諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【白蛇伝】【宮崎駿】思わぬ重なり

宮崎駿の原点は東映アニメ第一弾「白蛇伝(1958年)」への感動…

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叶精二「宮崎駿の源泉―ありったけの善意を子供たちに手渡すという思想ー」

宮崎氏は、中学生頃から学習院大学経済学部在学中まで、ずっと漫画(劇画)家志望であった。高校時代までは、社会に対する不信感や両親からの自立願望から本音や不満を劇画にぶつけて消化していたと言う。要するに、現在の主流「アニメ」と同様に、自分のネガティブな表現欲求に正直な作品を描き続けていたわけだ。

大学在学中は、漫画研究会がなかったため、児童文学研究会に所属。幾つかの人形劇などを企画しつつ、大長編漫画を描き続けていた。

ところが、卒業後の進路について悩んだ末に、漫画家を断念し、アニメーションの道を志すことになる。それは、原稿を持ち込んだ出版各社で不採用を宣告されたことで漫画家として生計を立てる自信がなくなっていたこともあるが、基本的には以下のような決意に基づいていた。

劇画の世界と、東映の長篇アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんですね。

劇画はこどものためのものじゃないと思ったから、そうじゃないこどもたちのためのものとしての世界として、アニメーションにすごく魅力があったんです。」(「THIS IS ANIMATION 1」小学館/1982年

後の氏の人生を見れば、これは人生最大の選択の一つであったろう。「子供たちのために創作したい。それには漫画ではなく、アニメーションをやるべきだ。」この決意の端緒となった体験、それは東映動画の「白蛇伝」であった。

大学受験期の真っ最中、鬱屈とした日々を過ごしていた17歳の宮崎青年は、恋する青年と結ばれるために生死を顧みずに行動する白蛇の精・白娘(パイニャン)と銀幕で出会った。躍動するヒロインの姿に、宮崎青年は恋こがれ、我を忘れて涙していた。それは、紙に印刷されたコマ画にじっと見入り、自由な想像で膨らませて楽しむ劇画・漫画とは全く違った生々しい感動であったろう。

基より、アニメーションは複雑な筋書きを語るメディアとして発生したわけではなく、動き(アニメート)自体の面白さの連続によって成立していた。当時の東映動画には、「くもとちゅうりっぷ1943年)」の政岡憲三氏に代表されるような、リアリズムに根ざしつつ、素朴で心和むフルアニメーションの伝統芸が息づいていた。藪下氏と共に短編「こねこのらくがき1957年)」を制作した森康二氏の画風・作風は、その直系と言ってよかった。もう一方の雄である大工原章氏が中心となって描かれた白娘のアニメートにも、動き(演技)によって動機や心情を表現する要素が多々盛り込まれていた。宮崎青年を魅了したのも、物語の進行でなくヒロインの存在感であった。氏は当時を以下のように述懐している。

白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった。マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。それ以来、ぼくは真面目に何をつくるべきか考えるようになったらしい。少なくとも本心で作らなければダメだと、思うようになっていた。」(「日本映画の現在」岩波書店 1988年

 つまり宮崎駿のヒロイン像の原点は李香蘭山口敏子)?

 ちなみに綾波レイの様な眼帯少女の起源は「愛と死をみつめて1964年)」の吉永小百合といいますね。古い映画必見?