諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「可視化」とは何か?

今回はこの話が出発点。

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それにぶら下がったTweet.

ここに乱入。

そこにさらなる乱入。

こんな乱入も。

と、突然ブロック。

啓蒙期フランスにおける自由主義的な改革と地域社会

18世紀後半のフランスは、啓蒙思想の影響下に、開明的な国王政府が統治秩序の転換をはかる諸政策を導入した、改革の時代として位置づけられてきた。救貧の分野に関しては、まず財務総監ラヴェルディが、一元的な物乞い対策の導入に政府として初めて取り組み、さらに新たに国王に即位したルイ16世により財務総監に任命されたテュルゴが、施しや施設収容より市場開放と就労による経済的自立を重視する自由主義的改革を試みた。しかし、これは従来の経済と統治の関係に大きな変更を加えるものであったがゆえに、地域社会を支配する聖職者・貴族の反発や、社会階層間の緊張関係を生み、テュルゴを失脚に追いやることになる。

歴史的背景

これらの改革の背景には、18世紀フランスの経済成長による格差の拡大があった。当時の農村では、富裕な貴族や上層市民が土地を集積して大規模な農業経営を展開する一方で、土地を失った農民は貧困状態に陥り、その一部は雇用を求めて移動する移民労働者、または物乞いとなって都市に集まるようになった。このような社会情勢のなかで、啓蒙思想家の間で新たな救貧観が醸成され、その影響下に国王政府は1764年から1789年まで経済や救貧の分野での諸改革を推進したのである。

啓蒙主義との関連。

フランスにおいて社会改革の胎動が感じられるようになるのは、カトリック改革の影響下に王権と教会の密接な結びつきにもとづく統治が行われていた18世紀初めのことである。この時期に、旧来のキリスト教的価値観と批判的に対峙し、理性による人間社会の進歩を志向する啓蒙主義が、フランスに伝わった。この新思潮が、世紀後半に展開した自由主義的な諸改革の思想的根拠をなしていたことを考慮するなら、ここで描かれた社会像とはいかなるものであったのかを確認しておく必要があるだろう。

ナントの王令の廃止により非カトリックへの迫害が広がっていたフランスでは、寛容を求める声が高まり、道徳を宗教から解放しようとする思想運動が広がった。1725年にサン=ピエール神父は、神への愛を動機としながらも、寛容の精神にもとづき他者を救済することを訴え、「善行(bienfaisance)」という言葉を初めて用いた。この新しい概念はキリスト教的愛徳と対立するものではなかったが、18世紀半ばになると、啓蒙主義者にとっての道徳とは社会的道徳のことを指すようになる。

まず、ヴォルテールは、この「善行」という言葉を社会的道徳として再定義し、助け合いによる社会全体の幸福の増進の重要性を説いている。「徳とは何か?同胞に善行を施すことである。…我々は社会のなかで生きているがゆえに、社会全体の幸福のみが、我々にとって真の幸福である」。また、ルソーは、人間は生まれながらにして、「寛大、仁慈、人間愛」といった憐みの情を持っており、この自然の感情が社会的道徳の源泉になると考えている。

宗教上の問題に加え、当時の経済の状況も、キリスト教の救済観にもとづく社会関係を見直す契機となった。18世紀のフランスでは、経済成長と格差の拡大により、貧困を要因とする社会問題が深刻化していた。しかし、総合救貧院に物乞いを監禁する試みは各地で失敗に終わっており、大都市では物乞いが路地でたむろするようになっていた。このような状況において、キリスト教の慈善が物乞いを助長していると考えられるようになり、そこから社会全体の幸福を増進するうえで労働の価値が高められていく。

こうした思想を最もよく表しているのが、テュルゴが執筆を担当した『百科全書』の「寄付金(fondation)」という項目である。このなかでテュルゴは、救貧院などへの寄付金は、「寄付者の意向を永続的に反映させるために用いられる」のであり、多くの場合「寄付者の虚栄心を満たす」という利己的な動機に支えられたものであると指摘する。さらに、寄付金の有用性を問題にし、貧民への施しは、むしろ労働者を怠惰にさせ、勤労所得や農業生産の減少、食料不足、人口減少、貧困の拡大、物乞いの増加をもたらすとして、その弊害を批判している。以上のことから、人々は、慈善に依存するのではなく、自身の努力、すなわち「労働によって生活の糧を得るべき」であると主張する。このように農業生産を重視する立場から、健常者の就労と自立を奨励し、社会的弱者の救済に関しては、イングランドやオランダで見られたアソシエーションによる活動を提案している。要するに、テュルゴは旧来のカトリック型の慈善施設に代わるものとして、プロテスタント国で見られた個人の労働や民間団体の活動に重要な役割を与える救貧システムを想定していた。しかし、一部の啓蒙主義者は、国王の臣民に対する保護義務にまで踏み込んだ議論を展開した。例えばモンテスキューは、国家は民衆に「十分な食物、適当な衣服、健康を害さない生活様式」を保障する義務を持つことを主張している。
以上見てきたように、18世紀に旧来から教会の支配を受けてきた人間社会のあり方が問い直され、新たな人間相互の結びつきと統治の方法が模索された。こうして、寛容にもとづく善行市民相互の助け合いと国の責任という考えが啓蒙主義の主張として現れ、このような思想運動を背景に、国王政府は統治手法の転換をはかる改革を主導することになる。

そう、まさに主題は歴史上「(国体を保つのに十分な火力と機動力を有した常備軍実証主義法の法源としての警察力を中央集権的官僚制が徴税によって養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)」と国民の中間者(Intermediate)として存在し、かつ存続しようと足掻き続けるインテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層から何が奪われてきたかだったりします。

これが英国においてはチューダー朝(Tudor dynasty,1485年~1603年)が修道院の土地を接収しまくった結果、それまでそれぞれの教区が担ってきた救貧対策も継承せざるを得なくなっていく流れと重なって来る訳です。

そして…

こんな投稿も。

これはこれで、どう考えるべきか難しい問題。

そんな感じで以下続報…