and Mortimer)』を執筆したエドガー・P・ヤコブズは、ベルギーの漫画誌ブラヴォー(Bravo)で『フラッシュ・ゴードン』の最終回を即興で創作しなければならなかった。ヤコブズと共に、ジャック・ラウデ、レイモン・レディング、アルベール・ユデルゾ、ウィリー・ファンデルステーンらがブラヴォー誌でその作家人生を開始した。

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    *またベルギーの漫画雑誌スピルー(Spirou)は戦前に創刊され、状況の変化を乗り切った数少ない漫画雑誌の一冊である。長期にわたりドイツにより出版を禁止され、紙不足に苦しめられたにも関わらず、1944年に特集号を出版。

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  • 戦後、アメリカン・コミックは戦前ほどの出版量は回復できなかった。皮肉な事に、占領期間中も活動を続けていた多くの出版社や漫画家たちがドイツへの利敵行為を糾弾され、レジスタンスによって投獄された。
    *有名誌のひとつであるクール・ヴァイヨン誌(Cœurs Vaillants、15世紀フランスの商人ジャック・クールの別名にちなむ)で起きた例を挙げる。この雑誌は1929年にクルトワ修道院の院長ガストン・クルトワ(Gaston Courtois)などにより創刊された。院長は教会の支援により戦争中もこの雑誌を刊行し続けていたため、戦争協力者として告発された。院長が追放された後に共同創刊者ジャン・ピアン(Jean Pihan)はジャン・ヴァイヨンとしてこの雑誌の出版を続け、雑誌の方向性をよりユーモラスなものへ変えた。

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    *エルジェもレジスタンスから追求された漫画家の一人だった。彼も他の漫画家たちと同様に苦労して汚名をそそぎ、1950年に創設した創作集団「ステュディオ・エルジェ」で、彼の下に集まった受講生やアシスタントたちのための指導者の役割を演じた。ステュディオ・エルジェで学んだ漫画家として、ボッブ・ド・ムール、ジャック・マルタン、ロジェ・ルルー、エドガー=ピエール・ヤコブズがいる。これらの作家はベルジアン・コミック(Belgium comics)の特徴である清潔な描線を用いていた。

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    *日本のリベラル層は当時のフランスにおける「ナチス残滓一掃運動」を人道的勝利と称揚するが、実際にフランス人が体感したのは「知識人は扇動するだけ→実働部隊が実権を握り、独裁色の強いドゴール政権が成立→人間として信頼を失った知識人への弾圧が始まる」なる「知識人の自殺プロセス」の一環に過ぎなかった。

    *この歴史を踏まえないと「カミュ=サルトル論争(1951年〜1952年)」が何だったのかも分からなくなってしまう。(元アメリカ共産党員で1940年代には自由放任主義と社会進化論を結びつけて徹底的に叩いた)ホフスタッターもまた「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」において(アイゼンハワー大統領が勝利し、マッカーシー旋風が吹き荒れた)1950年代における「反知性主義者の勝利」を米国におけるインテリ層への不信感の高まりと結びつけ、抜本的対策が図られない限り次の蜂起は間近に迫っていると予言した。実際60年代後半のアメリカはヒッピー運動と黒人公民権運動の高まりに揺るがされる事になる。

  • 50年にわたり漫画界に大きな影響を及ぼしているレ・エディシオン・ダルゴー社やデュピュイ社を含む多くの出版社により、ベルギーとフランスの国内市場は成熟した。1950年代には、「スピルー(Spirou)」「ル・プティ・ヴァンティエム(Le Petit Vingtième)」「ヴァイヨン(Vaillant)」「ピロット」や、各回完結のストーリーを特徴とした最初の漫画誌「エロイック・アルボム」などの雑誌が、現在知られている形に発展。これら一群の漫画誌はヨーロッパ全域で高い評価を博し、多くの国が自国の漫画に加えて、あるいはその代用品として人気を得始めた。
    *1960年代からBDの文化的正統性を主張する知識人・文化人の動きが見られ、1971年にはソルボンヌ大学で専門の講座が誕生し、学問の対象として認知されるかにみえたが、その後廃止された。ベルギーやドイツでは大学に専門の講座があるが、フランスでは主にアカデミック外での研究が盛んである。

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  • 1960年代になると、キリスト教色をまとい、多数の文章と少数のイラストによる伝統的な形式を取っていたカトリック漫画誌の大半が人気喪失。その結果として、ピロットやヴァイヨンのような漫画誌が市場を独占し、流行のスタイルによる商業的な成功を目指す多くの新人作家らの明確な目標となっていった。
    *1960年代までは、宗教上の理由、アメリカ大衆文化への警戒(BD誌にアメコミが多数掲載されていたため)、活字本離れへの警戒などからBD雑誌は悪書扱いされていた。1970年代に入ると子供の読み書きのための教育書として再評価されたものの、子供のもの=幼稚である、という偏見はまだまだ根強かった。
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    *ところで当時の日本は手塚治虫鉄腕アトム(1951年〜1968年、アニメ化第1作1963年〜1966年)」や横山光輝鉄人28号(1956年〜1966年、アニメ化第1作1963年〜1966年)」などが人気を博した少年向け月刊誌連載の「子供向け漫画」が(借本屋の劇画文化の影響も受けた)週刊少年誌連載の新機軸漫画に更新されていく時代に該当。かくして水木しげる永井豪本宮ひろ志といった新しい才能が世に出る事となる。逆に1970年代に入って学生運動が収束すると、それに連動する形で白土三平の人気も凋落した。

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  • 1968年以降からは、それ以前には見られなかった成人読者を対象とする漫画が登場。マルセル・ゴトリブの作品を掲載したレコ・デ・サヴァヌ誌 (L'Écho des Savanes) やクレール・ブルテシェールの『レ・フリュストゥレ』 (Les Frustrés) がその初期に含まれる。他には音楽レビューと漫画を特色としていた同人誌「ル・カナール・ソヴァージュ」 (Le Canard Sauvage) がある。メビウスやフィリップ・ドリュイエ、エンキ・ビラルらの壮大なSF作品やファンタジー作品を掲載したメタル・ユルラン誌 (Métal Hurlant) は、アメリカ合衆国で「ヘビー・メタル誌(Heavy Metal)」として翻訳出版され、大きな衝撃を与えた。この流行は1970年代から、オリジナルのメタル・ユルランが勢いを失う1980年代初めまで継続し、オリジナルのメタル・ユルランが1987年7月に休刊になった後も、本家から独立したアメリカ版メタル・ユルランが存続している。しかし、アメリカ版メタル・ユルランはオリジナルの影に過ぎないという意見も存在する。
    *1980年代以降の日本漫画の作画に革命をもたらした大友克洋はこの時期のバンド・デシネを代表する作家メビウスの画風に影響を受けている。

  • 1980年代の成人向け漫画は、セックスと暴力に満ちた陳腐な作品が大勢を占めていた。例として、この期間のヘビー・メタル誌が挙げられる。

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    *要するにこの時代のアメリカにおける「ラディカルなヒーロー・コミック」の影響を逆に受けてしまったという次第。

  • ラソシアシオン、アモク、フレオンなどのインディペンデント系出版社の出現により、1990年代にバンド・デシネの復興が始まった。これらの出版社から発行される作品は、大手出版社の通常出版物よりも絵画表現および物語表現の両面でより芸術的に洗練され、上質の装丁を施されている。この潮流は、英語圏でのグラフィックノベルとも相互に影響関係を持っている。
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    *ただフランク・ミラー(Frank Miller)原作作画の「バットマンダークナイト・リターンズ(Batman:The Dark Knight Returns、1986年)」やアラン・ムーアAlan Moore)原作の「ウォッチメンWatchmen、1986年〜1987年)」やニール・ゲイマン原作の「サンドマン(The Sandman、1988年〜1996年)」が次々と上梓されていった米国グラフィックの展開に対し、フランスにおける「バンド・デシネ復興」は本当に読者をぐいぐい新しい境地に牽引する前向きの運動だったのだろうか? 芸術至上主義への逃避という側面もあったのではあるまいか? 

    『コ*実際ティム・バートン原作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(The Nightmare Before Christmas)」やニール・ゲイマンコララインとボタンの魔女(2002年、映画化2009年)」の商業的成功を見る限り「芸術と商業主義の両立は有り得ない」という言い訳は通用しない様に思う。そもそも「おまえたち人間に名前があるのは、自分が何者かわかっていないからだ。おれたちはわかっているから、名前など必要ない」といった衝撃的台詞を含まずして、何の芸術至上主義なのか?

  • 21世紀に入ると、日本の漫画に影響を受けたフランス語オリジナルの日本風バンド・デシネが登場し、これはマンフラ (manfra) あるいはフランガ (franga) と呼ばれている。さらに韓国漫画のマンファ、中国風漫画のマンホアなど、アジア風バンド・デシネが市場で意識されるに至っている。

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近年では、フレデリク・ボワレらの提唱する、ヌーベルまんがという新しい動きも見られる。

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 要約すれば以下の通り。

  • これまで見てきた通りアニメーションとコミックの起源は重なる部分も多い(というかざっくり言ってまずアニメーションの発展が先行し、そこで確立した作法が紙媒体に落とし込まれる形でコミックが広まった感さえある)。
    *そもそもフィルムの発明に深く関わった国の一つ。

  • フランスには「映画発祥国」という強い自負心が存在する(おそらくこの自負心は海外のアニメーションやコミックを拒絶し抜こうとする伝統と表裏一体の関係にある)。
    *1930年代に入るとトーキー化したハリウッド映画にますます対抗意識を燃やす様に。

    *当時のディズニー映画の売り上げは、その半分を欧州に依存していたがそれは主にドイツ語圏でフランス語圏ではなかったとも。

  • 「フランス映画」とは「そういうフランス人向けに制作された映画」の事であり、歴史的に見てもその製作者がフランス人であるとは限らなかった(ただまぁ一応はスイスやベルギーといったフランス語圏が供給の中心地ではあり続けてきた)。 

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 では彼らこそが「反ディズニーの急先鋒」だったかというと、それも違うのです。
ハンナ・バーベラ・プロダクション(Hanna-Barbera Productions)のトムとジェリー(Tom and Jerry)

アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していた、ウィリアム・ハンナ (William Hanna) とジョセフ・バーベラ (Joseph Barbera) が1940年から1958年にかけて制作したアニメーション、カートゥーン。略称は「トムジェリ」(ワーナー・ブラザーズwebサイトより)「TJ」など。その後、ジーン・ダイッチ (Gene Deitch) やチャック・ジョーンズ (Chuck Jones) らによって続編が制作された。アカデミー賞を幾度となく受賞。日本でも、1964年にTBS系列で地上波初公開されて以来、幾度も繰り返し再放送、ビデオとDVDも数多くリリースされ、現在に至るまで愛され続けている。

  • 1930年代後半、当時アメリカでアニメーション(カートゥーン)の分野では、ウォルト・ディズニー・カンパニーが人気面で先頭を走っており、他の映画会社が負けじとカートゥーンを手掛けはじめていた。MGMも例外ではなく、新しいカートゥーンを創るべく、ウィリアム・ハンナジョセフ・バーベラの2人のアニメーターに製作を依頼した。当初、この猫と鼠の追い掛けっこをモチーフにしたカートゥーンは、現場サイドでの評判は決して良くなかったと言われている。

  • 1940年に第1作目「上には上がある」("Puss Gets the Boot") をアメリカで公開。公開当時、TOM and JERRY というタイトルは付けられておらず、トムは「ジャスパー (Jasper)」、ジェリーは「ジンクス (Jinx)」という名前だった。製作も、お馴染みのハンナ=バーベラの2人の連名ではなく、ルドルフ・アイジング (Rudolf Ising) という、全く別の製作者の名前が冒頭で公開されていた。しかしいざ公開すると、この作品の人気が瞬く間に上昇し、ハンナ=バーベラの2人のアニメーターの名をアメリカ中に轟かせる結果となった。

  • もともとトムとジェリーは、新聞の4コマ漫画や風刺漫画のような、大人向けのコミカルな風刺物の劇場用短編作品として公開されていた。アメリカでテレビ放送が開始されたのは1941年であり、放送開始後もしばらくは裕福な家庭しかテレビは所持できなかった。従って当時はアメリカに限った話ではなく、映画館では典型的な娯楽映画以外にもニュース映画などの、現在ではテレビ番組として放送される内容も映画館で上映されており、これらの上映時のフィルムの架け替えの時間を埋める作品として製作された。1話の時間10分弱程度と短い(1カートン)のはそのためである。日本ではテレビ用に映画版のフィルムであったものに台詞を吹き替え解説を入れたりして毎週(再放送では毎日も)放送されたテレビアニメシリーズとしたものが最も良く知られているが、本来はMGM系の劇場用長編映画の添え物として作られており,年に数本の不定期製作であった。 従って、公開年次と内容をよく観察すると、作品一つ一つにその当時の社会風俗の描写、あるいは社会風刺が入っている。また制作された時代にヒットしていた実写映画のオマージュやパロディ作品もある。

  • 風刺には、大都会へ上京したジェリーが、結局は都会に馴染めずに郊外の田舎に戻るといった分かりやすい物(イソップ物語の説話「田舎のネズミと町のネズミ」のパロディ)から、感謝祭のごちそうをめぐって、インディアンの扮装をしたトムが、入植した英国人に扮したジェリーと争った末で白旗を揚げる話、閑静な住宅街に住む黒人女性のお手伝いさん(日本語版のナレーションより)が飼い主として描写されているエピソードといった、現代の視点では一見気づきにくいが、実は微妙な描写まで様々である。

  • そもそも、タイトルの「トムとジェリー」自体が、アメリカ(あるいはイギリス)とドイツの当時の俗称である。日本の視聴者にもわかりやすい事例としては、ハンナ=バーベラ第2期ではロッキード事件を風刺したセリフがある。なお、戦時中の作品「勝利は我に」では、これとは逆にジェリーがアメリカ兵、トムがドイツ兵に扮してかなり容赦ない「戦争」をした。

  • 現代では、アメリカでも、普通のスラップスティックなアニメとして鑑賞されることも多いが、ある程度の年配者やアメリカの社会風俗を学んでいる人に対して、トムとジェリーを幼年向けのアニメ文化という前提で話すと困惑されることもある。

その後、ハンナ・バーベラ・プロダクションは独自のテレビ向けアニメーションなどを制作。「珍犬ハックル(Huckleberry Hound、1958年〜1961年)」とそのスピンオフ作品「クマゴロー(Yogi Bear、第1期1961年)」、1950年代に放送されていたテレビドラマ「ザ・ハネムーナーズ(The Honemooners)」を元ネタとする「原始家族フリントストーン(The Flintstones、第1期1960年〜1966年)」およびその未来版「宇宙家族ジェットソン(The Jetsons、1962年〜1963年、1985年〜1987年)」、「科学少年J.Q(Jonny Quest、1964年〜1965年、1986年〜1987年)」、「弱虫クルッパー(Scooby Doo, Where Are you!、第1期1969年〜1970年)」「森のスマーフSmurf、第1期1980年、ベルギーの漫画家ピエール・クリフォール原作)」などを人気シリーズとして残しそのうち幾つかはアメリカン・ポップカルチャーの象徴的存在となった。

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またジュール・ヴェルヌ原作「海底2万マイル(20.000 Leagues Under The Sea、1972年)」をジブリの前身トップクラフトに発注している。

 ランキン・バス・スタジオ(Rankin/Bass Productions)

ストップモーション・アニメーションの制作会社として1960年に発足。ストップモーションアニメとセルアニメを合成した「Animagic」技法で知られる。

  • 1964年、クリスマスソング「赤鼻のトナカイ(1948年)」の元ネタとして知られるロバート・L・メイの童話「ルドルフ赤鼻のトナカイ(Rudolph the Red-Nosed Reindeer、1938年)」を1時間のパペットアニメーションとして制作。日本人スタッフが複数参加しており、撮影も日本の「MOMプロダクション(人形アニメ作家の持永只仁が設立)」で行われた。これが当たって1965年には「名声と富(Fame and Fortune)」、1967年にはチャールズ・ディケンズ原作「ハースの上でのクリケット(The Cricket on the Hearth)」を制作。

  • 1968年には「メイフラワー上のマウス(Mouse on the Mayflower)」を制作。アニメーション制作は東映アニメーションが担当し、宮崎駿原画マンとして参加していた。

  • 1969年には「雪だるまのフロスティ(Frosty the Snowman)」を制作。アニメーション制作は虫プロダクションが担当。出崎統が参加していた。

  • 1970年には「サンタが街にやってくる(Santa Claus Is Comin' to Town)」を制作。ノンクレジットながら人形師として 小室一郎と北京子、アニメーターとして田畑宏や中村武雄が参加している。

  • 1971年には「Here Comes Peter Cottontail」、1974年には「The Year Without a Santa Claus」を制作。「ルドルフ赤鼻のトナカイ」「The Daydreamer(1966年)」「Mad Monster Party?(1967年)」同様にNagashima Kizoの名がクレジットされている。

  • 1972年から1973年にかけて制作された「Festival of Family Classics」では虫プロがアニメーションを担当した。

  • 1975年には「The First Christmas: The Story of the First Christmas Snow」を制作。"Animagic" Production Supervisorsとして河野秋和と小室一郎がクレジットされている。1977年に制作された「ルドルフ赤鼻のトナカイ」の続編「赤鼻のトナカイ ルドルフ物語」においては(親子映画第11作「ちびっこカムのぼうけん(1976年)」を監督した)河野秋和がさらに監督の一人ににクレジットされている。

  • こうした動きと並行して「キングコングの逆襲(1967年)」を東宝と共同制作。テレビ番組として「極底探険船ポーラーボーラ(The Last Dinosaur、1976年)」「The Bermuda Depths(1978年)」「The Ivory Ape(1980年)」を円谷プロダクションと共同制作している。

  • ジブリの前身となるトップクラフトには新聞連載漫画が原作の「Kid Power(1972年)」、雪だるまフロスティ・シリーズの1作「Frosty's Winter Wonderland(1976年)」、「ホビットの冒険(The Hobbit、1977年)」、ディケンズクリスマス・キャロル」を原作とする「町一番のけちんぼう(The Stingiest Man in Town、1978年)」、「王の帰還(The Return of the King、1980年)」ピーター・S・ビーグル原作「ラスト・ユニコーン(The Last Unicorn、1982年)」、ピーター・ディキンソン原作「フライト・オブ・ドラゴン(The Flight of Dragons.、1982年)」などを発注している。

1980年代に入ると資金繰りが悪化。1987年にその歴史を閉じる。

 こうして「米国の非ディズニー系アニメ制作スタジオ→日本のジブリ・スタジオ」という流れが出来上がった訳ですね。そして、もう一つの系譜…

UPAとリミテッドアニメーション: たけくまメモ

40年代後半、ディズニー・アニメは技術的・美学的・産業的に完成の域に達していたが、同時にそれは閉塞の始まりであった。あまりにも完成され過ぎたディズニー様式は、製作にかかる莫大な予算の問題もあって他の追随を許さず、短編はともかく長編アニメにおいては、長らくディズニーの独占市場であったといえる。

だが、これは他の分野についても言えることだが、競争のないところに発展もない。 '40年代後半になると、ウォルトのアニメに対する興味は徐々に薄れ、関心は実写映像の分野へ向かっていく。アニメに「写実」を持ち込んだディズニーの、これは自然な帰結であったといえる。長編アニメも変わらず製作してはいたが、現場のベテラン・スタッフにお任せとなっていった。そこには戦前のウォルトにはあった、アニメへの狂おしいまでの情熱はもはや見られない。

しかし他に眼を転じるなら、閉塞をうち破る動きも始まっていた。その筆頭がスティーブン・ボサストゥ率いるクリエイター集団UPA(ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ)である。ボサストゥら創立メンバーの多くはディズニー・スタジオ出身者であったが、彼らはこの新しい組織でディズニーとはまったく異なるスタイルを追求した。その独自の様式(リミテッド・アニメーション)は'51年の『ジェラルド・マクボイン・ボイン』で完成され、'50年代アニメ界を席巻した。

リミテッド・アニメ本来の意図は、ディズニー流の写実的・自然主義的描写とは異なり、グラフィカルな美的計算に基づいたシンプルな背景とキャラクターで「象徴主義的な画面、および動き」を表すところにある。ある意味でこれは西洋近代絵画における印象派のそれと、意識の面で近いものだといえる。

たとえば、もしも「写実」を絵画の最大の目的だとした場合、最終的にそれは写真と差がないことになってしまう。実際、ルネサンス以降の西洋絵画は「写実=リアリズム」をひとつの目標として発展したが、それは19世紀に入り、写真術の発明によって大幅な見直しを迫られた。その最初の成果が日本の浮世絵やアフリカの民族絵画に影響された「非写実的」な印象派絵画であるとするなら、アニメにおけるリミテッド・スタイルもまた「写実によらず、作家の“印象”で画面や動きを構成する」という点で、やはり印象派の意識に近い。

作画面では、それまでのアニメーションは円を基本とするキャラクターが中心であったが、UPAのキャラクターは楕円と直線を基本要素にしており、これは「Iスタイル」と呼ばれた。さらには背景も極力シンプルなものとし、それは時にグラフィック・デザイン風、時には抽象絵画風である。

また、それがアニメとして動きをともなう場合、実写をもとにしたライブ・アクションではなく、あくまで作家の脳内で構成された“動きの印象”を再現することになる。この場合、たとえばわずか二枚の動画で「動き」を表現することもあり得るのであって、その限りでは確かに「セルの節約」に違いないが、決して節約それ自体が目的なのではない。

ここで問題となるのは“動きの印象”を再現するために必要な枚数は何枚か、ということだ。しかしこれは演出意図によって決定されるもので、いちがいに何枚とは言えない。表現として必要ならば、1コマ打ち(1秒=24枚)のアニメーションをとることもあり得るし、必要なければ2枚でも充分なわけである。画面のすべてがフルに動き回るのではなく、作品の目的に合致していれば止め絵でもよく、必要なら徹底的に動かす。その判断は演出家が下すのだ。

このことはUPAの代表作のいくつか、たとえば『ジェラルド・マクボイン・ボイン(Gerald McBoing Boing)』(ボブ・キャノン演出、'51)や『ルーティ・トゥート・トゥート(Rooty Toot Toot)』(ジョン・ハブリー演出、'52)『庭の一角獣(A Unicorn in the Garden)』(ビル・ハーツ演出、'53)『告げ口心臓(The Tell-Tale Heart)』(テッド・パームリー演出、'53)などを見ればわかる。ここで実現されたリミテッド表現はいずれも高度な美的計算に貫かれており、シンプルではあっても決して「手抜き」ではない。

ところでUPAといえば、これまではその視覚スタイルの革新性ばかりが語られてきたきらいがある。しかし彼らはテーマやストーリーの面でも「非ディズニー」的試みを多く行っており、こちらの要素も重要だ。

たとえば『ジェラルド・マクボイン・ボイン』は「効果音でしか話せない」という、一種の言語障害を持つ子供が主人公のアニメである。障害ゆえに友人や親からも見捨てられ、孤独に陥るというシリアスな設定、そこから生じるギャグは残酷ですらある。しかし最終的に少年の特異体質がプラスに転じて、社会に受け入れられるという救いが待っている。きわどいテーマを、後味のよいものに仕上げるキャノンの演出センスには非凡なものがある。

『庭の一角獣』はこういう話だ。倦怠期を迎え、険悪な仲になった中年夫婦がいる。もはや食事も別々にとるありさまで、妻は朝から寝ている。ところがある日、夫が一人で食事をとっていると、庭で花を食べているユニコーンの姿が見える。彼は妻にその事実を報告するが、妻は取り合わないばかりか、医者を呼んで彼を精神病院に入れようと画策する。医者に向かって興奮しながら「庭にユニコーンが…」と話しはじめる妻。ところが夫は「ユニコーンは空想上の動物で、いるわけないじゃないか」と平然と言い放つ。唖然とし、取り乱す妻。医者は、狂っているのは妻のほうだと判断し、彼女に拘束衣をつける。部屋から連れ出される妻を見て、ニヤリとする夫。

それまでアニメではとりあげられなかった種類の、完全に大人向けのストーリーであり、しかも狂っているのは夫か妻か、観客が混乱するよう意図的に演出されている。こうしたある意味「難解な」展開もまた、UPA作品の特徴だといえる。

ひねくれた物語とシンプルでスタイリッシュな画面、両者が支え合ったところにUPA作品は成立しているのだ。これがアニメ界に与えたインパクトは絶大であった。

UPAの代表作家ジョン・ハブリーは戦前からのベテラン・アニメーターであったが、ボブ・キャノンらとともにリミテッド・スタイルを確立して以後、UPAを離脱してアート系作家として長く活躍している。これも、リミテッド・スタイルのコストパフォーマンスの良さが個人作家による参入をうながした格好だ。

日本でもイラストレーターの久里洋二柳原良平真鍋博らが'60年に「アニメーション三人の会」を結成し、前衛的なアートイベントを多く開催していた草月ホールで定期的に上映会を行った。ここには和田誠横尾忠則、なぜか手塚治虫までも参加して非商業的なアート作品をさかんに発表し、日本におけるアート・アニメ運動の先駆となった。非商業的とはいっても、そのスタイルはポップなものとして広告界で歓迎され、彼らを起用したCM製作もさかんに行われた。

特に久里洋二はコマーシャル・フィルムだけではなく、深夜の帯番組『11PM(1965年〜1990年)』で毎週一作品(30秒から1分程度)を製作・放映、これを10年以上続けたことでも大衆的に記憶される作家である。すべてが久里独特のブラックなユーモアに貫かれており、個人作家の作品本数としては、これは間違いなく世界記録であろう。

かくしてアート・アニメは世界的なブームになり、当然それは美術シーンとも密接に結びつくことになる。「動くポップ・アート」のような作品がさかんに作られたのである。こうした動きの中からは、イギリスのジョージ・バニングによる「イエロー・サブマリン(Yellow Submarine、1968年)」のような長編ポップアート・アニメの傑作も生まれた。ビートルズのキャラクターとヒット曲を大胆に使ったこの作品は、ミュージック・クリップの元祖としても高い評価を受けている。


*こうした一連の流れの中で「ゴジラ対へドラ(1971年)」は制作されている。

「ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(United Productions of America、UPA)」

1940年代、アニメーション業界最大手ながら第二次世界大戦に伴う減収減益と労使闘争に苦しめられたディズニーよりのスピンアウト組が多数合流した事で知られている。

  • 最初期には戦時下での政府の為の広報に仕事と収入を見出した。1944年には全米自動車労働組合(UAW)の出資による短編アニメーション「Hell-Bent for Election」はフランクリン・ルーズベルトの再選キャンペーンの為にも使われ商業的成功を収め、同じくUAW出資による短編アニメーション「Brotherhood of Man(1946年)」制作につながった。この作品は「人種に関わらず人類は共通の部分を持っている」というメッセージを強く打ち出した点が画期的だった。

  • しかし1940年代後半には共産主義者の活動を疑われたハリウッドにFBIの調査の手が伸びる。UPA社員は誰一人起訴されなかったが、ワシントンがハリウッドとの繋がりを断ち切った為に政府との契約は失われた。しかたなく(当時傘下にあるスクリーン・ジェムズ・カートゥーンスタジオの制作する短編アニメーションの出来に失望させられていた)コロンビア映画と契約し劇場用アニメーション映画の分野に進出。頑固で近視の老人マグーが登場する「When Magoo Flew(1953年)」と「Magoo's Puddle Jumper(1955年)」でアカデミー賞短編アニメ部門を受賞。またドクター・スース原作の「ジェラルド・マクボイン・ボイン(1951年)」も新たなアカデミー賞をもたらした。

  • しかしながら下院非米活動委員会の公聴会が新たな破局の始まりを告げる。調査結果に危機感を覚えたコロンビアは「例えどんなに僅かでも共産主義活動に関与する兆候を見せる者は誰であろうと解雇しろ」と圧力を加え、名指しされた候補者の中には脚本家のフィル・イーストマンやビル・スコット(スコット自身に嫌疑は掛けられていなかったが、イーストマンのパートナーとして共産主義への汚染を委員会から疑われていた)が含まれた。実際に共産主義者と関わりを持っていた政治活動家と判明したハブリーが1952年5月に解雇されると同時にUPAの創意工夫の大部分も去り、1959年には劇場用アニメーション短編の制作そのものが中止される。1960年代に入るとTV分野に進出してリミテッドアニメーションを粗製濫造する様になったが自転車操業も限界に到達して1964年にはアニメーション部門が永久に閉鎖された。

その後は日本の特撮怪獣映画をアメリカで配信する為に東宝株式会社と契約。アメリカで劇場公開あるいは主にテレビ放映された東宝怪獣映画は新たなカルト映画市場を開拓し「Creature Double Feature」等の連続テレビシリーズとして纏められてアメリカの若い視聴者に浸透した。怪獣映画は1970年代から1980年代を通じて人気を博し続け,1980年代後半に東宝が「ゴジラ1984年版)」から始まる怪獣映画の新シリーズ制作を開始するとそれも欧米に広めた。

ランキン・バススタジオやロジャー・コーマン同様、最後は日本の特撮映画やアニメ作品の配給会社に行き着いた訳ですな。

一方この系譜は日本に思わぬ形で足跡を残す事に。

トリスウイスキー(Torys Whisky)

サントリースピリッツから発売されているウイスキーブランドの一つである。サントリーホールディングス登録商標(第667200号他)。

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  • 寿屋の創業者である鳥井信治郎は、1907年(明治40年)に赤玉ポートワインを発売し、同社の土台を築くと共に、海外からさらなる洋酒を国内に広めるべくヒントを得ようとしていた中で、ある時海外からウイスキーとは名ばかりの模造アルコールに近い商品を手にする。当然これでは売り物にならないため、葡萄酒用の樽に寝かせておいた。数年後、この液体は琥珀色に熟成し、鳥井はそれがウイスキーであることを確信した(ただし、現在の基準ではウイスキーとは認められないものである)。その後、この液体を「トリス」と名付けて売り出したところ、あっという間に売れた。これを機に、鳥井は国産初のウイスキー製造に乗り出す決意を固め、1923年(大正12年)、京都と大阪の境、山崎に蒸留所の竣工に踏み切ることになる。
    *Torysの呼称は鳥井信冶郎の名に由来し「鳥井の」という意味を持つ。しかし最初に発売されたトリスが模造ウイスキーに近いような品質であったことや、またウイスキー自体が麦を仕込んで原酒を寝かせてから発売されるまでに時間が掛かることもあり、戦前に「トリス」の名を冠された製品は、主に紅茶やカレー粉など、ウイスキーとは違う「(国産化しつつあった)舶来物」にブランド名として付けられていた。

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  • トリスウイスキーとしての発売は、戦後の1946年である。当初は原酒を5%入れていたが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されている。
    *1946年(昭和21年)、敗戦直後の混乱期の中で、出どころの知れない粗悪なアルコール類を牽制すべくブレンデッド・ウイスキーとしてのトリスウイスキーが誕生。当初はモルトウイスキーとブレンド用アルコール(糖蜜を原料とした焼酎甲類)のブレンドであり、モルト使用率も低かったが、やがてモルトウイスキーとグレーン・ウイスキーのブレンドに刷新されて今日に到る。

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  • 1950年(昭和25年)頃に「うまい」「安い」のキャッチフレーズで発売開始。柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクルトリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも一際認知度が一番高い。近年、トリススクエアの販売で再び、テレビに登場したのに続き、2010年(平成22年)には「トリス<エクストラ>」のCMで女優の吉高由里子と“共演”したバージョンが製作された。
    *トリスエクストラ及びトリスハイボール缶のCMソングには、往年のバラエティ番組『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)のテーマソング(元歌は『隣組』。たかしまあきひこ編曲)の替え歌で「ド・ド・ドリフの…」の部分を「ト・ト・トリスの…」と替えている。

  • 1955年(昭和30年) - 1962年(昭和37年)には、後楽園球場のレフトフェンス(ポール付近)に「トリスウ井スキー(後にトリスウイスキーに変更)」の広告が登場、テレビ放送の草創期であることも相俟って、プロ野球テレビ中継において一塁側スタンド上のカメラがレフトへ飛んだ打球を追う度トリスの文字が映し出され、大きな宣伝効果をもたらした。
    *1963年(昭和38年)からは、新発売された「サントリービール」に取って代わられたが、こちらも東京ドーム開場初期まで続いた。

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  • 1961年(昭和36年)には「トリスを飲んで、ハワイへ行こう!!」というCMが放送された。これは、トリスウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものだった(当時は、まだ一般市民の海外渡航には制約があったため)。1964年に、海外旅行の自由化がなされ実施されたものの、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程で、当選者のほとんどは預金証書を旅行に使わず現金化している。

  • ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視されている。従来は、1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。
    *1981年(昭和56年)には、当時サン・アドに所属していたコピーライターの仲畑貴志が企画立案した、子犬が京都の町中を駆け巡るCM「雨と子犬」が放映され、話題を呼んだ。このCMは、その年に開催されたカンヌ国際広告映画祭のCM部門で金賞に輝いている。このCMで流れている歌はビリーバンバンの菅原進がソロで歌った「琥珀色の日々」、撮影は宮川一夫。このCMに登場した子犬は撮影終了後CM関係者に引き取られ、天寿を全うした。


    *また、トリスを中心に、サントリーが製造販売しているウイスキーを出す、ウイスキーバーは愛称トリスバーと呼ばれ、気軽な値段の庶民酒場として1960年代を中心に人気を博した。最盛期に比べると、数は減少したものの、現在も各地で営業を続けている。「トリハイ」と呼ばれる、トリスウィスキーを使用したハイボールが人気メニューのひとつであり、食事のメニューはややクラシックな洋食が中心となっている。

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  • さらに、2009年頃からのハイボールブームに乗る形で、2010年9月にこれまでのラインナップを刷新し、よりハイボールに合うキレのある味わいに仕上げた「トリス<エクストラ>」と同製品をベースにした「トリスハイボール缶」を発売した。この「トリスハイボール缶」は発売以降、通常品の他に季節限定品やエリア限定品を中心に、様々なフレーバーが登場するようになった。
    *2015年(平成27年)には「トリス<クラシック>」のTVCMにも「アンクルトリス」が登場しているが、イメージキャラクターが「トリスハイボール」や「トリス<エクストラ>」の時とは異なり、初めて酒のTVCMに出演する東出昌大が新たに起用され、バーテンダー役として柄本明も出演。

「Torys」の書体は発売当初から昭和40年頃まではやや筆記体だったが、昭和40年代前半はサンセリフ書体(ゴシック文字)、後半からしばらくはセリフ書体に変化していくが、次第に当初から使用された筆記体に戻された。しかし、2010年(平成22年)の「トリス〈エクストラ〉」は再びセリフ書体が使用されている。ちなみに、ボトルに今でも初代のサントリーのロゴが使用されている。
*三味線と同じで日本にはこのパターンが多い気が。①最初は珍しい舶来品として広まる。②やがて日本の伝統に組み込まれてしまう。「アンクルトリス」なんて完全に「昭和ノスタルジー」の顔の一つに収まってしまっている。実はこのパターン「国民食クスクス」などフランスにも多い。

「愉快な家族/一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯 (Cheaper by the Dozen,1948年) 」

アメリカ合衆国のフランク・バンカー・ギルブレス・ジュニアとアーネスト・ギルブレス・ケアリーによる書籍。時間動作研究および能率向上技師のフランク・バンカー・ギルブレス、リリアン・モラー・ギルブレス夫妻とその12人の子供達について描かれている。一家が長年住んだニュージャージー州モントクレアでの生活に焦点を当てている。

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  • 一家総出で車で出掛けて赤信号で止まっていると、歩行者から「なぜそんなに子供を連れているの?」と聞かれることが度々あり、父フランクはわざとじっくり考える振りをして信号が青になると「一ダースなら安くなるからね」と言ってすぐに発車していたことからこの題名がついた。

  • 実生活では第二子で次女のメアリーはジフテリアのため5歳で亡くなっている。本の中ではメアリーが亡くなったことにははっきりと言及していなかった。しかし父フランクが亡くなった1924年以降の家族の様子を描いた「続 一ダースなら安くなる」では彼女の死について脚注において述べられている。

  • 1950年、クリフトン・ウェッブがフランク役、マーナ・ロイリリアン役で「一ダースなら安くなる」が公開。家族計画団体からの訪問者役でミルドレッド・ナトウィックが出演しており、家族からからかわれる役となっている。

  • 1952年、続編もまた映画化され「続 一ダースなら安くなる(Belles on Their Toes)」としてジーン・クレインマーナ・ロイが主演した。この映画は母リリアンと子供達に焦点を当てている。

  • コメディ俳優スティーヴ・マーティンとボニー・ハント主演で「12人のパパ(Cheaper by the Dozen,2003年)」が北米3298館で公開され、初週末3日間で約2750万ドルを稼ぎ、2週目の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』に次いで初登場2位となった。日本では公開されてない。内容は「イリノイ州で妻と12人の子供たちと暮らすトム(スティーヴ・マーティン)が、ある時仕事の都合で妻と離れて暮らし12人の子供たち一人で仕切ることになる」と全く別物(母の旧姓がギルブレスという辺りに無理矢理関連性が持たされている)。続編「12人のパパ2(Cheaper by the Dozen2,2005年)」も公開された。

そもそもフィルム・ノワールやミュージカルといった「スタイル」が重視されていた時代に「(1950年代から1960年代にかけてはありふれた存在だった)平凡な大家族の家庭生活を庶民的かつコミカルなタッチで描くホームドラマ」が登場した事そのものが画期だった。日本でも(子沢山の家庭が一般的だった)1960年台後半から1970年台後半にかけて何度も繰り返しTVで放映されたという。
科学主義や海外文化への憧憬心から自宅内のドラマへ。一ダースなら安くなる (Cheaper by the Dozen、1950年)がもたらしたホームドラマへのパラダイムシフト
UPAの成功は(芸術路線に拘り続けるディズニーと異なり)第二次世界大戦の勝者となったおかげでそれまでの劣等感が克服されて「アメリカ式生活」を堪能する精神的余裕が生まれたアメリカ市民の心理的変化を上手く掬い上げた点にあったとも。

映画「一ダースなら安くなる(Cheaper by the Dozen,1950年)」

20年代の能率向上技師の両親と12人の子供達の日常の生活から始まる。父フランクによる珍しい教育方針や、派手な服装や化粧など子供達の成長による欲求などが織り交ぜられている。父フランクは常に時間動作研究や能率向上を念頭に生活している。

  • 父フランクの死後、母リリアンが父の仕事を継承していくことに家族は同意し、子供達は祖母のいるカリフォルニア州に引っ越すことも検討されたが結局母親のもとに残ることとなった。未亡人となった母親が働きに出て、収入も1人分となったことで子供達もそれぞれの責任を負うこととなる。映画の終盤、ナレーターが母親のリリアンは能率向上技師として世界的に有名となり,1948年、『タイム』誌が選ぶウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたと語っている。

  • フランクの死後の彼らの生活は続編の『続 一ダースなら安くなる』で描かれる。補足であるが、リリアン1984年には切手の図案にもなっている。

赤塚不二夫の漫画「おそ松くん(週刊少年サンデー1962年~1967年)」やUPAのアニメーション短編「Madeline (1952年)」はこの映画から着想を得たとされている。

 Madeline (1952年、UPA)

In an old house in Paris,
that was covered in vines,
live twelve little girls,
in two straight lines.

赤塚不二夫「おそ松くん(1962年〜1969年)」

赤塚不二夫とフジオ・プロのギャグ漫画。赤塚の代表作であり、これまで4回にわたってテレビアニメ化され、劇場用アニメも制作されている。

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  • 週刊少年サンデー」に1962年16号から1967年33号まで連載されていたほか、「ボーイズライフ」(1966年4月号から12月号まで)や学年誌にも掲載され,1969年「週刊少年サンデー」21号掲載の(「いまにみていろミーだって」)まで小学館の各雑誌で作品が発表され続けた。

  • 発想の原点は「1ダースなら安くなる」というハリウッド映画で、漫画のコマで描ききれる人数ということから6人のキャラクターが描かれた。なお「少年サンデー増刊号」等で掲載されたスペシャル版では、チャップリンなどの映画作品の翻案が多い。のち「週刊少年キング」の1972年5号に『新おそ松くん』として掲載され(『チビ太の金庫破り』リメイク版)、同年13号から1973年53号まで再び『おそ松くん』の題名で連載された。

  • その後も小学館学年誌での別冊付録として旧作が掲載されていたほか、テレビアニメ第2作の放送に際し講談社の「コミックボンボン」に1987年11月号から1990年3月号まで、同じく講談社刊行の「テレビマガジン」に1988年2月号から1990年1月号まで、新作が連載された。

  • また,1989年4月に発行された「週刊少年サンデー30周年記念増刊号」に『あの有名キャラクターは、いま!?』のタイトルで連載開始当時から27年が過ぎたという設定の4ページの読み切り作品が掲載。

  • 第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。同名の連続テレビアニメが1966年と1988年の2度製作されており、こちらも人気を博す。月曜ドラマランド(フジテレビ)にて実写版も製作された。

作品内容の変遷

  • 初期(週刊少年サンデー連載,1962年~1967年)・・当初は六つ子を主役に据えて日常に対する意外性を持たせながらも、六つ子の腕白ぶりに手を焼く両親、六つ子のクラスメートで憧れの美少女トト子、ずる賢くてへこたれないチビ太が脇を固めた生活感あふれるシチュエーション・コメディだった。このため、六つ子が学校に行く場面やガキ大将と対決する場面もあった。中盤からイヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーンといったキャラクターが出現し、次第に「主役を食う」状態となる。内容もイヤミとチビ太を中心としたスラップスティック・コメディに変化していった。やがて初期設定は一切無視され、いろんな設定で六つ子とイヤミ、チビ太が絡み合うナンセンスギャグ作品になった。

  • 中期(週刊少年サンデー・別冊少年サンデー掲載、ボーイズライフ連載,1967年~1969年)週刊少年マガジンでの『天才バカボン(1967年~1978年)』の開始が引き金となり、週刊少年サンデーの誌面強化を理由に『おそ松くん』の週刊連載を打ち切られた赤塚は、代償に『おそ松くん』の月に1度の掲載と増ページを認めさせた。ここで発表した作品は既述の通り映画の翻案が多く、手塚治虫の採ったスターシステムと同様に赤塚によってキャラクターたちが一俳優のごとく様々な適役をこなしていった。『イヤミはひとり風の中』『チビ太の金庫破り』『オメガのジョーを消せ』など傑作が多く、このシリーズは映画好きな赤塚の真骨頂でもあった。映画の翻案のほか、非日常回が増え、日常回が極端に減ったこともこの時期の特徴の一つ。最終話『いまにみていろミーだって』(1969年)ではイヤミとバカボンのパパのコンビが実現している。

  • 中断期(1969年~1970年)…『もーれつア太郎』や、週刊少年サンデーに移籍した『天才バカボン』にゲスト出演することが多くなる。そして『ア太郎』の長編作である『風雲もーれつ城』『真っ黒シッポを東京でなおせ!』『時のかなたの森の石松』などでは、3作の主要キャラが共演。

  • 後期(週刊少年キング連載)…『天才バカボン』『レッツラゴン』と並行して描かれた作品。イヤミが主役で、それまでは主役も多かったチビ太ですらチョイ役にとどまるものの、チビ太が主役の『チビ太の金庫破り』のリメイク版が掲載されている。六つ子に至っては全く登場しない話がほとんどである。出ても扉程度で、「ぼくがさっぱりでないのに、おそ松くんなんてひどいよ!」などとイヤミに抗議するシーンがほとんどだった。基本的に女にモテず、金もなくいつも空腹にさいなまれているイヤミを中心に話が展開し、そこに目ン玉つながりのおまわりさん(本官さん)などのキャラクターが絡み、シュールなギャグを展開する。ニャロメ、オカマのカオルちゃんウナギイヌ、ノラウマ、竜之進(カメラ小僧篠山紀信)などのゲストキャラクターも多く出演した。また、デカパンがイヤミの敵役となっている話が多い。

  • 最新版(コミックボンボン連載)…テレビアニメ第2作制作を機に再執筆されたもの。基本に立ち返り再び六つ子中心の話となり、イヤミは脇役に戻る。またデカパンが発明家、イヤミが通りすがりのエセ紳士でなぜか周囲に振り回されひどい目に遭う男、チビ太が空き地の土管の中に住む孤児に設定が固定され、六つ子とチビ太の関係も以前のようにズルいチビ太にしてやられた六つ子が仕返しをするのではなく、心優しいチビ太を一方的に六つ子がいじめるものに変化している。このシリーズに限り「あぶニャン」というネコ型ロボットが登場する。

また「 おそ松さん(2015年〜2016年)」が約27年ぶりに第3作としてテレビアニメ化された。初の深夜アニメとしての放送で、基本設定も「松野家の六つ子、おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松は20歳を過ぎても定職につかず、親の脛をかじるいわゆるニートで仕事にも女性にも縁がない」といった具合に一新されている。

ここまでの展開を以前の投稿内容とも突き合わせながら整理してみましょう。

  • 時は大恐慌時代の最中。残酷な現実の直視を強要する様な作品ばかりが流行する最中「大衆は小さな真実より大きな嘘を信じたがる」をモットーに「ありえない設定のラブコメ(Romantic Comedy)」を供給し続けたコロンビア映画のフランク・キャプラ監督。そして「こういう時代こそ大人は完璧なメルヒェンに逃げ込みたがる」と断言し「白雪姫」を制作したウォルト・ディズニー。しかし前者はやがて「現実の残酷さ」に膝を屈し、後者はさらに芸術至上主義の深みへと足を踏み込んでいく。

    *「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」…あまりに発想が突拍子なさ過ぎて南イタリア系のバンク・オブ・アメリカしか出資先見つからなかったとも。理想と現実のギャップは晩年になるほど酷くなり、晩年のウォルト・ディズニーアルコール中毒患者に追い込んだ。

  • そして1950年代に入ると新たな展開が始まる。第二次世界大戦の勝者となり未曾有の経済的繁栄を謳歌する様になった為、アメリカ人は遂に欧州に対する劣等感の克服に成功したのだった。

    それまで米国の発展を牽引してきたヒズテリックなまでの科学主義(Scientism)や進歩主義(Progressivism)が次第に影を潜め、華麗なミュージカル大作や展開の劇的なフィルム・ノワールや荘厳な古典史劇大作といった欧州文化への憧憬心に支えられた映画が次第に人気を喪失していく一方で、「世界で最も豊かなアメリカ的生活」を自画自賛する小市民的雰囲気が次第に高まってくるのである。変化は最初こそゆっくりしたものだったが、TVの普及と番組の充実が進んだ1960年代に入ると次第にその勢いを増していく。
    *1930年代における美女の選好意識の変遷にその先行を見てとる向きもある。「不健康で病的で退廃的な雰囲気を漂わせる欧州美人」から「精神も肉体も健康そのもののアメリカ美人」に。「近づく男達を全て破滅させ自らも滅んでいく妖姫」から「勤労婦人」へ。

  • ドラマのトレンドが転回した嚆矢。それは科学主義(Scientism)の皮を被りながら、実際に鑑賞すると画面を所狭しと駆け回る子供達に目移りしてしまう「一ダースなら安くなる(Cheaper by the Dozen、原作1948年/1950年、映画化1950年/1952年) 」だったされる事が多い。かくしてホームコメディの時代が始まり(赤狩りで政府の発注が当てに出来なくなった)UPAや(1950年代に流行したホームコメディの原始時代版や未来版を作り続けた)ハンナ・バーベラ・プロダクションや(ディズニー同様音楽の力に頼りつつも、TVスペシャル中心に受注してよりハートウォームな祝祭歌を主題歌に据えた)ランキン・バス・プロダクションなどの作風に影響を与えていく。そして1960年代後半に入るとヒッピー運動などで世代間対立が激化したのを受けて「子供達の集団行動」が主題に。
    *日本人は米国では赤狩りによって一掃されたハメットのハードボイルド小説やUPAのアニメーションをしっかり記憶に留めていたばかりか、黒澤明監督「用心棒(1961年)」の様な作品までリリース。「コンバット!(Combat!、1962年〜1967年、日本でも1962年以降放映)」が流行すると忍者ごっこが大ブームとなり「忍者部隊月光(1964年〜1966年)」が制作される展開に。「奥さまは魔女(Bewitched、1964年〜1972年、日本での放映は1966年以降)」や「かわいい魔女ジニー(I Dream of Jeannie、1965年〜1970年、日本での放映は1966年以降)」の流行は日本の魔法少女物の原点となった(当時のアニメ化に「週刊漫画雑誌に追い立てられる月刊誌連載漫画への救済措置」という側面があった様に、女性作家台頭によって少女漫画の世界から追い出された男性漫画家への救済措置なる側面もあった)。時はまさに少年漫画の供給手段が月刊誌から週刊誌に推移し、少女漫画が恋愛禁止の1950年代から恋愛こそ主題の1970年代に推移していった過渡期。戦前の遺習を引き摺る「本格派小説」が社会派ミステリーと対消滅を起こし、高度成長期のサラリーマンが源氏鶏太の「サラリーマン小説(1948年〜1970年)」や山田風太郎の「忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」に熱中する一方で未曾有の翻訳小説ブームが到来する一方で未曾有の翻訳小説ブームが勃発し、週刊平凡パンチ(1964年〜1988年)が海外のファッションやライフスタイルの紹介媒体として君臨した時代。その一方でビニール加工技術が発達し「第一次怪獣ブーム(1966年〜1968年)」を支えたソフビ怪獣や(人形の体型やサイズを日本事情に合わせた)リカちゃん人形(1966年〜)が登場。まさしく和製コンテンツの基礎はこの時代に築かれたとも。

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  • そして1970年代に入ると次第に日本は(日本カラー特撮映画の好敵手だった「カラー恐怖映画の雄」ハマー・プロの凋落を尻目に)「安価な下請け」から米国の開拓した様々な路線の継承者へとその姿を変貌させ始める。

    それと同時に国際的に台頭したメビウスらバンド・デシネ勢の影響の継承も進行した。かくして宮崎駿監督や大友克洋の時代が到来する。
    *ディズニーにとっては「ジャングル・ブック(The Jungle Book、1967年)」から「リトル・マーメイド(The Little Mermaid、1989年)」にかけての大作不在期に該当。

    *「デビルマン(Devil Man、1972年〜1973年)」「マジンガーZ(Mazinger Z、1972年〜1974年)」「キューティーハニー(Cutie Honey、1973年〜1974年)」の永井豪に「ゲッターロボ・サーガ(1974年〜2000年)」の石川賢、そして本宮ひろ志男一匹ガキ大将(1968年〜1969年)」に衝撃を受けて漫画を描き始めた車田正美の「リングにかけろ(1977年〜1981年)」「聖闘士星矢(SAINT SEIYA: KNIGHTS OF THE ZODIAC、1986年〜1990年)」。これら週刊少年漫画誌出身の作家達には古くは尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」、新しくは平井和正石ノ森章太郎「幻魔対戦(1967年〜未完)」といった連載作品に一貫して見られる共通の特徴、すなわち「落とし所を考慮しないままどんどん風呂敷を広げ続けるのでしばしば未完か打ち切りエンドを迎える」リスクを内包している。

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このサイトではむしろこうした「高頻度(High Frequency)長期連載作品(Long-term series)」が必然的に内包する「竜頭蛇尾(Anticlimax)」問題をこそ「セカイ系作品」の本質と考えてきました。

そういう方向に一般化しないと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版(2007年〜)もベイマックス(Big Hero 6、2014年)もこのジャンルに分類した腐女子心理」や「Web小説問題(これも典型的な高頻度長期連載作品だが、既に「セカイ系作品」の枠組みを超えた展開を見せている)」を扱えなくなってしまうからである。

流行としてのセカイ系からは、ほとんどの場合「幻魔大戦」は連想されないだろう。

さて「幻魔大戦」等が破綻した訳は、「世界」という抽象概念は、結局、描写できないというところにある。期待を盛り上げるだけ盛り上げといて、ボスが登場しないわけで、破綻が運命づけられている、と言ってもいい。

この立場ならフランス文化人的な「外国文化嫌悪症(そもそもフランス文化自体が古代ギリシャ・ローマ文明まで遡る外国文化の純粋なる引用で構成されているのだから無意味)」や「(商業主義と対極を為す形での)芸術至上主義」、および「米国における反ディズニー評論(現場における実際の反ディズニー運動と乖離し空論化している)」や宮崎駿監督の「アニメは間違った(再建が必要)」発言なども「セカイ系評論」に分類可能かもしれません。

クリストファー・ノーラン監督映画「メメント(Memento、2000年)」の様に「加害者が必ず何処かにいる(そいつさえ倒せば問題が解決する)」なる前提そのものが間違っているので、この先どれだけ論を尽くしても何処へも到達しえない。そういう意味では障碍レベルが他を圧倒いて突出して高いとも。