諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】現実が軽々と想像力を超えていく世界

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これもまた人間が想像力の限界を克服して行く試みの一つ? 

現実が想像力を超える世界の実現…ある意味それが「事象の地平線としての絶対他者」を身近に感じる最短距離とも?

人間社会は、今まではなにが標準かを決める考え方で、世界史で偉い人たちが決めてきたけど、健常者がいるから障がい者がいるんです。全員ダイバーシティだったら、そんな人、誰もいないですからね。男女が結婚するって決まっているからLGBTがいる。つまりそういうものがなければ、標準がなければ、そういうものは出てこない。僕らが考えているのは、我々は今後必然的にダイバーシティ化するということ。高齢化社会にすごくネガティブなイメージを持っているけど、そうじゃなくて、それを「ダイバーシティ」ととらえようと。例えば、目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、手が動かくなる、それはダイバーシティです。それをどうやってテクノロジーを使って置き換えていくかさえできれば、我々は人口減少国家だけど、めっちゃ成長もできるんです。つまり、効率性を追求するところと、その上で、エモさを感じるところをうまく切り分けて今後やっていければ、僕らの未来は、もうちょっと明るいんじゃないかなと思います。

ある意味問題は逆に「正常者の制定基準」なる意識とも?

 何となくミシェル・フーコー「狂気の歴史(Histoire de la folie à l'âge classique、1961年)」の世界観を思い出しました。

「狂気の歴史(Histoire de la folie à l'âge classique、1961年)」 - Wikipedia

西欧の歴史において狂気を扱った思想、制度、芸術などについて考察したミシェル・フーコーの著作。

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フランス語の教師をしていたスウェーデンのウプサラで第一稿が書かれたが(ウプサラ大学図書館の医学文庫が重要な役割を果たした)、スウェーデンにおける博士論文提出を拒否され、その後ワルシャワ、パリで完成された。

フランスのソルボンヌ大学に博士論文として提出され(審査員はジョルジュ・カンギレム、ダニエル・ラガーシュ)、同時に『狂気と非理性、古典主義時代における狂気の歴史』というタイトルで1961年にプロン社から出版された。出版された本書に対して、フェルナン・ブローデルモーリス・ブランショは熱烈な賛辞を送っている。

理論

「狂気の歴史」というタイトルは、決して自明のものではない。なぜなら、フーコーの目的は、精神疾患を医学的カテゴリーにおいて説明することではなく、西欧において変容してきた狂気の内実を歴史的な次元においてとらえることにあったからである。それは、彼以前の人間科学が歴史的実践をなおざりにしてきたことへの批判でもあった。

フーコーは、その「歴史」を癩病患者が社会的にも物理的にも排除されていた中世まで遡る。そして、癩病は次第に姿を消していき、狂気がそれに代わって排除されるべきものとなったとする。狂った人間を舟に乗せて送り出したという15世紀の「阿呆船」は、文字通りその排除が一つの形をとったものであった。

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しかし、ルネサンス期には、狂気がきわめて豊饒なる現象として扱われるようになる。なぜなら、狂人とは、「人は神の理性(Reason of God)には近づきえない」という思想の体現だったからである。セルバンテスの「ドン・キホーテ」にみられるように、あらゆる人間は欲望と異物に弱い。したがって、正常でない人間を神の理性に接近しすぎた存在と見なす考えは、中世社会で広く受け入れられていた。
*「ルネサンス期における狂気は、社会的秩序の限界を示し、より深いところにある真実を照らし出す力を持っていた」ともフーコーは主張している。それは啓蒙の光の前に沈黙させられていたものだ。

ボッシュ(1450年頃〜1516年)やブリューゲル(1525年〜1530年頃生〜1569年没)の絵画に表象されているものこそ「狂気」である。それは、死の不安であり、宇宙の混沌である。しかし、ルネサンス以降、この狂気は、それまでのイメージ(画像)から、エラスムスの「痴愚神礼賛」がその典型であるように言語のレベルに移される。そしてこのとき、狂気は、夢想的・宇宙的な強迫観念を離れ、理性との関係においてとらえられるようになった。あるいは、より人間的なものに限定されたとも言える。

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17世紀になってはじめて、フーコーが「大監禁時代」と表現したことで知られる潮流が起る。「理解不能な」人間たちが、システマティックに監禁され、収容されていった。

18世紀には、狂気は、理性そのものを観察するかのように扱われるようになった。つまり、狂人は彼らを人間足らしめていたはずの何かを失い、動物じみた存在になってしまったと考えられ、そしてまた実際彼らは動物のように扱われた。

19世紀にはいると、たとえばフィリップ・ピネル(Philippe Pine 1745年〜1826年)やジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年〜1939年)が登場することで、はじめて狂気が精神の不調であり、治療することのできるものと考えられるようになる。

フィリップ・ピネル - Wikipedia

実は大規模な監禁が行われたのは、17世紀ではなく、この19世紀だと主張する歴史家もわずかに存在するほどだ。また、こういった事実は、フーコーの理論の土台を揺るがせる批判でもある。つまり、啓蒙時代と狂人の抑圧との歴史的つながりが、危うくなってしまうのだ。

私は、精神医療の場が家庭から精神病院に移行するときの様子を説するのによくこの事例や他の事例を使い、そのついでに『ジェイン・エア』のロチェスター夫人の話をはさむことにしている。精神病患者は、もともと患者の家庭で監禁され管理され勝手なことをしているのが当たり前である。19世紀は、精神病院に収容して医師が管理するというシステムが急速に進展していたが、富裕な階層では医師は脇役で家庭で管理するのがまだ一般的な原則であったと考えて良い。だから、富裕層向けの精神病院は、それが富裕層の家庭を模倣したり、管理する人材なども富裕層へのサービスの階層が提供していた。ルーカスの例は、変わり者が家の中に閉じこもって変なことをして悪名を高めていた例であり、ロチェスター夫人は、狂った妻が屋根裏に閉じ込められて、それがあまりうまくいかなくて吠えたり暴れたりしていた例である。

*ここで我々はその生涯の後半を刑務所と精神病院で送り、むしろその幽閉状態からの精神的解放を求めて文学者として開眼したこの人物を思い出すべきなのかもしれない。

マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年〜1814年) - Wikipedia

フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。

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虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。

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その作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

*彼はその症状自体がユニークだったのではなく、自分を隔離した世間について莫大な書物を取り寄せて研究し、当時のトレンドに迎合する形で自らの趣味趣向を認めさせ様と努力し続ける事で独特の時代証言者となったのだった。

*「世界初のラブロマンス」として名高いルソーの「ジュリまたは新エロイーズ( Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」が、あくまで(現代人が読み返すには苦痛に満ちた脱線に満ちた)啓蒙主義小説の域に留まったので殆ど再読されていないのに対し、主人公の「行動」の積み重ねが物語を悲劇的方向に展開させていくアベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年 )」や、世間知らずの田舎貴族が集められる限りの情報を駆使して自分なりの世界観を構築しようとするゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」が今日なお普遍的価値を失わないのはその為。ちなみにサドの小説の多くは「マノン・レスコー」流行動主義を模倣する形で成立している。何より彼は「マーケティングの天才」だったのである。

*「文学史上初のプロ作家」エドガー・アラン・ポーにもまた似た側面があり、ヴォードレールやフローベールはこの両者を参考にする事で近代文学の基礎を構築したのだった。

 しかし、学者としてのフーコーが示したのは、狂人のために特化した医療施設ではなく、社会的なアウトサイダーを監禁するための施設が造られたということである。そこには、狂人だけでなく、浮浪者、失業者、虚弱者、孤児なども含まれていた。そういった人間たちみなを監禁するための施設が、西欧社会における狂人と狂気の概念にどのような影響を与えたのか。フーコーは、そのことを問題にしていたのである。そこでは、「貧困」にあったはずの聖なる意味(貧者としてのキリスト)が失われ、「狂気」もまた想像力と切り離されて、公共性の問題に結びつけられたのだ。

救貧院 (poorhouse) - Wikipedia

かつて公的に運営されていた、要支援の状態にある人々を支援し、住居を提供する施設。典型的にはカウンティ(イギリスのカウンティやアメリカ合衆国の郡)や基礎自治体が運営にあたっていた。イングランドウェールズアイルランドでは(スコットランドでは事情が異なっていた)「ワークハウス (Workhouse)」と称されることが多かった。

ヴィクトリア朝初期において、貧困は、(当時は「産業」と同じ「industry」という言葉で表現されていた)勤勉さという徳を欠いた者が陥る、恥ずべき状態であると見なされていた。その為にチャールズ・ディケンズが描写したように、感化院に似た施設として、家族の有無を問わず子どもたちを収容し、一種の懲役として貧者に肉体労働をさせ、また、体罰を与える場合もあったが、19世紀も終わりに近づくにつれ、状況は改善されていった。

「プアハウス (poorhouse)」は、貧窮した高齢者を収容する施設を指す一般的な表現である。こうした施設は、1930年代に社会保障制度が導入される以前には、アメリカ合衆国に広く存在していた。

高齢者ではない貧困者を収容する施設は、今日では「ホームレス・シェルター」、あるいは、ただ「シェルター」と呼ばれることが多い。救貧院は「救貧農場 (poor farm)」の敷地に設けられることも多く、そこでは健康な者は働かなければならなかった。こうした農場は、19世紀から20世紀はじめのアメリカ合衆国ではありふれた存在だった。場合によっては、(模範囚が集められた)「監獄農場 (prison farm)」や、その他の公的な刑務施設や慈善施設と一体となっていることもあった。

「救貧農場 (poor farm)」は、郡や町が運営する、貧困者(おもに高齢者と身体障害者)を公費で支援する居住施設であった。19世紀半ば以降、合衆国では一般的なものとなったが、1935年の社会保障法の発効以降は、使用されなくなり、1950年ころまでにはほとんど姿を消した。

  • その大部分は、農場として機能しており、少なくとも自家消費する分の穀物や畜産物などは生産していた。居住者は、農場の仕事のほか、家事や他の入居者の世話などに、健康の許す範囲で労働を提供することが期待されていた。規則は厳格で、各人に割り当てられた空間は最低限のものであった。

  • それは合衆国の(市町でも、州でも、連邦でもなく)郡役所が、領域内の要支援者に社会的レービスを提供した伝統に由来するものである。連邦政府は、1854年フランクリン・ピアース大統領が貧困精神障害者福祉法案(Bill for the Benefit of the Indigent Insane)を拒否権発動によって葬って以降、70年以上もの間、社会福祉には関わらなかった。こうした伝統は現在も続いており、ほとんどの場合、州法によって成文化されているが、今日では、財政支出の面において州や連邦政府の役割が増しつつある。

  • ヘレン・ケラーの教師で、後に終生の友となったアン・サリヴァンは、19世紀にこの種の施設で育てられた後、パーキンス盲学校に学んだ。彼女の経験を取り上げた戯曲『奇跡の人』、そのテレビ・ドラマ版(1957年)、ブロードウェイ上演版(1959年)、映画『奇跡の人』(1962年)、1979年と2000年のテレビ版は、いずれもこうした施設における過酷な境遇の描写を盛り込んでいる。

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1960年に米国で発売されたボードゲーム「the Game of Life」(著作権登録は1963年)では、プレイヤーは最終的に救貧農場(Poor Farm)か億万長者の土地(Millionaire Acres)のいずれかにたどり着くようになっていたが、前者は後に田舎の土地(Countryside Acres)に変更された。1963年に日本版の「人生ゲーム」が発売された際、Poor Farm は「貧乏農場」と訳された。その後、米国版の変更に合わせ、日本語版でも「開拓地」などの表現が用いられるようになり、デジタル化されたバージョンでも同様になっている。

救貧院 (almshouse) - Wikipedia

(典型的には、高齢で働けず、家賃を支払えなくなった者など)入居対象となる社会的弱者が特定の地域社会に住み続けることを可能にするために、慈善団体によって提供される住居。特定地域の貧窮者を対象とするもののほか、何らかの形でかつて同じ雇用関係にあった者や、寡婦などを対象とするものがあり、一般的には慈善団体なりトラスト(信託団体)によって維持されている。

特にイギリスで発達した制度であるが、日本語では同じく「救貧院」と訳される救貧院 (ワークハウス)(workhouse)、救貧院 (プアハウス)(poorhouse)とは異なり、働けない者を収容することが前提となっているため、労役場、授産施設としての性格は持っていない。

ヨーロッパのキリスト教に基づく制度のひとつであり、「アルムス」(英語: alms)とは、貧困者を助けるために寄せられる献金や奉仕のことである。イギリスでは、10世紀から存在し、貧しく、高齢で、困窮した人々に住居を提供していた。記録に残されたイングランドで最初の救貧院は、10世紀前半の国王アゼルスタンによってヨークに設けられたもので、現存する最古のものはウィンチェスターの Hospital of St. Cross で、1130年代まで歴史を遡ることができる。

中世には、ヨーロッパの病院の多くが、救貧院としての機能を果たしていた。イギリスでも病院と救貧院は分化しておらず、しばしば修道院に付設されて存在していた。

10世紀以来、今日に至るまで設置され続けている。救貧院と、他の形態のシェルター住宅を厳密に区別する基準はないが、一般的に救貧院には慈善団体としての性格があり、居住者の自立した生活が続けられるよう支援するという目的がある。

救貧院の施設は、その歴史的な背景もあって、何軒もの小さなテラスハウス(長屋)やアパートから成る古い建物にあることが多く、比較的少数の居住者しか収容できない。イギリスでは現在も2,600の救貧院があり、提供するおよそ30,000戸の住居には36,000人が住んでいる。オランダでは、数多くの「ホフィエ (hofje)」(「中庭」の意)と称される救貧院に相当する施設が、高齢者(おもに女性)の住居として機能している。救貧院は、経済学的には家賃補助対象住宅の供給として位置づけられ、さらに管理人などは社会福祉資源と見なされる。

近代的な(教会に依存しない)救貧院や、労役場としての性格を持った救貧院 (ワークハウス)は、1597年に施行されたイングランド最初の救貧法によって登場することになった。こうした施設は、居住者の性格、支援内容、名称などが様々な変化を重ねて来たが、1900年当時には、居住者の85パーセントが高齢者になっていたとされている。

*英国においては、元来こうした人々を救済するのは修道院の役割とされていたが、宗教革命を通じて修道院の機能縮小が図られる過程でそれは中央政府の職能の一部へと変換されてきたのだった。

*日本では鎌倉時代律宗が同種の社会的役割を担っている。

フーコーの考察の射程は、それに留まらない。彼が示してみせたのは、社会から締め出された人間をこのように「監禁」することが、ヨーロッパではごく一般的だったということである。フランスでも、ドイツやイギリスなど他の国々でも、それぞれ独自にこの監禁は行われ、その仕組みは発達していった。このことは、フーコーが西欧における狂気の歴史を一般化するためにフランスでの事象を取り上げたという批判が当たらないことを示している。ロイ・ポーターのような史家のなかにも、そのような反論を退け、フーコーの著作のもつ革新的な本質を認めようとしなかった過去の批判を撤回する者もではじめている。
*近代におけるピネルやサミュエル・チューク(Samuel Tuke(1784年〜1857年)の手になる狂人の科学的、「人間学的」な扱いの登場についてもフーコーは考察している。彼の主張によれば、そういった近代的な扱い方は、それまでの手法と何らかわるところがない。チュークの国では、狂人とされた人間は、その狂気を手放さないあいだは、罰を与えられるところまで後退していた。同じように、ピネルの狂人の処置もまた嫌悪療法の延長であった。凍えるような水を浴びせたり、拘束衣を用いたりして刺激を与えるのである。フーコーから見れば、このような扱いは、罪と罰の定型が患者のうちで内面化されるまで繰り返される蛮行に等しかった。

その歴史的意義

「狂気の歴史」は、精神医学への批判として広く読まれ、反精神医学の文脈のなかでしばしば引用された。フーコー自身は、特に回顧録のなかで「狂気のロマン主義」を批判している。「狂気のロマン主義」とは、狂気を近代医学が抑圧した「天才」がかたちをまとったものとしがちな見方のことである。

フーコーの読者がときに結論づけるような精神疾患の実体について論じたフーコーというのも正しくない。そうではなく、フーコーが探ったのはいかにして「狂気」が知の対象として制度化されていくのか、また一方である種の権力が介入する先となるのかということであった。精神病院という矯正施設にこそ、この暗黙裡に築かれた知と権力の共犯関係がみてとれるのである。

さらにまたフーコーは「狂気の歴史」とは「心理学の出現を可能にしたものの歴史」だと述べている。それは狂気が「人間の顔」を持ち、人間そのものを真理ととらえ科学的対象とするにいたった歴史なのだ。
*当時のミシェル・フーコーは狂気の向こう側に「あらゆるインスピレーションの源の様なもの」を見出そうとしたが、結局「狂気自体は類型化可能な病気の一種に過ぎない」なる現実に突き当たる。

*そして、むしろ歴史に沿って発達を遂げてきたのは「権力側の狂気の規定と対応方法」とする立場から「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」を発表。

監獄の誕生 - Wikipedia

 まさしく理論上、客体側の主観的誤謬(あるいはそれと完全に重なる形)でしか観測不能な 「事象の地平線としての絶対他者」なる概念の大源流。 視野外のパラメーターやアルゴリズムのエラーによって計算間違いが発生している可能性に常に怯え続ける実人不安に満ちた「全てが数値化されていく社会」にとっての「絶対に倒し切れない(倒し切れる振りすらすべきではない)ラスボス」。
*「絶対倒し切れない」理由の一つは「嫌いなものは全て総まとめにして一緒くたに排斥しようとする」体制側の行動原理そのものの中にある。上掲の「狂気」の問題一つとっても、どれだけ違う要因が一緒くたにされている事か…

現実社会に存在する「数理」そのものが多様にして多元的で今日なお並列的に複雑な発展を遂げている段階にある以上、(誤解の上に成立した)社会ダーウィニズムや科学的マルクス主義の様な「科学主義(Scientism)=数値解釈の単一化を志向する権威主義的姿勢」 の存在こそが今日存在する最大のリスクとなります。「事象の地平線としての絶対他者」は、それに警鐘を鳴らし「それぞれの数理」が行き詰まった時に新たな選択肢を提供する源泉ではある様なのです。

ただしメドゥーサの様に直視すれば必ず石にされてしまう恐るべき怪物でもあり、鏡(自らの手で扱える範囲の数理)に掬い取れた内容とだけ各自が個別的格闘を繰り広げるのが正しい戦略とも。


それが現代社会における「海印三昧の境地」とも?
コトバンクが収集した定義の多くに「海面を分割する波が生み出す平面の数だけ、それぞれなりに正しい月の写像が無数に映り込む雄大なイメージ」が盛り込まれてないのが残念。私がしばしば用いる「コンピューターのメモリ空間を満たすオブジェクト・インスタンス(設計上はそれぞれが単一クラスから派生したサブ・クラスとして定義されている)」なる比喩はこれに由来する。

さて、私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?