諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「角砂糖の発祥地」チェコの産業革命

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どうも日本では英国以外での産業革命の進行が故意に黙殺されてる気がします。まるで復古王政全盛期、産業発展を恐れる王侯貴族の目が届く範囲が置き去りにされた事実を指摘されるのを恐れるかの様に…

砂糖はチェコ語でcukr(ツクル)と言いますが、角砂糖(kostkový cukr)がチェコ生まれとご存知でしたか? 170周年を記念した2013年1月23日のチェコ語の記事にそう掲載されていました。

Brnoから西へ100kmほどのところにKostelmí Vydříという村があります。ここで1829年からGrener兄弟が小さな製糖工場を始めました。初めはイタリアのトリエステより砂糖黍由来の砂糖を輸入していたのですが、その後モラヴィア産のビート由来砂糖精製に成功したのです。1932年、砂糖の原料となるビートが不足したので隣村のDačiceに移りましたが、1839年にビジネスが上手く進まなくなり、スイス系オーストリア人Jakub Kryštof Radが新社長として招聘されて辣腕を振るいます。このRad氏の主導下で工場拡張、新機械の導入、町で始めての蒸気機関の導入などが行われました。

ところで当時砂糖はこんな固まりで販売されていたのです。

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これから必要な分量をナイフで削り取って使用していたのです。しかし1841年の夏のある日、このRad氏の奥さんのJulianaさんが砂糖を削り取る作業の合間に指を切ってしまいます。そして「もう手を切らないでいい様に何か良い方法を考えて」とRad氏に頼んだのです。その結果としてその年の秋に誕生したのが角砂糖でした。奥さんが最初の角砂糖を手にしたのが怪我から2〜3ヶ月してからの事。1842年末にはウィーンで販売特許の申請が行われ、1843年の1月23日にこれが通り、その後すぐにウィーンで「紅茶用の砂糖(čajový cukr, thee-zucker)」として販売され始めました。

Rad氏は1846年に社長職を退いてウィーンへと戻りましたが、Dašice村には1983年に記念碑が建てられたそうです。チェコではこの角砂糖の誕生秘話は「奥さんへの愛から生まれた」話として語り伝えられています。

トリエステオーストリアが地中海への出入り口に使っていた主要港。

一般に「遂に産業革命が起こらなかった国」とされてるスペインですら、古くから地中海交易網に組み込まれてきたカタルーニャ地方では1830年代には蒸気機関が導入されていました。もちろん機械制工場工業なんて導入してからの方が大変で、貧富格差が広がったり公害問題が浮上してきたり好不況に振り回されたり様々な社会問題を併発したりもするのですが…

カタルーニャとバルセロナの歴史概観

この「周辺からの虫食い的侵食」って状況が何だか江戸幕藩体制開闢後の百年で(戦国時代に楽市楽座を通じて全国の大名と癒着関係を構築してきた)御用商人が(参勤交代を円滑に行う為に全国規模で交通網が整備されたのを利用して各地の富商や富農が結びついた)株仲間に駆逐されていった景色を思い出させます。

金になる養蚕や機織や製紙の技術を求めて命懸けの産業スパイ合戦が繰り広げられる物騒な時代でもあった様ですが、最終的に権力者が自らが主体となっての統制を諦め「現場の自主性」に敬意を払わざるを得ない状態に追い込まれていく展開自体は同じ。

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それにしても、どうしてウィーンで売り出された「世界最初の角砂糖」が紅茶用? どうしてコーヒー用じゃなかったの?

ウィーンのカフェ文化

言い伝えによると、1683年、包囲攻撃に失敗したトルコ軍が撤退した時に、大量に残されていたコーヒー豆の入った袋を、ウィーンの人々は戦利品として手に入れました。スパイとして宮廷に雇われていたイスタンブール生まれの人物がその豆を利用して、1685年にウィーンにカフェを初めて開業し、真のコーヒーの味を市民に伝えたのがウィーンのカフェ文化の始まりだと言われています。

英国の紅茶文化

紅茶は中国で生まれた飲み物であるが、全くなじみのない不思議な色や香りのするものがイギリスの国民に受け入れられたのは、紅茶がヨーロッパの歴史上初めて、酒類以外に衛生上安心して日常的に飲め、酔っぱらうこともなく、男女ともに楽しめる飲み物だったからである。紅茶が普及する前は、主にビールが飲まれていた。水やミルクなども飲まれていたが、水は不純物が混じっていたり、伝染病の原因になったりすることもあり、ミルクは腐りやすく危険な飲み物であった。紅茶にはビタミンやカフェインなどが含まれており、消化を助け、ビタミン類を補い、体の調子を整えたりする効果などがあり、当時の人々はこのような効果も重視しており、紅茶はイギリスの人々に飲まれるようになった。

貿易がもたらした欧米諸国でのお茶の歴史

イギリス人が紅茶を好んだのは、脂肪やタンパク質の消化を促進する発酵茶の作用を体験的に知っていたためといわれています。

 まぁこの種の嗜好品はどの国でもまず王侯貴族や聖職者の間にステイタスシンボルとして広まり(コーヒーや紅茶は概ね17世紀末〜18世紀)、次第にブルジョワ階層や庶民階層に真似されていくもの。ただチェコにはチェコ固有の条件が色々ある様で。

カテリナ・シピロホヴァー「チェコのお茶文化」

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ハーブを採取してハーブティーを飲む習慣自体はチェコに古くからありました。薬用効果はもちろん、チェコの冬はとても寒かったからです(英国と違ってチェコティー・タイムは5時から始まります)。18世紀の薬局では茶葉が売られていました。ある記録によればRytířskáの薬局は中国からそれを輸入し、繻子の箱に入れて売っていたとか。オットー百科事典には「お茶のビスケット」なんて料理も掲載されています。中国や日本やインドからの輸入茶が本格的に入ってきたのは19世紀以降です。

1848年にはプラハで暴動があり、チェコ人はオーストリアのヴィンディシュグレーツ将軍と戦いました。カレル橋に敷設されたバリケードでは大男が反逆者達にお茶を配って回ってました。無政府主義者のミハエル・バクーニンです。

初めて喫茶店が開店したのは1908年、プラハのVýstavištěで開催された展覧会の会場においてです。それを手掛けたHlouchovi兄弟は大の日本好きでした。そこにプラハで一番有名な公民館Lucerna(常に沢山のパーティやコンサートが開催されている)の建築家Václav Havelが訪れ「展示会が終わったらこの喫茶店をLucernaに移したい」と申し出たのです。その喫茶店の名前は「横浜」。日本女性と中国女性が働いており、客はお茶だけでなくビールなどのアルコール類も楽しむ事が出来ました。

ここでまさかの「破壊の情熱は創造への情熱である」発言で御馴染みのバクーニン(Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年〜1876年)…ちなみに翌年にはドレスデン暴動(1849年)を扇動。唆された作曲家ワーグナーはスイスへの亡命を余儀なくされ、本人も現地で逮捕されてしまいます。その後ロシアに移送され、サンクトペテルブルクのペトロパブロフスク要塞に収容されて1857年まで獄中生活を送った後でシベリア流刑となるも1861年に脱走して日本とアメリカ経由でロンドンへ逃れ、以降も革命運動を続けます(「国家制度とアナーキー」や「神と国家」といった主著が1870年から1876年の間に執筆されている)。プロレタリア独裁に反対し、マルクスと衝突した事でも有名。

貿易がもたらした欧米諸国でのお茶の歴史

ロシアには16世紀後半ころからモンゴル経由で喫茶の習慣が伝わったとされ、1689年のネルチンスク条約で対中国交易開始以降、団茶が貴族階級で飲まれるようになりました。その後の1847年に、ロシアで茶栽培が開始され、1930年代にはグルジアで本格化し1985年には年産15トン(緑茶が4割)を誇りましたが、チェルノブイリ原発事故以降すっかりすたれてしまいました。しかし1993年には2万トンとなり、世界の紅茶相場に大きな影響を及ぼしています。

そういえばロシアも「茶」文化圏でしたね。 とはいえ流石に「砂糖」までは届いていなかった様です。ロシアン・ティーといえばジャム…

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ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

Beta vulgarisの栽培自体は紀元前6世紀頃から行われていた。ただし、それは葉を食用とする野菜としてだった。今日でもフダンソウなどリーフビートと呼ばれる葉菜用品種が各地で栽培されている。次いで根の肥大した根菜用品種であるテーブルビートが分化し、さらに根部が肥大した飼料用種が栽培され始めたのは15世紀である。

砂糖用のテンサイが栽培され始めたのは、1745年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ (1709-1782) が飼料用ビートから砂糖を分離することに成功してからである。その後、マルクグラーフの弟子であったフランツ・アシャール (1753-1821) が砂糖の製造試験に成功し、1802年には製糖工場を建設し、工業化への道を開いた。

甜菜糖の普及に一役買ったのがナポレオン・ボナパルトの奨励(1811年)である。1806年から1813年の大陸封鎖による影響で、ヨーロッパへ砂糖が供給されなくなったので砂糖自給を目的としてヨーロッパ各地に甜菜糖業が広まった。1832年には甘蔗糖業にはじめて真空結晶缶が使用されている。そして1837年に遠心分離機が発明され、1844年以降製糖業に導入された。概ね基礎が固まったのがこの頃。

 結論としては以下の3択かな?

  • 最初から英国市場狙いだった。
  • チェコが茶文化圏だったからそれ向けとした。
  •  アメリカ人が英国への反感からコーヒーに走った様に、チェコ人がオーストリアへの反感から茶に走ったから。

そもそも「角砂糖」って、考え様によっては英国砂糖業者への死刑宣告になったかもしれないキラー・コンテンツなんだよね。当時の状況を考えると…

ochimusha01.hatenablog.com

ただ悲しい事に当時のチェコは独立国ではなく、オーストリアハンガリー二重帝国の一部に過ぎなかったのです。 

以下のHPによれば、概ね通史の当時の部分はこう把握されている模様。

チェコスロバキアの産業革命

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1848年 二月/三月革命1848年〜1849年)に際してパラツキーがプラハスラヴ人会議を開催してチェコ人の汎スラヴ主義が提唱される。

フランティシェク・パラツキー(František Palacký、1798年〜1876年)

19世紀に活動したチェコの歴史家、政治家。チェコで流通している1000コルナ紙幣に肖像が使用されている。

ホドスラヴィチェ(Hodslavice)の学校教師の家に生まれ、1812年からプレスブルクに送られ最初の教育を受ける。1823年からプラハに定住し、そこでヨセフ・ドブロフスキーと出会い、親交を深めた。プラハに設立されていた民俗博物館の機関誌『国立民族博物館 Časopis Národního muzea』を1827年から発刊することになり「ボヘミア民族を死からよみがえらせる」試みとする。1831年に文化団体「Matice česká」を設立。その頃からボヘミアのあちこちにある城館の文庫を利用して主著となる「ボヘミア史 Geschichte von Böhmen(1836年〜1867年)」の執筆に着手。

1848年の2月革命に応じてプラハで開かれたスラヴ民族会議では議長を務め、ウィーンの立憲議会に選出された。4月にはフランクフルト国民議会の準備議会にもオーストリア代表として選ばれたが「フランクフルト議会は一度もドイツに所属したことがないチェコ人をドイツ圏内に引き入れるのを目的としている」と指摘し、招聘を辞退。一方5月にオーストリアの文部大臣の職に就くよう要請されたがドイツ系住民の反発を考慮してこれも辞退している。すでに知名度が高く、その政治家としての去就が注目を集めていたのでスラヴ人とドイツ人の間でバランスをとらねばならなかったのである。革命の勢いはさらに強まり5月末にはプラハで臨時政府評議会が設立され、これに参加した。ここでのパラツキーの役割は汎スラヴ主義の過激派をおさえることにあり、オーストリアを盟主とした連合国家を志向してその国家のための憲法草案まで起草したが、6月12日に起きた非武装の急進派によるデモをきっかけとしてオーストリア当局の干渉を招き、チェコの立憲運動は中断された。その後もパラツキーは自分の影響力をチェコ文化の確立のために捧げ続け終身貴族とされる。

その歴史哲学はカント哲学の影響を色濃く受けていた。人間性を信じ「民族」とは人類の一体化という目的のための一手段に過ぎない、とも説いている。彼の祖先はアウクスブルク信仰告白によってルター派に改宗する以前はモラヴィア兄弟団に所属していた。それでその精神的伝統にカントの「至上命令」に関する教えを結びつけた。すなわちチェコ宗教改革の意義は、神学上の変更にはなく道徳上の進歩にある。モラヴィア兄弟団においてカトリックプロテスタントの教義は相互に浸透し合い、キリスト教はこれまでで最高の水準に達した。モラヴィア兄弟団は歴史的発展の終局点である、と彼は考えたである。オーストリアの検閲に苦しみながら執筆した「ボヘミア史」では、カトリック系出版物では野蛮な狂信者としてしか描かれる事のなかったフスやジシュカやプロコプといったチェコ宗教改革の闘士達を復権し、チェコ人よりも敵の残虐さが甚だしかった事を示した。最初はドイツ語のみで書かれていたが、1848年以降はチェコ語でも読める様になり、その事自体が後のチェコの歴史家たちを励まし、ヴァーツラフ・トメク(Václav Vladivoj Tomek)といった弟子達を育ててきた。

19世紀後半 炭田の多いボヘミア地方にドイツ系資本が入り産業革命導入が始まる。蒸気機関の全面的な導入が石炭生産の急激な増産を招き、農業、食品産業、とくにビールと砂糖の生産が好景気に沸く。やがて中央ヨーロッパ有数の工業地帯が現出した。機械化された工場における大量生産が主要生産部門において手工業生産や職人的小規模生産を圧倒し始め、中小企業が近代化され拡大する一方で新企業が成長。数年のうちに鉄道の路線も異常なほど発展を見せる。

1862年〜1872年 チェコ地方にはほぼ百の新しい製糖工場が生まれた。

1867年 アウグスライヒ(和協)によってオーストリアハンガリー二重帝国が成立。ブルジョア憲法改正が実施されると経済繁栄がピークに達したが、その推進役はあくまでオーストリア・ドイツのブルジョアジー達であり、平等化政策の枠外に置かれたチェコ人はますますロシア主導の汎スラヴ主義に接近する。その一方でチェコブルジョワジーも相応には外国資本と争った。生産の好況は商品流通量の急上昇につながり、資本集積と融資需要が新たな銀行や貯蓄銀行の設立熱を誘発する。
*その一方ではアウグスライヒ以降、スロバキアにおいて全体的にチェコより発達が遅れていた学校教育のハンガリー化が推進している。その背景にはオーストリアブルジョワジーに対抗心を燃やすハンガリーブルジョアジーの姿があった。その一方でハンガリーの工業生産はアウグスライヒ後の最初の10年、特に目立った動きを見せてない。脆弱な現地ブルジョアジーは80年代初頭になってやっと西側企業との競合の少ない産業部門で発展を開始。ただしあくまで全体としては小さな役割しか果たせなかった。その後金融事業に乗り出し、投資グループを組織。

1869年 商業銀行(ジヴノステンスキー・バンカ)が誕生して小規模な市民的預金機関を配下に置いてたちまちチェコの代表的商業的融資機関となった。同年、ヤクプ・フスニークが凸版印刷術を発明(凹版印刷術が発明されたのは1878年)。
*平版印刷の始まりはドイツのセネフェルダーの石版印刷(リトグラフ)発明(1798年)とされる。1800年にはイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製の印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。1811年にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、1851年には輪転印刷機が発明された。こうした機械化によって、印刷物はより速く大量生産でき安価なものとなる。現在主流となっている平版オフセット印刷は、1904年にアメリカのルーベルが発明したといわれているが、それ以前から既にイギリスではブリキ印刷の分野で使用されていた。ルーベルの発明はいわば紙への平版オフセット印刷だったのである。

1871年 プラハ株式取引所開設。1960年代末から1970年代初頭にかけての経済絶頂期、ブルジョアジーの富と産業/農業方面のプロレタリアート数はますます増大した。多くの貧困化した職人、家内工業従事者、また零細農民達が工場や炭鉱、建築現場、大地主の農園へと引き込まれている。工場の誕生とそこへの労働者の急速な集中はまた産業都市住民の急増と慢性的な生活危機を生み出した。
*そして1876年にはオーストリアハンガリー二重帝国に内に統一的度量衡体系が導入される。


1873年〜1964年 大不況。生産過剰が捌け口を失った在庫の山を築き、経済危機が新たな経済発展に始まる1879年末まで続いた。多くの企業が破産し、たとえそれを免れても長期間に渡って深刻な生産制限を余儀なくされた。回転資金に余裕のあって高価な近代的機械の導入も容易な大企業や銀行が圧倒的に有利な状況で、経済不況下での自由競争に敗れた中小企業を次々と併呑していく。同時期には大農園もまた貧困化した中小農民の土地を次々と手中に収めていく。 
*この辺が「英国や日本の様な割と素直に産業革命導入に成功した国々」では見られなかった景色となるのかな?

  • 失業率はかつてないほどの規模に到達し、多数のチェコ人家族が国境周辺に仕事を求めて殺到するとドイツ人の運営する町役場がチェコ人向け小学校を開くのを懸命に防止しつつ、チェコ人の子供達がドイツの学校に通うように強制した。
    *これは特に北チェコオストラヴァの炭鉱地帯でひどかった。

  • 当時の労働環境はただでさえ過酷で、国家による労働の保護、労災保険、健康保険、老年保険などは一切なし。工場では日に12時間〜14時間働き、若い労働者でさえ10時間〜12時間労働を要求された。工業機械の危険防止設備は不十分で、そばで働いていると頻繁に傷害事故が起こった。

  • 当時の労働者は途方もなく貧しく、住宅、食糧、衣服の事情全てが最低だった。大家族の労働者家庭は一部屋だけの湿った、暖房もない薄ぐらい部屋で生活していた。大農園や裕福農民の農場の農業労働者は家畜小屋での寝泊りを強いられた。その食事はほとんどがうすいスープとジャガイモと代用コーヒーだけで、結核や骨軟化症、貧血症、疫病に蝕まれる者も多かった。その子供達も幼い頃から賃仕事に行かされ、きちんと学校に通う事はなかったのである。
    *この面では農村の特に農業労働者達の事情が最もひどかった。

「代用コーヒー」…コーヒー豆以外の原料を使いコーヒーに似せて作られる飲み物。原料としてはタンポポの根、ジャガイモ、カボチャの種、大豆などが使われる。

*ただフランスの様に革命期、植民地が独立してコーヒーが全く入ってこなくなった結果、チコリの実で代用コーヒーを作ってみたら案外いけてそのまま独自の飲み物として定着してしまった例もある。

*そもそも茶文化圏なのにどうして「代用コーヒーの悲惨さ」を説くのか。それ実はハーブティーの一種に過ぎなかったのではなかろうか? 

チェコ人のアメリカ移民人口移動

チェコ人のアメリカへの大規模な移民は1850年代に始まった。スロバキアの移民は1860年代からである。「あっという間に大金持ちになる」という夢に誘われた人達の他に、大資本企業の繁栄から締め出された専門職の見習職人、親方、百姓達が祖国を捨てた。彼らは旅費を得るために、あらゆる自分の財産を売り払わなければならなかった。さらに大洋航路の船の三等船室には、旅費は海の向こうに着いてから働いて返すと運輸会社の代理人に約束した人々が殺到したが、彼らの多くは長期間に渡って鉱山や農園や、あるいは港のドックで最も苛酷な労働を引き受けなければならなかった。

それ以前に19世紀前半から大勢のチェコ人やスロバキア人が仕事を求め、オーストリアの主にウィーンへ出掛けていた。1900年のウィーンではチェコ国籍と名乗り出た人数だけで10万人。しかもそれでさえ全体のごく一部に過ぎなかったと考えられている。

スロバキアの山岳の住民たちは、小さな畑くらいでは家族を養うことができなかったので、春に材木を川に流してハンガリーの低地にくだり、そこに夏のあいだハンガリーの大地主の農園で農業労働者としてすごしていた。さらに貧しい大勢が家々を訪ね歩く行商人、あるいはもっとも僅かな手間賃で働く職人として遠い世界に出ていった。

19世紀後半にはチェコ人やスロバキア人の建築労働者がウィーン、ブダペストハンブルク、その他のヨーロッパの大都市の建築現場に存在した。

チェコ領部だけで何十万人もの人々が移動したが、彼らのほどんど大部分が労働者か、または労働者になった農民たちだった。ブルノ、リベレッツ、プラハ、プルゼンスコ、オストラフスコといった産業中心地において彼らは次第に労働者階級を形成していった。

1880年 この年に制定された法律で工場検査官や傷害および健康保険制度が導入されると、特に中小企業において雇用主側の反対に出くわした。

1914年〜1918年 第一次世界大戦。後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると民族自決の理念のもとチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にトマーシュ・マサリクが就任。このときにボヘミアモラヴィアハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配しスロバキア人と対立。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。

1930年代 世界第7位の工業国となった。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲。1939年にはボヘミアモラヴィア保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。

1939年〜1945年 第二次世界大戦。その後、共産党政権下で中央集権的な計画経済から市場経済への移行を達成。もともと旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化。

どうも共産主義時代の発表っぽいですね。完全に「資本主義は一刻も早く滅ぼすべき絶対悪」とする立場から執筆されています。確かにその立場に安住する限り貧富格差を大きくする経済発展からも無縁で入られるのですが…

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ベルギーの産業革命も発展に随分と外資の力を借りてます。どうしてこんなに差がついてしまうんでしょうか…まぁこっちはこっちで「ワロン人VSフランデレン人」みたいな対立がありますが…

一方英国の大ブルジョワはジェントルマン階層入りを目指す事が多く商業投資にあまり貪欲ではなかったとされています。

工業発展の鍵は一般に関税自主権と、それに実効性を与える適切な内容の国土といわれています。国内産業が未熟なうちは関税を上げて競合相手から守り、国際競争力がついたら関税を下げて打って出る…日本や英国はそうした条件を天然で満たして他ので最初から有利だったとも。

さて私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか?