もはや江戸時代の豆腐小僧と同じくらい、何が何だか分からないレベルで凄い…
パチモノだけが捉えられる、ある種の「歴史的真実」?
*「(言語ゲームの一種としての)妖怪」誕生の引き金を引くのは、①特定の対象に対する(差別意識や合理主義完徹意識などに基づく)言及内容の過度もしくは過小、②複数の敵視対象の強引な同一視、③強引な「ええとこどり」がもたらす副作用など。ここでは特に③の要因が大きく目立っている・
ずっと探し続けてたキットが漸く手に入ったのでご報告。今は亡きLSより『暴走Gメン ブルーバード4ドアターボ』という代物。見ての通り西部警察ブームに便乗したキットなんですが、箱絵の渡哲也風味な人と武田鉄矢風味の人、バンパーの交通機動海援隊(何?)がとても味わい深いです pic.twitter.com/hazPsH3Sk6
— Aosagi (@aosagi_ssg) June 14, 2018
「何故、武田鉄矢?」という辺りがおそらくこの案件の鍵なのです。そうまさに「3年B組金八先生(1979年〜2011年)」の大ヒット抜きに高見広春「バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE、原作1999年、映画化2000年)」は語り得ない様に…
日本テレビ「太陽にほえろ!(1972年〜1986年)」 - Wikipedia
“ボス”こと藤堂係長(石原裕次郎)を中心に、ニックネームで呼び合う東京都新宿区矢追町所在の警視庁七曲警察署(捜査第一課)捜査第一係の刑事たちの活躍を描いたテレビドラマ。1972年のスタートから15年近くに亘って放送が続けられた長寿番組であり、現在では日本の刑事ドラマの代表格とも称される作品である。
かねてから編成の核となる看板番組の制作を目指していた岡田プロデューサーは、刑事を主役とした青春アクションドラマの構想を抱いていた。これに、物語に厚みを出すため黒澤明の「野良犬(1949年)」にも影響を与えたセミ・ドキュメンタリー形式の刑事物の古典映画である米国映画「裸の町(Naked City、1948年)」をモデルとして、リアルな犯罪捜査を描くことを加えて、当初の企画は立てられた。
それまでの日本の刑事ドラマはTBSテレビ「七人の刑事(1961年〜1969年、1978年〜1979年)」やNETテレビ(現・テレビ朝日)「特別機動捜査隊(1961年(昭和36年)〜1977年)』などが主流の、大人向きで渋いイメージが強かった。他にも「東京警備指令ザ・ガードマン(1965年〜1971年)」や「キイハンター(KEYHUNTER、1968年〜1972年)」(共にTBSテレビ)などがあったが、前者は民間企業たる警備会社、後者は警察とは言えど派手なアクションを駆使した全く架空の特殊チームで、若年層向けとしては桜木健一主演「刑事くん(TBSテレビ、1971年〜1976年)」ぐらいしかなかった。なお、本作はその『刑事くん』の第1部第12話(1971年11月22日放送)にゲスト出演した萩原健一が新人刑事が主役の企画を各所に持ち込んだ結果、本作のスタッフの目に留まって実現したものとも言われている。それまでの「刑事物」は「事件物」と呼ばれて、親が子供に見せたくないドラマの一つだった。
*何しろ当時の日本リベラル層はアメリカの影響で「犯罪に関わる一切を子供に見せず育てれば、その子は犯罪と無縁な良い子に育つ」と無邪気に信じていた。七人の刑事(1961年〜1969年、1978年〜1979年) - Wikipedia
最初のシリーズは1961年10月4日から1969年4月28日まで放送。当初時間帯は水曜夜8時台だったが、プロ野球のシーズン中はこの時間帯はナイター中継の枠となっていたため、1962年4月以降は定期放送ができなくなり、1962年10月11日からは木曜夜8時台に移動。また水曜時代は日本ビクターの一社提供だったが、枠移動後は複数社提供に変更された。1964年5月28日で一時休止し、同年8月24日から時間帯を月曜夜10時台に変更して再開した。この期間中に映画版が3本公開、終了後も1973年、1975年に特別編を4本放送。
*1969年4月28日で最初のシリーズを終了したのは、VTRが普及したためにNGを編集でカットすることが容易になり、そのために収録時間が長くなる一方でスタジオでは撮影が徹夜に及ぶことも珍しくなくなり、労働の加重化に音を上げた労働組合のストライキが頻発、これで局側も算盤勘定に合わなくなったと判断したためということが主な理由とされている。公開日時から考えて、笹森礼子さんの映画出演最後の作品ということになるのではないかと思います。あれだけ赤木圭一郎さんや宍戸錠さんたちの主演映画で活躍されていた女優さんなのに、最後に良い役を与えて、花を持たせるというようなことはなかったのでしょうか?。地方でしか公開されない、しかも併映のモノクロ作品ですよ。あるいは、笹森礼子さんが、突然、引退されてしまったのかもしれませんが。
1967年、第4回ギャラクシー賞を受賞。スタートする前年の1960年から同じKRテレビ(現・TBS)で約1年間放送されていたドラマ『刑事物語』が本作の基となったとされている。芦田伸介扮する沢田のよれよれのコートにハンチング帽というスタイルは、警視庁に在籍していた刑事、平塚八兵衛がモデルになったともいわれている。
*ちなみにネットで「刑事物語」を検索しても武田鉄矢主演の1980年代映画しか引っ掛からず、その内容はラジオ投稿から生まれた(と多くのリスナーが信じている)中島みゆき「ふぁいと!!(1983年)」を連想させ、しかも中島みゆきのこの曲はブルーハーツのJパンクに象徴される様な1980年代後半から1990年代にかけての「青の時代」を乗り越えて「誰のせいでもない雨が(1993年)」「4.2.3(1998年)」へと継承されていく。
1978年4月14日から1979年10月19日まで、新シリーズ(毎週金曜日20:00 - 20:54)を放送。
1998年に『七人の刑事 最後の捜査線』(月曜ドラマスペシャル)を放送。
「当時海外で『刑事コロンボ』が大ヒットしていたのを見て、その現象に目をつけたTBSのプロデューサーが僕で刑事モノを、と考えたことがきっかけでした。ただ、桜木健一で刑事モノじゃ若すぎるから、刑事のあとに“くん”をつければいいんじゃないかと。さらにそのためには新米刑事がよいと」
桜木がそう語るように、従来の刑事ドラマとは一味違う若い刑事、新米、さらに30分番組という異例尽くしで「刑事くん」はスタートを切った。番組は好評で、後期こそ主演は桜木から星正人に変わったが、足かけ6年に及ぶ放映のほとんどは、桜木演じる三神鉄男が主人公を務めた。
あくまでも、大人の目線に耐えうるドラマとして本格派刑事路線が敷かれたのだが、それでも、青春スター・桜木を意識したキャスティングが目立ったのも事実。特にそれは豪華ゲストや共演者に表れた。
「ゲストではショーケンやジュリーにも出ていただきました。さらに、ライバル役として仲雅美さん、三浦友和くん、宮内洋さんと、今思えば、当時の若手スターがそろってますよね」初期企画書の題名は「明日に燃えろ」で、NYPDで研修を受けたばかりのキャリア・藤堂英介を筆頭に、初めて刑事になった風間健一の活躍を描くドラマとして1972年2月に企画された。撮影の遅れを出さないために出演俳優を増員。撮影隊をA・B二班体制にし、同時に進行させていくシステムを採用。主人公が潜入捜査官では目立った活動もできず、拳銃携帯もできなかったことから、拳銃を携帯できる私服刑事と設定した。さらに、当時流行していたアメリカの刑事映画(サンフランシスコを舞台とした「拳銃無宿(Wanted Dead or Alive、1958年〜1961年)」の早撃ち名人スティーブ・マックイーン「ブリット(Bullitt、1968年)」やアイルランド系のクリント・イーストウッド「ダーティハリー(Dirty Harry、1971年)」など)の要素も取り入れ、刑事のキャラクターを全面に押し出すことを主にし、犯罪者側の描写を控えた。初期段階から新人刑事の成長物語を主軸に描くことは決まっていたが、当初の性格設定は生真面目で規則一辺倒な若者だったので、メインライターの小川英はもっと今風な若者にしようと提案する。
当時の世相として高度成長・公害・蒸発が新聞紙面を賑わし、学生運動で学内は荒れ、内ゲバ(暴行事件)が頻発。街ではアングラやヒッピーが流行り、新しい価値観や文化が話題となった。海外ではベトナム戦争が交戦中で、少年誌で『あしたのジョー(1968年〜1973年)』が大ヒットしていた時節だった。これらの社会現象や風俗を作品の要素に取り入れた。2月にあさま山荘事件で連合赤軍と機動隊の死闘がテレビ中継され、実際に隊員が殉職するなど、警察がヒーローとして注目される風潮が出てきた。こうした時代的影響を受けて主人公は、当時、刑事役としては異例の長髪で、ファッショナブルな衣装の「NOWな若者」を主人公とするよう変更した。警察という組織にありながらも、反体制的で自己主張するキャラクターに変更。
10月の開始予定が7月に前倒しされ、急ピッチで製作が進められる。主役はザ・テンプターズのメンバーとして人気を博し、映画『約束』で注目された萩原健一に決定した(萩原自身、テンプターズ解散後、俳優への転向を摸索していた時期でもある)。野崎役は藤木悠(『東京バイパス指令』のレギュラー)を考えていたが、藤木が東映製作のドラマと契約書に印鑑を押した一か月後に太陽にほえろ!の打診があり、藤木は生涯に渡って後悔したと言う。その後、何人かの俳優のテストを経て野崎役は下川辰平に決まった。
銀幕のスター・石原裕次郎はテレビという媒体への出演に懐疑的だったが、自身が経営する石原プロモーションの台所事情もあり、1クール契約で出演を承諾。他にも大映倒産後に東宝入りした関根恵子や、東宝所属の竜雷太などのキャストが集められた。
裕次郎に出演が打診された当初、先述の理由などから本人は乗り気でなかったが、まき子夫人が「裕さんと同年代の人は今頃皆、家庭を持ち、父親になっているころだよね。今回の役が息子を待つ父親みたいな役どころっていうのは裕さんにとっていいと思う」と夫に出演を勧めたと言われている。『太陽にほえろ!』のタイトルで制作が決定。当初は主人公・早見淳は皆から「坊や」と呼ばれる予定だったが、萩原が猛反発。衣装のイメージから「マカロニ」のニックネームが決まる。新人刑事の活躍を斬新に描いた番組は当時の小中学生から一般視聴者層に受け入れられ、『水戸黄門』と並んで国民的人気番組と称せられるようになった。また「これからはテレビの時代です!」と、1クールで契約切れになった裕次郎の続投を本人に強く推したのは竜雷太だと伝えられる。実際に、最初の撮影では、16ミリフィルムのカメラを見て、映画俳優だった裕次郎は、「そんな小さいカメラで俺が撮れるのか」と馬鹿にするように言い放ったという。テキサス刑事編で当時の最高視聴率を記録した際、裕次郎がフジテレビ『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演した時に司会の芳村真理から『以前は街中でも〝裕ちゃん〟と呼ばれることが多かったと思いますが、最近では〝ボス〟と呼ばれることが多いんじゃないですか?』と聞かれ『イヤ…テレビの影響って凄いですね。どこへ行ってもボスですから…』と答えている。本作のヒットによりテレビの影響力を知った裕次郎は、石原プロモーションで『大都会』や『西部警察』といったテレビドラマの制作を手がけるようになったという。
基本的には、事件発生から解決に至るまでは1話完結、一係メンバーと、周辺の登場人物のエピソード等に関しては、時系列で描くというスタイル。
- 当初の構想では、主人公・マカロニ刑事こと早見淳の成長物語として展開していく予定であった。しかし、早見役の萩原健一が降板を熱望し「劇中で死にたい」という萩原本人の申し出を製作側が受け入れ、早見は通り魔強盗に刺し殺されるという形で姿を消す。だが主役級の降板という事態にもかかわらず、番組を終了させることはなく、無名の松田優作を萩原の後任に起用し、さらなる成功を収めた。これに端を発し、新人や無名俳優を主演の新米刑事として出演させてその人間的に成長する姿を描き、やがて彼らが「殉職」することで番組を卒業していくというパターンが定着。勝野洋、渡辺徹などといったスターが生み出された。
- やがて、番組の路線が安定してくると沖雅也、三田村邦彦、世良公則など芸能界で実績のある俳優が起用されるケースも出てきた。
また露口茂、竜雷太、小野寺昭、下川辰平らベテランおよび中堅のメンバーにも主演作が用意されるようになり、新米刑事の青春物語から群像劇としての魅力を加えていった。
ここまでの流れが微妙に(ある意味日本における「太陽族」ムーブメントに端を発する)パンク・ムーブメントと絡んでくる辺りが興味深いのです。
*共通するのはある種の「青春搾取(Youth exploitation)」構造?
- ブルーハーツ「キスして欲しい(1987年)」の展開例。パンク・ムーブメントは(それぞれの国でそう主張されてきた様に)国際的に孤立して存在した訳ではない。
*コメント欄に「Weaboo passion love」とあるけど、ブルーハーツって明らかにロンドン・パンク・ムーブメントの系譜。しかしなぜかこのPVのヒロインって諸星大二郎の描く女性登場人物っぽい…
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前後関係の歴史も興味深い。そもそも元来(ロンドン・パンク・ムーブメントのさらなる源流にあった)パティ・スミスのニューヨーク・パンク・ムーブメントは「ニューヨークに上京した詩人の田舎娘が西海岸のカリスマ的ボーカリストたるジム・モリスンに傾倒して始めた音楽」だった。
*1970年代といえばとにかくローズ・ピアノの音色…そしてパンク・ムーブメントはこれから離れる形で成立した?
ローズ・ピアノ(Rhodes Piano ) - Wikipedia
電気式鍵盤楽器の一種(エレクトリックピアノ)。日本では70年代までローデス・ピアノと表記されることが多かった。フェンダー社のフェンダー・ローズが特に有名で、この種のピアノの代名詞化している。
1940年代にハロルド・ローズ(Harold Rhodes)によって「前線の兵士たちを慰安する(音楽療法)目的で」発明された。最も初期の物は航空機のパーツを使って組み立てられた"Pre-Piano"というもの(同様の楽器はKAWAIから「トイ・ピアノ」として現在も販売されている)。これにマグネティックピックアップを取り付け、大音量を得られるように改良した。1959年楽器メーカーのフェンダー社と合弁事業を開始し、以降1974年頃まで"Fender Rhodes"の名の下で製品を生産・販売した。この時期の楽器はロゴに"Fender"の文字があることから「フェンダー・ローズ・エレクトリック・ピアノ」或いは「フェンダー・ローズ(ローデス)」と呼ばれる。フェンダーによって生産が開始された1960年当初、筐体はクリーム色で、天板は有名なフィエスタ・レッド(朱色)をはじめとする各種のカラー・バリエーションがあり、1963年以降にはセレステやピアノといった新規モデルも追加された。
1960年代には製造が開始されているが、まだ生産数も少なかったことや非常に重かったこと、ピアノの代用品としてはあまりにもかけ離れた音であったことにより、広くは使われなかった。ドアーズのレイ・マンザレクが、低音域32鍵のバージョン「ピアノ・ベース」でベースラインを弾いていたのと、ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」でビリー・プレストンが初期型(Silver Top: 天板が銀)のスーツケース・ピアノを演奏していたのが最も有名な例だろう。
1970年代中盤になってから、それまで多く使われていたRMIエレクトラピアノやウーリッツァーなどに代わり、ロックやジャズで広く使用される様になった。1973年、「ローズ」のブランドはフェンダーから独立する(尤も、フェンダーと同じCBS傘下であった)。1975年頃、ブランド名が"Rhodes"に変更されロゴマークから"Fender"の文字が消えたため、以降のモデルは「ローズ・エレクトリック・ピアノ」或いは「ローズ・ピアノ」と呼ばれる。
*当時は意外な曲がCall & Responceの基本を守ったファンキーだったりするから油断が出来ない。
1980年代中盤にヤマハからDX7が発売され、ローズを模したクリスタルのようなエレクトリックピアノのトーンが人気を博すまではクロスオーバーバンドでの必需品ともなった。電子キーボードが主流となった現在もなお、スムーズ・ジャズを初め幾つかのジャンルで使用されることがある。
現在でもローズの音を求める演奏家は多く、ビンテージのローズを買い求める人は多い。全盛期の生産数は多かったので、プレミア価値は他の楽器と比べて少ないが、1台ごとの性格の違いが大きいので注意。多くの電子ピアノやシンセサイザーにローズのサンプリング音が内蔵されている他、サンプリング・ライブラリーも多数販売されている。また、2006年には遂に、ローズ・ブランドでの新型エレクトリックピアノ「ローズ Mark 7」が発表された。日本では2009年9月から山野楽器が総代理店としてMark 7の販売を開始した。輸入一号機の所有者は山下達郎である。彼のライブ「山下達郎パフォーマンス2010」の中で披露された『潮騒』の中でそのエピソードが語られた。
*そして今から聞き返すと「Bohemian Rhapsody(1975年)」によってMV(ミュージック・ビデオ)が音楽のプロモーションに効果的だと証明した英国の伝説的バンドQueenの影響も見て取れる気がする。
- その一方で実際にロンドン・パンク・ムーブメントに影響を与えたのは、むしろラモーンズ(Ramones)だったとも。ブルーハーツもどちらかというとこちらの系譜に分類される。
ラモーンズ(1974年〜1996年) - Wikipedia
ニューヨーク・パンクの重要バンドの一つで、後のパンク・ムーブメントに大きな影響を及ぼした。バンド解散後、象徴的メンバーであるジョーイ・ラモーンが死去、その後立て続けに創立時のメンバーが死去し、完全に歴史から消滅。
2002年『ロックの殿堂』入り。ローリング・ストーンの選出の「歴史上最も偉大な100組のグループ」第26位。
以降のロンドン・パンク・ムーブメントに大きな影響を与え、アメリカ合衆国よりイギリスで評価が高いバンドである。南米でも人気があり、アメリカでは主にライブハウスばかりだが、アルゼンチンではエスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティでライブした。また、今まで誰も公演を行ったことの無かった地域にも積極的に出向き、以降そこにバンドが生まれるということもあったという。
デビュー作から3作目までのアルバムは、ロック史上に残る重要なアルバムと評価されている。1979年に発表した5作目のスタジオ・アルバム『エンド・オブ・ザ・センチュリー』(フィル・スペクターがプロデュースを担当した)はバンド史上最大のヒットアルバムとなり、2012年現在も大リーグの試合でこのアルバムの曲が演奏されるなど、アメリカ人に深く浸透している。
メンバー全員ラモーン (Ramone) の姓を名乗っている。これは、ポール・マッカートニーがビートルズの前身シルヴァー・ビートルズ時代に使っていた芸名「Paul Ramon」にちなみ、ディー・ディー・ラモーンが名付けた。
デビューから解散まで基本的なスタイルは変わらず、ビートルズやビーチ・ボーイズの影響を強く受けた音楽性、単純明快でストレート、キャッチーなメロディで、反体制なだけでないラブソングも多く、コードは3〜4つのみ、ダウンストローク一辺倒のハードなディストーションを利かせたギター、リズムは8ビートが中心、スピーディーな2分前後の曲が殆どだが、中期以降になると、キーボードやシンセサイザーなどの鍵盤楽器や、クリーントーンのエレキギターや、アコースティックギターを使用したり、コーラスワークを多用する等、サウンドにバリエーションが加わり、曲の長さも3分や4分を超える楽曲が出てくるようになった。ビジュアル的にはライダースジャケットと破けたジーンズ、ジョニーの愛用ギターのモズライト、ディー・ディーとC・Jが使用したフェンダー・プレシジョン・ベースというトレードマークも最後まで変わらなかった。
2001年のMTVミュージック・アウォーズの壇上で、U2のボノがマーキー・ラモーンに「もしラモーンズが存在しなかったら、U2も存在しなかっただろう」と発言して敬意を表した。その後ボノとマーキーは何度もステージで共演している。マーキー・ラモーンはほかにエルヴィス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーとも親しい。ラモーンズのリスペクトパーティにはショーン・レノンも出席した。
同年4月15日にジョーイが他界。世界のメディアは見出しに「パンク・ロックのゴッドファーザー逝く」「パンク・ロックは教祖を失った」と書き、ジョーイ(ラモーンズ)の業績を讃えた。
ただし「劇場映画の規模をテレビ番組に持ち込んだ」西部警察の世界はこうした枠組みから独立して独自展開を遂げる形を迎えたのでした。 -
こうした展開の延長線上に3枚目のアルバム「ジャグド・リトル・ピル(Jagged Little Pill、1995年)」で「怒れるカナダの歌姫」アラニス・モリセット(Alanis Morissette、オンタリオ州オタワ出身のフランス系カナダ人)が鮮烈なデビューを飾る。
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そして(ビートルズやハードロックに傾倒する立場から)パンク音楽を含む当時の若者文化を思いっ切り冷笑したアルバム「ネヴァーマインド(Nevermind、1991年)」よりのシングル・カット曲「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット(Smells Like Teen Spirit)」で世に出たニルヴァーナ(Nirvana)のカート・コバーン(Kurt Donald Cobain、ワシントン州出身)に傾倒する形でラナ・デル・レイ(Lana Del Rey、ニューヨーク州出身)が世に出る。ちなみに彼女はナボコフ「ロリータ(Lolita)」の熱狂的ファンとしても知られている。
*これまでの投稿で述べてきた「(大人の男を喰い殺す)本国流のロリコン(Lolicon)概念」。実際、ウラジーミル・ナボコフの小説「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年刊)」が語る「ニンフェット(nymphet、9歳から14歳の性的魅力のある少女)」概念は主観的には「身体の成長が男子より先に始まって攻撃的となり、男子の成長が追いついてくる事でその状態から脱却する」現実の少女と対応しており、例えばインターネット上においては2007年から2010年代前半にかけて、Belieber(ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)の熱狂的ファンクラブ)やNaruto / Avatar派(「NARUTO -ナルト-(1999年〜2014年)」や「アバター(Avatar: The Legend of Aang、2005年〜2007年)」と「レジェンド・オブ・コラ(The Legend of Korra、20012年〜2014年)」の熱狂的ファン層でBelieberとの対抗上Vocaloidの初音ミクをシンボルに掲げる)の「仁義なき戦い=それぞれ万単位の規模を誇る集団間の果てしなき暴力的衝突」を現出させている。
1979年10月から1984年10月にかけてテレビ朝日系列で全3シリーズが放送されたテレビ朝日・石原プロモーション制作のテレビドラマである。
- テレビシリーズ『西部警察』(1979年10月14日 - 1982年4月18日、PART-I)
- テレビシリーズ『西部警察 PART-II』(1982年5月30日 - 1983年3月20日)
- テレビシリーズ『西部警察 PART-III』(1983年4月3日 - 1984年10月22日)
- テレビスペシャル『西部警察 SPECIAL』(2004年10月31日)
凶悪犯罪渦巻く東京・城西地区(渋谷区・港区・新宿区・目黒区一帯)。大門圭介部長刑事(渡哲也)率いる西部警察署捜査課の刑事たちは、「大門軍団」の異名で犯罪者から恐れられ、また時には挑戦すべき標的として名を轟かせていた。強固な意志と絆で武装した男たちは、彼らを見守る捜査課長・木暮謙三警視(石原裕次郎)の指揮の下に、最新テクノロジーを搭載したスーパーマシンの数々を駆使して巨悪に立ち向かう。
- 日本テレビ系にて1976年より放送された『大都会シリーズ』で成功を収めた石原プロモーションが、同作の第三シリーズ『大都会 PARTIII』の設定・キャスティングなどを継承し、放送局をテレビ朝日に移行して製作した作品。派手なアクションシーンやカースタント、さらには巨額の費用を投じた爆破シーンなどが人気を呼び、5年間にわたる長期シリーズとなった。また、放映時間が日曜20時に繰り上がったことから、『大都会 PARTIII』より若干穏やかな作風となっている。
- 「西部警察」というタイトリングは「西部劇のようなイメージの刑事ドラマ」というコンセプトに由来しており、放映開始時のテレビ朝日の番組広告などには「コンクリート・ウェスタン」と付記されていた(「コンクリート」とは「現代的な都市」の比喩。マカロニ・ウェスタンといったような語からの連想)。
- 制作費とその捻出方法銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンが毎回のように盛り込まれた本作は、多額の制作費が要求された。その主要資金源は他番組同様にスポンサー収入であったが、本作の場合はそのスポンサー収入の「金の流れ」が通常のスポンサー収入とは異なっていた。
- 従来の民間放送では、ほぼ全ての番組でスポンサーと局の間に広告代理店が介在して番組内容に注文をつけるほか、スポンサー料の10%〜20%を手数料として徴収する形をとっている。『大都会シリーズ』よりもスケールの大きいドラマを作りたいと考えていた石原プロモーションは、増収のためにテレビ朝日との直接契約という画期的な手法を用いた。この場合、広告代理店から無条件に手数料を搾取されるリスクはなくなり、その分を制作費にまわすことができる。放送局が日本テレビからテレビ朝日に移行したのは、テレビ朝日側がこの契約手法を石原プロに提示したためである。
- ただ、石原プロだけでは広くスポンサーを取ることができないため、石原プロは東急エージェンシーにスポンサーのとりまとめなどを委託した。これにより広告代理店が取る手数料やメディア企業に渡る金など、本来制作側(石原プロ)が関わることができないところに関わることができる。このため、電通もしくは博報堂が持つ時間枠を「この時期は」東急エージェンシーが持つ事になった。これらの手法を影で支援していたのは石原の兄である石原慎太郎であった。石原プロは番組の長期ヒットに伴い、30億円の資産を形成したという。
惜しみなく予算を投じた(荒唐無稽とさえ感じられる)派手なアクション・シーンで著名だったが、その背景には「(犯罪者にもライバル番組にも)模倣を許さない」硬い決意が存在したという。
「スーパーマシン」と豊富なスポンサー・タイアップ
他の刑事ドラマと異なる大きな特徴として、「スーパーマシン」と称する特殊装備を備えた専用の警察車両が用意されている。本作の人気を支えた要因としてこの特殊車両の存在があり、一般ドラマとしては異例となる玩具(ミニカー・ラジコン等)の商品展開も行われた。劇中では何かしらの形で犯人側も特殊車両の存在を知っており、何度か車両が盗まれるエピソードも作られている。
*これらの車両製作は、ガゼールを除き日産プリンス自動車販売(当時)の特販推進室(後のオーテックジャパン)が手掛けたものである。当時設計を担当した福田正健によると、改造内容はプリンス側に一任されており、ストーリーについての関連性や指示も特になかったという。こうした事情から、装備品の中には本編で披露されなかったものもある。またこれらの一部装備は後に形を変えるなどして、2000年代以降現実の警察車両でも実用化されている。
- 日産自動車…特殊車両を筆頭とした劇用車の全面提供。他にも撮影場所の提供、地方ロケ時の日産販売会社各社の社長・スタッフの出演など。ただし、トラック・バス類は主に当時グループ会社だった日産ディーゼル工業(後のUDトラックス)の車両を使用していたが、ロケ先の都合などで他メーカーの車両が使われることもあった。また犯人車や一部高級車にはキャデラックやフォードなどのアメリカ車が起用されているものの、犯人車や検問で止められている車などで他社の車両が使われることもある。
- 東急グループ…東京急行電鉄から東横線・東京メトロ日比谷線(当時は営団地下鉄)・中目黒駅下り線ホーム(元町・中華街方面)や桜木町駅・東横線ホーム(現在は廃駅)、施設としては渋谷109や東急文化会館の撮影協力があり、さらに地方ロケ時は大門部長刑事の移動に東亜国内航空(TDA、日本エアシステム→日本航空ジャパン→日本航空インターナショナル→日本航空)の飛行機が使われた。2004年放送の『西部警察 SPECIAL』では経営統合に伴いJAL(日本航空)が協力しているが、宮崎空港で着陸した機はまだ一部で残っていたJAS(日本エアシステム)ロゴの機体(マクドネル・ダグラスMD-90)である。例外としてパート2・広島ロケについては当時、羽田-広島線にTDAは就航していなかったため、唯一就航していたANA(全日本空輸)を使用。
- ダイエー…買物客が多数いるダイエーの店内を犯人がバイクで逃走しているシーンもあり。
- ローソン…当時のコンビニエンスストアは、深夜も営業している小規模のスーパーマーケットとして認識されていたためか、『スーパー「ローソン」』として劇中に登場していた。
- オートバックス…劇用車のオイル交換でオートバックスの店舗に訪れるシーンがあったり、オートバックスの店舗が地方ロケ時の捜査の聞き込み先や事件現場として登場していたほか、最後期(PART-III・第8話以降、最終話まで)のオープニングのキャスト紹介のうち鳩村(舘ひろし)のシーンで、鳩村がオートバイで乗りつけポーズを決めるバックとしてオートバックスの店舗ガレージが宣伝的に用いられている。
- 宝酒造…北海道ロケと京都ロケで、石原裕次郎の友人である宝酒造社長(当時)・大宮隆も登場していた。撮影打ち上げの際には、同社の日本酒「松竹梅」の樽酒が使われた。
- 共豊産業(後の共豊コーポレーション)&エンケイ・アルミホイール…西部警察PART-Iの59話から、ほとんどの車両が(マシンXは62話まで使用)、アルミホイールは同社の製品が使われていた(標準装備のホイール装着車は、地方ロケの際の現地日産ディーラーの広報車や協賛企業所有の車両の場合が多数なので、石原プロ所有の劇用車との見分けが付く)。スタントに用いられる車にも使用され、毎回新品のホイールが提供されていた。
- 八重洲無線…マシンX以降の特殊車両に搭載される無線機を全て提供(マシンXのみトリオTS-130Vだった)。
- 鈴木自動車工業(後のスズキ)…バイクにおける劇用車の協力。
- 朝日航洋(旧・朝日ヘリコプター)…同社の塗色のまま、企業ロゴの上に旭日章や「警視庁」の文字を貼り付けて警察ヘリコプターに仕立てていた。PART-I第10話・第45話他で使われた同社所属アエロスパシアルAS350BJA9222機は、1983年2月19日に北海道での取材の帰途中に不時着事故を起こし大破している。
- 東芝…第1話・第2話「無防備都市」ではヘッドホン式の無線機やその他の劇中、盗聴した電話や留守番電話を録音したテープを、東芝製のラジカセで再生する場面が幾度も登場する。また捜査課内のアナログ時計や軍団特殊車両に搭載されているモニタも多くが東芝製となっている。
- アップルコンピューター…捜査課内のコンピューターや軍団特殊車両に搭載されているコンピューター、エンジニアの犯人が使用するマイコンではアップル製が使われている。
- 出光興産…車両走行、爆破シーンに使用するガソリンの提供。地方ロケ時、出光興産のガソリンスタンドも登場していた。それ以前は主に共同石油(後のJOMO→ENEOS)のガソリンスタンドが登場していた。
- 田崎真珠…本編で登場する宝石、強盗が押し入る宝石店としてたびたび登場した。
- 美善交通…調布市にあるタクシー会社で、本編では襲撃を受けるシーンがある。
- 米澤玩具(後のセガトイズ)…特殊車両のトイラジコン、当時同社が製造販売していたミニカーシリーズ「ダイヤペット」(現在はアガツマに権利譲渡)、LSIゲーム、エアーガンの発売。
- 青島文化教材社…特殊車両のプラモデルシリーズの製造販売。
- チェスコム…転送電話サービスの企業。PART-III正月スペシャル「燃える勇者たち」から登場。
- 日本マクドナルド…SP「燃える勇者たち」で、RS-2に乗った北条刑事と南刑事が放送当時はまだ珍しかったドライブスルーを利用するシーンがある。またエンディングでは、南刑事が当時のキャンペーン品だったけん玉「マックボール」で遊んでいる。
- 広島電鉄…広島県で鉄道・路線バスを運行する企業。PART-II「広島市街パニック」で登場。鉄道路線を全面運休させてロケを敢行した。
この様に木暮課長役を演じる石原裕次郎が、乖離性大動脈瘤による長期にわたる闘病生活から復帰できたことを記念すると共に、闘病中自分を応援してくれた全国のファンに対するお礼と、自分の元気な姿を少しでも多くの人に見てもらいたいという意味を込めてPART-II〜PART-IIIと股にかけて日本全国縦断ロケも行われている。テレビドラマとしては異例の大規模な地方ロケとなった。
*全体的な構図としては案外ハリウッドお得意の「スペクタクル史劇」が1960年代以降通用しなくなって1970年代における「グランドホテル形式の大災厄物」へと継承されていく流れと重なってくるのかもしれない。ある意味「20世紀の終着点」…
ところで最近、私の過去投稿では「20世紀のヒッピー世代や学生運動世代は如何に21世紀の老害に成り果てていったか?」に関するアクセス数が伸びているのですが…
*重要なカギは1970年代中盤に表面化してきた「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」自由主義のジレンマが、1980年代には「究極の個人主義は全他者の隷従と黙認によってのみ達成される」個人主義のジレンマへとダウンサイジングしていくプロセスとも。
そうした流れの一環としてこうした「太陽族映画からTVドラマ西部警察に至る石原兄弟の足跡」があった事を私達は忘れるべきではないのかもしれません。