諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「検疫」と「虚数」の思わぬ連続性について。

欧州全土が黒死病による大量の死者に打ちのめされていた14世紀…肝心の病原体を各港に運んだと目されるイタリア商人はそれなりに相応の備えが出来ていた様です。

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検疫(quarantine) - Wikipedia

英語のquarantineは、イタリア語のヴェネツィア方言quarantenaおよびquaranta giorni (40日間の意)を語源としている。これは1347年黒死病大流行以来、疫病がオリエントから来た船より広がることに気づいたヴェネツィア共和国当局では、船内に感染者がいないことを確認するため、疫病の潜伏期間に等しい40日の間、疑わしい船をヴェネツィアやラグーサ港外に強制的に停泊させるという法律があったためである。

日本でも、コレラ患者のいる船を40日間沖に留め置く「コレラ船」という言葉があり、夏の季語となっていた。

ただでさえ当時のイタリアは欧州よりはるかに先進文化を誇る地域でしたが、この様に黒死病の被害も致命的な形では広がらなかった事もイタリア・ルネサンス開花の条件となったのです。

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ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501年〜1576年) - Wikipedia

16世紀のイタリアの人物。ジローラモカルダーノ(Girolamo Cardano)との表記もある。ミラノで生まれ、ローマで没した。一般に数学者として知られているが本業は医者、占星術師、賭博師、哲学者でもあった。

  • 父親はレオナルド・ダ・ヴィンチの友人で数学の才能に恵まれた弁護士であり、その私生児として生まれた。自叙伝には母親が彼を中絶しようとして失敗した、と書かれている。母親は3人の子供を伝染病で失い、それから逃れる為に彼が生まれて間もなくミラノからパヴィアに移った。

  • 1520年にパヴィア大学に入学して医学を学び、後に薬学を学ぶためにパドヴァ大学へと移った。他人にうち解けない気性だったため友人は殆どおらず、大学を卒業してからも長い間仕事につくことができなかった。

  • 最終的には医者となり、後には注目すべき医者として名声を得て彼の意見が裁判所で尊重されるほどになった。1543年にはパヴィア大学の医学教授に任ぜられた。腸チフスの発見者でもある。他にもアレルギー症の発見、ヒ素中毒の研究、痛風と発熱性疾患の治療法の確立などがある。

  • 科学者としては磁気現象と電気現象の区別の確立、カルダノの輪の考察、さらに発明家としてオートキー暗号の考案やカルダノ松明通信の考案、1550年にカルダングリルの発表も行っている。自在継手の考案者であり、自在継手の「カルダンジョイント」という別名は彼に由来する(電車などの「カルダン駆動方式」も、カルダンジョイントを使うことからの名称だが、間接的に彼に由来するものと言える)。

  • 占星術に凝っており、キリストの占いまでしてしまって投獄されたこともある。占星術で自らの死期を予言しており、最後はその当日に自殺したと伝えられる。

自伝によれば多くの本を著したようだが、現在では失われてしまったものも多い。

数学の業績

カルダーノは今日では代数学の業績で最も良く知られている。1545年に著した本『偉大なる術アルス・マグナ、羅Ars magna de Rebus Algebraicis) のなかで三次方程式の根の公式、四次方程式の解法を示した。三次方程式の解の公式についてはいささか奇妙な歴史があり『偉大なる術』にも紹介されている。

  • 当時、習慣的に行われていた数学競技は、問題を出し合っては解くのを競うものであったが、あるとき三次方程式の問題が出された。この頃、三次方程式はまだ完全に解かれておらず、その回答能力で勝負が決まる切り札となる問題であった。これに参加していた一方の人物は、その師よりすでに三次方程式の解の公式を伝授されて無敗を誇っていたフィオルという人で、もう一方はニコロ・フォンタナタルタリア)という人であった。タルタリアはその時点ではまだ解法を得ていなかったが、彼は幸い自らの力でこれを導き、おまけに彼が提示した巧妙な三次方程式は相手には解かれなかった。この公式はタルタリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが絶対公表しないと誓いを立てたのでタルタリアはカルダーノに公式を教えた。しかし最初に述べたようにカルダーノは自著でこれを公表したためにタルタリアは怒り、カルダーノと長い論争をすることになる。

  • 四次方程式の解についてはカルダーノの弟子であったルドヴィコ・フェラーリが解いたものである。どちらの式もこの本で広く知られるようになった。これらの業績は他人のものだが、三次方程式の解を示す際に世界ではじめて虚数の概念を導入したのはカルダーノである。

  • もう一つ重要なのは、カルダーノによる解法の公表が数学史上の転換点に当たっていることである。フォンタナもそうだったように、当時数学的知識は師から弟子へと口伝されるような秘術の一種であり、いまだ近代的な学問としての体をなしていなかった。カルダーノの『偉大なる術』の発表は、数学が共有される知である学問として自立を始めた端緒ということができ「古い数秘術」であるフォンタナを牽制する目的もまたあったと考えられる。

金遣いが荒いことで知られており、本人は自身を賭博者、あるいはチェスのプレーヤーだと考えていたようである。しかし数学者らしく、1560年代に『さいころあそびについて』(Liber de ludo aleae、発行されたのは彼の死後1663年)を著し、そのなかで効率的なイカサマの方法として、はじめて系統的に確率論について触れて記している。「ギャンブラーにとっては、全くギャンブルをしないことが最大の利益となる。」という言葉も残している。

偉大なる術アルス・マグナにおける複素数

彼はこの本の中で世界で初めて虚数の概念を登場させた。以下の問題が登場する。
足して10、掛けて40になる二つの数はなにか
これは従来「解なし」であるが、この本の中では

5+sqrt(-15),5-sqrt(-15)

が答えだと書かれている。虚数があれば答えのない問題にも答えを与えることができると示している。

現在の複素数とは考え方が違う。

#統計言語Rによる計算例
5+(0-15i)+5-(0-15i)
>10+0i
 (5+(0-15i))*(5-(0-15i))
> 250+0i
 (0-15i)*(0-15i)
>-225+0i
#ちなみに複素数の符号が逆でも同じ答え(共役)
5+(0+15i)+5-(0+15i)
>10+0i
 (5+(0+15i))*(5-(0+15i))
>250+0i

 (0-15i)*(0-15i)
>-225+0i

歴史のこの時点においてはscrt(2)^2=2となる感覚でscrt(-15)^2=-15となる数字だったのである。

当時多くの数学概念が地中海世界よりもたらされましたが「虚数」の概念だけは欧州で発明されたものだった様です。そして…

ラファエル・ボンベリ(Rafael Bombelli、1526年〜1572年) - Wikipedia

ボローニャ生まれのイタリア人数学者。代数学の論文を書き、虚数の研究の中心的な人物となった。

  • 虚数に関わる諸問題を最終的に解決した1人である。1569年、シピオーネ・デル・フェッロとニコロ・フォンタナ・タルタリアの方法を用いて方程式を解いて、+i-iを導入し、それらが代数学でどのような役割を果たすかを示した。

  • 平方根を求めるのに連分数を用いた。この方法はアレクサンドリアのヘロンやアルキメデスの方法と比較される。

月のクレーター、ボンベリは彼の名前に由来している。

虚数 - Wikipedia

実数ではない複素数のことである。ただし、しばしば「虚数」と訳される英語の "imaginary number" は「2乗した値がゼロを超えない実数になる複素数」として定義される場合もある。iまたはjで表される虚数単位は代表的な虚数の例である。

1572年にラファエル・ボンベリが虚数を定義したが、当時はゼロや負の数ですら架空のもの、役に立たないものと考えられており、負の数の平方根である虚数はなおさらであった。

ルネ・デカルトも否定的にとらえ、1637年の著書『La Géométrie幾何学)』で「想像上の数 (nombre imaginaire)」と名付け、これが英語のimaginary numberの語源になった。

その後、レオンハルト・オイラーカール・フリードリヒ・ガウスを経て次第に数学者の間で受け入れられるようになっていく。

1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンは、複素平面にもうひとつ虚数軸を付け足して3次元に拡張することを試みた結果、さらにもうひとつ虚数軸を付け足して得られる四元数の集合が自然な体系であることを発見した。

 それにつけても、やはりこういう局面で名前が上がるのはパドヴァヴェネツィア)と「古都ボローニャなんですね。

そして戦乱が有識者を離散させるのです…