日本の伝統的文化概念「転向」を巡るもう一つの物語…
日本の警察は、1870年代に作られた当初から、怖がらせるだけでは民衆を屈服させられないことを知っていた。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
東京警視庁の初代総監で、近代日本の警察制度を設計した川路利通は、
「政府は父母なり。人民は子なり。警察は保傳(ホフ)なり」
と簡潔に言った。
川路は、数多い明治の訪欧研究施設団の一員として、1872年に欧州に行った際、国際的に最も名声の高かったパリ市警察の活動ぶりを見てきた。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
そこで、彼はフランスの手本に忠実に習い、それをさらに拡大した。
20世紀初頭から、警察のいちばん重要な機能のひとつは、初期企業家と
工場や建築現場で働く労働者との暴発の危険をはらんだ労使関係を監視することだった。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
田舎の職住兼用の警察官駐在所は、工場敷地内に設けられることが多く、建設費用は経営者によって支払われた。
時には、これらの警察官の給料まで彼らが支払うことすらあり、こうして実質的には警察は
工場の警備員になり、労働紛争を防止した。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
1945年まで、警察は政治的な異端に対する抑圧の役割も担っていた。
民間にはりめぐらされたスパイ網による、素晴らしく精巧な情報収集網を持っていたお陰で、それも容易だった。
戸別訪問という形で、定期的に全日本人の照合確認が実施された。
名家や地主の家には年1回、無産家は2回、無職者や不審な市民は3回、警察が訪問した。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
警察は、規制秩序を覆す恐れのあるものは厳しく取り締まったが、社会を平穏に保つ最善の道は、可能な限り寛大に民衆の意を叶えてやることだということを知っていた。
後に「思想警察」として恐られた特高は、1925年の治安維持法を通じて強力になった後でも、「間違った思想」を持った人々も悔悛の情さえ示せば、過酷に扱わなかった。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
自分の信念を撤回すれば、起訴を取り下げ、スムーズに社会復帰できるよう職探しまで役所が手伝ってくれることも多かった。
法務省が積極的に奨励したいわゆる「転向」というこの確立された過程は、容疑者が「改宗」して天皇制下での「家族国家」の恩恵を信じるよう「変節」することを意味した。
— 歴史bot (@history_theory) 2020年9月3日
K. ウォルフレン『日本権力構造の謎』(原著 1989)
逆らわない限り高度の自治を許して放置する一方、逆らうと容赦無く殲滅する古代多民族帝国の「クレメンツァ(Clemenza=寛容)」理念の残滓?