まずは質問。「中二病(厨二病)」といって何を思い浮かべますか?
187: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 01:38:27.49 id:tQW9OhL1.net
強引に今風にすると
スレイヤーズ型は禁書系
ブギ―ポップ型は物語系かな?
194: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 01:40:36.71 id:fhEZ1nyq.net
>>187
スレイヤーズはゼロ使じゃねーかなぁ
261: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 01:50:05.78 ID:6bRK5/SZ.net
>>194
ゼロ魔って中二か?
308: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 01:56:10.88 id:fhEZ1nyq.net
>>261
スレイヤーズが中二ならゼロ魔も十分中二の範疇に入ると思うけどなぁ
ファンタジー系中二の定義にはあんま詳しくないけど
331: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 01:59:07.56 ID:6bRK5/SZ.net
>>308
ていうかスレイヤーズも作品単体は別に中二じゃねーでげしょ
ゼロ魔なんて原作は結構硬派だよ
スレイヤーズ型ってゆーのは
スレイヤーズの詠唱や世界に浸りすぎて
現実でやらかしちゃうのが中二なだけで、作品単体はどちらも中二じゃないよ。
でもゼロ魔でなんか中二演技する奴いたの?聞いたことない
フェイトの令呪とかブリーチの卍解とかならよく聞くけど
432: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 02:16:20.32 id:fhEZ1nyq.net
>>331
エクスプロージョンやサモン・サーヴァントの呪文を真似する娘も捜せばいないこともないんじゃないか? そっちが例に挙げてる鰤やFateよりかは少ないだろうけどあと『伝説の使い魔』とか『虚無の魔法』とか、邪気眼持ちにとってはかなりドストライクな設定な気がする
354: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 02:01:41.09 ID:j/Y9dZcd.net
>>331
本来の中二病は飛鳥タイプであって、スレイヤーズが中二とは言ってないんだよなあ
393: 名無しさん@お腹いっぱい。:2015/10/25(日) 02:09:20.35 ID:6bRK5/SZ.net
>>354
本来のってことは既に浸透してしまってるという意味でもあるし
中二って名前を知らしめた邪気眼はもとより
アニメの「中二病でも恋がしたい」なんてほとんど蘭子型じゃん
ていうかさ、ブギーポップ型って
中二病じゃなくて、そもそも高二病の方だとおもうぞ
エロゲ主人公やハルヒのキョンとかそれでしょ?
2chで西尾維新が叩かれているのを見ると擁護したくなる。ええまあ確かに彼は厨二病で言葉遊びと流行のラノベでよく出てくる萌えキャラが売りのラノベ作家です。しかし彼の影響で京極夏彦やジョジョやデスノートやブギーポップを読み初めている人も確かに存在しているということを忘れないでほしい。
— 藍色@実習のため出現率↓ (@tukigarasuaisa) 2013年12月1日
まず発祥時期をはっきりさせておきましょう。
ラジオ番組『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』で生まれた造語。1999年1月11日放送の同番組内でパーソナリティの伊集院光が「自分が未だ中二病に罹患している」と発言し、翌週から「かかったかな?と思ったら中二病」(1999年1月18日 - 3月22日)というコーナーを立ち上げ、リスナーから募った「症例」(と銘打った投稿ネタ)を体系化させていった。伊集院本人が指標として挙げた例は「『因数分解が何の役に立つのか?』『大人は汚い』と言い出す」「本当の親友を探そうとする」など。
*「ヲタク文化研究会」著「オタク用語の基礎知識(2006年2月)」の当該項目は「典型的症例」として、①洋楽を聴き始める。②旨くもないコーヒーを飲み始める。③売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。④やればできると思っている。⑤母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。⑥社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す、の6点を挙げるが、実はそれ自体は1980年代以前にまで遡れる「反抗期」の定義に過ぎないとも。
放送当時は番組リスナーの間だけで用いられるだけの名称であり、番組内においてコーナーが終了してからは次第に忘れられていったが、2005年を境にインターネット上で再び広く使われるようになる。当時2ちゃんねる生活全般板にあった「中二病総合スレ」等で使われるうちに自虐の意味が薄れ、揶揄する意味合いが強くなり、「過去の失態を告白してみんなで奇声を発するスレ」に投稿された「邪気眼」と呼ばれる投稿から、思春期の少年が行いがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などに対する蔑称、特に創作物の評価において「身の丈に合わない壮大すぎる設定や仰々しすぎる世界観を持った作品」、ひいては「非現実的な特別な世界観や設定そのもの」を揶揄・否定するネットスラングとして定着した。 またネットスラングとしては、「中」の字を「厨」で置き換えた厨二病という表記も見られる。
前述のような、コーナー終了後に起きた意味合いの変遷について、伊集院本人は「もう僕の作った時の意味と違うから言葉自体に興味無いです。」と語っている。
こうして全体像を俯瞰してみると、ギリシア悲劇(アッティカ悲劇)の展開過程と重なる部分が多いとも。
- 「古代アテナイの三大悲劇詩人」アイスキュロス(Aischylos, 紀元前525年〜紀元前456年)の時代に物語文法や上演形態が確立。
*代表作「縛られたプロメテウス」は少女漫画の題材となり、横山三輝「伊賀の影丸(1961年〜1966年)」や永井豪「けっこう仮面(1974年〜1978年)」の拷問シーンと同じくらい女子読者に「良からぬ影響」を残したとされている。
- エウリピデス(Euripídes、 紀元前480年頃〜紀元前406年頃)の時代に心理描写の機微などが深まる一方、アイスキュロスや、その路線を継承したソポクレス(Sophokles、紀元前496年頃〜紀元前406年頃)の「時代がかって仰々しい感じ」」は、風刺作家アリストパネス(Aristophanes, 紀元前446年頃〜紀元前385年頃)に格好のパロディ・ネタを提供する事に。
*ネットスラングとしての「中二病」が広まった当時の日本のエンターテイメント界はまさに「2000年代前半の壁」を乗り越え、様々な時代遅れの表現が「歴史の掃き溜め送り」にされた時期に該当。
一方、ギリシア悲劇が「(ペルシア戦争(紀元前499年〜紀元前449年)に勝利し、古代民主制黄金期が訪れた)明るい時代」から「(古代民主制が腐敗し、ペロポネソス戦争(紀元前431年〜紀元前404年)に敗北していく)暗い時代」への変遷を背景としたのに対し、ラノベの世界はあくまで(1990年代後半独特の)暗くて退廃的な雰囲気から(2000年代後半独特の)明るく楽観的な雰囲気に突き抜けました。どちらも「時代がかって大仰な雰囲気」を振り切る形で新時代を迎えましたが、前者は「能天気過ぎる楽観主義」、後者は「杞憂ばかりの悲観主義」にそれぞれ結びつけられた点で、まさしく真逆の展開となったのです。
まずは上遠野浩平「ブギーポップは笑わない(1998年)」の登場こそラノベ界の画期だったという意見が多い辺りから再出発。
1990年代後半の若者は国際的に自分の五感で感じられるものしか信じられなくなったり、デスゲームに投入される形でしか生きてる実感を回復出来ないといった、荒涼とした精神状態にあった。要するにFalloutシリーズ(1997年〜)、Serial experiments lain(1998年)、庵野秀明監督作品「ラブ&ポップ(原作村上龍1996年、映画化1998年)」、上遠野浩平「ブギーポップは笑わない(1998年)」がリリースされた時代。まさしくiモードが登場し、ケータイ小説が人気を博する時代の前夜。そしてその延長線上において高見広春「バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE、原作1999年、映画化2000年〜、漫画化2000年〜2005年)」や、Yoshiのケータイ小説「Deep Loveシリーズ(2000年〜)」が大ヒットとなる。
このうち「日本における帝国主義や全体主義からの軽やかで知的な脱出志向」なる20世紀左翼的発想から最後まで脱却出来なかった「バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE)」、その正体は大人の著者が「少年少女の代弁者」の仮面を被っていたに過ぎない「少年少女搾取作品(Boys&Girls Exploitation Contents)」だった「Deep Loveシリーズ」などは自然淘汰されていく。
西尾維新は本作ひいては上遠野浩平の作品が、執筆業を志した決定打であったと度々インタビューで答えている。上遠野との対談の際には、自身のデビュー作である『戯言シリーズ』が本シリーズのオマージュ、『人間シリーズ』が『ビートのディシプリンシリーズ』のオマージュであることを明かしていた。
「キノの旅 -the Beautiful World-(2000年〜)」の時雨沢恵一もまた本作を読み「電撃ゲーム小説大賞(現・電撃小説大賞)」への投稿を決めたと語っている。
「空の境界(1998年〜2001年)」「月姫シリーズ(2000年〜)」「Fate/stay night(2004年)」の奈須きのこもまた武内崇とその実兄にある日突然「これがお前のやりたいことだ!」と、本作を見せられて宣言されたと述べている。
俺のイメージの中でのセカイ系とは
- 主人公かヒロインが世界をまもるために戦わざるを得なくなる
- 基本的に「自分が死んだら代りはいない」。
*この定義だとすでに綾波レイが外れる…- でもそれは「キミとボク」のセカイをまもるのであって、実社会としての「世界」は二の次。
*まさしく清涼院流水「カーニバル・イヴ(1997年)」における「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指す」セカイ系宣言そのもの。- 「キミとボク」のセカイをまもるためなら「世界」を守る事から逃げることも辞さない。
*逃避行は付きもの。イリヤの空とか
- 青少年が不思議な力を手に入れる
- それを自分たちのために乱用する
- 結果世界が崩壊しかける
- 都市伝説上の存在「ブギーポップ」が彼らを裁く
*断罪され殺されることもあれば、見逃されることもある。これのどこがセカイ系なのだろうか?
- 「ブギーポップ」シリーズでは、確かに主人公たちは世界を守る宿命は無いが、世界を「壊そう」とするインセンティブはある。
*例えば『オルフェの方舟』ではブギーポップを倒して主人公と平穏に暮らせるのならば世界を崩壊させても良い、というヒロインが登場する。- 俺の妄想定義のはじめの二つは当てはまらないけど、残りの二つがブギーポップにも当てはまると考える。
つまり
- "「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまう"
ということが
- 世界を「壊そう」とする
- 主人公かヒロインが世界をまもるために戦わざるを得なくなる
こういう指摘も踏まえて何作かKindleで購入して読み返してみたのですが…
「◯◯(人名)は××ない」式のタイトル
- 女はそれを我慢できない(映画。同名の曲もある。)(原題はThe Girl Can't Help It)(1956)
- インディアン嘘つかない(ドラマ「ローン・レンジャー」での台詞。日本で流行した。)(1958。大元のラジオドラマは1933だが、米国では、古くからある慣用句で、特別な台詞とはみなされていない。)
- 俺たちに明日はない(映画。原題はBonnie and Clyde)(1967)
- かしの木モック ぼくはなかない(アニメ映画)(1972)
- アルキメデスは手を汚さない(小説)(1973)
- ポニーテールは、振り向かない(小説。後にドラマ化。)(1985)
- ダイヤモンドは砕けない(漫画・ジョジョ第4部の副題。ただし、この副題は2000年以降に付けられたもの。第428話のタイトルが「クレイジー・Dは砕けない その①」)(1992)
- 山猫は眠らない(映画。原題はSniper)(1993)
- A・Iが止まらない!(漫画)(1994)
- 反町君には彼女がいない(漫画)(1995)
- 岸辺露伴は動かない(漫画)(1997)
そして「ブギーポップは笑わない(ライトノベル)(1998)」登場
- 第1作「ブギーポップは笑わない(1998年)」はむしろ、筒井康隆「時をかける少女(1967年)」「火田七瀬三部作(1972年〜1977年)」や眉村卓「ねらわれた学園(1973年)」といったジュブナイルSF小説、岩明均「寄生獣(1988年〜1995年)」や小野不由美「魔性の子(1991年)」といった「学園ホラー小説」の雰囲気が色濃い。ブギーポップの設定も(その発祥が昭和初期まで遡れる)「怪人」赤マントのリニューアルっぽい。これは荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険(1987年〜)」シリーズが「Part3 スターダストクルセイダース(1989年〜1992年)」以降、それまでパロディ要員に堕していた「硬派学ラン番長」の格好よさの復権に取り掛かったのと重なる。
*「怪人」…実はこの表現、江戸川乱歩が昭和11年(1936年)に少年向けに発表した探偵小説「怪人二十面相」において、当時の児童向け作品の倫理規定から「盗」の字を使えず「怪人」とされたのに端を発する。すなわち「二・二六事件」のあったこの年以降、全国に「学校怪談」として広まった「赤マント」は同世代、昭和5年(1930年)に紙芝居で発表された「黄金バット」に登場した四つ目で鉤爪の宇宙人「ナゾー」や、江戸川乱歩の「蜘蛛男(1929年〜1930年、殺人芸術完成を志向する連続殺人鬼)」や、「目羅博士(1931年、人を自殺に追い込む催眠術師)」、「盲獣(1931年〜1932年、触覚芸術完成を目指す全盲連続殺人鬼)」や、「黄金仮面(1930年9月〜1931年、美術狂の外国人怪盗団)」や、「妖虫(1933年〜1934年、連続猟奇殺人事件の主犯たる謎の赤蠍)」や、「黒蜥蜴(1934年、美少年や美少女を剥製ににしてコレクションする女賊)」や、「人間豹(1934年〜1935年、殺人衝動を抑えられない獣人)」などはその言葉が使われる以前の「旧世代」に属する。
赤マント - Wikipedia
*ちなみに「旧世代怪人」はE.T.A.ホフマンの「砂男(1917年)」に登場する老弁護士コッペリウス=晴雨計売りコッポラ=自動人形技師スパランツァーニ、「スキュデリー嬢(1819年)」に登場する宝石職人カルディラックや「くるみ割り人形(1819年)」に登場するドロッセルマイヤー老人といった「ロマン主義的英雄」の影響が色濃い。そういえば川原礫「絶対ナル孤独者(Web連載2004年〜、刊行2014年〜)」にもその影響は見て取れる。*また、こうした「ロマン主義的英雄」の復権にはクライヴ・バーカーのモダンホラー短編集「血の本シリーズ(Books of Blood、1984年〜1985年)」を原作とするホラー映画「キャンディマン(Candyman)シリーズ三部作(1992年、1995年、1999年)」も関わってくる。「都市伝説の怪物は忘れ去られない為に絶えざる犠牲者を必要とするが、その犠牲者もまた都市伝説の一部に組み込まれる事で永遠の生命を得る」なる退廃的価値観が特徴。
- 著者の述懐によればシリーズとしての独自性模索が本格化したのは「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター PART 1 ・PART 2(1998年)」以降で、「痛みから目をそらせる能力」といった純粋な善意から出発した心理操作が世界滅亡の危機を引き起こして「この世界の守り手」たるブギー・ポップを召喚する構図が「ペパーミントの魔術師(1999年)」の頃までにほぼ固まったという。
-
そしてこの時期までの作品には「携帯電話」はおろか「ポケベル」すら登場しない。「ジュブナイルSF小説(1960年代〜1970年代)」や「学園ホラー小説(1980年代〜1990年代)」との境界線が曖昧に感じられるのはそのせいとも。「溶暗のデカダント・ブラック(2014年)」辺りになると「実は在学中の宮下籐花はデジカメと携帯電話を一緒に持ち歩いていた」なんて追加設定も登場するが、この段階ですら「カメラ付き携帯」なる発想は完全視野外。
いずれにせよ当時における最大制約は、対象読者が「自分の五感で感じられるものしか信じられなくなったり、デスゲームに投入される形でしか生きてる実感を回復出来なくなった1990年代後半の虚無的な若者」であった事でした。
留意点としては、90年代の退廃的な雰囲気を知らない場合、作品の雰囲気を十分に楽しめない可能性があること。
1作品毎に物語は完結するが、ある出来事の中で見せる人の姿は一面にすぎないという考えがあり、複数作品を読まなければ知ることができないことも多い。
むしろ1990〜年代のアニメとかのが純粋に楽しめるの少ないぞ。lainとかどういう目で見れば正解なのかさっぱりわからんしブギーポップとかもせやろ。
— オタク (@KimoOta_JP) 2016年11月20日
ブギーポップとかCMすら「なんで皆生きてるんだろ……どうせ死ぬのに」とかそんな感じのCMだったしマジで誰がこのCM見てこのアニメ見たがるんだってなる。面白いけど。
— オタク (@KimoOta_JP) 2016年11月20日
こうした制約下、1990年代末に「ブギーポップ・シリーズ」が到達した境地がこれ。
上遠野浩平「ペパーミントの魔術師(1999年)」後書き
ところで失敗ばかりしている人間というのは、もちろんこれは自分を含めて言っているのだが、実は失敗を恐れていないのではないのだ。むしろ他人よりも遥かにそれに対する恐怖心が深いとも言えるのではないかと思う。では何で失敗ばかりしてしまうのかというと、もちろんそれ以外の方法を知らないからだ。どうしても失敗してしまう奴というのはどこにでもいて、それは実は彼らの周囲が彼や彼女が失敗する以外の道を全て塞いでしまっているからなのである。その上彼らはあまりにも失敗を怖がりすぎているが故に失敗しない道というのが想像も出来ないのだ。しかし、そいつにとっては世の中というのがそういう風に出来ているものだという事実は動かし難い。失敗したくはないが、失敗しなくて済む方法というのがないのだ。あるいは、もっと正確に言うなら、”まだない”のだ。過去にそんなものは一度だってなかったし、これからもこのままだったら存在なんかしない。だから失敗しない為には、自分でも想像できない何かを探さなくてはならないのだ。そういう奴等は、そんな事そうそうできる訳がない。だから失敗するのだ。
だが実のところ新時代というのはそういう失敗からしか生まれない。世界の未来は彼らの様な"まだないものを探す"人々が握っているのだが、その事自体は彼ら自身の救いとならない。飛躍的変化を遂げる時代というのは、だいたいとんでもなく無駄に人が死んでいる。日本でも明治維新のあたりがそうだろう。もっと近くにもすごいのがあったけど、私はよく知らないので発言は控える。*「もっと近くにもすごいのがあった」…ソ連崩壊(1991年12月)を引き金とする一連の騒乱? バブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)を契機とする角川商法などの既存ビジネスの崩壊? それとも選挙で敗れたオウム真理教がサリン散布事件(1994年〜1995年)に走る一連の流れ? 1999年当時の読者が想像したのは概ねその辺りだったと推測される。
上遠野浩平「ブギーポップ・シリーズ」は、決してメディアミックスに成功したとも、海外進出に成功したともいえない作品ではあるのですが(その点では「Serial experiments lain(1998年)」の方が遥かに恵まれていた)、それ故に以下の様な海外展開との対応が気になってならないのですね。
彼女達は「ヴォルデモート卿は(選択肢を間違った)私!!」、「( 「シンゴジラ」の)鎌田君は私!!」、「オブスキュラスは私!!」と叫びながら、決して「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合はこの限りではない」なるジョン・スチュアート・ミルの「自由論(On Liberty、1859年)」の立場から離れる事もない。
ある意味、終戦直後の焼け跡で坂口安吾が「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」と叫んだ状況そのもの。
「完全な空虚からの試行錯誤による再出発」とはそういうもの?
これって、まさに「ブギーポップ・シリーズ」のコンセプトそのものなのでは?
「数値化の抱える根本的欠陥に対する人的カバー」こそが、これから狙うべきファクターとなってくるのかもしれない…