諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

選ぶべきは「安定性」それとも「跳躍の可能性」?

http://topics.blog.suntory.co.jp/mt4img/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%A3%BD%E5%93%81%E7%94%BB%E5%83%8F.JPG

フランスの大貴族連合が国王の中央集権強化に反対した公益同盟戦争(1465年〜1477年)。しかし何故かブルボン家だけは改易や取り潰しを免れます。盟主格だったにも関わらず。そこから「当時のブルボン家は、ヴァロア家にとっての御三家的立場ではなかったか?」と推測する向きもある様です。しかし実際に王統交代が起こったのは16世紀後半。決め手となったのも「プロテスタントの家系ながらカソリックへと改宗してフランス国王となり、ナントの勅令(Édit de Nantes、1598年)を発布した事が国内における宗教対立の緩和に役立った」「メディチ家の後援を得た事で財政的に安定した」といった具合で、連続性を見出すのが大変困難です。

一方日本の「御三家」「御三卿」というシステムに目を向けると…どうして「フランスの御三家」オルレアン家が「暴走」してしまったのか一発で明らかとなる訳です。

  • 一個では少な過ぎた(ライバルが多いと相互牽制効果が現れる)

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-71-de/crazy_tombo/folder/1000405/67/41596367/img_0

  • 血統的優位と経済的優位を反比例させるべきだった(主家が最初から最も富裕なら、そもそも最初から序列についての疑問が湧く事もない)。

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まぁこうした「日本式」には確かに安定感があります。ただ、それゆえに「変革が起こらない(起こせない)」という問題点も抱えていたりする訳で。ただ経済発展には政治的安定が不可欠という側面もある訳で、このあたりの兼ね合いが難しい?

 尾張徳川家 - Wikipedia

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徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式

徳川家康の九男徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際には家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後には御三卿が創設された影響もあって、結局尾張家からは将軍を出せなかった。

藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であった。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。

支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年に尾張徳川家、1801年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し[2]、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返して現在に至っている。10代から13代まで吉宗の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は14代慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。


明治維新後は華族に列し、侯爵を授けられた。越前松平家から養子に入った19代当主徳川義親は、財団法人尾張徳川黎明会(現・徳川黎明会)を設立し、旧大名家の中でもいち早く宝物の保護を図った。1935年、愛知県名古屋市東区尾張徳川家の別邸跡地に徳川美術館を開いた。徳川美術館では、源氏物語絵巻をはじめとする尾張徳川家伝来の貴重な文化財を保存し、公開している。

紀州徳川家 - Wikipedia

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江戸時代に紀伊国伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。

徳川家康の十男徳川頼宣を家祖とする。頼宣は、慶長8年(1603年)に常陸国水戸藩主に封じられるが、水戸には赴かないままに慶長14年(1609年)駿府藩主となり、さらに元和5年(1619年)紀州藩主(和歌山藩主)となった。以後、子孫は歴代の紀州藩主であった。常陸介に叙任されるのは、家祖頼宣が元服した慶長11年(1606年)に水戸藩主であったことに係る。第5代藩主吉宗と第13代藩主慶福が、それぞれ第8代将軍徳川吉宗、第14代将軍徳川家茂となっており、御三家のうちで征夷大将軍を出した唯一の家である。

支家(御連枝)で2代以上続いた家系は伊予国西条藩の西条松平家のみであるが、吉宗が徳川将軍家の後嗣に入り、新たに御三卿田安徳川家一橋徳川家、のちに清水徳川家が加わる)を創始したことによって紀州家の血筋は大いに繁栄した。吉宗以降の将軍家・御三卿からさらに大名家に養子に出た者も非常に多い。


明治維新後は最後の藩主茂承が華族に列し、侯爵を授けられた。戦前の紀州家は日本でも屈指の富豪といわれ、戦後も第16代当主徳川頼貞参議院に2期連続当選を果たすなど存在感を示した。しかし、頼貞の生前の散財に加え、頼貞が1954年に没した後に借金返済のために遺族が興した事業が次々と失敗に終わり、さらに家庭内のスキャンダルも重なったため、戦後はマスコミの格好の餌食となった。

なお、頼貞の嫡子である頼韶が1958年に42歳で死去して以降は、家名は頼貞の妻や娘の女系によって名目上は保たれているが、旧侯爵家としては事実上の断絶状態にあるとする記述も見受けられ、またいわゆる十八松平の子孫で構成される徳川・松平一門の会にも、現当主宜子(19代)は会員と認められていないとの説もある。『平成新修旧華族家系大成』下巻でも、紀州徳川家の当主の名は空白となっている。

ただし、『朝日新聞』2009年10月1日夕刊「人脈記 お殿様はいま 8 「家風」それぞれ徳川御三家」では宜子が紀州徳川家当主としてインタビューを受け、「いつの頃やら、何か自然発生的に、気がついたら、独身の私が当主におさまっておりました」「この先、紀伊家がどうなるかですって。それはもう、自然の流れにお任せするしかないのかな、と思っております」と語っている。また『週刊朝日』2015年1月16日号に掲載された、徳川宗家および御三家の当主による座談会に宜子が加わっており、少なくともその時点では、宜子が宗家から紀州家当主として黙認されていることが確認された。

なお、西条松平家明治維新後に最後の藩主頼英が子爵を授けられた。頼英は高松松平家から迎えた養子頼和に紀州宗家の茂承(頼英の実弟)の娘を娶せ、以後も女系を通じて血筋を保ち存続している。

水戸徳川家 - Wikipedia

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常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。

徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩(現在の茨城県中部・北部)を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。

徳川宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であることから正式には御三家ではなかったとする説もある。紀州藩の史料である『南紀徳川史』でも頼房が徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)7月とし、それまでの33年間は「名字定まらず」となっており、ある時期まで紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。また、水戸家は家格の点でも徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。

大納言を極官とする尾張家・紀州家から見ると、水戸家はその一段下の官位である権中納言にすぎず、石高が低かったことなどから知行的に負担を与えられた。尾張家・紀州家より「格下の家柄」とするのが一般の認識であるが、水戸家の領地は江戸に近く、また常陸国延喜式における大国かつ親王任国であること、支家の中に高松藩12万石という徳川御連枝の中では破格の禄高の家系(高松松平家)があり、他にも3つの支藩が存在するなどの事情を考慮すると、総合的には上位とされる2家と同等であるとの説も存在する。

水戸家当主は参勤交代の対象外であり、江戸定府とされて基本的には国許に帰国することはまれであった(藩主側近も江戸詰めであったため、国許の家臣と江戸詰め家臣では立場も環境も異なっていた)。「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」定めであったとする俗説も伝えられている。なお、9代藩主斉昭の子で一橋徳川家に養子に入った慶喜が15代将軍となることによって、江戸幕府最後の将軍を出すこととなった。しかしこれは血統的な視点であり、加えて慶喜自身は水戸家の当主になっていないことから、御三卿の一橋家から将軍を出したと見た方が無難である。

親藩の御三家でありながら水戸学を奉じる勤皇家として知られており「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。

歴代当主は比較的長命で、無子の者も少なく、江戸後期には他家へ多くの養子を出している。例えば尾張藩徳川慶勝会津藩松平容保の兄弟は、水戸家から尾張家連枝の高須松平家に養子に入った松平義和の血筋である。

藩主として特に有名なのは、第2代藩主光圀(義公)と、第9代藩主斉昭(烈公)である。光圀は修史局彰考館の創設、及び紀伝体の史書『大日本史』編纂において、斉昭は藩校・弘道館及び偕楽園造成者として、あるいは最後の将軍の父として、それぞれ当時から著名であった。

明治維新後は華族に列して侯爵を授けられ、さらに公爵にのぼった。13代当主圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。1977年、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館を開き、その保存・展示に努めている。

支系(御連枝)は、讃岐国高松藩の高松松平家陸奥国守山藩の守山松平家常陸国府中藩の府中松平家常陸国宍戸藩の宍戸松平家の4家を数える。水戸徳川本家も含めて相互に養子のやりとりはあったものの(ただし尾張紀州と異なり、支藩の藩主を経て本家を継いだ水戸藩主はいない)、いずれもそれ以外の他家から養子を迎えることはなく、現代まで頼房の血統で続いている。また江戸時代中期以降、宍戸家を除く3家やそのさらに支家から、多くの養子を他家へ出している。血統上、上述の高須松平家会津松平家のほか、紀州家連枝の伊予西条松平家、御家門の越智松平家、さらに幕末以降現代までに徳川宗家・徳川慶喜家・一橋家・清水家と、大半の徳川家や御連枝の家系が頼房の男系子孫となっている。旧華族の徳川姓諸家のうちで創始から一度も頼房の男系子孫の相続がなかったのは、紀州家と田安家の2家のみである。

なお、支藩ではないが3000石の家老格の支族として、頼房の八男・松平頼泰の家系が幕末まで続いている。松平頼譲のときに長倉陣屋に移ったことから、長倉松平家とも呼ばれる。他の支族(支藩以外)は幕末までに途絶している。その他、水戸本家や支家から附家老中山家以下、陪臣の家系(山野辺家、雑賀鈴木家など)を継いだ者が、頼房の子の代以来、数多く出ている。

御三卿 - Wikipedia

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江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家で以下の三家を指す。

田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗次男

一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)

清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重次男

徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担った。また、徳川御三家へ後継者を供給することにもなった。


第8代将軍徳川吉宗次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家を立てたのが御三卿の起こりである。さらに、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、自身の次男・重好を別家として取り立てたことで、三家の体制が確立した。家格は徳川御三家に次ぐ。ただし吉宗は当初子供を大名の養子へ出す構想を持っていた。

三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる例であったから「御三卿」といった。各初代当主のうち、宗武が従三位右衛門督、宗尹が従三位刑部卿に任官したことにより2人を「両卿」と呼ぶようになり、さらに重好が従三位宮内卿に任じられて加わり「御三卿」が成立した。姓は徳川(本姓は源氏)であり、田安・一橋・清水の通称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。

第8代将軍徳川吉宗紀州藩第5代藩主)が田安家・一橋家を創設した意図は、尾張藩第7代藩主の徳川宗春との対立を踏まえて、従来から将軍家(徳川宗家)の後嗣を出す役割を担ってきた徳川御三家と将軍家との血縁関係がしだいに疎遠になったことに鑑み、御三家とは別個の親族を将軍家の新たな藩屏とすることにあった。以降、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者を選定することとされた。実際、第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜一橋徳川家から、田安徳川家から徳川家達が、それぞれ徳川宗家を相続している。

江戸時代を通して将軍の家族・身内扱いであったが、明治維新後は新政府よりそれぞれ独立した一家として認められた。明治17年(1885年)の華族令により、3家がそれぞれ伯爵を受爵している。

御三卿の「家」としての性格は、江戸時代の他の大名家とは明らかな相違が認められる。幕府からは各家の当主に10万石が支給されていたが、領地は日本各地に分散して存在しており、これらの領地の支配は独自の代官所によって行われた。 例として、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋など、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋などがある。また、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって当主に付属する形で構成されていた。このように、御三卿は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内として認識されており、社会的にも経済的にも大きく依存している実態があり、独立した藩が置かれることはなかった。ただし、田安家と一橋家の両家は明治元年(1868年)に立藩している。

家政を幕府に委任したことはまた、御三卿の間の対立や幕府内の政争を激化させたという指摘もある。たとえば御三家や甲府徳川家、館林徳川家の当主は他藩藩主と同様に自らの所領と領民を持ち、家臣団を統括して藩政や家政を独自に運営し、かつ尾張紀州両藩の藩主は参勤交代で隔年の参府と領国下向を繰り返さなくてはならない。水戸藩主は常時定府で巷間で「副将軍」と呼ばれたが、それでも領国経営の必要はあり、かつ定府ゆえの紛糾が絶えなかった。しかし御三卿は常時江戸城内にあって、領国経営や家政運営の必要がなく、実質上は何もすることがなかった。しかも江戸城中においては、実際の政治の担い手である老中や大老よりも上位の席次である。このため幕府の政治に黒幕として関与することが可能で、実際それに執着するようになり、その結果将軍の跡目争いの絡む政争が激化したといわれる。
*なるほど、こういう人達が「陰謀家」に変貌する訳である。
「フランスの御三家」オルレアン家の陰謀と三銃士の世界 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
「ベルサイユのばら」と産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


御三卿当主は常に存在しているわけではなく、不在のまま家だけが存続することが許されていたことも、他の家との大きな違いである。これを明屋敷(あけやしき)といった。藩主が死亡して家督相続者を欠いた場合には藩が改易されることが定められていたが、御三卿はそもそも藩ではなく、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕府からの出向という形をとっていたため、家督相続者を欠いた場合でもその家を収公する必要性がなかったからである。

そうした背景もあって、御三卿の当主はその家の相続自体を必然の目的とはしないことも大きな特色だった。したがって御三卿家では庶子はもちろん、嫡子や当主ですら他家への養子に出される[1]ことがあった。さらに松平定信(田安家 → 久松松平家庶流)や徳川昭武(清水家 → 水戸家)などのように、他に適当な養子先があれば、たとえ本家が明屋敷となっても養子先の相続を優先させるという形がとられた。明屋敷となっても、いずれ誰か適当な徳川家の血筋の者があれば養子に入れて家を存続させればよかったからである。このため幕末においては、一橋家の血筋が代々の将軍と御三家・御三卿を含めた親藩のほとんどの当主を独占する一方で、当の一橋家の当主には一橋家の血筋ではない慶喜が水戸家から入っており、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぐという、奇妙な事態となっている。

このように、10万石と家格維持のための支出は、次第に幕府財政を圧迫することとなった。これらの負担の軽減から、田安家と一橋家の両家は、それぞれ田安藩と一橋藩という形で明治元年(1868年)に立藩したが、いずれも翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際に廃藩置県に先立って廃藩となり、両藩主は知藩事には任じられず、家禄を支給されることとなった(田安家は3,148石、一橋家は3,805石)。清水家は、当主昭武が明治元年当時は日本を出国中だった上、帰国後に水戸徳川家を相続して当主不在となり、立藩することはなかった。明治3年(1870年)に清水家の家督を相続した篤守も、家禄2,500石を支給されるにとどまった。

 そもそも欧州では長子相続制の普及がノルマン・コンクエストや十字軍運動と結び付けられていました。北フランスやポルトガルといった先進地域では新たな耕作地を開拓する余地がなくなるのも早かった訳です。その一方で分割相続の慣習から抜け切れなかった神聖ローマ皇帝領内の領邦国家は安定段階に到達するのに苦労しました。

近世に入ると欧州貴族は農場領主として自活を図りつつ、次男以降を常備軍将校や聖職者に就任させ、政略結婚に使わなかった娘達を修道院に押し込める様になります。まぁ同様の事は日本の武将も古くから行ってきました。

一方、江戸幕藩体制の大義名分は(不手際のない)大名の家名存続であり、特に徳川家は間違っても滅亡する訳にはいかないので「御三家・御三卿」の様なシステムが構築された訳です。諸侯の中にも、これを真似て支藩を創設したり潰してきた藩が結構あります。その一方では代々特定の「家」が特定の「役」を継承する「役の体系」が庶民の間にまで広まりました。こちらは意外と血統維持に執着がなく、子弟が後継者となる適格を備えていなかったら養子を迎えるのが当然視される「家」や、そもそも息子が生まれても全部養子や丁稚奉公に出してしまい、番頭同士に競わせて娘の婿養子を決める「商家」まで現れたという次第。

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そして欧州の貴族制度が近代化にさしたる影響を与えなかったのに対し、当時樹立した日本の「役の体系」は思わぬ影響を後世に与える事に…

與那覇潤「中国化する日本:日中文明の衝突一千年史(2011年)」

第一次世界大戦特需は、主として重化学工業に従事する肉体労働に従事する賃金を大幅に引き上げ、ノンキャリア公務員(当時の用語でいう判任官。ちなみにキャリアは奏任官、トップが勅任官)と同等レベルまで引き上げた。これにより大工場でさえ働いていれば基本的には旦那の稼ぎだけで奥さんと子供を食べさせていける「家族賃金」慣行が成立し、統計によっては大正末期(〜1926年)までに日雇い労働者の家庭ですら9割強が専業主婦化していたというデータまである(川東英子「日本的労使関係の源流」)。

結果として江戸時代以降、都市部に流入して長屋住まいを強要されてきた農家の次男三男も結婚して家庭を持つ環境がゆやく整い彼らによる核家族化の形成が進む(坂本佳鶴恵「<家族>イメージの形成」)。戦争と軍需景気が「都会は(不要になった後継者予備たる)孫捨て山」という状況を緩和する事になったのだった。


加えて昭和初期までは月給制のホワイトカラーだけが「うちの社員」であり、日給制で出入りの激しいブルーワーカーは「所詮余所者」扱い(現在の日雇い派遣状態)で退社時に所持品検査や身体検査を受けるなど猛烈な差別が存在した。しかし戦時下の産業報国時代には「同じ職場で御国の為に戦う仲間に貴賤はない」という発想(皇国勤労観)と企業別組合への包摂から会社村の正規メンバーへの認定が定着していく。

この様に見ていくと都心部でも「イエ(核家族)」が構築可能となり、会社や工場の「ムラ」社会化が進んだ「日本式資本主義(室町時代までの「職の体系(土地から上がる収益の多重分配)」が江戸時代の「役の体系」を経て法人組織の基盤となっていく「江戸幕藩体制の再建」)」は前近代までの欠陥を補完した薔薇色のアップデート版と映るかもしれないが、そこには少なくとも二つの盲点が存在したのである。
日本式資本主義…室町時代までの「職の体系(土地から上がる収益の多重分配するシステム)」が江戸時代の「役の体系(事業の構成単位たる「役」を代々それを継承する「家」に割り当てるシステム)」を経て法人組織の基盤となっていく、ある種の「江戸幕藩体制の再建」。

ジェンダー問題…実はこれはナチス政権による「どん底状態にあったドイツ経済奇蹟の復活」なる手品の種の一つ。「男性労働者に家族全員が食べられるだけの給与を保証する事を最優先課題と考える」という認識は、裏を返せば「女性労働者を単なる家系補助要員(生活の面倒は父親ないし夫に見て貰えば良いので、単身で自活出来るだけの給料を支払ってやる義理はない)」なる経営側の感情と表裏一体の関係にあったのである。従って女性の賃金は相変わらず低水準に抑えられ、女性の社会進出は抑制され続ける事になる。これはむしろ「田分者」を軽蔑し女性や次男三男を遺産相続対象から外す前近代的封建主義の伝統残存というより「女も男も一緒に野良仕事」が当たり前で「男は仕事、女は家庭」などという悠長な差別意識が育つ余地もなかった農本主義の時代にも、繊細な作業に向いた女工が繊維産業を支えた’明治期軽工業発展期にも見られなかった「ネオ封建制」の登場と見てとるべきである(ちなみに産業革命期のイギリスにおける労働者は父親も母親も工場勤務なので同居する親世代が家事や子供の面倒を見る分業体制が成立したという。それでは親世代と同居してない夫婦がどうしてきたというと救護院から老婆を引き取ってきて代役に当てていたという)。

ムラ社会」というセーフティネット崩壊に伴う親子心中の急増農本主義社会は複数の「イエ」の共働を前提としているので近世村落には「ユイ」とか「もやい」と呼ばれる相互扶助の慣行が存在していた(14世紀イスラーム世界において歴史哲学者イブン・ハルドゥーンが主張したアサビーヤ(硬直化すると部族間闘争の原動力となる集団内の連帯意識)に該当)。結果として例えば特定のイエに不孝があっても遺族の面倒をムラ全体で見たり、養育棄児(捨て子)を余裕ある他のイエが育てたりする風習があったのである(「子供は共同体全体で育てる」という意識も強かった)。ところが「疑似ムラ社会」たる会社においては同僚に不幸があっても、その妻子の面倒を同僚が見る状況が想像だに出来ない。ましてや女性が自力で稼げる賃金が低く抑えられていた関係から父なし子とともに残された未亡人などとても生きていけない。それで母子心中が急増する事態と相成った。子供を残して死んでも後を託せる共同体が存在しないので「子供を殺して私も死ぬ」という形に追い付けられる女性が急増したのだった(岩本通弥「血縁幻想の病理」)。

かくして家父長制的生活保障システムの限界にいち早く気付いて代替システムの模索を始めた英米と、ムラ社会化した企業と旧来以上に再強化された「イエ」に己を託した日独の対応は極めて対照的なものとなった。
* ドイツにおける展開も家父長制の強いクルップ社の企業風土「ヘル・イム・ハウゼ(Herr im Hause:家の主人)」思想や、工業団地に入植させた労働者の家族に家庭菜園や家庭牧場を営ませて失業期間も囲い込む独自制度の発達など興味深いのだがここでは割愛。

ちなみに国際的には「欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実と、この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」「世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済」「冷戦発生に伴う世界の二分化」を結びつけて考える仮説も存在する(総力戦体制論)。そしてこの仮説では「現在は既にその軛から脱してはいるが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。
世界革命志向と国家主義志向の衝突日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働に該当。
世界恐慌発生に伴うブロック経済…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座の展開。もちろんスケールメリットを追求する領土拡大戦略は隣国から見れば侵略に他ならず、統制なき楽市楽座は最終的に限られた数の大商人の寡占状態へと行き着くのである。
冷戦発生に伴う世界の二分化…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折に該当する


逆を言えば割と最近まで(すなわち1970年代を過ぎてもソ連が崩壊する1990年代くらいまでは)「聡明な政府が市場を制御下に置いて総需要を管理し、人々に仕事を割り当てる」状況の継続を前提にそれを肯定するケインズと「それは自由意思を放棄し全てを権力に委ねてしまう怠惰な国民を生む」と批判したハイエクの論蠟がそのまま通用した。今なおそうした時代が継続していると錯覚したままの有識者達の最期の悪足掻きが新時代のパラダイムへの移行を一掃困難としているとも。

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 さらに皮肉な事を思いついてしましました。日本の場合、近世には江戸幕藩体制に拠って大藩小藩が、高度成長期には系列会社化に拠って大小企業が「安定した共存」を目指しか傾向が見て取れます。しかしチェコやフランスの場合は「まさに産業革命が本格化素養とした時期、大ブルジョワが出しゃばって中小ブルジョワの発展可能性を奪ってしまった事」が致命的打撃となった様なのです…

どうやってイギリスは同様の悲劇を回避したのか? それはもしかしたら(伝統的スノビズムから)大ブルジョワは土地を購入してジェントリー階層入りを果たしてしまうからでは? もちろん長期的に見れば良い事ばかりでもないでしょう。しかしとにかく産業革命が軌道に乗る為に必要な「革新的技術に国際的競争力が備わるまでの間、中小企業が相応の庇護下に置かれる」条件はそれで整ったのかもしれません。
*あくまで偶然の産物に過ぎず、フランスやドイツの様に試行錯誤の末にノウハウとして確立したものではなかった為に再現できなってしまったとも。

*その一方で「革新的挑戦なら継続的に行い続けている」地域も存在するのがイギリスの不思議なところ。

この観点、「第三のイタリア」の歴史分析にも応用出来そうです。なまじ「第一のイタリア」における大企業中心の産業革命に巻き込まれなかったが故に、北部イタリアから中部イタリアにかけての地域において伝統的に家族単位の小規模工房の集合体として運営されてきた多品目少数生産型の工業が現代国際市場に適応する時間を得て新しい次元のビジネスモデルを構築中…
イタリアにおける「匠のネットワーク」 - 協同組合 沖縄産業計画

さて、私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?