以下の投稿で、何とはなくながら数年来の夢だった「オイラーのφ関数1/2/3/5/7…」と「公式e^iθ=cos(θ)+sin(θ)i」と「多面体定理V−E+F=2」の統合に成功した気がします。全体を結び付けたのは円弧および球面において北極と南極にあたる対蹠(Antipodes)の概念…
そして、そうやってこの問題の全体像が明らかになるにつれ(粗雑な代数構造が全ての概念を思わぬ形で結び付けている)現実世界の価値観との、いわゆる「シンギュラリティ問題」とはまた異なる次元の懸念点が次第に視野内に入ってきたのです。
- とにかく最初にして最大の難関は「(それ自体は観測対象とならない観測原点と観測極限の間に横たわる)全観測結果集合の差異と相関関係が検出出来ない(統計学でいう名義尺度状態)」原始観測円/観測球面状態からの脱却と(無限遠点Inf(inty)を無限小-Infと無限大Infに峻別する)両側無限観測線樹立の瞬間にある。多くの過ちが、かかる初期段階からの認識エラー、およびその後の状況変化への対応不全に由来する。
- 人間は多くの場合数理に「順序付け」を求め、むしろそうした人間側の事情が鏡の様に最も反映される範疇だからこそ「数理による順序付け」は慎重に遂行しなければならない。かつてネットを介してコミュニケーションする相手から学習する人工知能が人種差別と性差別に染まって公開を注視される事件があったが、この方面の数理はしばしば「(現実の反映が不十分な)観測者が見たいものを見るだけの鏡」や、その真逆の「(観測意図に反する)予想外の状況を写し出す鏡」と化してその実用性を喪失する。ここで鍵となるのは「何処までを視野内に留め、何処からを誤差として切り捨てるか」は、あくまで究極的には人間の主観に拠るという現実だったりする。
- そして貨幣経済の浸透と産業革命の導入は、近世までは形骸化しつつも建前上はそれなりの形で存続し続けてきた既存の身分社会や地方共同体の存続を許さなかった。それで当時勃興した統計学と社会学は(王侯貴族や聖職者/士官/官僚供給層といったランティエ(Rentier、地税や家賃収入で暮らす不労所得者)の如き、収入制限選挙時代には議会政治を牛耳る事も可能だった)既存ブルジョワ=インテリ=政治的階層の存続を賭した自己正当化(実際それまでの科学と技術と芸術の発展はベルヌーイ一族やフラゴナール一族の様な名家と彼らへのパトロネージュに支えられてきたのではなかったか?)と、「教育の平等と性差別撤廃こそが天才発掘の可能性を最大化する」と考えたコンドルセ伯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)やジョン=スチュワート=ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)の古典的自由主義者(Classical Liberalist)=数理的大同主義者(Mathematical Daidoist)の闘争の渦中に否応なく巻き込まれる事になったのである。現代的価値観から振り返ると、どちらも「機会の平等」への配慮はあっても「成功の平等」への配慮は十分でなかった(この問題、考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる)。そして双方ともにCaptains of Industry(国際的に通用する産業界のリーダー)の安定供給方法に一家言あったが、結局勝負はつかなかった。後発の科学的マルクス主義者(Scientific Marxist)や社会自由主義者(Social Liberalist)に至っては「我々は人倫問題も含め全て解決する」などと豪語しまくった割には所詮漁夫の利を狙っただけに過ぎず彼らほど数理的背景を背負う気概があった訳でもなく、結局口先だけに終わりつつある。要するに21世紀に至ってなおこの問題、まだまだ解決の緒(いとぐち)すら見えていない。
トマ・ピケティ『21 世紀の資本』
要するに数理(Mathematical Things)とは「(カンブリア爆発期における視覚とそれが得た情報を処理する脊髄が発祥した時点まで遡り、コンピューターの登場によってその処理能力を飛躍させた)人類全体に先天的に与えられた最重要器官の一つ」みたいなものなので「ある日突然自意識に目覚めて人類の敵として立ちはだかる」なんて展開は完全想定外。数理はもっと広範囲にわたって長期的スパンで我々の認識する「世界そのもの」を変貌させてきたし、これからも変化させ続けていくのです。
ところで私が今年のモットーに選んだ「人機一体」は囲碁業界から頂いたもの。どうやら「人騎一体」と「AIを使いこなす棋士」を掛けたものらしいです。
現にこうやって私が「数学初学者」を自称出来ているのも、コンピューターがそれなりには使えてるからこそ。そうした時代に向けての動きの歴史的画期は、どうやらフランス革命からナポレオン戦争にかけての欧州(年代でいうと18世紀末から19世紀初頭)にあった様です。「近世までの数学」と「近世以降の数学」の峻別点ですね。
1811年頃にガウスによって導入されたため、ガウス平面 (Gaussian Plane) とも呼ばれる。一方、それに先立つ1806年に Jean-Robert Argandも同様の手法を用いたためアルガン図 (Argand Diagram)とも呼ばれている。さらに、それ以前の1797年のCaspar Wesselの書簡にも登場している。このように複素数の幾何的表示はガウス以前にも知られていたが、今日用いられているような形式で複素平面を論じたのはガウスである。三者の名前をとってガウス・アルガン平面、ガウス・ウェッセル平面などとも言われる。
今日におけるベクトル空間、線形代数学、行列演算の大源流ですね(英国人数学者シルベスターがラテン語で子宮を意味するwombからmatrix(行列)という用語を導入したのが1848年)。ガウスは数理発展により「作図からコンパスも定規も不要にした人」「大数の法則が正規分布概念に発展する端緒となり統計学の概念を基礎付けた人」「非ユークリッド幾何学の概念の創案者の一人」とも仮冒されています。実際には当時の書簡から「生前既に発見済みだった」と明らかになった数理も多いのですが、まさしく「新時代の数理フォーマット」を予見していた人ではあった訳です。実際に主要要素が出揃うのは19世紀末から20世紀初頭にかけてとなりますが。
革命とナポレオン戦争の残禍に苦しめられたフランスではエコール・ポリテクニーク(École polytechnique、通称X (イックス)と呼ばれる理工科大学)が重要な役割を果たしました。オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年~1857年)が中退して気炎を吐き、ガロア(Évariste Galois, 1811年~1832年)が入学出来ずやさぐれ、卒業後に皇帝ナポレオン三世治世下で黙々と建設インフラ整備に没頭してきたジョルジュ・ソレル(Georges Sorel, 1847年~1922年)が引退後マルクス著作のフランスへの最初期紹介者となって「暴力論(Réflexions sur la violence, 1908年初版)」を発表した曰く付きの学校…
こうした時代の流れを加速させたのが第一次世界大戦(1914年~1918年)と第一次世界大戦(1939年~1945年)における「総力戦」遂行と(欧州経済がこれらの大戦以前の規模まで復興を果たした1970年代まで雰囲気的に続いた)冷戦時代における国家間競争だった事実は動きません。
しかし当時は産業革命導入以降の資本主義的発展もあり、それまでの流れも含め「人類自身の世界認識」が変貌を遂げた時期でもあったのです。
「(コンピューター上にのみ存在し得る)数理三昧の世界」は、原則として(人間の脳内にのみ存在する)形相世界にその有用性(Usefulness)を認められる事によって初めて開始され、存続を許され、かつこの道筋を辿ってのみその内容がその形相世界へと還元(Restore)されるのです。この全体像を俯瞰して最近では「人機一体系(Man-Machine System)」と呼んだりする様です。
- 最初に注目されたのは三角関数(Trigonometric Function)の分野で、紀元前の時代から(農業歴を管理する神殿宗教の祭政一致体制政にとっては支配権限の源泉でもあった)天文観測、測量、建築、航海といった「一般庶民の目に触れない範囲」において現場数理として活用されてきた。この話は歴史上(水争いにおける勝利や所領管理に加え堤防や溜池の築造指揮を含む)治水が領主の責務であった事とも密接に関係してくる。
- 次いで注目したのは経済分野で、イタリア・ルネサンス期に海洋国家ヴェネチア経由で地中海商人から欧州出版界に伝わった複式簿記系(Double-entry Bookkeeping System)の記法が群論概念(Group Theory Concept)の大源流となった。出版革命の影響で知識の在り方がパラダイムシフトを迎えた事もあり、この頃より欧州では「一般庶民の目に触れない」現場数理に数学者も真剣に取り組む様になっていく。
こういう部分も含めて「名状し難きもの(The Unnamable)は名状し得る場合(Namable Case)、既にそこには存在しない。ならば名状し難きものものとは一体何者か?」のジレンマは成立している訳なんですね、
- そう、あたかも(天文学や航海の分野で用いられる三角関数演算を楽にする為に開発された最初期の用目的数理の一つである)常用対数表(Common Log Table)を用いた計算において「対数への変換」後の演算が、さらに「10進数への逆変換」の後にしか意味を持ち得ない様に。
- 工学の分野で活用されるラプラス変換(Laplace Transform)後の演算が、ラプラス逆変換(Laplace Inverse Transform)によって元数値に戻されない限り意味を持ち得ない様に。
- この考え方を援用すると「日々の出納記録が金回りの集計結果が全体像を明らかにする」簿記記法(Bookkeeping)そのものが、こうした活用法(Expression)の重要例の一つとなる。
- そういえばイタリア・ルネサンス期に三次方程式の解法を巡って発見された虚数(Imaginal Number)も、歴史のその時点では「計算の途上で現れる現場数理」に他ならなかった。
なるほど、視野を「人機一体系(Man-Machine System)」の歴史全体に広げると以下もその範疇に含まれてくる訳です。
- イタリア・ルネサンス末期(16世紀後半)、オスマン帝国伸長によってレパント交易から締め出されたベネツィアにおいて代替産業として始まった「文庫本全集出版事業(一冊一冊は携帯可能なサイズで安価。サイズを揃えたシリーズ化によって売り上げを確保)」がフランドル(オランダ・ベルギー)やパリ(フランス中心部)に広まった出版革命。大源流は文書行政が普及していたオスマン帝国における紙輸入需要(当初はヴェネツィアが独占していたが、その牙城も次第にフランドルやパリに崩されていく。ちなみに中華王朝同様オスマン帝国にも「官僚供給階層が習得困難な独自の手書き/文体に執着する」問題があり、その制約に足をとられ出版革命に乗り遅れる)で「大航海時代における地図需要」「解剖学発展の影響を受けた医学書需要」などを吸収しつつ次第に市場規模を広げていった。ちなみに小冊子(パンフレット)刊行の政治利用はハンガリー王マーチャーシュ1世(ハンガリー王在位1458年~1490年、ボヘミア王対立王在位1469年~1490年)の歴史的プロパガンダ(オスマン帝国との戦争回避の為に好戦派のヴラド・ツェペシュを幽閉(1462年~1474年)。その間自らの行いを正当化する為に「ドラクル(龍公)の悪行を暴露する」小冊子群を刊行し続け、これがブラム・ストーカー「ドラキュラ(Dracula ,1897年)」の元ネタになった)に端を発する。宗教戦争時代(16世紀~17世紀)におけるカソリック陣営とプロテスタント陣営の出版合戦、マザリナード(Mazarinades)すなわちフロンドの乱(1648年~1653年)当時のフランスで頒布されたマザラン宰相の批判と擁護を主題とする小冊子群、そして清教徒革命(狭義1642年~1649年/広義1639年~1660年)時代に「コーヒーハウスにおける議論の添花」として始まり、ペスト流行による外出禁止を契機に読み物性を高めた英国の小冊子文化などが著名。産業革命導入により消費の主体が王侯貴族や政商といった伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層から産業振興階層や庶民に推移すると娯楽性をより強く求められる様になる一方(まずは有閑婦人向けの雑誌や読み物が振興。これが全面化してしパルプマガジン文化に発展し海を越えてアメリカにも伝わる)、科学表の精度向上需要が高まって(「ネイピアの骨」を出発点にフランスではパスカル(1642年)が、ドイツではゴットフリート・ライプニッツ(1670年代)が最初期に熱中した)歯車式計算機の開発競争が加速。チャールズ・バベッジ卿の手になる著名な蒸気機関駆動の階差機関(Difference Engine)や解析機関(Analytical Engine)の研究(1822年~1871年)はこうした時代性の産物となる。
- ルネサンス期以降の近代絵画や解剖学の発展に欠かせない「正確な模写」を密かに裏側から支えてきたカメラ・オブスクラ(Camera Obscura)の存在。ちなみに「(設備に直接描かれるフレスコ画や据置前提の教会備品などに組み込まれた板絵と異なり、軽くて持ち運びが容易な)キャンバス絵画」もオスマン帝国伸長によってレパント交易から締め出されたルネサンス末期にベネツィアが開発した代替産業の一つであり、東方正教会文化圏のイコン文化に由来する。現地で豪華なオペラやカーニバルを開催して観光客を集め、風景画や人気のクルチザンヌ(高級娼婦)の肖像画を土産物として売る収益構造で(オペラが作曲家に対してそういう役割を果たした様に)画家にパトロネージュ以外に生計を立てる手段を提供した(一方、フランドルの都市部新興産業階層は個人の肖像画や集合記念写真的作品を好み、それを担当する肖像画家を地産地消形式で養った)。こうした話は欧州における書斎文化(15世紀末から貴族邸宅に原型が現れ始め、16世紀中に貴族邸宅の多くに設置される様になり、17世紀に入ると一般市民住居にもライティング・テーブルなどが備えられるようになった)において「壁を飾る装飾」の役割を獲得していった展開とも密接に関係してくる。産業革命が到来した19世紀以降は時代以降はカメラそのものが普及して(トーキー映画普及によってサイレント映画時代の弁士が失職した様に)肖像画家を完全に駆逐してしまったが、カメラ機能が携帯電話/スマートフォンに搭載される様になると今度はそのカメラ市場が縮退を余儀なくされる。
- 英国で1725年頃より織機の制御に使われ始めたパンチカード技術が発展し、1801年にはジョゼフ・マリー・ジャカールがジャカード織機を発明した。実は1745年には既にスイス人自動人形技師ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年~1782年)がフランスでBasile BouchonやJean Falconの先駆的成果を発展させる形で同内容の世界初の完全自動織機を完成させていた。しかし当時は職人から「オレ達が何を覚えるか指図するなんて何様だぁ?」「オレ達から職を奪うつもりか」と散々罵られ、石を投げつけられるだけに終わっている。とはいえ実は英国でも1733年に(どんな幅の物でも一人で織れる)飛び杼を発明したランカシアの織工ジョン・ケイが、生産効率の飛躍的改善の代償として熟練工の大量失業を誘発したせいで残りの一生全てを貧困の中で襲撃を恐れながら送る羽目に陥っている。「産業革命が何故(パラダイムシフトを伴う)革命と称されるのか」端的に表す逸話ではある。とにかくこの技術の応用によって1889年「IBMの父」ハーマン・ホレリスがパンチカード方式の自動集計機(Tabulating Machine)を実現。1890年の米国国勢調査に用いられ、前回1880年の国勢調査が7年を要した統制処理を3年で完了して普及が始まった。カード分類や会計処理にも使われる様になり、自動カードフィード機能や印字機能の追加後(印字機能付製品の市販自体は1914年)、1906年以降はワイヤリングによってプログラム変更が可能なプラグボード(制御パネル)を搭載する様になった。第二次大戦終戦以降も経済の米国集中による活況で需要が増大。1950年代に最盛期を迎えたが1960年代に入ると複雑な処理が一括して行え、データ記録に磁気テープや磁気ディスクも利用できるコンピューターが実用化され始め市場を置き換えていった(カード読取装置自体はコンピューターの入力装置としても重宝され1970年代まで使われ続ける)。
- 江戸時代中期(17世紀)に人形浄瑠璃界で流行した「(人形だからこそ可能な乱暴な動きを表現に採用した)荒事」の流行があり歌舞伎界でも生身の役者がこれを(可能な限り)模倣する様になった(同時に人情話中心の展開が和事/世話事なる用語で対比される展開を迎える)。また18世紀~19世紀にかけて人形浄瑠璃界で「八百屋お七」が流行すると歌舞伎界はこれを演題として取り入れただけでなく(激情に抗い切れず放火に向かう場面の人間離れした体の動きに人形表現の優位を見てとり)、その場面だけ黒子が背後に二人つく「人形振り」の演技を開発している。こうした鬩ぎ合いには確実に「電子音楽登場が既存音楽に与えた影響」さらには「VocaloidやVTuberを巡る演出」などに確実に継承されていると考えられる。
こうして全体像を俯瞰してみると「(人間の脳内でだけ駆動する)形相」がデカルトやカントが想像した様な「未来永劫不変な何か」ではなさそうな事がさらに明らかとなります。「(コンピューター内で動作するする)数理三昧の世界」を含む外界と相互影響を与えつつ進化の途上にある様にしか見えませんね。
(人間の知性を模倣しようとして失敗した)第二世代AIに立脚した20世紀のサイバーパンク文学は「サイバースペース・カウボーイ(Cyberspace Cowboys)」なる概念を世に広めましたが、(逆に数理から人間の知的活動を援用するシステムを生み出そうとする)第三世代AIに立脚する21世紀の電脳世界は果たして何処へと向かうのでしょう。私は大体そんな方向で未来を凝視してい流という話…