諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【キングオスカー】【ナショナリズム】「ノルウェー製なのにスウェーデン国王の肖像」の謎

絶対王政国民国家の三題噺を突き詰めて考えると、避けて通れないのがこの問題。

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世界各国で作られているオイルサーディンですが、イワシの詰め方には国民の気質が表れるようです。例えばペルーの缶詰は微妙にスカスカですし、フィリピンには円柱缶にイワシが無造作に縦に詰め込まれたものも。一方、日本やヨーロッパのものは概して美しく、特に高級品は手作業で丁寧に詰めていることをアピールする傾向があります。

世界でも最高品質と名高いノルウェー「キングオスカー」の缶詰(製造はポーランド)。パッケージには19世紀のノルウェー国王・オスカル2世が描かれています。これは同社の品質を認めた国王が、肖像使用に自らOKを出したから。王室ご用達の缶詰は世界に数あれど「王の特別な許可による」と堂々と印字された缶詰はこれだけでしょう。

そもそも「スウェーデンノルウェー同君統治王」オスカル2世の出自そのものが当時の欧州史をそのまま凝縮した様なややこしさに満ちていたりするのです。当時における「君主」の在り方の変遷を知る上でも貴重な人材だったりします。 

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話は初代ロシア皇帝(インペラートル )ピョートル1世(在位1721年〜1725年)が大北方戦争(1700年〜1721年)でスウェーデンを破り、バルト海における新たな列強国、ヨーロッパ政治における新たな重要なプレーヤーとなった時代まで遡るのです。

ホルシュタイン=ゴットルプ王朝(Holstein-Gottorpska ätten)

18世紀から19世紀にかけてスウェーデンを支配した王朝。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を支配したホルシュタイン=ゴットルプ家の分枝の一つによる王朝である。1814年にスウェーデンノルウェー連合王国が成立したが、1818年にホルシュタイン=ゴットルプ王朝は終焉。連合王国ベルナドッテ王朝に引き継がれた。

  • ホルシュタイン=ゴットルプ家は、本来デンマーク王家オルデンブルク家の傍流であり、デンマーク貴族の家系であったが、フレデリク4世の時、スウェーデン王家のプファルツ家と婚姻を結び、王位継承権を得る。

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  • しかし大北方戦争でのスウェーデンの敗北により、フレデリク4世直系は継承権を喪失。代わって1720年にプファルツ王朝の後を襲って王位に就いたのは、プファルツ家の外戚ヘッセン家のフレドリク1世である。しかしフレドリク1世には嗣子がなかったため、スウェーデン議会は王位継承権第2位のホルシュタイン=ゴットルプ家に白羽の矢を立てる。しかしホルシュタイン=ゴットルプ公の本家は、対立していたロシア帝国と婚姻関係を結んでおり、本流を迎える事が出来なかった。
    *要するにホルシュタイン=ゴットルプ家はロシア革命(1917年)によって非業の最後を遂げるロマノフ王室に連なる家系。

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  • こうした経緯からロシアとの平和を鑑み、フレデリク4世の弟クリスティアン・アウグストの息子アドルフ・フレドリクが王位継承者に選ばれる。そしてプロイセン王女ロヴィーサ・ウルリカとの結婚が当時対立していたスウェーデン議会の親ロシア派、親西欧派の和解に役立つものとして歓迎されたのであった。
    *ただし当時のスウェーデンは、プロイセン王国ロシア帝国から政治資金が流れ、党派が国政を動かし、国力は弱体化して列強の傀儡に墜ちていた。文化の面では自由の時代を謳歌していたが、その華やかさは大北方戦争以後のスウェーデンの没落時代を象徴をなすものでもあったのである。

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  • こうした国情を憂慮したグスタフ3世は、即位した翌年に王党派の支持の下にクーデターを完遂し、王権を奪回(グスタフ3世のクーデター)。この王は啓蒙主義思想を持ち(啓蒙専制君主)、国家の復興を成し遂げ、ロシアとの戦争にも事実上勝利し、フランス革命にも干渉するなど、スウェーデンの大国復興に熱意を燃やしたが、1792年に暗殺されてしまう。絶対君主制を再開したのは、1790年だったが、グスタフ3世は、すでに1772年のクーデターによって一定の王権を確立させており、その親子の名を取って(絶対君主制が廃止され立憲君主制に移行した)1809年までを「グスタフ朝絶対主義」あるいは「グスタフ朝時代」と呼ぶ。特にグスタフ3世の時代は文化の面において「ロココの時代」と称された。
    *当時を代表するスウェーデン貴族の一人が国王グスタフ3世の寵臣の立場ながらフランス宮廷で社交界デビューを果たし、マリー・アントワネットの王妃となったハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(Hans Axel von Fersen、1755年〜1810年)。マリー・アントワネット処刑後は徹底して庶民を嫌う様になり、次代グスタフ4世に仕える様になるとその感情を主人にも感染させ、彼をナポレオン戦争への執着心によって自滅に追い込んでしまう。自らも1810年に群衆に撲殺された。
    ハンス・アクセル・フォン・フェルセン - Wikipediaf:id:ochimusha01:20170320130242j:plain
    *ここで興味深いのが、当時のフランス宮廷においては「華美で柔弱過ぎる」ロココ様式が排され「古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健主義への回帰」を新古典様式がもてはやされていたという事。それにも関わらず、あえて「時代遅れの」ロココ様式を選好したのはスウェーデン宮廷ばかりではなく、後世における近世欧州貴族のイメージ形成にも重要な役割を果たした。要するに当時の新古典様式は輸出用文化としては完全なる失敗に終わったとも。ただしナポレオンやナポレオン三世といった19世紀のフランス皇帝達からは愛され、このタイミングで国際的に広まる展開に。
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  • グスタフ4世が親政に転じた後は、フランス革命戦争の調停役となるが失敗し、以後反ナポレオンの一員となってナポレオン戦争に参戦。しかしスウェーデンの参加した第三次、第四次対仏大同盟は、ナポレオン1世によって壊滅させられてしまう。この時スウェーデンは、大陸封鎖令を拒否した事からロシアの侵攻を受け、属領であったフィンランドを喪失。失政を犯した国王は追放され、さらにオルデンブルク家の別の支流であるアウグステンブルク家から王太子に迎えたカール・アウグストが急死し、まさにスウェーデンは瀕死の状態に陥ったのであった。
    *「1809年の絶対君主廃止」とは、要するに失政と敗戦の繰り返しで人気を失ったグスタフ4世のクーデターによる幽閉と王位剥奪の結果であった。その後は貧困の中で欧州諸国を放浪する身となり、晩年には発狂。スイスで脳卒中によって亡くなったという。1810年に群衆が撲殺したフェルセン伯爵といい国民の怨念んたるや相当なものだったらしい。
    グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王) - Wikipedia
  • こうした状況で、フランスの元帥ベルナドットがスウェーデン王太子に推戴される。しかしベルナドットは反ナポレオンに転向し、解放戦争において、ヨーロッパの解放に重要な役割を果たす事になった。戦勝国となったスウェーデンは、1813年のキール条約、次いで1814年にウィーン条約ノルウェーを獲得したが、全てベルナドットのおかげだった。1814年、カール13世はノルウェー国王カール2世として即位(同君連合)。スウェーデンノルウェー連合王国は1905年まで存続した。

1818年、最後の国王カール13世の死後、ベルナドットがカール14世ヨハンとして即位し、ホルシュタイン=ゴットルプ朝は終焉を迎える。グスタフ4世の子、グスタフ王太子(ヴァーサ公)を擁立する動きもあったが退けられ、ヴァーサ公に男子がなかったため、スウェーデンホルシュタイン=ゴットルプ家は断絶。

ベルナドッテ王朝(Bernadotte [bɛɳäˈdɔtː])

1818年から現在まで続くスウェーデンの王朝。ポンテコルヴォ朝とも呼ばれる。

1979年、スウェーデン憲法改正により、カール16世グスタフ現国王はすべての政治権力を喪失してスウェーデン儀礼国家元首となった。1980年、スウェーデン王位継承法の改正により、それまでの男子継承から、男女を問わず出生順に王位継承権が生じることになったため、長女のヴィクトリア王女が王位継承者となる。

カール15世(Karl XV, Karl Ludvig Eugen Bernadotte, 1826年〜1872年)

ベルナドッテ王朝第3代のスウェーデン国王およびノルウェー国王(在位:1859年 - 1872年)。ノルウェー国王としての名はカール4世。父はオスカル1世、母はジョゼフィーヌナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫)。

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  • 王太子時代の1850年に、オランダ王ウィレム2世の弟フレデリック王子の長女ルイーゼ(ロヴィーサ)と結婚。1男1女をもうけている。汎スカンディナヴィア主義を支持していたものの、父王よりは消極的であった。
    *北欧三国の団結と統合を説く汎スカンディナヴィア主義は元来1829年に始まった文芸運動に過ぎなかった。しかし1844年に即位したスウェーデンノルウェー王オスカル1世はが積極的に支持し、これを国是とする。また1848年に即位したデンマーク王フレデリク7世も同調。背景にあったのは1848年革命によるウィーン体制の崩壊と(後に「汎ゲルマン主義」へと発展する)ドイツ統一問題や盟主ロシア帝国による「汎スラヴ主義」の台頭で、その結果、スウェーデンは否応なくデンマークドイツ統一問題を巡る「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」に巻き込まれていく展開となったのである。
    シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題 - Wikipedia

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  • 彼の治世には、身分制代表議会廃止と地方自治制、民主主義がありとあらゆる面で進行。当人の姿勢も父王よりも柔軟で協調的で民主的であった為にスウェーデン国民から高い人気を勝ち取っている。内政は国王の手を離れ、議会が国家を主導。内閣制度も発展し、この内閣により身分制代表制度は廃止され、二院制が導入された。

  • カール15世の母后がカトリック教徒であったこともあり、1860年に信仰の自由が保障された。

  • 内政から排除された国王は外交の場に活路を見出そうとした。ただし残念ながらこちらの分野で十分な成果を残す事はなかったのであった。

  • ポーランド人のロシア帝国に対する反乱(1863年、1月蜂起)に心を痛め、フランスと共に新十字軍の派遣を構想。しかしながら考えたが、世論の沈黙と政府の反対により、成果を収めることが出来なかった。

  • 1863年にデンマークで嗣子のなかった国王フレデリク7世が死没。フレデリク7世とカール15世は、デンマークスウェーデン連合国家とする構想を立てていたが、スウェーデン政府は関心を持たなかった。汎スカンディナヴィア主義の政治局面は、スウェーデンを盟主とするカルマル同盟の再現にあったが、この構想も列強の圧力で消滅。デンマーク国王にはオルデンブルク家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が即位した。

  • 直後に起こった第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年1月〜7月)において、カール15世はデンマークを全面的に支持。スウェーデン軍出兵を決意したが、政府の反対により義勇軍の参加のみにとどまった。デンマークは敗れ、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国オーストリアプロイセン連合軍の手に落ちる。

  • 国民人気の絶えなかったカール15世は、1872年に死去。カールと前年に死去した王妃ロヴィーサとの間の子は、すでに夭逝した王子と、デンマーク王太子フレゼリク(のちのフレゼリク8世)に嫁いだロヴィーサ王女しかなく、王位はカールの弟オスカル2世が継承する。

この時代は中立主義と民主主義の基礎が出来つつあり、もはや王室政治や王室外交の時代ではなかった。そして汎スカンディナヴィア主義の理想も色あせていった。ノルウェーでは議会制度が発展し、スウェーデンからの離脱の最初の一歩が刻まれる。国王はもはや名目的な王権しか行使出来なくなり、民主主義国家へとゆっくりと進んで行く。

オスカル2世(Oscar II, Oscar Fredrik Bernadotte, 1829年〜1907年)

ベルナドッテ王朝第4代のスウェーデン国王(在位1872年〜1907年)およびノルウェー国王(在位1872年〜1905年)。オスカル1世の三男。母はジョゼフィーヌナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫)。1877年から1901年まで発行されていた5から1000ノルウェー・クローネ紙幣6種に肖像が描かれていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/King_Oscar_II_of_Sweden_in_uniform.png/200px-King_Oscar_II_of_Sweden_in_uniform.png

  • 夭逝した王子の他に男子のなかった兄カール15世の死により即位。この時代はスウェーデンの社会文化が振興し、成熟期を迎えた。また産業革命も起こった。とはいえ、この時代にはまだまだアメリカへの大規模な移民が続いている。
    *その話は日露戦争前夜のアメリカのエピソードにも出てくる。

  • 1857年に、ナッサウ公ヴィルヘルムの娘で、後にルクセンブルク大公となるナッサウ公アドルフの異母妹ソフィア・ヴィルヘルミナマリアナヘンリエッタと結婚。2人の間には4男が生まれた。
    *長男オスカル・グスタフ・アドルフ(1858年〜1950年)は後継者グスタフ5世、次男オスカル・カール・アウグスト(1859年 - 1953年)はゴトランド公としてフォルケ・ベルナドッテ伯の父となる。三男オスカル・カール・ヴィルヘルム(1861年〜1951年)はヴェステルイェートランド公、エウシェン・ナポレオン・ニコラウス(1865年 - 1947年)はネルケ公となった。

  • 国王と王家はその時代の象徴として存在し、スウェーデン社会に溶け込んで行った。オスカル2世もスウェーデン語を完全にマスターしていたが、雄弁家としても知られ、スウェーデン語で著書を発表するなどスウェーデン人として振る舞った。

  • また外交政策では一貫して中立政策をとり、19世紀ヨーロッパに起きた帝国主義とは一線を画した。そしてドイツ統一によって台頭したドイツ帝国の登場は、ロシア帝国に対するバランサーとして歓迎した。ただしドイツ帝国の盟主プロイセン王国との結び付こうとするその姿勢は政府と国民から非難を浴びせられている。民主主義が根付き始めたスウェーデンでは、遂に国王が外交に関わる事にまで拒絶感を示し出したのだった。
    スウェーデン人は過去の親仏感情から親独感情へ移行したとはいえ、基本は中立主義を指針としていた。しかしオスカル2世は汎ゲルマン主義に傾き、ロシアからの盾としてドイツ・スカンディナヴィア国家連合を構想。当然ながら、これはスウェーデン政府と隣国デンマークの非難を浴び、国王の国家統治権、王権をさらに形骸化、象徴化していく展開を生む事になる。

  • しかしながらこの時代はまた、スウェーデンナショナリズムが昂揚する時代であったのである。スヴェン・ヘディンを初めとした探検隊が中央アジアへ向かい、またノルデンショルドは史上初めて北極海を越え、北東航路を発見(1879年)。また1890年代のナンセンのフラム号遠征に関しては、ノルウェー人の愛国主義の盛り上がりからスウェーデン人からの支援をフリチョフ・ナンセンは辞退したが、オスカル2世は寄付として2万クローネを支出。
    北極探検史
  • そしてその治世で起こった最大の出来事は、ノーベルによるノーベル賞の設立だった(1901年)。この世界的な賞の設立は、オスカル2世の理解を得て、スウェーデン・アカデミーとして国王の儀礼となり、スウェーデン王国の栄誉と国威を大いに高めたのである。

    ノーベル賞 - Wikipedia

  • 一方、1814年以降スウェーデンとの同君連合下にあったノルウェーにおいては1890年代に外交や内政でスウェーデンとの対立が顕著となる。ノルウェーは世界第3位の海運国になるなど自立が更に進み、自国の領事館の設置を巡り両議会が対立。オスカル2世はノルウェー議会の方針には反対の意を唱え、スウェーデン議会は国王の支持を取りつけて、領事館設置の法案を拒否した。ノルウェー議会は反発し、軍事衝突が懸念されたが、この時はノルウェー側が譲歩。

  • 1905年、両議会の交渉が決裂、ノルウェー議会は連合の解消を宣言し、ノルウェーで行われた国民投票では圧倒的な賛成で独立が支持された。スウェーデン政府はこの決定に反発し、軍を総動員して戦争の危機にまで至ったが、ノルウェーの独立が必至であることを理解したオスカル2世は、スウェーデン議会と国民を説得し、困難な交渉の末にノルウェーの分離独立が合意に至った。オスカル2世は本心からノルウェー独立を了承したわけではなかったが、両国の安寧のため止むなしと決断したのである。

  • ベルナドッテ王家によるノルウェー王位継承権を放棄する展開となり、心証を害して傷ついた老王に1万人のストックホルム市民が集まってスウェーデン王室歌を歌い、国王夫妻を慰めた。新たなノルウェー国王には、デンマーク王フレゼリク8世の次男でオスカルの兄カール15世の外孫のホーコン7世が迎えられている。
    ホーコン7世…1909年、日本において、日本陸軍が冬季軍事訓練中に遭難死亡事故(八甲田雪中行軍遭難事件)に遭遇したことを聞いて「我が国で冬季に使っているスキー板があれば、このような遭難事故は起こらなかったのではないか」と考え、明治天皇宛にスキー板2台を事故に対する見舞いを兼ねて贈呈した人。これがきっかけとなり、日本とノルウェーのスキー交流が始まる。

  • 国民的な誉れの高かったオスカル2世は、1907年に78歳で没した。

ちなみにノルウェーがイワシの缶詰輸出を始めたのは1880年からで、1893年にはシカゴの国際博覧会にスモークサーディンを出品。ノルウェーの製缶会社Bjelland&Co.が国王の肖像の使用権を得たのが1902年で、キングオスカーは1903年から米国に輸出された。ノルウェーを1905年にスウェーデンからの独立に踏み切らせた原動力の一つ。1920年までに英米市場を席巻。1965年以降は日本市場へも進出した。ちなみに2014年以降、タイの水産業者の傘下に入る。

それはそれとして日本語環境で「スウェーデン」「缶詰」で検索すると「シュールストレミング」関連ページ1色に染まるのは如何なものか。

こうした事例も視野に入れると ベネディクト・アンダーソンが掲示した「ナショナリズム形成史」とは随分違った景色が浮かび上がってきますね。

  • 近世欧州においてほとんど絶え間なく戦争が続いたのは、政略結婚によって複雑な血縁関係にある王侯貴族の宮廷外交のせいだった。こうした複雑怪奇な提携関係の網の目の貼り方こそが、ある意味第一次世界大戦(1914年〜1918年)の遠因の一つとなったとも考えられている。

    *もちろん19世紀後半以降、民主主義の浸透によって王侯貴族が外交を直接主導する事はなくなっていくのだが、その一方で外交官の陰謀や暗躍癖はそのまま放置された。そしてこの事が(近世における諸国間戦争の様に)欧州諸国がドミノ倒し的に巻き込まれていく原因の一つになったのではないかという話。

    第一次世界大戦の原因 - Wikipedia

    ナポレオン戦争の最終的な勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒであった。この悪しき前例が、列強の宮廷人に野心を起こさせた。この時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲームを競うような軽薄さが見てとれる。

    オーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリア最後通牒を作成した。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフは、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取りつけた。本当に平和の為に尽力したのは、英外相エドワード・グレイのみである。

    また、この時代の外交文書は捏造が多い事も後に指摘されている。曰く、諸外国は軍備を増強している、某国は我が国を侮辱した、等々。また、英外相の和平に向けての努力は一切黙殺されている。

    具体例を挙げると、フランスの外交文書(黄書)は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイツの脅威のみを強調した。また、「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝の手紙を捏造した。オーストリアの外交文書(青書)では、ドイツ陸軍武官の「平和への欲望、仲裁の希望」といった句が削除されている。ロシアによる和平提案、グレイによる和平案も削除されている。ドイツの外交文書(白書)では、イギリスの威嚇が捏造されている。また、駐露大使による、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。ロシアの外交文書(オレンジ書)は、特に捏造が多いので有名である。

    当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかったのである。

  • 絶対王政期の公定ナショナリズム」は、そのほとんどが「太陽王ルイ14世の模倣に終始。とはいえ「自己満足の追求」という要素が強く、多大な浪費を伴うので国民には不人気だった。フランス絶対王政は革命に倒され、スウェーデン絶対王政は2代とも非業の最期を遂げ、「バイエルンのメルヒェン王」ルートヴィヒ2世もまた領民の恨みを買って不審死を遂げている。
    *ここに「過去と現在と未来をひとつの均質な時間で貫こうとする姿勢」とか「共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略」などを見出すのは不可能に近い。彼らはおそらく「絶対君主」として振舞いたくて、ただそれを(それぞれの方法で)実践したに過ぎない。そしてその願望を実現する為に国庫を補充し続ける役割を仰せつかった官僚達が開発したのがコルベール主義や閨房学といった特殊な経済学だったのであある。

  • 王政復古期(1815年〜1848年)には(領邦国家の分立状態を動揺させる)自由主義ナショナリズムが徹底的に取り締まられたので、それらが民衆に広まる事はなかった。ただこの時代から各国の有識者層や一部の民間リーダーの間でナショナリズムを巡る試行錯誤が活発化したとも。
    *こうした動きの多くが「啓蒙主義思想への反発」というより「キリスト教普遍史観からの脱却」という指向性を共有。また「主観に基づく世界観の再統合」という意味合いにおいてロマン主義的側面を有した。

    ①フランスにおいてシャトーブリアンやサン=シモンが展開した「ガリア・ナショナリズム」。フランスの本当の力は(異民族征服者の末裔たる)王侯貴族や高位聖職者ではなく(先住民だったガリア諸族の末裔たる)庶民が握っているとした。確かに「フランスへの産業革命導入」「学校で教える歴史観を通じての庶民の自尊心高揚」などには役立ったが、国民国家建設を準備した国民統合運動だったとまではいえない。

    *一方、皇帝ナポレオンはブルボン王室から新古典様式、すなわち古典ギリシャ・ローマ時代の質実剛健性への回帰を中央集権の威信を示す「装飾」として継承。ただしこうした流れ自体は王政復古期の間に衰退を迎えてしまった。
    エトワール凱旋門 - Wikipedia

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    七月革命1830年)を契機にフランスで広まった「国王と教会に宣戦布告する政治的浪漫主義」。「青年フランス」とも呼ばれたが、フランス国内の急進共和派が六月暴動(1832年)で粛清された事もあり、以降それ自体は概ねある種の文学運動として展開したが二月 / 三月革命(1848年〜1849年)以降は衰退。

    ただし後にこの「青年フランス」の存在にインスパイアされる形で「イタリア共和国」樹立を目指したマツィーニの「青年イタリア」、停止されたミドハド憲法復活を目指した青年将校エンヴェル=パシャの「青年トルコ」などが組織される展開となる。

    青年トルコ革命/青年トルコ政権

    *とはいえ「青年イタリア」は(サルディニア王室が主導した)実際のイタリア統一運動に直接の影響は与えていないし青年トルコ」には(日露戦争でロシアを破った)大日本帝國立憲君主体制の模倣を目指した側面がある。

    ③教育を通じて「ドイツ国民」を生み出そうとしたフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ(Reden an die Deutsche Nation、1804年)」。および「プロイセン王国を中心とするドイツ統一」を理想視したヘーゲル哲学の樹立やドロイセンのヘレニズム文化研究。
    *ドロイセンはさらにドイツ三月革命(1848年)に際してフランクフルト国民議会の議員となり、プロイセンを中心とするドイツ統一を主張してプロイセン学派を牽引。(プロイセン宰相ビスマルクが主導した)ドイツ帝国建国構想に先鞭をつける事になる。
    390夜『ドイツ国民に告ぐ』ヨハン・ゴットフリート・フィヒテ|松岡正剛の千夜千冊
    ヨハン・グスタフ・ドロイゼン - Wikipedia
  • ④「古戦場を巡りながらのレクリエーション」を通じて民族意識を滋養しようとしたヤーンの「体操」運動。
    プロイセン当局から激しい弾圧を受け、やがて衰退。

    二月/三月革命(1848年〜1849年)によってウィーン体制が崩壊すると(後に「汎ゲルマン主義」へと発展する)ドイツ統一問題や盟主ロシア帝国による「汎スラヴ主義」に対抗すべく「北欧三国の団結と統合」を説く汎スカンディナヴィア主義を国王自らが推進する様になる。そして「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」がドイツ側の勝利に終わるとスウェーデン国王は今度は汎ゲルマン主義」への汎スカンディナヴィア主義の編入を志向する様になるが(独自のナショナリズムが育ちつ釣った)国民の反対にあって実現しなかった。

    汎ゲルマン主義(独: Pangermanismus、英: Pan-Germanism)

    ゲルマン民族勢力拡大を主張する政治思想。

    • ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこのスローガンを掲げバルカン地方へ進出し、汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。後にバルカン半島をヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに民族の対立を激しくした要因の1つである。

    • この結果、列強間による帝国主義化、軍備拡大は避けられず、第一次世界大戦を引き起こすこととなった。これは、ドイツ統一を牽引し、周辺諸国との勢力均衡を望んでいた帝国宰相ビスマルクの理念からはかけ離れた展開だった。

    そもそもパン=ゲルマン主義とは、19世紀中葉に行われた「ドイツ統一」の理念の拡大であり、ドイツ人の民族主義の昂揚によって「ドイツ語響く所がドイツである」とまで言われ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世スウェーデン国王オスカル2世が強調した。

    • オスカル2世は、当時ノルウェーを同君連合とし、デンマークを含めた「プロイセン・スカンディナヴィア・バルト中立連合」なるものを構想していたが、デンマークや自国政府の反対により頓挫し、ゲルマン主義から離れてしまう。
      *要するにオスカル2世は、北方ノルマン人もドイツ人と同じ民族であると考えていたが、すでに中立主義が根付きつつあった北欧諸国には受け入れられなかったのである。

    • 一方オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、オスカル2世の様な連合構想こそもたなかったが、ドイツ帝国との連携を重視し、バルカン半島への関与を深める為にドイツの武力を利用しようと考えていた。
      *その背景には二重帝国内においては、支配民族ドイツ人を遥かに上回る数のスラヴ系住民を抱え、彼らの汎スラヴ主義への傾倒に苦慮していたという事情があった。

    • しかしながら結局、フランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク帝国の死守とバルカン問題の狭間で身動きが取れず、ドイツ帝国と共に第一次世界大戦に引きずり込まれ、ハプスブルク帝国の終焉と言う結末を迎えてしまう。

    そして結局、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も第一次世界大戦の泥沼化を原因として1918年に起こった革命によって国外亡命を余儀なくされる結末を迎える事になったのである。

    *その一方でオスマン帝国においてはエンヴェル=パシャなどの汎オスマン主義路線とアブデュル=ハミト2世の汎イスラーム主義路線の対立が国家としての弱体化につながってしまう。
    オスマン主義 - Wikipedia
    パン=イスラーム主義
    アブデュル=ハミト2世
    エンヴェル=パシャ
    パン=トルコ主義

    20世紀のオスマン帝国青年トルコの指導者として知られるエンヴェル=パシャは、スルタンのアブデュル=ハミト2世の掲げるパン=イスラーム主義(本質的なものではなく、スルタンの権力を飾るために用いられたに過ぎなかったが)に対して、オスマン国家を近代国家に脱皮させるための理念として、パン=オスマン主義を主張。

    それは、トルコ人だけではなくギリシア人、ブルガリア人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人などの多民族国家としてのオスマン国家を新たに統合させる意図であったが、かえってトルコ人以外の民族の反発を受けて失敗に終わる。

    そのためエンヴェル=パシャは一方でオスマン国家の枠を超えたトルコ系民族の統一をめざすようになった。それは特にロシア領内の民族問題に介入することになるので、敵国ロシアに対する攻勢となることを意味していた。

  • 一方、帝政ロシア本国においては皮肉にも「ナショナリズム増大によって臣民意識形成が阻害される」という奇妙な現象が荒れ狂う。そして、そうした荒廃がロシア革命(1917年)勃発の遠因の一つになっていく。

    19世紀ロシア帝国の改革とナショナリズム

    歴史家がしばしば「ロシア化」と呼ぶような政策は、絶対的な同化、つまり北西地域における民族的、民族・宗教的集団をすべてロシア人の中に融合す ることを目指していたわけではない。このような課題は、ロシア人社会自体が身分間の障壁によって分割されており、単一の国民的な意識を持っていなかったと いう理由をひとつとって見ても、実現不可能であった。

    そうした条件下でのロシア化とは、まず第一にポーランドの影響の浸透を予防し、次にはロシア語・ロ シア文化・ロシア国家への自然な志向を強化するであろう各集団のアイデンティティを組み替えることに存する。このような政策(いつもうまくいったわけでは 決してない)のための道具となったのは、農民にとって都合の良い農地改革、文字の改革、ローマ・カトリックユダヤ教の礼拝にロシア語を導入することなど であった。政府が「ロシア人」とみなしていたベラルーシの農民については、正教への改宗もおこなわれた。

    ロシアにおける国民創設の契機となったのは、間違いなく農奴解放、地方自治機構(ゼームストヴォ)の設立、司法制度改革などを伴ったアレクサンドル二世の大改革(1860年代初旬)である。だがそうした動きには少なくとも部分的にはロシアのナショナリズムにおける外国人嫌悪の傾向を刺激する側面が存在した。

    例えば北西地域のロシア化の過程では(ポーランド人貴族に対抗してなされた)農民に有利な社会関係・農地関係の決定的な再構築と「進歩の導き手」および「国民の守護者」を自認する役人達のイニシアチブ掌握が見受けられた。しかし同時に(地域内でのポーランド人の存在が新たに強化されることが危惧されたため)土地改革と裁判制度改革が遅れ、ロシアのナショナリスト官僚達は、それなしでは辺境地域とその多様な住民の完全な統合が不可能となる民間社会の諸制度の助力を失う事になる。

    問題となったのは彼らのナショナリズムそのものだった。

    それまで「諸宗派の国家」だったロシア帝国は、正教とともにいくつかの他の信仰をも認めてきたし、それどころかそうした聖職者階級に臣民との世俗的な 関係の仲介者という役割を委ねてきた。国家による統制とカルトの害悪の規制が宗派容認の条件だったし、全ての宗派に均しく寛容だった訳でもなかったが、とにかく18世紀の時点では「諸宗派の国家」発展の内的リズムが許すかぎりで、帝国臣民の忠誠を彼等の宗教心に啓蒙的、あるいは規律の履行によって強化する可能性を内在させていたのである。

    19世紀中旬に入ってもなお、そうしたシステムは(帝国内のポーランド人の圧倒的 大多数が信じる)ローマ・カトリックに対しても有効に働いていた。しかしこの仕組みがナショナリズムの増大による「異教徒への不信感」の高まりによってうまく働かなくなっていくのである。

  • またボーア戦争1880年〜1900年)を取材した英国人記者ホブスンが「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」で告発した意味合いにおける「帝国主義(Imperialism)」概念も類似概念に入らないでもない。これは「内政で行き詰まって国民の目を対外戦争に向けたがってる政党政治家」「植民地に既得権益を有する冒険商人と軍隊」などが共謀して現地を「乳と密の流れる地」に見せかけて移民(棄民)を誘導したり、現地への軍隊派遣を国民に許諾させたりする手口を指す。
    *古くは欧州の十字軍時代/大開拓時代(11世紀〜13世紀)からしてそういう内容だったし、大日本帝国時代の「満蒙は生命線」路線も同様。朴正煕大統領時代の韓国もベトナム戦争(1955年〜1975年)への韓国軍派兵に便乗する形で東南アジアを「乳と密の流れる地」に見立て、数多くの民間人を送り出して多数の「ベトナム成金」を生んでいる。同時期には中東展開も企てられたが、もちろんどちらも棄民的側面を備えており「未帰還の敗者」は速やかに忘れ去られていったのである。アメリカに至っては、フロンティア消滅宣言(1890年)までは農民や牧畜業者に対し、それ以降も都市生活者にとっては「乳と密の流れる地」として映り続けていた側面が存在した。

とにかくベネディクト・アンダーソンが掲示した「公定ナショナリズム」すなわち「共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略」の典型例が見つかりません。
中国の公定ナショナリズムにおける反「西洋」ダイナミズム

そして、その歴史を眺める限りおそらく北欧諸国も「公定ナショナリズム」の適用対象外と考えて良さそうです。そこには「無理に権力に執着しないのが国民から愛されるコツ」みたいな処世術も透けて見えるんですね。その一方…

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ゴート起源説 - Wikipedia

1555年にスウェーデン王国のヨハンネス・マグヌスが歴史書『ゴート人たちとスウェーデン王国の歴史』の編纂中に創作した、スウェーデン王国の建国神話。後にスウェーデングスタフ・アドルフがドイツの三十年戦争(1618~1648年)に介入する動機の一つになったとも言われている。

  • この起源説は、古代ヨーロッパにまで遡り、ゴート人及びヴァンダル人と言ったゲルマン民族の大移動の時代のゲルマン人との関わりに起因し、スウェーデンバルト海支配の正当性を持たせるものとなった。「古ゴート主義」または「スウェーデン普遍主義」とも言う。

  • ゲルマン人の部族、ゴート人たちが、ヨーロッパ、アジア、アフリカを支配した」という「神話」。とは言え、彼らがスウェーデン王国の建国に直接関わったわけではなく、古代のスカンディナヴィア東部の現スウェーデン南部にゴート人の王国が存在していたとされ、スウェーデン王国建国の祖となったスヴェーア人たちが、ゴート人王国を服属させたと言う伝承に基づいている。

  • その後、ゴート人たちは東ヨーロッパ及び黒海沿岸に進出しゲルマン民族の大移動の主軸となり、その故地がスウェーデン南部とされるヴァンダル人も大移動に参加しアフリカに王国を建国したとされる。そうしたスヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の動向が伝説化され、アジア、アフリカ、ヨーロッパの支配者となったという「神話」が誕生したのである。

  • この「神話」の起源は、1434年のバーゼル公会議が開かれた時に、当時スウェーデン王を兼ねていたカルマル連合のエリク7世(エリク13世)の使節がゴート人とスカンディナヴィアを結び付けた事に由来する。こうした経緯から中世以降、デンマーク及びデンマークノルウェーの国王も「ヴェンド人とゴート人の王」の称号を1972年に廃止されるまでの間使用していた。スウェーデンでは「Svears, Götes och Wendes Konung」の称号で、1540年から廃止される1973年まで使用された。これを、後にスウェーデンが拡大解釈したのである。なお、三十年戦争では、スイスの傭兵を多く得るために、スイス人の一部を占めるドイツ系をゴート人の末裔とし、スウェーデン人と同一視させる政策をとった。

  • ヴァーサ朝のグスタフ・アドルフとその娘クリスティーナが「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」と言う称号を用いたのも、このゴート起源説に由来する。スウェーデン王がこの様に自称したのも、古代スヴェーア人、これが現在のスウェーデン人に連なると定義したからである。そして、ヴァーサ家及びスウェーデン貴族は、その末裔とされた。

  • さらにグスタフ・アドルフは、伝説のゴート王ベリクになぞらえた。なお、「スウェーデン普遍主義」と括られる時、フィンランド大公を兼任し、神聖ローマ帝国の帝冠も視野に入れていたと思われる。スウェーデン宰相オクセンシェルナは、グスタフ・アドルフマインツ選帝侯にすべく画策していた。これはフランス宰相リシュリュールイ13世をケルン選帝侯にするために画策したのと同じであった。ただし、神聖ローマ皇帝位と3部族の王位は別の理念であるとされ、主義自体は、政治的理念に基づくものである。

  • ゴート起源説は、三十年戦争で頂点に達したが、その終結と共に形骸化した(事実上の終焉)。クリスティーナ女王自身がこの説を否定し、キリスト教世界の共存共栄を打ち出したからである。また1648年のヴェストファーレン条約により、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーが重視されたヴェストファーレン体制の成立も起源説の退潮に拍車をかけた。

  • スウェーデンはその後、バルト海一帯を支配するバルト帝国の維持にその正当性を持たせたが、18世紀に行われた大北方戦争の敗北により形骸化してしまう。

なお、マグヌスは作中でスウェーデンの君主として8人のカールと10人のエリクを創設している。

  • 史実的には、カール9世とエリク11世より前に、そうした君主は存在しないとされる。しかし、カール9世が即位した当時は、その存在は確実視されていた。

  • また、上記のカルマル同盟において、スウェーデン王に即位したエリク7世は、スウェーデンではエリク13世と呼称される。また、カール・クヌートソンは、スウェーデン摂政でありながら王の地位を得たとされ、即位当時はカール2世、後にゴート起源説に基づきカール8世と呼称された。

この伝説は、スウェーデンにおいては歴史的に信じられてきたが、現代においては、この起源説は、根拠のないもの、考古学的な裏付けがなされていないとして、社会文化的な研究対象に置かれてはいるが、歴史学の対象とされてはいない。

  • ヴァンダル人に関しては名前の類似性から、ノルウェーハリングダール(Hallingdal)、スウェーデンのヴェンデル(Vendel)、デンマークのヴェンドシッセル(Vendsyssel)が彼らの故郷ではないかという説もあるが、ゴート人やヴァンダル人のスカンディナヴィア起源説は、現在では疑問視されている。
なお、国王選挙によりポーランド・リトアニア共和国の元首(ポーランド国王兼リトアニア大公)を務めたポーランド・ヴァーサ家の面々も、スウェーデン国王ジギスムントがポーランド国王ジグムント3世としてスウェーデンを留守にしていた間に叔父カールが王位を簒奪したスウェーデン・ヴァーサ家との間でスウェーデン王位を争っていた間、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」を名乗っていた。
  • しかし、当時のポーランドには独自のサルマタイ人起源説(サルマティズム)があり、ポーランド人の間ではサルマタイ人起源説が主流であるが、またサルマタイ人起源説と同時にヴァンダル人起源説もあり、ヴァンダル人たちはポーランド人の主要な祖先のひとつではないかと言う通念もあった。
    サルマティズム - Wikipedia
    ヴァンダル族 - Wikipedia
  • 実際に、ヴァンダル人の一部が東ドイツや、レグニツァやグウォグフ等のシレジアに戻っていることが古文書に記録されており、近年の考古学でもポーランドの地にはこの地に古くから住んでいた人々の文化であるプシェヴォルスク文化(ケルト・スラヴ・ゲルマンなど複数の流れを汲んだ文明圏)と、中世初期に東方からやってきた人々の文化であるプラハ・コルチャク文化が混交し、この地独特の文化を形作っていったことがわかっている。ドイツからポーランドにかけてのこの地域は、2000年経った今でもドイツでは「ヴァンダロルム」と呼ばれている。

  • ポーランドでは、ヴァーサ王家が共和国の元首であった頃には盛んであったが、ヴァーサ家以後の王家からは、これらの国王称号は無くなっている。

スウェーデン以外に、ゴート人の後裔を称した国にスペインがある。

同様にフランスには(自分達のルーツを古代ガリア人に求める)ガリア起源説が、ハンガリーにはフン起源説がある。
フン族 - Wikipedia

北欧史 - Wikipedia

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発した。北欧諸国は直ちに中立を表明し、相互の安全のために強調しようとする機運が高まり、汎スカンディナヴィア主義が再び台頭。スウェーデンのグスタフ5世はこうした世論をいち早く察知し、同年12月、デンマークノルウェーに働きかけてマルメにおいて三国国王会議を実施した。

とくに大戦による貿易不振が各国の経済状況を著しく脅かしたため、これを解消すべく積極的な相互援助を行うことで合意した。こうした三国間の共同歩調の成果もあって前半期は比較的安定した状況が続いていたが、後半期になると連合国の海上封鎖強化などが影響し、食糧事情の悪化が深刻となる。穀物取引の政府経営や主要食料品の配給制といった対策が取られたが、行き詰まりは隠せず、国内情勢は不安定となった。デンマークヴァージン諸島をアメリカに割譲するなどして財政の窮状を凌いでいたが、これに乗じてアイスランドの独立問題が勃発し、左派勢力を抑えきることが出来ないまま1918年、アイスランドの独立が承認されるに至っている。また同年、ロシアの混乱に乗じてフィンランドが独立宣言を行うなど、北欧諸国は大きな転換期を迎えることとなった。

戦間期の北欧4国とバルト3国

第一次世界大戦により北欧諸国は大きな打撃を蒙ったが、直接的な戦災は免れたため、その復興も迅速であった。

スウェーデンでは短期間に政権が交代する不安定な情勢を迎えたが、1932年に社会民主党が政権についたことで安定。ペール・アルビン・ハンソンは「国民の家」をスローガンに福祉国家の建設を進め、国民全員を恩恵の対象とした普遍主義的社会保障制度の確立を目指した。

デンマークでは1915年に制定した改正憲法が1918年になって発効し、男女の普通選挙が実施されるようになった。左派と右派が短期間に入れ替わる混沌とした状態がしばらく続いたが1929年にトルワード・スタウニングが政権につくとようやく情勢が安定し、デンマークに繁栄をもたらす。

ノルウェーではグンナー・クヌットセン内閣が戦争の終結と同時に復興に乗り出したが労働運動の激化により思うような成果が挙げられなかった。また、1919年に国民投票で決定した禁酒法の施行に対し、ノルウェーにぶどう酒やシェリー酒を輸出していたスペインやポルトガルが報復的にノルウェーからの輸入を差し止める事態が引き起こされ、ノルウェーの経済に大きな打撃を与える展開となってしまった。時の首相はそれぞれの手法で禁酒法の緩和を試みたがその悉くを野党に潰され、景気回復がままならない状況に陥っていく。

一方ロシア革命に乗じて独立を勝ち取ったフィンランドにおいては、新興国特有の政争は絶えなかったものの、さほど深刻な状況には至らず、順調な経済成長が進む。政府は輸出の増大と食料の自給化を目指した政権運営を実施し、土地改良と農法改革を積極的に推進して、1930年までに自営農民の数を独立当初と比較して倍加させることに成功した。1920年代末に入り、世界的な不況と不安定な政権から左右両勢力が伸張しはじめ、1929年に共産青年同盟が結成されるとこの気勢に拍車がかかった。国内は大きな混乱に見舞われたがペール・スヴィンヒューが1931年に大統領に就任して以降、国民が一致団結して国防の強化と産業の振興に注力できるような舵取りを行い、フィンランドの国力は著しく躍進。1935年にスウェーデンデンマークノルウェーと協定して北欧中立ブロックを形成すると周辺国への配慮からファシズムは鳴りを潜め、ようやく政情が安定した。

またフィンランド同様にロシア革命を契機に独立を果たしたバルト3国を構成するエストニアラトビアリトアニアもまた第一次世界大戦独立戦争により疲弊していた。農地改革を緊急的に実施していくことで短期間で驚くべき国力の回復は見せたものの、政情不安は解消されないまま第二次世界大戦に巻き込まれていく。

第二次世界大戦と戦後展開

北欧中立ブロックを形成していた北欧4国は中立政策を固持するために軍拡へと乗り出し、外相会議を密にすることで団結を強めていたが、1938年にズデーテン問題が発生したことにより、ヨーロッパに大きな緊張が走る。

さらに翌年、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると、独ソ不可侵条約を締結していたソビエト連邦フィンランドとの不可侵条約の破棄を宣言し、侵攻を開始した(冬戦争)。

1940年、コペンハーゲンで三国外相会議が設けられ、厳正中立の申し合わせと対フィンランド援軍派遣の拒絶が決定され、北欧中立ブロックはあっさり崩壊した。フィンランドソ連の戦力差は明らかで、ソ連の圧倒的優位で戦争は進められたが、イギリスとフランスが大規模な援軍派遣を検討していることが表沙汰となるとソ連は態度を軟化させ、フィンランドとの和平交渉に乗り出し1940年3月12日、カレリア地方およびフィンランド湾諸島の割譲などがなどが盛り込まれたモスクワ講和条約を締結。

バルト諸国占領などによってソ連の勢いが増したことに脅威を感じていたフィンランドはドイツとの関係を深めることで払拭を試みたが、バルバロッサ作戦を皮切りとして継続戦争が開始されると周辺諸国に枢軸国側として認知され、北欧で完全に孤立することとなった。

一方、ドイツとイギリス両国に良質な鉄鉱を輸出していたスウェーデンであったが、イギリスはドイツへの鉄鉱供給を阻止すべく戦災をスカンディナヴィア半島へ拡大させ様としたが、スウェーデンは頑なに中立を固守し続ける。対してドイツは「保護占領」と称してコペンハーゲンオスロトロンハイム、ナルヴィクに進撃し、これらの都市を占領。圧倒的戦力の前にデンマークはやむなくこの占領を承認したが、ノルウェーはこれを認めず、ドイツに宣戦して交戦状態に入った。しかし戦力差は歴然で連合軍はノルウェーから撤退、国王ホーコン7世とノルウェー政府はロンドンへ撤退せざるを得ず、ここにノルウェー亡命政府を立ち上げるに至る。アドルフ・ヒトラーノルウェー作戦の完了を宣言するとノルウェー国内にヴィドクン・クヴィスリングを首班とする新政府を立ち上げ、亡命したノルウェー王室と旧政府を正式に否認したことにより、ノルウェーはドイツ軍の占領下に入ったがノルウェー国内ではレジスタンスが結成され抵抗、国外では商船会社ノトラシップが亡命政府を資金面から援助し続ける。

その後、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が着々と反撃を行い、1944年のノルマンディー上陸作戦により連合軍が勝利を挙げると翌年5月6日、ドイツ軍の降伏により占領下にあった国々は原状を回復した。デンマークとの同君連合を結成していたアイスランドはドイツ軍によるデンマーク占領を機に完全分離独立を決意し、1944年6月17日に共和国としての独立を宣言する。

1939年、ポーランド潜水艦がエストニアに避難するという事件があったのを契機にソ連エストニアに対しポーランドに与しているとの抗議をなした。エストニア政府はソ連との折衝を続けたが不平等条約の締結を回避できず、同年9月29日にソ連との間に相互援助条約と通商協定を成立させた。ソ連ラトビアリトアニアにも同様の条約締結を求め、バルト三国ソ連に対して軍事基地の提供を余儀なくされる。しかし、翌年6月14日、バルト三国の軍事同盟は条約違反であるという口実をつけ、ソ連は突然リトアニアに対し最後通牒を発し相互援助条約の破棄を宣言した。武力的抵抗が無意味であることを悟ったリトアニア政府はソ連の要求する新政権樹立と駐屯軍の増員を承認し、ソ連の占領下に置かれる事になったのである。同様の要求はエストニアラトビアに対しても行われ、同年6月17日、バルト三国は全てソ連占領下に置かる事となった。1941年に独ソ戦争が開始されるとこれら三国はドイツ軍の制圧下に入れられ、三年に渡る激しい圧政に耐えねばならなかった。敗戦の色濃くなった1944年にはドイツ軍が東部戦線から後退を開始したため、バルト三国は再びソ連へと併合された。

  • 敗戦後のフィンランド連合国管理委員会の監視・干渉のもとでパリ平和条約を締結。また、ソ連との相互友好援助条約締結によりソ連の強い影響下に置かれることとなり、冷戦期におけるノルディックバランスの一端が形成される展開となる。国内情勢は依然として不安定なままであったが、1950年代には戦後賠償から解放され、復興と工業発展に進む。1961年には欧州自由貿易連合(EFTA)へ準加盟し、1973年にはEC間の自由貿易協定を締結するに至る。

  • 一方、デンマークノルウェースウェーデンにおいては戦後の新しい国際関係において自国の安全保障をいかにして確保するかが大きな課題となった。それまで国是としてきた伝統的な厳正中立の方針は、侵略者に対する集団制裁を義務とする国際連合への加盟は思想的に相反するものであったが、強大な軍事力を持たなかったデンマークノルウェーではドイツのような一方的な侵略者から身を守る手段として他の選択肢を取りえなかったことから、1945年のサンフランシスコ会議にて国際連合への加盟を果たす。

  • 大戦中は中立を固持していたスウェーデンでも向後その姿勢を維持できるとは限らないといった世論が形成され、1946年に国際連合へ加盟。しかし、戦後処理問題を巡ってアメリカ、イギリス、フランス、ソ連が外相会議を重ねるたびに対立を深めていくと、北欧諸国は外交政策でもってこうした潮流の外へと身を置こうとする。

1947年、アメリカ国務長官マーシャルによって掲げられたヨーロッパ経済復興の援助計画(マーシャル・プラン)が発表されると三国は受入れを表明した。これはデンマークのように経済的事情から受け入れざるを得ないという現実的な問題と、ソ連・東欧以外の大部分のヨーロッパ諸国が加入姿勢を見せていたことから加入しないことによって北欧諸国がソ連・東欧ブロックへと組み込まれてしまう惧れがあったためである。

1948年、チェコスロバキアで二月政変が起こったことと、ソ連フィンランドに対して相互友好援助条約の締結を要求したことで北欧に緊張が走った。こうした状況を背景にスウェーデンは非公式にノルウェーデンマークに対して北欧軍事同盟構想を持ちかけ、北欧三国による同盟の結成を試みたが、大戦中の経験や戦略的地位の乖離、国防政策の不一致などから調整は難航。そうした中でノルウェーデンマークに対して西側から当時準備が進行しつつあった北大西洋条約機構NATO)への加盟勧誘がもたらされた。スウェーデンデンマークは北欧軍事同盟構想が検討中であることを表明して慎重な態度を示したがノルウェーは同構想はNATOの従属的意味しか持たないとしたため、北欧軍事同盟構想は破談となった。1949年4月4日、北欧ではノルウェーデンマークアイスランドNATOに加盟。

直接の戦火を免れたスウェーデンの復興は早く、また、福祉国家としても更なる発展を遂げた。1950年代末に入るとターゲ・エランデル政権によって付加年金制度が成立したことにより、福祉受益者の範囲拡大が行われた。そして中央集権的な労使交渉システムが確立されると生産性の低い企業・産業は淘汰されていき、経済構造の高度化とともに著しい経済成長が起こった。かくしてスウェーデンは1960年代には一人当たりのGNPが世界で最も高い国のひとつに数えられるようになった。

上述のように1950年代に入り北欧諸国では戦後処理を終え、産業の工業化継続と発展に注力。あわせて経済に対する管理体制を形成・強化し、高額所得に対する課税や利子率の設定を見直すことにより国民の経済的平等が追求された。これにより工業化促進のための財源確保が可能となり、産業設備の改善や交通機関の整備、農業の機械化など、経済発展速度が急速に高まる。また、国内産業事情にあわせた選択と集中により工業化の特化傾向が強まったのも特筆すべき事項となった。こうした展開の結果、北欧諸国民の生活水準は著しく向上し、新中間層と呼ばれる人々が多くを占めるようになって諸政府の社会政策が一挙に推進されて国費の多くを占めるようになる。

そして現在はこんな感じ。

こうした歴史的経緯とは別に「ヴァイキングの末裔としての自尊心(現在もバルト海を本拠地とする海商国家であり続けている。なお中世にはロシア経由でアラブ職人と中国の絹,陶器、東南アジアの香辛料などを全欧州市場に販売していた)」が国民統合の鍵になってる模様…

スウェーデンとフィンランドの産業

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…