諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【最も単純な数理】かつて人間の損得勘定史に起こった最も重要なパラダイムシフト?

f:id:ochimusha01:20180212054309j:plain

次元が一つなら「+ベクトルからの+ベクトルの減算」は、「+ベクトルと−ベクトルの加算」に置き換えられる? 要するに集合論的に扱える?

この調子なら、あわよくば「掛け算」や「割り算」も…

線型位相空間(linear topological space) - Wikipedia

数学的にはベクトル空間の構造(線型演算)とその構造に両立する位相構造を持ったもののことである。

ベクトルの加法やスカラー倍などの演算が連続線型写像(continuous linear function)あるいは有界(線型)作用素(bounded [linear] operator)になっていることが要請され、その結果として通常のベクトル空間におけるような代数的な操作に加え、興味のあるベクトルを他のベクトルで近似することが可能になり、関数解析学における基本的な枠組みが与えられる。
*「特定の理論に立脚する量の計算が、他の理論に立脚する量の計算で近似可能」…これ数理における最も重要な特徴の一つ。

ベクトル空間の代数的な構造はその次元のみによって完全に分類されるが、特に無限次元のベクトル空間に対してその上に考えられる位相には様々なものがある。有限次元の実・複素ベクトル空間上の、意義のある位相はそれぞれの空間に対して一意的に決まってしまうことから、この多様性は無限次元に特徴的なものといえる。

加算に混ぜる形で減算を集合論的に扱う」で最初に連想したのが「人生ゲーム(1960年〜)」における「赤字手形」でした。小学生でも理解可能な最も単純な数理…

f:id:ochimusha01:20180212054739j:plain

そういえば(この最も単純な次元の数理に立脚する)複式簿記の歴史は「幾何学代数学が同じ一つの数理の別側面に過ぎない事を証明したガリレオ象限(N次元)」の歴史より遡るのです。

複式簿記(Double-entry bookkeeping system) - Wikipedia

複式簿記の起源は諸説あるが、ローマ説、12世紀頃のアッバース朝イスラム商人説がある。その後、複式簿記の仕組みはヴェネツィアジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされた。

確実に遡れるのは1494年にイタリアの商人出身の数学者ルカ・パチョーリ(1445年頃〜1517年)によって書かれた「スムマ」(算術・幾何・比及び比例全書)と呼ばれる本の中の「簿記論」である。それは当時行なわれていた簿記についての解説である。その後複式簿記は広くヨーロッパで行われた(このため、「イタリア式簿記」又は「大陸式簿記」とも呼ばれている)。

ルカ・パチョーリ(Fra Luca Bartolomeo de Pacioli、1445年頃〜1517年) - Wikipedia

イタリアの数学者。「近代会計学の父」と呼ばれる。修道僧でもあった。

中部イタリア、現トスカーナ州アレッツォ県のサン・セポルクロに生まれ、ルネサンス期の経済発展のなかで、若い頃から商業・会計と関連した数学を学んだ。少年時代にはピエロ・デラ・フランチェスカ(画家)に数学の指導を受けている。19歳の頃ヴェネツィアに転居、豪商アントニオ・デ・ロンピアージ家に仕え、3人の子息の家庭教師を行い、彼らのために算数書を執筆したりして生計を立てていた。また、ローマのレオン・バッティスタ・アルベルティと親交を持ち、数学・神学を学んだ。

1475年、フランシスコ会の修道士になる。1477年以降、ペルージャ大学、ザダル(現在クロアチア、当時ヴェネツィア共和国領)、ナポリ大学、ローマ大学などで数学の講義・執筆を行った。1489年、サン・セポルクロに帰郷した。

1494年、『スムマ』と呼ばれる数学書を著した。この書で初めて複式簿記が学術的に説明されたことにより、パチョーリは「簿記会計の父」と呼ばれている。ただし、パチョーリ自身が「複式簿記の祖」でないことはいうまでもなく、これは『スムマ』の中でも述べている。
*「スムマ(1494年)」…原題は"Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalita"で、「算術・幾何・比及び比例全書」あるいは「算術、幾何、比及び比例総覧」などと訳される。公用語ラテン語ではなく、イタリア語で書かれ、第1部は主として算術、代数、第2部は幾何について論じている。本書の第1部第9編に簿記論があり、ルネサンス当時のヴェネツィア商人が使用していたヴェネツィア式簿記(複式簿記)が初めて学術的に説明されている。ここで財産目録の作成、日記帳、仕訳帳、あらゆる元帳、勘定の取り扱い、さらには決算など簿記にかかわる知識と理論が詳細に説明されている。パチョーリの業績に対しては、既存の知識を編纂したにすぎないという批判もあるものの、15世紀において、また21世紀の現代でも既存知を体系化することは一流の学術そのものである。簿記論の部分は各国語に翻訳されて普及し、複式簿記の知識がヨーロッパ中に広まった。これらの点でパチョーリの功績が評価されている。また同書では、賭博を例にとった問題が紹介されており、これは確率を数学的に取り上げた最初の文献であるとも言われている。

f:id:ochimusha01:20180212235720j:plain
1490年代後半にはミラノスフォルツァ家をパトロンとし、レオナルド・ダ・ヴィンチとともに幾何学的立体図形に関する研究を行った。マントヴァ滞在中の1497-1498年に『神聖比例論』を著した(1509年出版)。同書にある正多面体の挿絵は、レオナルドの原図によるものとされる。
*「神聖比例論(1509年)」…原題は"De divina proportione"。第1部「神聖比例の梗概」は正多面体についてプラトン(「ティマイオス」)をはじめ古今の学説を説明しており、レオナルドの原図に基づく挿画を含む。第2部はウィトルウィウスに基づく「建築論」、第3部「三つの論文に分けられた書」は正多面体を幾何学的に論じている。第3部はヴァザーリ(「画家列伝」)によって、ピエロ・デッラ・フランチェスカの多面体に関する著作(現存しない)の剽窃とされて以来、議論のある部分である。しかし、同書でパチョーリは師にあたるフランチェスカを高く評価していることから、「偉大な画家兼数学者と数学者兼哲学者の共作」という見方も提唱されている。

f:id:ochimusha01:20180212235836j:plain
1500年、ピサ大学幾何学の教員となった。以降、ボローニャ大学ペルージャ大学、ローマ大学で教鞭をとった。1517年、サン・セポルクロで死去。

ベネデット・コトルリ (伊Benedetto Cotrugli , クロアチア語Benedikt Kotruljević、1416年〜1469年)- Wikipedia

1458年3月17日、 Libro de l'arte de la mercatura (Book on the Art of Trade) を執筆。1573年、Della mercantura et del mercante perfetto の題で出版された。この書物は「会計の父」と呼ばれるルカ・パチョーリの36年前に複式簿記について言及したものであったが、115年後に出版されたために世間の目に触れることは長い間なく、パチョーリが最初に複式簿記について言及した人物とされている。

Della mercantura et del mercante perfetto の1475年版の写本はマルタ国立図書館に所蔵されている。1484年3月17日の写本(ストロッツィ作成)はフィレンツェ国立中央図書館に所蔵されている。

17世紀経済の中心がオランダに移ると期間計算の概念が生じる。19世紀イギリスにおいて現金主義から発生主義に移行し現代会計の基本が形成される。18世紀末期、ドイツの作家ゲーテ複式簿記の知識の重要性を認識しており、ワイマール公国の大臣であった時に学校教育に簿記の授業を義務付けたと言われている。また、イギリスのエドワード・トーマス・ジョーンズは独自の複式簿記(イギリス式簿記)を考案して会計学の分野で激しい論争を巻き起こした。

日本においては江戸時代には大福帳(売掛金元帳)などによる算盤使用に適した独自の帳簿システムが確立しており、その中には複式簿記の萌芽も見られたが、本格的な複式簿記の導入は欧米からの導入によるものであり、明治6年1873年)に福澤諭吉がアメリカの簿記教科書を翻訳した『帳合之法』を刊行、同年に大蔵省紙幣寮にて御雇外国人のアーラン・アレグザンダー・シャンド(1844年 - 1930年)の講義を翻訳した『銀行簿記精法』が刊行され、以後次第に洋式の複数簿記に取って代わった。

f:id:ochimusha01:20180213000221j:plain

 さらに古くはおそらく「試金石」の登場によって誰もが基準貨幣としての金銀の価値評価を共有可能する様になった紀元前7世紀、すなわちアケメネス朝ペルシャ帝国(紀元前550年〜紀元前330年)が躍進し、地中海や黒海、特にアナトリア半島沿岸の古代ギリシャ人の諸ポリス(都市国家)が圧迫を受ける様になった時代まで…

貨幣史 - Wikipedia

貨幣の素材には、現在では一般的な金属や紙の他に、さまざまなものが選ばれてきた。地域の伝統や慣習において富と見なされるものが、貨幣として選ばれていた。穀物や家畜も貨幣となるが、そうした貨幣は消費して減ってしまうと取引に支障が出る。そのため、取引に用いる財に影響が少ない素材として、金属や紙が多く選ばれるようになった。

f:id:ochimusha01:20180212060443j:plain
現在知られている最古の硬貨は紀元前7世紀にリュディアで作られたエレクトロン貨(金と銀の合金)、最古の紙幣は1023年から北宋政府紙幣として流通した交子とされる。
*最初に「標準化された貨幣」を必要としたのは戦争遂行の為に徴税や対価支払いを必要とした国家だったが、やがて商人も自らの経営状態を帳簿で管理する様になる。そしてルネサンス時代までに「売掛金(+)」や「買掛金(−)」といった考え方を備えた現在の会計技術の祖型がほぼ出揃った(管理会計の概念の期限?)。

f:id:ochimusha01:20180212060338j:plain


特定の素材の価値で国家の貨幣を裏付ける制度として本位制があり、金本位制、銀本位制、金銀複本位制などがある。
*そして戦争に明け暮れた17世紀欧州では、統治者が被統治者の信頼を勝ち取り戦費を安定して徴収可能とする為に会計技術の導入に着手する(制度会計の概念の起源?)。

*すなわち「試金石」登場による「誰もが評価を共有する基準貨幣」制定こそが人間の損得勘定への数理導入の起源とも?

珍しい貝の貨幣や懐かしい肖像画の紙幣もさることながら、個人的に興味を持ったのが「試金石」です。「今回の〇〇は□□の試金石となる」という慣用句がありますが、本物の試金石は初めて見ました。

人間の損得勘定史に起こった最も重要なパラダイムシフト。そして「ビットコインの世界」は、まだまだこの安定段階に到達していない段階という認識でOK? その一方で「掛け算」や「割り算」の概念の損得勘定への導入も同じくらい不安定?