諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【不可視の壁】西部劇に登場しない黒人と中国人について。

何故か料理の話が一番盛り上がったという…

19世紀、サンフランシスコの中国人が、主に現地の中国人により支援されることで洗練された豪華な中国料理店の経営を開始した。一方、小規模都市のレストランはポークチョップサンドイッチやアップルパイから豆や卵まで、地元の客の需要に答えた料理を提供していた。これらの小規模レストランはよりアメリカ人の舌にあった料理へと変更を加えていくことによりアメリカ風中華料理を発展させていった。

当初アメリカ風中華料理の購買層となったのは鉱山労働者や鉄道労働者であり、中国人移民は中華料理について全く知られていないような町で新たな小規模食堂を建設し、地域の食材を用いて料理を作り客の要求に応えていた。

次第に、チャプスイのような中国南部の料理が見られるようになり、中国本土では見られないようなスタイルの中華料理が生み出されるようになった。人種差別や、英語の流暢さに劣る点から中国人移民が賃金労働の機会を得ることができなかった時代、中華料理店は(洗濯屋とともに)彼らのような層が小規模な商売を営む余地を提供していた。

投稿の流れとしては、この投稿の続き。

アメリカ風中華料理では、少なくとも1930年代に芙蓉蛋が取り入れられ、卵、野菜、肉もしくは魚介類を混ぜ込んだパンケーキ状の料理が生み出された。また、アメリカ合衆国の地方独自の芙蓉蛋として、ミズーリ州セントルイスセントポール・サンドウィッチがある。これは芙蓉蛋にマヨネーズ、イノンドのピクルス、レタスやトマトをパンに挟んだ料理である。

そして

チャプスイ(中国語: 李鸿章杂碎、英語: chop suey)は、アメリカ式中華料理の一種。広東省台山式の広東料理、炒雜碎(チャーウチャプスイ)がもとになった料理で、モツまたは豚肉や鶏肉、タマネギ、シイタケ、モヤシなどを炒めてスープを加え煮た後に水溶き片栗粉でとろみをつけ、主菜としてそのままあるいは白飯や中華麺に掛けて食す。

苦力として渡米した台山県周辺出身者が食べていた、モツ野菜炒めが変化したものと考えられる。広東語の「雜」にはモツの意味がある。例えば「牛雜」は牛モツ。

清の李鴻章が世に広めたというが、その起源は諸説ある。

  • 美食家の李が友人の家を訪ねた折、友人の妻が鳥を締め、ありあわせの野菜などと煮て出したところ、それが旨かったので李が世に広めた。
  • 李がアメリカに出稼ぎに来ていた苦力を激励に行った折(もし欽差大臣としての訪米時ならば1896年だが)、苦力が煮て食べていたごった煮が旨かったので、世に広めた。この説はチャプスイとの混同か?この頃の苦力ならば多くは広東省台山県周辺の出身なので広東料理発祥となるが、いずれにせよ欽差大臣としての公式な欧米歴訪であり、宮廷料理人も連れ中国から高級食材も持参していたほどで、訪問先で気軽に食事をしたとは考えにくい。

実は李が生まれるよりも120年以上前の1697年に大坂で出版された『和漢精進料理抄』にすでに「唐の煮菜類」の一つとして八寶菜(パパウツアイ)のレシピ(ダイコン、ゴボウ、ニンジン、レンコン、シロウリ、麩、の短冊切りを炒め、醤油で味付けし、汁気の多い炒め煮にする精進料理)が掲載されており、その名はすでに世に知られた料理であったことが知れるが、これの内容や味が、李が広めたとされる料理と同じであったかは不明。

そして

そして

そして

そして

そんな感じで以下続報…