作中のルスブン卿を「自分を捨てた恋人」バイロン卿に見立てたポリドリの「吸血鬼(The Vampire、1819年)」からブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ(Dracula、1897年)」までの間には大きな空白期が存在します。
明らかに系統の異なるレ・ファニュの「カーミラ(Carmilla、1872年)」を加えたくらいでは決して埋まらないほど大きな空白です。
元来そこを埋めていたのは米国で「ダイムノヴェル(Dime novel)」、英国で「ペニー・ドレッドフル(Penny Dreadful)」や「シリング・ショッカー(Shilling Shocker)」と呼ばれた廉価単行本に掲載された無数の翻案劇や翻案小説の類でした。近年はサルベージされてアンソロジーなども編纂されていますが、正直いってそっと埋め戻したくなる様な内容のものも少なからず含まれていたりします。
もちろん日本にとっても他人事じゃありません。というより、さらに深い闇が広がっているのが日本の翻案小説の世界。
日本における海外文学受容過程を語るには、まず帝都大学最初期における2人の英語教師、すなわちラフカディオ・ハーンと夏目漱石について語るのが普通とされています。
明治19年(1886年) 当時全国に大学は一つしかなく、その東京大学を中心として帝国大学令により法・理・文・医に工部大学校の工を加えた5科と、大学院から成る帝国大学が誕生する。当時の中核は哲学科、和文(国文)学科、漢文学科、および博言学(言語学)科であった。英文科、独文科、史学科が増設されたのは翌年の明治20年(1887年)となる。
明治23年(1890年) 夏目漱石が入学。2人目の学生で学年1人だった。シェイクスピアやミルトン、バイロンなどの作品を読んだという。大学院まで進むも、どうしても文学とは何かが分からず、精神のバランスを崩して明治29年(1896年)に離学。
明治29年(1896年) 小泉八雲が 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。明治36年(1903年)まで在籍。
明治33年(1900年)、夏目漱石が英国に2年間留学。
- この時代、当時オックスフォードやケンブリッジといった伝統的大学は「英文学のごとき通俗的なものは教えない」という方針でギリシアやラテンの古典教育を中心としていた。一方、ロンドン大学は「市民大学に毛が生えたような」大学で、英文学の講座もあった。
- そこのケア教授についたが、彼の専門分野たる「古英語、中世英文学」が理解不能だった為に2~3ヵ月でやめてしまう。当時はメレディスやディケンズをよく読み漁っていたという。
- 次いでシェイクスピア学者として有名だったシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を週1回受講したが、これも1年足らずでやめてしまう。後は下宿にこもって、英文学書を読んではノートを取る日々を送る。
- 釘の頭のような細かな字でびっしりと書き込まれたノートは、最終的に、積み重ねると20センチ近くの厚さに達したという。彼は英文学の科学的解明を試みていたのだった。
明治36年(1903年) 帰国した夏目漱石が東京帝国大学文科大学及び第一高等学校の講師に就任。ハーンは学生に大変慕われていた為に当初は「ハーンを追い出した」と勘違いされ、冷たい態度で迎えられたが、次第に彼の英文学に対する桁外れの知識量が知れ渡り尊敬を勝ち取っていく。
*夏目漱石とラフカディオ・ハーンばかりかコナン・ドイル卿を結ぶ鍵。それがボディビルの国際的大流行…
- この頃、早稲田では坪内逍遥がシェイクスピアの講義を行なって好評を博していた。夏目漱石も「マクベス」を講読すると立ち見も出るほどの評判となり、以後、シェイクスピア作品ばかり講義する様になる。同時期、同僚の上田敏(訳詩集『海潮音』で有名)はチョーサーを教えていたが、そこまで評判にはならなかった。
- ちなみにラフカディオ・ハーンも夏目漱石も英語口語文学の礎となったジェーン・オースティン(Jane Austen、1775年〜1817年)を高く評価していた。
- また樋口 一葉(1872年〜1896年)の自宅に押し掛けた女学生達が彼女を慕って「ブロンデ様」と呼んでいたというから、シャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë、1816年〜1855年)やエミリー・ブロンテ(Emily Jane Brontë、1818年〜1848年)の名前もそれなりに知れ渡っていた模様。
明治37年(1904年) ラフカディオ・ハーン死去。
明治37年(1905年) 夏目漱石が処女作「吾輩は猫である」の執筆を開始。
明治40年(1907年)2月、夏目漱石が一切の教職を辞して朝日新聞社に入社(月給200円)本格的に職業作家としての道を歩み始める。
この時期の英国高等教育機関は(政治的エリートでもある)ジェントリー階層子弟の育成の方が主目的だったので、当時夏目漱石が探し求めていた様な「科学的に体系づけられた英文学」なんてそもそも存在していなかった様です。
その一方で、通俗読物として広まったのは何故かフランスの冒険小説や英国の怪奇小説でした。1930年代に入ってこの世界に足を踏み入れた江戸川乱歩は「黒岩涙香とルブランを混ぜた感じが良いだろうと思った」と述べてます。要するに黒岩涙香(1862年~1920年)の手になる翻案小説と、保篠龍緒(1892年〜1968年)の手になるモーリス・ルブラン翻訳が二大源流です。
私は元来自分で読物を書くなどと云う考は無かった。ただ私の叔父が裁判官であって、私は子供の時から、色々裁判に関することを見もし、聞きもして、能よく「誤判例」などを読んで、悪人であった者が死後には善人であったり、あるいは善人だと思っていた者が、大悪人であったりする事実を知り、そのほうに大いに趣味を懐くことに為なりました。左様そういうことを世人の誤ら無いようにするには、実際に必要だと思っておりました。ことにこの頃の新聞に発刊停止が頻々と下って随分裁判の不公平がありましたから、これを一つ当て擦って、裁判と云うものは社会の重大なるものぞということを知らせてやろうと思いました。それで自分が「絵入自由」に居た頃、筋書を話してこの頃の戯作者すなわち小説家に書かせました。ところが、当時の戯作者はそういう物語を書く時には、何時も編年体であってその人物の生い立ちから筆を立てて、事実を順序正しく書くものですから、最初から悪人、善人、盗賊と知れてしまって、読者を次へ次へと引く力が無い。すなわち面白い縺れ合った事を真先に書き出して置いて、乱れた環の糸口を探るように、その原因に遡って書くという事が出来なかったのでした。ついにその小説は読者の非難が多くて中止をしなければならぬ事になって、それで私に書けといわれたものでありましたから、しからばと初めてこれに著手してみました。私は全然編年体を改め、まず読者を五里霧中に置く流でやりましたが、意外にも大当りを致しました。こが翻訳小説の処女作で、題目は「法廷の美人」、前に中止した方は「二葉草」と申しました。それから今日(明治三十八年二月頃)までに翻訳した小説は七十余種に上って居ります。
*青年時代に語学の勉強のために輸入された廉価本を読み漁った。そのうちで面白いと思ったものを彩霞園柳香に書かせた「二葉草」を今日新聞に掲載したが、面白くならなかったため、自ら「法廷の美人(ヒュー・コヌウエイ「暗き日々(Dark Days、1888年))」を執筆したとされる。
翻案小説発表時期は概ね1883年頃~1913年頃。代表作は以下とされます。
「鉄仮面(1892~1893年)」…フォルチュネ・デュ・ボアゴベイの「サン・マール氏の二羽のつぐみ(Les Deux Merles de M. de Saint-ars、1878年)」の翻案。
「白髪鬼(1893年)」…マリー・コレリ「復讐(Vendetta、 A Story of One Forgotten、1886年)」の翻案。
「幽霊塔(1899年~1900年)」…アリス・マリエル・ウィリアムソン「灰色の女(A Woman in Grey、1898年)」翻案。
黒岩涙香 幽霊塔
「巌窟王(1901年~1902年)」…アレクサンドル・デュマ・ペール「モンテ・クリスト伯(Le Comte de Monte-Cristo、1844)」翻案。
「噫無情(あゝ無情;1902~1903年)」…ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」翻案。
また以下の様なSF作品の翻案小説化も手掛けています。
「月世界旅行(1883年頃)」‥ジュール・ヴェルヌ「月世界旅行(Le Voyage dans la lune)」翻案)」
「暗黒星(1904年)」…サイモン・ニューカム「世界の果(The End of The World)」翻案。
「今より三百年後の社会(1912年~1913年)」…H・G・ウェルズ「睡眠者目覚める時(The Sleeper Awakes、1910)」翻案。
「八十万年後の社会(1913年)」…H・G・ウェルズ「タイム・マシン(The Time Machine、1895年)」翻案
「今の世の奇蹟(1918年)」…H・G・ウェルズ「奇蹟を行なう男(The Man Who Could Work Miracles、1898年)」翻案
このうち「常に破滅に向かう危機を内包した科学の進歩」を取り上げた作品群に感応したのが手塚治虫、「壮絶な逆境からの逆転劇」を取り上げた作品群に感応したのがスポ根物と言うジャンルを創造した梶原一輝という分析もあったりします。宮崎駿もこの辺りが自分の源流である事を認めてますね。
保篠 龍緒(1892年〜1968年)のモーリス・ルブラン翻訳
1918年、神田の書店で、ルブラン作「怪盗紳士ルパン」フランス語原書を見かけ、ユニークな題名にひかれて購入、読んでみたら星野自身が内容の面白さに引き込まれ翻訳をしたと伝えられる。
- 文部省役人としての立場上、本名で翻訳活動にあたることを憚り、本名の漢字を入れ替えて筆名とした(保篠竜緒という表記もある)。
- 格調高い名調子で知られ、長く「ルパンといえば保篠訳」という時代が続いた。その翻訳は原文を注意深く参照したうえで綴られた保篠流の名調子でありまた物語を改変した箇所も確認されていて、厳密な全訳とはいえないが、その事実を含めて考えても、彼の訳業は戦前・戦後日本の「ルパン受容史」の中で欠かせない重要な仕事であったといえる。原書の雰囲気を日本語に移植するため、ルブランの文章の調子に似た日本の作家の文章を探して参考にしたり、原文・訳文をそれぞれ音読して語調を確認、訂正していくなどの苦心を重ね「名調子」を組み上げていった。真夜中の翻訳作業中でも、何かあると構わずに大声をあげていたので、家族を驚かせるのもしばしばだったという。
- "Lupin"を「ルパン」とする表記は(フランス語の"Lu"の発音は「ル」より「リュ」に近いとされる)保篠が考案者であるとも言われる。この点では異説もあるが、保篠が日本人にとっての呼びやすさなどを考慮して「ルパン」を使用し、その呼び方の定着におおいに貢献した。
- 当時はまだ著作権の概念はまだ一般的でなかったが、その時代にあってルブランに翻訳権料を支払い、正式に権利を取得したうえで翻訳を行なっていた。そのように手続きを踏んでいたこともあってか、ルブランから原稿をそのまま入手して翻訳にあたることもあった。
1918年、金剛社から保篠による最初のルパン翻訳「怪紳士」出版。この金剛社刊のルパン作品はデビューして早速シリーズ化、保篠は次々にルパンシリーズを翻訳していく。このシリーズの一編として1918年発売された「奇巌城」は、原題から離れて保篠が考案した訳題であり、内容を的確に捉えた名タイトルとして知られることになる。また、同シリーズで、フランスでも新作だった「虎の牙」上巻・下巻を、上巻「虎の牙」、下巻「呪の狼」としていち早く日本初訳して、紹介している。
- 「奇巌城」の原題は「虚ろの針」といった意味で、この表題は現在の翻訳者たちも採用する名タイトルとなっている。他に保篠による名タイトルとしては、登場人物の特徴から発想したという「呪の狼」(現在「虎の牙」下巻として知られる原書につけた訳題)が挙げられる。
1925年、平凡社発行の「ルパン全集」全12巻(別巻2)では、日本初訳となる「緑の目の令嬢(保篠による訳題は「青い目の女」)」、「謎の家(保篠による訳題「怪屋」)」などを加え、当時発行されていたルパンシリーズをほぼ網羅している。
戦時中は陸軍軍属としてニュース映画製作にあたっており、ベトナムで終戦を迎える。そのような経歴から、戦後は一時期公職追放となっている。公職追放が解除されてからは、再び活躍してルパン全集を何度も再刊した。
戦前段階でさらにもう一捻り。江戸川乱歩の通読小説における翻案がそれ。
江戸川乱歩(1894年〜1965年)の翻案通読小説
大正15年(1926年)、甲賀三郎は「純粋に謎解きの面白さを追求する」という意味で「本格」という言葉を使い始め、この「本格」でない探偵小説はこれも甲賀によって「変格」と呼ばれるようになった。日本探偵小説の始祖である乱歩は終生「本格探偵小説」を支持したが、大衆の要求はあくまで「変格」にあり、乱歩も不本意ながら「変格派」の代表となるに到った。そして大下宇陀児もこの「変格派」の探偵小説家の一人だった。
そして活躍の場を「新青年」から「講談倶楽部」などの一般誌に移した江戸川乱歩は明らかに(講談社編集の手で開眼させられた)通俗物分野では外国推理物の翻案やアイディア拝借やセルフリメイクもアリと考えていた。実際、それを裏付ける発言も多い。
「講談倶楽部」に連載された通俗物第一作「蜘蛛男(1929年~1930年)」…まずこれからして自作「パノラマ島奇談 (1926年~1927年)」のセルフリメイクという側面が見受けられる。
江戸川乱歩「蜘蛛男(1929.8~1930.6『講談倶楽部』)」解説
著者はデビュー以来、本邦のミステリの歴史と共に歩んできた。ミステリの始祖エドガー・アラン・ポーを模した筆名を名乗り、論理的な英米のミステリを理想とし、一歩でもそこに近づかんと望んだ。
しかし、高い理想と自らの資質のギャップにも苦しみ、そして世間の探偵小説に対する目が幼かったことにも落胆を覚えた。『屋根裏の散歩者』や『人間椅子』のような作品は一般の評価からすれば必ずしも失敗とは言えないが、著者にとっては本格という理想とはすれ違ったものであり、そうした作風を選ばねばならない自分と世間に対し疑問やためらいを感じていたのである。
著者の初期の創作活動は、そうした幾つものアンビヴァレンツの中での苦闘でもあった。そして悩みはついに限界を超え、『一寸法師』(『朝日新聞』1926.12.8~1927.2.20)を最後に、一度筆を折るほどになってしまった。
本作は復帰後しばらくしてからの作品であるが、ここに至り、著者はついに本格という道を実作者として追及することに見切りをつけ、より通俗的な作風に転換することにしたのである。
こう書くと、この転換をネガティブに捉えていると言われるかもしれない。ある意味でそれは間違いないが、著者が本格を目指していたのはあくまでも本人に希望に過ぎず、残酷に言えば本人の資質はそこになかったと私は思う。乱歩は以降も評論家としては本格を推す立場に立ったが、結局それらしい作品をものにすることはほとんど成功していない。また、乱歩はそうした意識を持って作品に挑んだ場合、わざわざ自分らしさを殺してしまう傾向があり、その意味でも高い評価は与えにくい。
結論として、著者の美点はやはり大人向きでは一連の「変格」作品の怪奇、そして本作のような通俗的な小説における古典的ロマンチシズムにあるとして問題は無いだろう。
さてそうした中で書かれた『蜘蛛男』だが、これは著者いわく「黒岩涙香をルブラン寄りにした」ような、つまりミステリとして初歩的な娯楽に徹した作品だ。当時の講談者の社風で「老若男女誰にでも歓迎される」ものが好まれ、乱歩は割り切ってこれに応えることにしたのである。
乱歩が少年探偵団の登場する明文化されたジュヴナイルを書くようになったのは1936年(昭和11年)からであるが、その創作の動機に、本作のような子供っぽい作品を書いてしまっているのだから、いまさら子供向きにためらうこともあるまいといった割り切りがあったという。
この時点でも低年齢の読者層を意識したためか、残酷描写はかなり抑え目になっている。バラバラ殺人、とくに石膏像から人体が現れる描写は確かに気味が悪いが、以前の「変格」作品にあったように、その犯罪に及ぶ者の心理を深く描こうとしていない。『屋根裏の散歩者』を読むと自分にも同じ性向があるのではないかと思わされるし、主人公が思っても見ない完全犯罪の機会を得る場面では、我がことのようにドキリとさせられる。読者は犯罪やそこに至る心理に、病的なロマンを感じてしまうのであるが、ここでの蜘蛛男の描き方は外側からに固定され、感情移入の余地は無い。また、よく考えて見るとそれ以外にも読者の感情を背負う人物は誰も登場しない。探偵はただ謎めいた存在であるし、助手の野崎三郎もその任務を全うしようとしているだけだ。(ちなみにこの名は『闇に蠢く』の主人公と同じだが、関連はなさそうだ。どうやら知人の名前であったらしい)。
複数の人物が俯瞰した位置から描かれ、読者はそれぞれの謎めいた動きを舞台下から見守る――それがこの一連の作品のスタイルであるように思う。これに影響された横溝の通読作品でもそういう読解に基づいているようだ。
「蜘蛛男」江戸川乱歩自註自解
初めて講談社の雑誌に書いた小説である。その頃の講談社物は野間清治社長の主義で、老幼婦女だれにでもわかるものという条件がつき、またしばしば書き直しを命ぜられるという噂が流布していたので、作家の間に講談社忌避の風潮があった。私も忌避組の一人であったが「講談社倶楽部」編集員の瀬川正夫(故人)という人が長い間、たびたび私の家にやってきて、実に辛抱強く口説き続けた。私はその並外れて忍耐強い編輯者魂に打ち負かされて、とうとう執筆を承諾し、初めて同誌に連s題したのがこの小説であった。
通俗を主眼とする講談社物だから、ルパンと黒岩涙香の書き方を混ぜあわせた様なものを目指したのだが、思うようにいかなかった。結果としてはその後の私の講談社ものも、私流のエログロになってしまったけど、最初はそういう心組だったので「蜘蛛男」の初めの方にはいくらか涙香風の書き方が残っている。
私の場合は噂に聞いていた書き直しも命ぜられる事も一度もなかったし、編集者の対応も他社に比べて丁重を極め、原稿料も格段に高いので、つい私は講談社党になってしまい、同社の諸雑誌に連載ものを書き続ける事になった。「蜘蛛男」はその先駆となった訳である。
「講談倶楽部」に連載された通俗物第二作「魔術師(1930年~1931年)」…これに用いられた「生きるながらの埋葬」というアイディアがエドガー・アラン・ポーからの借用である事を認めている。
- 「生きながら埋葬された人間がその恐怖から白髪になってしまう」というアイディアは「英国大衆小説の女王」マリー・コレリ(Marie Corelli、 1855年~1924年)の「ヴェンデッタ(復讐:Vendetta!; or、 The Story of One Forgotten、 1886年)」にも登場し、これを黒岩涙香が「イタリアの実話手記;白髪鬼(1893年)」として翻案したものを江戸川乱歩版がさらに「乱歩の白髪鬼(雑誌「富士」連載;1931年)」に翻案している。翻案に着手した理由は「少年の頃に耽読した涙香作品の中でもとびきり思い入れのある作品なのに、最近(昭和初期)にはもうすっかりその格調高い文語体がなじみ薄いものとなっていたのを惜しんだから」と述べている。
- 英語に堪能で数多くの海外怪談・探偵物・幻想小説の翻訳実績がある上に、その内容を日本の時代劇にフィードして「半七捕物帳」「番長皿屋敷(歌舞伎脚本)」などを執筆してきた岡本綺堂もオリジナル怪談「白髪鬼(1928年)」を執筆している。ただしここに登場する「白髪鬼」は女性で、何故か特定の受験生を狙って受験会場に現れる。「彼以外は誰も気に止めない」ことから幽霊と推察されるが、それ以外の怪奇現象は伴わなず、むしろ彼女の現れる理由に気付きながらそれを一言も説明せず、当事者が受験を諦めておとなしく(相応に暮らしている)帰郷する展開が不気味さを醸し出すという不思議な展開になっている。類型としては中国の科挙試験にまつわる怪談にありがちなパターンであり、そちらからの翻案だったかもしれない。
- ところで岡本綺堂版「白髪鬼」には、後ろ暗い秘密を背負うブルジョワ青年が「最初は神経衰弱だと思って、これを克服する為に湘南でしばらくブラブラ遊んで暮らしたりもした」という記述がある。江戸川乱歩「盲獣(1931年)」でも鎌倉の海岸が潮干狩りや海水浴を楽しむ観光地として登場する。当時から既にリゾート地だったのである。
岡本綺堂 白髪鬼
「講談倶楽部」に連載された通俗物第三作「恐怖王 (1931年~1932年)」…あまり出来が良くなくて、そこに盛り込まれたアイディアが「キング」連載の「妖虫 (1933年~1934年)」と「講談倶楽部」に連載された通俗物第四作「人間豹 (1934年~1935年)」に分割されてセルフリメイクされている。。
人間豹(『講談倶楽部』1934.5~1935.5)解説
乱歩が「講談倶楽部」の求めに応じて「蜘蛛男」「魔術師」に続いて執筆した「通俗長編」第三弾。少年探偵団などが登場する1937年以降のジュナイブル路線の先駆的作品とされる。
その最大の特徴は表題通り半人半獣の怪人が登場する点にあり、ここが本作の最大のポイントであるのは言うまでもない。
これまでも乱歩の作品に登場した犯人は怪物的人物が多く、表題にも「蜘蛛男」やら「吸血鬼」やら「白髪鬼」といった、恐ろしげな名前がついていたが、それらはあくまで全て(新聞の見出しを通じて世に広まる様な)比喩的表現にすぎなかった。例外的に「一寸法師」や「黄金仮面」のように、怪人の身体的な特徴や扮装を表した表題のものもあったが、スーパーナチュラルなものではない。これは通俗長編と言いながらも、一応は大人を対象とした創作であったし、そもそもは探偵小説(ミステリ)を書いていた流れの中にあったわけであるから当然と言える。
しかし今回は身も蓋もなく問答無用で「人間豹」である。暗闇の中で突如地団駄を踏み始め「ええい、鎮まれ俺の内なる獣の力!!」とか呟きながら通りすがりの野良犬を真っ二つに引き裂き、その爪と牙で誘拐した女給を原型も留めない残骸に変えてしまう非現実的怪人に他ならない。割り振られた役割もあくまで活劇中の敵役に過ぎず、ミステリにおける犯人と大きく異なる。それゆえに「誰が」「何処で」「どうやって」殺したのかといった謎解き要素より「人間豹」という存在自体が大きくクローズアップされる事になる訳だが、驚くことにそれ自体について疑問に思い追求する登場人物など一人も出てこない有様なのである。
このパターンはジュヴナイルとして「少年倶楽部」に連載された「怪人二十面相 (1936年)」「少年探偵団(1937年)」「妖怪博士(1938年)」以降急増。「青銅の魔人(1949年)」「透明怪人(1951年)」「電人M(1960年)」などその正体は別として、その姿かたちは同じような荒唐無稽さがある。この点においても、本作はジュヴナイルの先駆けであると言っていいようだ。
結末まで読んで衝撃を受けるのは、乱歩が人間豹について何も説明しないうちに話を終えてしまうということだ。半人半獣などという信じがたい生き物がいた理由は、ついにまったく判らないまま大団円となってしまうのである。怪人が一連の事件を起こした動機なども非常に根拠薄弱で、そのため明智小五郎も全編にわたって推理らしい推理はなにもしない。唯一、中間部の知恵比べを推理といえば言えなくもないが。
全体として、たしかに主人公として探偵という人物が登場する物語ではあるが、形態としては探偵小説と呼ぶのにはかなりの躊躇いを感じる。つまり「探偵する小説」にはなっていない。これは乱歩のジュヴナイル作品全般に渡って言えることだが、あくまで「探偵という名のヒーローが登場する活劇」に過ぎないという訳である。
- 戦後江戸川乱歩がウィリアム・アイリッシュ(William Irish)の「幻の女(1942年)」を「新しい探偵小説であり、すぐに訳すべきである」と激賞した事から、別名義コーネル・ウールリッチで執筆した「黒いアリバイ(The Black Alibi;1942年。映画「豹男(The Leopard Man;1943年)」原作。豹が美女を食い殺すの景色を目撃して変態性欲が目覚め連続殺人者となってしまった男を描く)」が真っ先に想起されるが、まぁ時期が合わない。1920年代にF・スコット・フィッツジェラルドの影響を強く受けた先鋭的なジャズ・エイジ作家としてデビューしつつ1930年代以降のパルプマガジン大流行で通俗小説への転身を余儀なくされた1人であり、かつ代表作家の1人と目されている(1934年から複数のペンネームで短編推理小説をパルプマガジン向けに書く様になり、次第にその数を増やして「黒衣の花嫁(1940年)」以降は長編も手掛ける様になる。1942年「ダイム探偵マガジン」誌に、ウィリアム・アイリッシュ名義で「それは殺人でなければならない(It Had to Be Murder)」を発表して以降はこのペンネームが最も有名となった)。ちなみにバイセクシャルだったらしく結婚後も夜遅くになると船員服に着替えて出掛け、同性とのアバンチュールを楽しんでいた。その事が発覚しわずか3ヶ月で結婚生活が破綻している。
- 「人間豹」に登場する怪人には当時アメリカで流行していたユニバーサル・モンスターズの展開経緯との部分的共通性も見受けられる。すなわち「既存倫理の超越に挑戦するロマン主義的天才」を強引に勧善懲悪フォーマットの「悪=討伐される側」に押し込んだ結果(江戸川乱歩作品で言うと「蜘蛛男」の蜘蛛男、「大暗室(「キング」連載1936年~1937年)」の大曾根竜次あたり。ただし同じユニバーサル・モンスターでもブラム・ストーカー「ドラキュラ(1897年)」やウェルズの「透明人間(1897年)」)「怪物とその創造者」といった枠組みや人間的背景が次第に曖昧となり(「人間豹」には、それが錬金術の産物である事を示唆する描写があるが詳細は最期まで語られない)末期には「オールスター大集合」段階を経てバラエティ化してしまう。
「講談倶楽部」に連載された通俗物第五作「緑衣の鬼 (1936年)…イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」の翻案であった。そして「講談倶楽部」に連載された通俗物第六作「幽霊塔(1936年~1937年)」はアリス・マリエル・ウィリアムソン(Mrs.Alice Muriel Williamson)の小説『灰色の女』を黒岩涙香が翻案した「幽霊塔(1899年)」のさらなる翻案である。
- この時期の江戸川乱歩は同時連載作品を持ち過ぎてアイディアが枯渇し、翻案に頼らねばならなくなっていた事を自ら告白してる。また厳しくなる一方の検閲の目を逃れる為に「翻案」の仮面が手放せなくなっていったとも。
- とはいえジョルジュ・シムノン「聖フォリアン寺院の首吊男」を翻案した幽鬼の塔(「日の出」連載1936年~1937年)などは「一人の少女を女神の様に仰ぐ少年達の秘密クラブ」「謎めいた預言を残して暗く深い森の奥で絞殺される少女」「召還されたその少女の霊魂の導きで暗い土蔵の中において宗教儀礼の様に粛々と遂行される殺人」「五重塔の屋根から釣り下げられ風鈴の様に揺れる遺体」といった江戸川乱歩的隠微なエロスの積み重ねで出来上がっている辺り単なる翻案小説に終わっていない。
- 月刊娯楽雑誌「少年倶楽部(大日本雄辯會講談社)」に連載された少年向け推理小説「怪人二十面相(1936年)」「少年探偵団(1937年)」「妖怪博士(1938年)」のシリーズにおいては、序盤は(モーリス・ルブラン的な)怪盗や誘拐犯との知恵比べを中心とする密室劇や追跡劇が中心だったが、後半では次第に少女の誘拐と監禁、幽閉されている謎めいた洋館の謎解きといった要素の比重が増えてくる。ある意味こうしたセルフリメイクを通じて戦後ジュナイブル物を特徴付ける「江戸川乱歩らしさ」が確立していったとも見て取れる。
- 「大暗室 (「キング」連載1936年~1937年)」の物語の背景には「魔術師」的復讐端が秘められており、その部分はセルフリメイクとなるが、かかる環境が生んだ復讐者大曾根竜次は一味違う。誘拐してきた美女達を家具として働く様に仕込んで「見たまえ、あの東響の波の様な甍を。凡人どもの大都会、なんて退屈な景色だろう。平凡そのものの様な青空、あの青空にドス黒い火焔が燃えて六百万(当時の東京の人口)の凡人どもがうろたえ騒ぐ景色が想像出来ますか。暴君ネロの夢、それがとりもなおさず僕の夢ですよ」「僕のこの智慧と、この腕と、この勇気。世の中に不可能なんてありゃしないんだ。僕はネロの様に栄華を極めたい。この世の財宝という財宝を、この世の美女を我が物にしたい。法律を相手の知恵比べだ。警察を向こうに回しての闘いだ。君、僕の気持ちが判りますか?」「僕は地獄の底から生まれてきたのです。悪こそ僕の使命なんです。その為に僕はあらゆる知識と武術を学んだ。命を的の離れ業を練習した。飛行術だってほかに目的がある訳じゃない。悪魔の国のナポレオンになりたいためばかりだった。アルセーヌ・ルパン! 何て可愛らしい泥棒だろう。あいつは女みたいに血を見ることを怖がったのですよ」と演説する様な紙から切り抜いてきた様な薄っぺらい大悪党(笑)。そして、それに対して不倶戴天のライバル有村友之助はこう応える。「僕は学問もした。武術も学んだ。ヨットや飛行機を操縦した。知恵も力も君に劣るとは思わない。しかし僕の使命は君とはまったく逆なのだ。この世から悪と穢れを除けと教え込まれた。悪を滅ぼす勇敢な闘士になれと育てられた。僕はその為に生まれた。その為に教育された」「僕はある人からこの世の悪魔の話を聞かされている。そいつは君と同じく地獄から這い出してきた男だ。僕も生涯にたった一度だけ恐ろしい罪を犯さねばならないかもしれぬ。それはその悪魔を八つ裂きにする時だ」。こちらもこちらで紙から切り抜いてきた様な薄っぺらい大正義。そこにはもうロマン主義の残滓など一片も残されていない。その一方で不思議とそこまで単純化された正義と悪の二元論は「探偵と泥棒の知恵比べ」という域を超えてJoJo第一部でのジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドの衝突すら想起させる。あるいは谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」
『金色の死』谷崎潤一郎 1914(大正14) - 「悪魔の紋章 (「日の出」連載1937年~1938年)は全体構成としては「蜘蛛男」から「ロマン主義的=殺人芸術的要素」を排除した穴を「魔術師」的復讐譚(とはいえ怨恨関係の構図はむしろ「大暗室」に近い)で埋めたセルフリメイクとなる。そこで現出する残酷場面は衛星博覧会やお化け屋敷のオドロオドロしい(だが一応は社会的に公認されている)雰囲気を借りたもので、興味深い事に概観として江戸川乱歩作品から非ロマン主義的要素とスタイリッシュで華麗な行動的天才に変貌する前の明智小五郎の外能のみを継承した横溝正史の作風を思わせる。この作品に登場する1930年代の明智小五郎が国家からの要請を受けて朝鮮半島に飛び、国事犯を追い詰める花形エージェントの様な存在に成り果ててしまっているのに対し、当時の金田一耕助は日本に絶望してロサンゼルスに渡り、現地で麻薬などの悪癖を覚えてやさぐれているという対比も中々に興味深い。
「講談倶楽部」に連載された通俗物第七作「暗黒星 (1939年)」‥黒岩涙香の翻案作品の中に同名のものが見受けられるが(初出「萬朝報」1904年)、こちらは「闇黒星との衝突で地球が滅んでいく有様を淡々と記した」ニューコム シモン(Newcomb、 Simon 1835年~1909年)のイベントIF作品の翻案である。内容はある符号一族の中に「闇黒星」が紛れていると明智小五郎が指摘し、その犯人が連続殺人事件を引き起こすというもの。
- そういえば同時期連載の「地獄の道化師 (「富士」1939年)」も謎が解かれてみれば犯人は身内(それも「女の執念」オチ)というパターンだった。
軍部の検閲が厳しくなる一方だったので、流石にもう執筆は続けられなくなります。そして戦後の江戸川乱歩は、概ね光文社の月刊少年誌「少年」に「少年探偵団シリーズ」を執筆するのみとなるのです。とはいえ同誌に「鉄腕アトム(1951年〜1968年)」を連載していた手塚治虫や「鉄人28号(1955年〜1964年)」を連載していた横山光輝との相応影響を満喫しましたし、さらに1970年代のリヴァイヴァル期にはこれら大人向け通俗小説の多くが形ばかり子供向けに翻案された上で少年探偵シリーズに収録される事になるのでした。まさしく恐怖の闇鍋状態。
当時の主力展開でさえこういう有様だったのですから、二流誌や三流誌における翻案はさらなる混沌状態。そもそも、そうした少年少女向け月刊誌には戦前から名探偵ホームズ作品の翻案が掲載されてきました。選ばれたのは「ブナ屋敷(The Adventure of the Copper Beeches、1892年)」「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」「マスグレーヴ家の儀式(The Musgrave Ritual、1893年)」「バスカヴィル家の犬(The hound of the Baskervilles、1901年)」「六つのナポレオン(The Adventure of the Six Napoleons、1904年)」といった元々怪奇色が強い作品か、後付けで怪奇色を付加された作品が中心。
まぁそうした土壌があって「恐怖マンガ家」楳図かずお登場の下巡撫が整う事になったという次第。1966年に講談社の少女漫画誌「週刊少女フレンド」で連載された「ねこ目の少女」や「へび少女」が大ヒットして以降、快進撃が始まる訳です。