諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】思うより深い「スープ」と「ソース」の歴史?

懐かしい…そういえば「近代食品文化研究会」が現れてアクセス数を拐われるまで、食文化研究は私のはてなブログの主要な題材だったのです。

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まずはそれとなく注目してきた「広州の黒人文化」の話から。

サイゼリアについてはこんな話も。

そして…

考えてみれば昆虫食の一種。

そして…

そして…

レストランのホスピタリティ」とは随分大きく出ましたね。その精神は十字軍時代/大開拓時代(11世紀~14世紀)まで遡るのです。

元々の料理名は「海将ライス・グラタン」とも。「風邪を克服する勇ましさ」こそが重要だった?

  • グラタン」といえばフランス料理。その大源流は(フランスとローマ教皇庁を結ぶ街道が通っており、中世フランス国王の直轄領に編成され、以降英国のウェールズ領の様に皇太子が継承する様になった)ドーフィネ地方のお焦げ料理。元来は粗野な郷土料理に過ぎなかったが、フランス宮廷料理に編入され洗練されて高級料理の仲間入りを果たす。

  • 一方、フランス料理界にはまた別個「パリのレストランがイタリア貴族のドリア一家に捧げる名目で始めたトマト、キュウリ、タマゴといったイタリア国旗を表す3色の食材を使用した料理」がドリアと呼ばれていた歴史があったりします(フランスに帰化した末族にまつわるエピソード。イスラム諸国から欧州を守った雇われ海将としての側面ですらない?)。はっと、この構成どちらかというとコンセプト的には「冷やし中華」の仲間なのでは?
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  • それは「ラタトゥイユ=カポナータ」辺りの豊かな彩りを連想させるのです。

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話が面白くなってきやがった?

これはそもそもフランス料理の歴史に由来するんですね。

ミネストローネ(minestrone)は主にトマトを使ったイタリアの野菜スープ。イタリア語でスープを意味するminestraに指大辞-oneを付けた語で、minestraの語源はラテン語ministrare(「給仕する」の意)。

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  • イタリアでは、使う野菜も季節や地方によって様々であり、決まったレシピはなく、田舎の家庭料理といった趣である。そのため、トマトを入れていないものでも「ミネストローネ」と呼ばれることがある。

材料にはタマネギ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、セロリ、ズッキーニ、さやいんげん、ベーコンなどが用いられる。パスタ(ショートパスタやカペッリーニを短く折ったもの)や米を入れることも多い。

大元はフランスでもこんな感じの粗野な(ロクな内容吟味もない)「具沢山」田舎料理だったのですが(原型を留めているのが「フランスのおでん」ポトフ)宮廷料理として洗練されるうちに全くの別物に。

スープ( 英語soup(スープ),フランス語soupe(スプ),ドイツ語Suppe(ズッペ),スペイン語ポルトガル語Sopa(ソパ))は狭義には語源となった欧州料理を指す。元来はパンに肉や野菜を煮込んだ鍋物の出汁と具、あるいはワインやシードルといった果実酒をかけてふやかした粥状の料理を指した。

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①最初からあった医食同源概念。

その歴史は先史時代に調理用の土鍋が発明された時から始まったとも。5世紀古代ローマ料理書「アキピウスの料理帖」にも富裕層向けの香辛料やハーブを使った数種類のスープが記載されている。

  • ヨーロッパでも古代ギリシア以来、医食同源(この言葉自体は中国における同様の思想に着想を得た近年の和製漢語)的な考え方があり、中世から近世にかけてはスープは医者が処方する薬の一種でもあった。
  • 今日でも病気の回復期には、口当たりが良い栄養価のある食事としてスープや粥が用いられる。
  • また今日なお災害や貧困などの炊き出しで一時に大勢の人間の食を賄う場合、真っ先に作られる料理の一つがスープである。

この様にスープには栄養価以外に鎮静と癒しの効果があると昔から考えられてきた。

マクロビオティック (Macrobiotic)

玄米菜食」「穀物菜食」「自然食」「食養」「正食」「マクロビ」「マクロ」「マクロビオティック」「マクロバイオティック」「マクロバイオティック」とも呼ばれる食生活法。古代ギリシャ語「マクロビオス」を語源とするマクロビオティックの合成語で「健康による長寿」「偉大な生命」といった意味合いで18世紀ドイツのクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントが長寿法という意味合いで使いはじめた。フランス語など、ラテン語系の言語での発音を日本語表記したもので、英語ではマクロバイオティクスに近い発音でこれを実践している人を「マクロビアン穀菜人(こくさいじん)」と呼ぶ事もある。

日本においては食育で著名な明治時代の薬剤監であり医者であった石塚左玄の食物に関する陰陽論を思想的出発点とする。必ずしも栄養学的、科学的根拠を持たない主張も含まれているが、その著書「化学的食養長寿論」では「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」とし心身の病気の原因は食にあるとした食本主義、「人間の歯は、穀物を噛む臼歯20本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である」とする人類穀食動物論、「居住地の自然環境に適合する主産物を主食に、副産物を副食とする事で心身もまた環境に調和する」とする身土不二、ナトリウムとカリウム当時の西洋栄養学がでは軽視されていた栄養素)のバランスが崩れると病気になるとし中国漢方の陰陽論に基づく分類とはかなり異なる独自理論を展開した陰陽調和論、「一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる」「白い米は粕である」とし玄米を主食としてすすめた一物全体主義ただし当時の栄養学には食物繊維の概念がなかった為、消化されない栄養素があるとして少し精白した米を勧めたとも)などが展開された。桜沢夫人の証言によれば、彼の結成した食養会で活用した食文化研究家の桜沢如一1928年に行った講習会が運動化の契機になったという。桜沢は当初左玄の考え方に従い「鳥・魚・卵を少しなら食べてもよい」としていたが、晩年にはそれらも食べない菜食が正しいという見解に到ったという。現在ではさまざまな分派が存在する。2005年には日本経済新聞が「1947~1957年生まれの女性の1割以上が実践している」と報じた。おおむね以下のような食事法を共通の特徴とする。

  • 玄米や雑穀、全粒粉の小麦製品などを主食とする。
  • 野菜、穀物、豆類などの農産物、海草類を食べる。有機農産物や自然農法による食品が望ましい。
  • なるべく近隣の地域で収穫された、季節ごとの食べものを食べるのが望ましい。
  • 砂糖を使用しない。甘味は米飴・甘酒・甜菜糖メープルシロップなどで代用。
  • 鰹節や煮干しなど魚の出汁、うま味調味料は使用しない。出汁としては、主に昆布や椎茸を用いる。
  • なるべく天然由来の食品添加物を用いる。塩はにがりを含んだ自然塩を用いる。
  • 肉類や卵、乳製品は用いない。ただし、卵は病気回復に使用する場合もある。◎厳格性を追求しない場合には白身の魚や、人の手で捕れる程度の小魚は、少量は食べてよいとする場合もある。
  • 皮や根も捨てずに用いて、一つの食品は丸ごと摂取することが望ましい。
  • 食品のアクも取り除かない。
  • コーヒーは身体を冷やすので避ける。

英国においては桜沢の弟子久司道夫(1950年代から渡米して「禅マクロビオティック運動」の伝教に着手し米国宗教学者からニューエイジ運動の起源の一つに数えられられている)から指導を受けたサイモン・ブラウンが、英国マクロビオティック協会を設立し会長を務める。風水、九星気学、指圧、氣功、漢方薬などの知識もあるサイモンは主著「モダンマクロビオティック」で日常生活を明るく生き生きと幸せに過ごすためのマクロビオティック、子供や若い世代に必要な栄養素を含み、現代風にアレンジした食育実践を推奨し、各国からイギリスへこれを学びに来る生徒達も多い。

②文献における初出

中世に入るとブイヨン(bouillon イギリスではブロスと呼ぶ)が文献に登場し始めるが、当時のブイヨンは「肉を煮た後の煮汁」を指し現代のものよりとろみがあったと思われる。

  • リチャード2世治下のイギリスで書かれた最古の料理書「料理集(Forme of Cury,1390年)にも「ネズミイルカのブロス」や「ノロジカのブロス」など、スープに近い形の料理が採録されている。
  • ドイツ最古の料理書「よき料理の書(1345年)」にもマメやガチョウのスープのレシピが掲載されている。

医食同源の世界はベジタリアン方面に向かいがちだが、少なくともその起源においては「狩猟肉と家禽肉の世界」と重なっていたという訳である。特に狩猟が軍事訓練を兼ねる貴族にとって身近な存在だった。

  • スープと直接の関係はないがブルゴーニュ(ブルグント)地方などにはローマ時代からムスト(Must、ブドウの搾汁液=未発酵のワイン)にシナピス(Sinapis。粉に挽いたからし種子)を加えた「燃えるマスト(Mustum ardens)」が伝わっており、これが17世紀以降フランス宮廷料理の調味料として加えられマスタード・ソースの起源となる。
  • 中世欧州においてマスタードは庶民が料理に使える唯一の安価な香辛料でもあった(後に生姜がこれに加わる)。

その一方で家禽料理は伝統的に牛乳や卵と深い関わりを有してきたのである。

③「硬くなったパンをふやかすもの」としての定着。

15世紀にな入ると、とろみのある濃い煮汁がポタージュ(potage)と呼び分けられる様に。

  • 当時のpotagepot(ポ、鍋の意)の派生語で「鍋の中に入っているもの」という意味だった。イギリスではポタージュは「複数の材料から作る料理から出た煮汁」を指し、この語からポリッジ(Porridge 穀物)の概念が分化した。
  • 欧州料理にシチューの様なものが加わるのはこれ以降。ソースとの違いは「目立つ具材(特に肉片)がゴロゴロ入っている事」。その一方で鳥や豚などの家禽やキノコなどが細かく刻まれて入っているものはあくまで「ソース」と呼ばれた。

今日では料理にうま味を加えるための液、ラーメンなど麺類のだしをタレで調味した汁の事もスープと呼ぶ。

  • 牛肉、豚肉などの肉類、鶏がら、もみじ、豚骨などの骨、煮干し、あご、干しエビ、貝柱などの魚介類やその干物、タマネギ、ニンジンなどの野菜、昆布などの海藻、シイタケなどのキノコなど、用途や風土に応じてさまざまな食材を使って作るものがある。
  • 食材のエキスやアミノ酸核酸などの栄養成分やうま味成分を多く含むものが多いため、比喩的にエキスが豊富に含まれているような状態を指す場合もある(アミノ酸のスープ等)。

同時期フランスではソップ(sop)が文献に現れる。ラテン語スッパーレ(suppare 浸す)が語源であり、原義では「煮汁に添えるパン」を指した。 英語のSoup(スープ)、フランス語のSoupe(スプ)、ドイツ語のSuppe(ズッペ)、スペイン語ポルトガル語Sopa(ソパ)といった欧州圏の同系統の料理は、鍋物の煮汁、すなわちブイヨンや果実酒に浸して食べるためのパン切れの意味で12世紀頃から用いられ始め、14世紀になってパンに煮汁をかけてふやかしたパン入りブイヨンを指すように変化していった。

  • 中世ヨーロッパでは、パンは伝統的には食事のたびに焼きたてのものを供するのではなく、時をおいて村の共同のパン焼き窯でまとめ焼きした大きなものを時間をかけて食いつなぐものであった。そのため焼いてから時間のたったものは硬くなっていたし、そもそも寒冷でやせた土地の多いヨーロッパの多くの土地では柔らかいふわふわした白いパンを焼ける小麦の栽培は困難で、ライムギやエンバクの栽培が主体であったため、それらを素材としたもともと硬い黒パンを常食とした土地が大半であった。
  • そうした大きな硬いパンはそのまま切って食べることは少なかった。通常食事に際して肉、特に豚肉を保存食に加工したハム、ベーコン、ソーセージといったものなどと、季節の野菜を鍋でやわらかく煮込み、汁の部分に味がよく溶け出した鍋物をつくり、家長がパンをナイフで切り分けて家族に配り、それを各自がむしったものを入れた皿に主婦が汁を注いでふやかし、さらに軟らかく煮えた具を載せて食べた。
  • 実はワインシードルといった果実酒も、古くはこうした硬くなったパンをふやかして食べやすくする意味が大きく、そうした用途のための果汁を、アルコール発酵によって保存食にした性格を有したのである(聖餐儀礼においてパンをキリストの肉、ワインをキリストの血に見立てるのもそもそも両者がこうして一体のものとして見なされていたからであろう)。
  • スプーンが普及する以前の時代には、厚く切ったパンを各自の食卓におき、食器の代わりにその上にこのような汁と具をかけてふやけたものを手でむしって食べたともいわれる。

現在でも欧米でスープ、あるいはポタージュと呼ばれる料理には元来のふやかしたパンの痕跡であるクルトンやパスタなどの浮き身や、裏ごしした穀類、豆類、ジャガイモなどに起源するデンプン質の素材が入っていることが多い。日本では汁物が主食に付随する飲むものと認識されているのとは対照的に、欧米では量の少ない軽めのスープが主菜の前に供されることが多く、ボリュームのあるスープは(軽い食事では特に)それ自体が主菜級の食べものとなりうる。なお、英語・ドイツ語・フランス語ではスープを「飲む(drink/trinken/boire)」ではなく「食べる(eat/essen/manger)」と言う。また、英語のsupper(軽い夕食)と同語源である。この点からもスープは「食べる」ものであったことが窺える。

④「具なしスープ」の普及

17世紀以降に、中・上流階級の者に供される食事が洗練されてくると、素材の味がたっぷり溶け出したブイヨンそのものが重視される傾向が生じた。

  • 極端なものではコンソメのようにほとんど純粋なブイヨンにまで洗練されて、主役の一方であったパンはクルトンのような浮き身にまで痕跡化するに至る。
  • またパンに相当するデンプン質の食材を裏ごししたり、ベシャメルソースにして完全に流動化させたクリームスープが普及。

もともとフランスでは本来はパンにかけるような鍋物を、ブイヨンを独立して飲み、また改めて軟らかくなった具を食べる独立した料理として扱う場合には、火にかけた鍋を意味するポトフ(pot-au-feu。potは鍋や壺、feuは火を示す為に「火にかけた鍋」といった意味)と呼んでいた。

  • 「(17世紀に絶対王制を基礎付けた太陽王ルイ14世が主治医に全ての歯を抜かれてしまった」という逸話もこうした文化に深く根差す(もしかしたら「貴族的存在として血のみで暮らす」吸血鬼概念の由来の一つでもあるかもしれない。実際サワービーツでスープを赤く酸っぱくする東欧のボルシチ文化のバリエーションの一つとして「血入りスープ」は実在する。その一方で地域によっては新大陸作物の流入後、伝統的ボルシチの「赤」がトマトスープに、蕪がジャガイモに置き換えられた)。

  • また同時代にはポーランド貴族も「具沢山の田舎風ボルシチ」を蔑んで「農民のボルシチ」と呼び分け、具を抜いて透明度を競い合う「貴族のボルシチ」開発に夢中となっている。その結果、ポーランド貴族(シュラフタ=マグマート)風ボルシチを代表する「バルシチ・チスティー(澄んだボルシチ)」は貴族の正式な宴会で必ず最初のスープとして供される様になり正式なフランス料理のコンソメに対応する格を備えるに至るのである。

その一方でソーセージ、人参、玉葱、カブ、セロリなどを煮込むフランス料理のポトフや、ソーセージ、ジャガイモ、人参、玉葱、レンズ豆などを煮込むドイツ料理のアイントプフ(Eintopf,「鍋の中に投げ込んだ」の意)といった西洋家庭料理は日本の「おでん」に対応。しかし何故か具入りのブイヤベースはその後スープに分類される展開を迎える(労働者向けの低価格ブイヤベースの場合、具は食べられたものではなく、汁のみパンに浸して食べるものだった事と関係があるかもしれない。日本で「あさり汁は具まで食べる、しじみ汁は具まで食べない」感覚に似てるとも)。

⑤「ポタージュ」概念の多様化

フランス料理では18世紀になると、このブイヨンの部分が肥大していった洗練されたスープを、郷土料理の伝統的スープと区別して、改めて鍋物を意味するポタージュの名で呼ぶようになっていった。

  • その一方でミネストローネ()、クラムチャウダー()、ボルシチ()、ガスパチョ(西)、味噌汁()などを外国のスープ(potage étranger)と呼ぶ様に。
  • 一方イギリスの料理書では、はっきりと区別されずポタージュスープの両方の語が使われてきたが、やがて語感からポタージュはフランス料理起源らしいという考えが優勢となり、フランス料理的な含みを持たせたスープはポタージュと呼ぶ、という使い分けがなされるようになった。
  • 日本においては一般にスープ類のうち、とろみのついたものをポタージュ、澄んだものをコンソメと呼び分ける。

エスコフィエはその著書の中である美食家の意見を引用し、コース料理におけるポタージュの位置づけを重要なものとしている。

  • つなぎを使ってとろみのつけたものをポタージュ・リエ(potage lié)、澄んだものをポタージュ・クレール(potage clair)と呼ぶ。
  • 澄んだポタージュ・クレール(potage clair)は「ショー(chaud、温かいもの)」「フロワ(froid、冷たいもの)」「ジュレ(en gelée、ゼリー状のもの)」に分類される。

とろみのあるポタージュ・リエ(potage lié)には以下に分類される様になった。

  • ピュレ(purée)…ジャガイモやトウモロコシやカボチャなど、デンプン質を含む野菜をブイヨンで煮込んだ後、裏漉しまたはミキサーでピューレ状にし、生クリームや牛乳を加えたもの。
  • クレーム(crème)…小麦粉をバターでいためたルウを使ってとろみをつけたもの。仕上げに生クリームを使う。デンプン質の少ない野菜に用いる。
  • ヴルーテ(velouté)…卵黄や生クリームを使ってとろみをつけたもの。
  • スープ(soupe)…もともとは肉や野菜のごった煮に入れて食べる、パンのこと。現在では田舎風の、素朴なスープを指して言う。
  • ビスク(bisque)…エビやカニなど甲殻類から出汁をとり(ソース・アメリケーヌ(Sauce Américaine)の素にもなる)、これをベースにしたもの。

こうした分類は絶対ではなく、調理法、材料、地方などによって様々に異なる。

⑥「リストランテ」概念の登場

アンシャン・レジームの時代にはさらに体調を「回復させる(restaurer)」料理として富裕層を対象とする「レストラン(濃いコンソメを使ったスープ料理)」を商う店が現れ始め、それが後の飲食業としてのレストランの起源となった。実際にこれが料理屋として栄えるのはフランス革命後、宮廷から放り堕された料理人達がロシア帝国などの外国宮廷と並んでそれに活路を見出した19世紀以降となる。

近世に入り、曲がりなりにも「(国体を保つのに十分な機動力と火力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)」の樹立に成功した絶対王政下のフランス宮廷においては、ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus,1912年)」が活写した様に「レシピが成文化されて以降の宮廷料理人」もまた必然的に王侯貴族や聖職者の贅沢の追求に巻き込まれ、かつその足跡を文章に残してきたのです。

同時代に書かれた、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」が、経済発展の要因をプロテスタント的な禁欲と、それによる貯蓄という、倫理にもとめているのに対して、この著書では恋愛、特に姦通や売春などとそれに関連する奢侈、贅沢に求めており好対照をなしている。

例えば、宮廷で行われるパーティとそこで繰り広げられる恋愛、その為に用意されるドレスや豪華な贈り物といった、あらゆる贅沢品は海外の植民地で生産されており、それを取り扱う商人が新たなブルジョアジーとして台頭し、やがて金銭により官位を得ることにより新貴族となる。それが大都市を形成し資本主義の発展につながるということである。

中世にも奢侈はあったが、近代における奢侈は屋内的、即物的で消費的要素が強い。本書では特に女性の消費行動に注目し、衣服や装飾品に限らず、住居や食事なども分析の対象としている。 本書は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と対をなしながらも、両書とも経済発展を文化的・社会的側面から考察しており、経済学や社会学の研究者から文献としてよく取り上げられている。

同様の展開なら近世日本においても幕藩体制下で見受けられました。そちらは最初から庶民を巻き込む形でしたが。この話、全体像を俯瞰するとゾンバルトが考えたより遥かに複雑な構造を備えていたりします。

以下は登場する用語の解説。

ブイヨン(Bouillon)は主にフランス料理において主にスープのベースとして用いられる出汁。英語圏ではブロス(Broth)、イタリア語圏ではブロード(Brodo)と称する。

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  • フランス料理の味の基本となるダシは、大きくブイヨンフォンに分かれる。主としてポタージュをはじめとするスープの基本素材となるものがブイヨン、ソースの基本素材やシチューのベースになるダシがフォンである。
  • 野菜から出る甘みがソースの味を邪魔する心配がないので、フォンと比べて野菜の味をより強く出す。牛、鶏、魚などの動物質を野菜などとともに長時間煮込んで作るが、この全体がポトフ、汁の部分を取り出したものがブイヨンである。コンソメは出汁をさらに調理して作る、それ自体がポタージュの一種のスープ料理である。
  • 日本では簡便な固形調味料としての印象が強いが、本来ブイヨン10リットルを作るには、牛すね肉4kg・牛の脛骨2kg・鶏1羽・鶏がら6羽分・タマネギ2個・ニンジン3本、さらに香味野菜(ミルポワ)のセロリ・ネギ・ブーケガルニと大量の材料を使う、もっとも贅沢なダシの取りかたである。これらを弱火で8時間ほども煮込み、煮込んでいる間はしっかりとエキュメ(あく取り)する。ひき肉と刻み野菜を比較的短時間で煮込むという簡略化した手法もある。
  • フランス7大ソースの一つ「エスパニョール・ソース」の原料の一つ。
  • イタリア料理におけるブロードは、使用する材料により肉のブロード(brodo di carne)、魚介のブロード(brodo di pesce)、野菜のブロード(brodo di verdure) に大別される。他の料理の素材として使う他に、そのままスープとしても供される。

フランス料理の基本として75年間で約30版を重ねたラ・ヴァレンヌフランス料理人(Le Cuisinier Français 、1651年出版)」が初出。

フォン・ド・ヴォー(fond de veau)はフランス料理の基本となる出汁であるフォンの一種。「仔牛のフォン」を意味する。

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  • フォンは大きく「茶色のフォン(フォン・ブリュン:fond brun)」と「白色系のフォン(フォン・ブラン: fond blanc)」の2系統があり、主にシチューのベースになったり、ソースを作るのに用いられる。素材を焼いてから煮ればメイラード反応のために茶色の、生から煮出せば白色のフォンになる。
  • フォン・ド・ヴォーは茶色系フォンの一種である。子牛の骨やスジを焼き色がつくまで炒めるかオーブンで焼いてから、ブイヨンや水に入れ、弱火でゆっくり煮込む。これにタマネギやセロリなどの香味野菜と香辛料、トマト(生あるいはピュレ)を加えて、更に煮込んで作られる。アクや余分な脂肪を根気良く取り除きながら、汁が濁らないように注意して煮込んでいくのが澄んだフォンをつくるコツである。
  • 仔羊の出汁はフォン・ダニョー(fond d'agneau)、シカ、イノシシ、ウサギやウズラなど野鳥獣の出汁はフォン・ド・ジビエ(fond de gibier)と呼ばれ、これらはいずれも褐色系のフォン(フォン・ブリュン)の一種である。フォン・ド・ヴォーを更に漉しながら煮詰めた濃厚なソースはグラス・ド・ヴィアンドと呼ばれる。
  • 一方、白色系のフォンには、鶏のフォン(フォン・ド・ヴォライユ:fond de volaille)や魚のフォン(フュメ・ド・プワソン:fumet de poisson)がある。
  • フランス7大ソースの一つ「エスパニョール・ソース」の原料の一つ。 

初出はやはりラ・ヴァレンヌフランス料理人」。

ソースにとろみをつけるルー(roux,ルウとも表記)は小麦粉サラダオイルバターなどの食用油脂で炒めて調理したもの(カレー用のルーは焦げるまで調理する場合もある)。デンプンがα化し、各種ソースやカレー、シチューなどの料理のとろみを出す。

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  • 白いホワイト・ルーと焦げ色をつけたブラウン・ルーがあり、料理によって使い分けられる。前者は最終加熱温度が120℃前後なのに対して、後者は160~180℃に達する。
  • 伝統的なフランス料理の基本ソースのうち「ベシャメルソース」「ヴルーテソース」「エスパニョールソース」のとろみづけに使用する。

初出はやはりラ・ヴァレンヌフランス料理人」。

コンソメ(Consommé)はフランス料理におけるスープのひとつで、澄んだスープの一種。琥珀色、淡黄色である。仏語で「完成された」という意味で、中世から見られるようになった。

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  • 基本的な作り方は、牛肉・鶏肉・魚などからとった出汁(ブイヨン)に脂肪の少ない肉や野菜を加えて煮立てる。完成したスープの色は澄んだ琥珀色でなくてはならず濁っていることは許されない。煮込むことで具材から茶色が染み出るとともに、アクが出でスープが濁るので、アクをまめにすくうほか、卵白や卵の殻をくわえてアクを吸着させる。さらに漉した後で浮いた脂分を取り除く。
  • レストラン等ではこれらの手順は厳密に行われ、さらに焦がした野菜やカラメル等で着色し、綺麗な琥珀色を完成させることもある。見た目は単純だが、非常に手の込んだスープである。熱いまま出す場合には冷めるのが早い上にゼラチン質を含むため、注意を必要とする。また、冷やして飲む場合もある。多くの場合は様々な付け合わせとともに出され、風味豊かであるわりに満腹感は与えないため、コースのはじめに食欲を刺激するのに理想的なスープのひとつである。
  • 牛のコンソメは「コンソメ・ドゥ・ブフ(脂肪分が少ないので、牛の場合もっとも望ましいのはスネの肉である)」、鶏のコンソメは「コンソメ・ドゥ・ボライユ」、魚のコンソメは「コンソメ・ドゥ・ポワソン」、キジやハトなどの野鳥、猟で得られた動物類のコンソメは「コンソメ・ドゥ・ジビエ」と呼ばれる。
  • 風味を増すため、材料には腱や軟骨など、ゼラチン質を含むものがなければならない。コンソメ・ドゥブルという、倍の濃さのコンソメのレシピもあるが、作り方は様々。またかつては腱や軟骨などゼラチン質を多量に含む部位のみを、調味料を加えずに煮込んで、果物で風味をつけたものがデザートとして出されていたが、これがゼラチンを用いたデザートの先駆けとなる。

澄んだスープをそのまま飲むことが多いが、具材を入れることでまた違った風味を楽しむこともできる。

ビスク(Bisque)はクリームベースの滑らかで濃厚な味わいのスープ。本来は裏漉しした甲殻類(ロブスター、カニ、エビ、ザリガニ等)のクーリをベースとして作られる。また燻製にしてピューレした野菜を使ったクリームベースのスープもビスクと呼ばれることがある。「市場に出荷できない不完全なところのある甲殻類や売り物にならない細い足などの部分から甲殻類のうま味を最大限に抽出する料理」という側面もある。

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  • 一般にフランスのビスケー湾に由来すると考えられているが、甲殻類を2度調理する(bis cuites)ということに由来するという説もある(お菓子のビスケットと同じくフランス語の「二度焼き=ビスキュイ(biscuit)」が語源)。調理の過程で材料となる甲殻類をまず殻のまま軽くソテーし、その後ワインや香味材料と共に煮込んで漉し、さらにクリームを加えて仕上げるからである。

  • 伝統的なビスクでは、殻も滑らかなペースト状にすり潰し、スープにとろみをつけるために加える。ビスクを濾す前に米を加えてデンプン質のとろみを付ける場合もあり、米は濾して取り除くかピュレーしてビスクに加える。海鮮のビスクは、伝統的に下皿付きの持ち手が2つついた浅いカップか、マグカップに入れて供される。

クリームベースで甲殻類を含まないスープをビスクと呼ぶこともある。この場合、火を通した具材をフードプロセッサやフードミルでピューレにして作られる。スカッシュ(カボチャやズッキーニの類)やトマト、マッシュルーム、赤パプリカ等を用いるのが一般的。

ピュレ/ピューレ(purée)は主に野菜もしくは果物の食材を生のまま、あるいは加熱し、電動ミキサーなどですり潰した後、細かな網状のピュレ用器具(裏ごし器)を通過させて、とろみのあるやや滑らかな半液体状にしたものを指す。

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  • ソース類のベースとして、あるいは焼菓子やタルト・パイなどの生地に乗せたりと、多様な用いられ方をする。
  • 肉類、エビなどをピュレ状にしたものが用いられることも珍しくない。

おフランス料理では、食材にじっくり火を通し 流れるくらいのペースト状にしたもの、果物のピュレにシロップを加えて液状にしたもの(で料理の付加食材として用いられるもの)をクーリ/クリ/クーリー(coulis)とも呼ぶ。 

クーリ(Coulis)とはピュレしてから裏漉しした野菜や果物から作られるどろっとしたソース。語源はラテン語で「漉す」を意味するcōlāreの過去分詞型cōlātusが変化した俗ラテン語cōlāticusに由来する古フランス語のcouleisである。

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  • 野菜のクーリは、一般に肉料理や野菜料理に利用される。またスープや他のソースのベースとして利用されることもある。
  • 果物のクーリはデザートに添えられる。例えば、ラズベリークーリと煮リンゴは人気のある組み合わせである。

クーリという用語は元々は調理した肉から出る肉汁を意味しており、オーギュスト・エスコフィエの時代には、肉類、狩猟した鳥肉、魚などをピュレした濃いスープに使われていた。その後、貝類をピュレした濃いスープの用語としても使用されるようになり、近年では野菜や果物から作られるソースを指す。

スープの項目の最後の段落に「絶対王政期フランスで富裕層向けの「レストランテ」が次々と開店。フランス革命勃発後、そこは宮廷料理人達にとって外国の宮廷同様、重要な再就職先となった」とありますが、もちろんそこを訪れる客は以前の様な王侯貴族や聖職者の様な富裕層ではなかったのです。従って宮廷で洗練されたフランス料理の味もまた庶民、とりわけ体力を使う産業革命時代の労働者の舌に合わせて変質していかざるを得なくなったのでした。まさしく「田舎者は濃い味付けが好き」の世界…

実は歴史学初学者としての私には「スイス人」と聞くだけで身構えてしまう側面も。

ここで乱入。

洋食」の誕生。

和食」も海外文化の影響が案外色濃い? 特に「唐三盆」すなわち砂糖の世界…

そして「昆布出汁」の世界…

そして「駄菓子」の世界…

中華料理」も魔改造されてしまう。そして「冷やし中華」登場…

ここに乱入。

まずは改めて前史としての「フランス料理」成立過程。

欧州中世宮廷料理は腐敗の恐怖との戦いであり、それは(領主が軍事訓練を兼ねた狩猟を通じて獲得する肉以外)食材の質を当てに出来ないという事でもあり、従って地産地消可能な田舎を除いてはすぐ腐る牛乳バターが食材として嫌悪され、小麦粉はトレンチャー(皿を兼ねるパン)やパイ側包み焼きの加熱剤として使われるのみで(宴席の貴族は自らそれを食せず使用人達に下賜したという)、中東より(ジェノヴァ人との商戦に勝利してレパント海の覇者となった)ヴェネツィア商人経由で輸入される香辛料(十字軍によって11~13世紀にもたらされた胡椒、丁字、ナツメグ、シナモンなど。とりわけ胡椒については16世紀まで同じ重量の金と交換されたと言われる)が味付けの中心であった。その有り様は文芸と芸術を保護し賢明王とも呼ばれた国王シャルル5世(在位1364年〜1380年)が料理長ギョーム・ティレル(Guillaume Tire)通称タイユヴァン(Taillevent)に執筆させた「ル・ヴィアンディエ(Le・Viandier,1380年頃)」において初めて成文化され後世に伝えられた(それまで料理の伝承はシェフから弟子への口答説明のみで伝えられてきたのでそれ以前の記録は存在しない。また印刷機が発明される以前なので手書きのフランス語として起草された)。

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中央集権化が進み、ルネサンス期イタリアの宮廷文化が伝愛期伝来したうち、フランス宮廷料理に変化が訪れる。物流がコントロール可能になるにつれ新鮮な食材が宮廷へも運び込まれる様になり、庶民同様に牛乳や卵を活用したり(輸入に頼る必要がなく、かつ素材の味を邪魔しない)生姜辛子に関心を移し、輸入スパイスからの脱却を果たしていったのである。その様子がフランス料理の基本として75年間で約30版を重ねたラ・ヴァレンヌ「フランス料理人(Le Cuisinier Français 、1651年出版)」に活写されている。

それではこの時代のソースとは?

有名シェフの魁アントナン・カレーム(Marie-Antoine(Antonin)Carême, 1784年~1833年)がまとめたフランス料理「4つの基本ソース」概念。

フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで働いた料理長。1814年に始まったウィーン会議の間、タレーランはたびたび夕食会を主催し、そこに出された料理が出席者の評判をさらって一躍有名になった。ウィーン会議が終わった後、ヨーロッパの地図と上流階級の食べる料理は刷新される事になる。帝政ロシアの上流階級の食文化にも大きな影響を与えた。

カレームがフランス料理に与えた影響は幅広く、例えばフランス料理のコックのかぶる帽子や新たな鍋などを考案している。またベースとなるソースによって全てのソースを4つの基本ソース(ソース・アルマンド、ソース・ベシャメル、ソース・エスパニョール、ソース・ヴルーテ)に基づき分類した事でも知られている。

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  • ベシャメル・ソース(sauce béchamel)…日本の洋食における「ホワイト・ソース」概念の先祖筋。英語でホワイトソース(white sauce)、フランス語でソース・ブランシュ(sauce blanche)と呼ばれる白いルー(ベースはバターと小麦粉。牛乳、子牛の「ストック=煮出し汁、ブイヨン」と調味料をゆっくり煮立てクリームで濃くして濾す)を牛乳で溶きのばした白いソースで、チーズを加えてモルネーソースを作るなど、他のソースのベースともなる。名前の由来は人名で、該当者が誰かについては17世紀中旬に食通として有名だったフランス侯爵ルイ・ド・ベシャメル(Louis de Bechmel)やブルターニュの行政官マルキス・ド・ベシャメイユなど諸説ある。

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  • ヴルーテ・ソース(Velouté sauce)…ペシャメル・ソースのバリエーション。(焼いていない骨を使用した)薄いストックに焦げの薄い(小麦粉とバターで作った)ルーによってとろみを付け、鶏肉、子牛肉、または魚のストック(ブイヨン、煮汁)を追加。やはり他のソースのベースとなる。名前の由来はベルベット(滑らかな有様の形容)。

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  • アルマンド・ソース(Sauce allemande)…ヴルーテ・ソースのバリエーション。卵黄と濃いクリームでとろみをつけ、レモン果汁で味付けする。名前の由来は「ドイツ風」。第一次世界大戦が勃発すると反独感情から「ブロンドソース」と呼ばれる様になり、現在の呼称は「パリジェンヌソース」。

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  • エスパニョール・ソース…日本の洋食における「デミグラ(ブラウン)・ソース」概念の先祖筋。日本の古い文献ではスパニヤソースという表記もみられ、英語においてもフランス語名を英訳した “Spanish sauce”(スパニッシュソース)という表記が稀に用いられる。

    19世紀後半にオーギュスト・エスコフィエが記述した「濃いブラウンルーに10〜15キログラムの焼いた骨、牛肉こま切れ、大量の野菜、様々な調味料と共に子牛のストック(煮汁、ブイヨン)または水を数リットルを加えアクを取りながらゆっくりと煮詰める。最後にトマトソースを加え、ソースを更に煮詰める」レシピが今なお参照されている。

    エスパニョール(espagnole)はフランス語で「スペインの」を表す形容詞espagnolの女性形だが、このソース、実ははスペイン料理とあまり関係ない。その由来についてヴィシソワーズの考案者であり古典Gourmet's Basic French Cookbookを著したルイ・ディアは「フランス料理で最も重要な基本ブラウンソースがsauce espagnoleと呼ばれるには由来がある。ルイ13世のアンヌとの婚姻で、スペインの料理人が結婚祝宴の料理を支援し、フランスの濃いブラウンソースをスペインのトマトで改良することを主張した。この新しいソースは瞬く間に成功をおさめ、考案者に敬意を表して名付けられた」、1877年に出版されたKettner's Book of the Table(書名のKettnerはナポレオン3世の元シェフ Auguste Kettne。イングランドに移住して1867年にソーホー(ロンドン)でレストラン、Kettner's を開店した。ロンドンで最古のレストランの一つ)は「ブルボン家ルイ15世のもとスペイン王に即位させた際、スペインの流行がパリに届き、フランスの料理人がスペインのポトフ、オジャ・ポドリーダ(腐った鍋)からヒントを得て、Spanishと呼ばれる新たなブラウンソースを作った。フランスのポトフの具は牛肉であるが、スペインではベーコン、ハム、エストレマドゥーラ州の赤ソーセージの燻製である。(中略)ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン(Saint-Simon)は大量のモンタンチェス(Montánchez)のハムを自宅に送った。そこではハモン・イベリコが流行していたが、評判を得るような独自のハムを作っていなかったため、非難されることはなかった。豚肉は素晴らしいものであったが、ベーコンとハムの技術を持っておらず、モンタンチェスのハムは驚異的であった。彼らはハムに夢中となった。(中略)そして、エストレマドゥーラ州のベーコンとハムの風味をフランスの旧来のブラウンソースに取り入れ、スパニッシュソースとなった。(中略)モンタンチェスのハムは需要を満たすほど豊富でなかったため、他のハム、塩漬け豚肉と変わらないフランスのハムさえも使用するようになった。こうして製法の意味は薄れ、スパニッシュソースの特殊性は消えて、その名称は謎となった」と説明する。
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エスコフィエ(Georges Auguste Escoffier, 1846年~1935年)が追加した三大ソース。

フランスのシェフとしてレストラン経営と料理考案・レシピ集の著述を通じて、伝統的なフランス料理の大衆化・革新に貢献したことで知られる。現在に至るフランス料理発展の重要なリーダーとして、シェフと食通の間で神格化され「近代フランス料理の父」とも呼ばれている。

エスコフィエが築いた技法の多くは、19世紀フランス料理の創始者として知られるシェフ、アントナン・カレームの技法を基礎としているが、最大の功績は、カレームを基礎としながらも、カレームが築き上げた、精巧で装飾的な意味合いの濃厚な料理を単純化し、調理法を体系化することによって、フランス料理現代化の先鞭をつけたことにある。

エスコフィエの改革は料理そのものにとどまらず、シェフという職に、残忍さや酩酊に代わり、規律と節制という気風を持ち込み、シェフ職の社会的地位の向上に貢献したことが功績のひとつに数えられている。また、厨房各々のセクションにシェフ・ド・パルティ(chef de partie、部門シェフ)を置くシステム「ブリガード・ド・キュイジーヌ」を発案、自身の厨房を再編した。かつては一度に全ての料理を供するサービスが主流だったフランス料理に(寒冷地にあるロシア宮廷で始まった「冷めない様に料理を小出しにするやり方」にヒントを得た)コースメニューを導入したことでも知られている。

  • トマト・ソース(Tomato Sauce)…その大元はサルサ・ソース(Salsa Sauce)の一種であったと推測される。実際、歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたイタリア人シェフのアントニオ・ラティーが著しに2巻本で発行した「近代的家令(Lo Scalco alla Moderna,1696年)」 だが、そこに記された「スペイン風トマトソース」は皮をむいて刻んだトマトタマネギ胡椒イブキジャコウソウピーマンを混ぜたもの。

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    17世紀から18世紀頃にかけてナポリとその近郊ではトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及していき、他の都市の者達がトマトソースをナポリ(伊ナポレターナ(Napoletana)、仏ナポリテーヌ(Napolitaine))と呼ぶ様になったが、当のナポリ人はこのトマトソースを単にソース(la salsa)と呼んでいたという。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/28/Concasse_de_tomate2.JPG/800px-Concasse_de_tomate2.JPG
    またナポリの水夫が好んで食べた事からマリナーラソース、またはマリナラソースmarinara sauce=マリナーラ(marinara)は、イタリア語で「船乗りの」を意味する形容詞)とも呼ばれ、その起源にとして幾つかの巷説が伝わる。一つは「16世紀半ばスペイン人がトマトをヨーロッパに、新世界の果実として持ち込んだ後、ナポリの船に乗船していたコックが発明した」というもので、具材を含まない元祖のレシピだとトマトの強い酸のおかげで腐敗しにくかったので長期の海の旅にかなう食べ物として数百年もの間、冷凍技術が発明されるまでその地位を確立し続けたという。もう一つは「ナポリの船乗りの妻たちが彼らの海からの帰宅のために準備していたソース」というもの。今日ピザパスタラビオリなどのイタリア料理に使用されているのは「トマト、ニンニク、オリーブ・オイル、オレガノ(乾燥させるとチーズと相性が良くなるシソ科の多年草)=トマトソースをベースにオレガノを加えたもの」というレピシで肉類を使用していないため、あっさりとした味わいが特徴。

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    この「ナポリのトマトソース・スパゲッティ」がスペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española,1701年~1714年)において南イタリアが係争地となったタイミングでフランス宮廷にスパゲッティ・ナポリテーヌ(Spaghetti Napolitaine)の名前で伝わり、世界中に周知される契機になったという。

    またこのマリナーラソースを使用したピザが「マリナーラ・ピザ」としてナポリピッツァの起源となる。ナポリの漁師達がなじみのパン屋にあり合わせのトマトとオリーブオイルを使って作らせたのがきっかけとなって1734年に生まれ、その後ナポリ料理で愛用されていたオレガノとニンニクが加わり18世紀後半までに貧しい人々がトマトをパンに乗せる具として愛好する様に。すぐに訪れる観光客に対する名物料理ともなった。イタリア語ではpizza marinaraで、日本語ではそれに由来して「ピッツァ・マリナーラ」と呼ばれることも多い。また、ピザが話題と分かっている場面では単に「マリナーラ」と呼ばれる事も。

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    一方「ピッツァ・マルガリータ」についてはこんな逸話が伝わる。「1889年6月11日ウンベルト1世とその王妃マルゲリータナポリを訪れた際、当時最高のピッツァ職人と目されたラファエレ・エスポジト(Rafaele Esposito)とその妻ローザにピッツァを作らせた。2人が焼いたのは、3種類。ひとつはバジルとラードを乗せたもの、ひとつはトマトのトッピング、そしてもう一つはトマトソースにモッツァレラチーズ、バジルを乗せて焼いたものだった。トマトソースの赤、モッツァレラチーズの白、バジルの緑とイタリアの国旗の色合いを王妃が大変に気に入ったことから、エスポジトは、このピザを「マルゲリータ」と名付けた。エスポジトはこのことを自身のピッツェリア「ピエトロ・エ・バスタ・コジ(Pietro e Basta Così)」の宣伝に用いており、いまでもそのピッツェリア(ピッツェリア・ブランディ Pizzeria Brandiと改名している)には王室からの書簡が飾られている」。この逸話から、この時がマルゲリータの発明であり、その名はイタリア王マルゲリータ・ディ・サヴォイアジェノヴァに由来すると一般に信じられているが、マルゲリータの具材は、19世紀を通してナポリで一般的なものであり、少なくともエスポジトの発明品ではない。Angelo Forgioneによれば、トマトソースの上にスライスしたモッツァレラを花びらの様に並べ、バジルの葉を添えれば、それはマルゲリータの名に値したと思われる。

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  • マヨネーズ(Mayonnaise)…食用油を主材料とした半固体状ドレッシング。卵は卵黄のみ使用するものと全卵を使用するものがある。元々はオリーブ油などで作られるスペイン料理のソースの一種であり、現代ではサラダなどの料理における調味料として利用されている。日本にも油は加えないが類似の風味を持つ合わせ調味料である黄身酢(きみず)がある。

    フランス語"Mayonnaise"の語源には諸説ある。地名由来とするものだけでも、メノルカ島のマオンマヨルカ島など様々。当初はオリーブ油が使われたが、ヨーロッパ全体に広まるにつれ様々な油が利用される様ようになった。

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    マオン説では18世紀中旬に小説三銃士でも知られるフランス宰相リシュリューの甥の息子ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Louis Francois Armand de Vignerot du Plessis、 duc de Richelieu:1696年~1788年:ブルボン朝のフランス王ルイ14世ルイ15世ルイ16世の3代に仕える)が七年戦争(1756年~1763年)期間中に行われた英国からのメノルカ島奪還作戦(1756年)の最中に名付けたとされる(現地で指揮をとっていたリシュリュー公爵が港町マオンの料理屋で肉に添えられたソースが気に入り、後にパリで「マオンのソース」として紹介したのが広まった最初という)。

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    製造過程で卵黄・酢・油を完全に混ぜ合わせて乳化させるのに大変な手間がかかる事から元来は高価なソースであったが電動ミキサーが発明され、完全に乳化させたマヨネーズが容易に製造できるようになると、各家庭でも作られていたサワークリームより安価となり一気に普及した。

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  •  

    オランデーズソース(Sauce Hollandaise)…バターとレモン果汁を卵黄を使用して乳化し、塩と少量の黒コショウまたはカイエンペッパーで風味付けしたフランスのソース。オランダのソースを模したことによる名前と言われている。しばしばアスパラガスに掛けられるが、そのアスパラガスの和名は「オランダうど」である。またエッグベネディクト(Eggs Benedict、イングリッシュ・マフィンの半分に、ハム、ベーコンまたはサーモン等や、ポーチドエッグ、オランデーズソースを乗せて作る料理)にも欠かせない’。

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    フランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ (François Pierre La Varenne)「フランス料理人(Le Cuisinier François, 1651年)」は「香ばしいソースをかけたアスパラガス(Asparagus in Fragrant Sauce)」のレピシの一部として以下のソース製法を記述する。「新鮮なバター、少々の酢、塩、ナツメグ、そして卵黄を合わせてソースを作る。凝固させないよう注意する…("avec du bon beurre frais, un peu de vinaigre, sel et muscade, et un jaune d’œuf pour lier la sauce")」。

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    アラン・デビッドソンは、はフランソワ・マランの「食の贈り物(Les Dons de Comus ,1758年)」の「ソース・ア・ラ・オランデーズ(sauce à la hollandoise)」に言及するが、このソースはバター小麦粉ブイヨンハーブを材料とし卵黄は含まない。とはいえ「ラルース料理百科事典(Larousse Gastronomique)」にも「以前は、魚のオランデーズ(à la hollandaise)は溶かしバターと共に供された」とあり、かつて卵黄は含まれなかった可能性を暗示している。デビッドソンはまた、ハロルド・マギーの「卵は乳化に全く必要ではなくバターのみで正しく乳化できる説明(Harold McGee 1990)」を引用した。彼はまた、卵を使用する場合でも伝統的なレシピで求められほどの量は不要であると述べた。

    卵黄とバターを使用するソースは19世紀に現れるが、様々な文献で最初に知られるのは「ソース・イジニィ(Sauce Isigny,Isginyはバターの品質で有名なノルマンディーの村)」であり、ビートン夫人の「家政読本」初版(1861年)に「独身男性向けのオランダのソース(405ページ)および後続ページの「グリーンソース、またはオランデーズヴェルテ」のレシピがある。彼女のオランデーズの調理手順は大胆で「レモン果汁以外の材料を、シチュー鍋に入れる。鍋を火にかけて、混ぜ合わせ続ける。十分に煮詰まったら、沸騰しないように、火から離す…」というもの。

全体像を俯瞰すると「食の実証主義(全体集合の補集合に追加される新要素への対応の連続)」とでも呼ぶべき景色が浮かび上がってきます。

  • 中央集権化の進行(および氷を使った冷蔵技術の導入)により牛乳といった「腐りやすい食材」が安定供給される様になった事によるフランス宮廷料理が迎えた変化(輸入スパイス依存状態から脱却し、素材の味を引き立てる辛子や生姜やハーブ類とそのブーケガルニが普及。またシャーベットやアイスクリームも登場)。
  • 「(国体維持に十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制による徴税で養い、法実証主義実践の担保とする)主権国家(Civitas Sui Iuris)」の宣伝塔としての郷土料理のフランス宮廷への導入(ドーフィネ地方のグラタン料理、ブルターニュ地方のクレープ/ガレット、ナポリのトマトソース料理、マヨルカ諸島のマヨネーズなど)。また(フランス料理文化を見習ってイタリア料理文化を構築した)イタリア関係でも「フランス料理としてのドリア(おそらく皇帝ナポレオン3世がイタリア独立戦争を後援した事に由来)」「ピッツァ・マルガリータ」などの国旗表象に独自のナショナリズムが認められる(この辺り日本の「古事記」「日本書紀」「風土記」に見受けられる「地名などの由来を皇室と結びつけようとする心理」と重なる)。そういえば日本も気付くといつの間にか「日の丸国旗と同じかそれ以上の数のイタリア国旗が掲揚されてる国」になっていたのだった。
  • 微妙な関係にある隣国の料理や新大陸から伝来した新食材が定着するまでのゴタゴタ(エスパニョール・ソースやオランディーズ・ソース、そしてトマト・ソースの立場。日本文化史でいうと「海外より伝来した三味線が、最初は保守派の抵抗を受けつつ、最終的には伝統芸能の一つと認められる景色」と重なる)
  • 産業革命導入による大量生産・大量消費時代がもたらした変化(鉄道や汽船の国際的ネットワークや冷凍/冷蔵技術の発展に伴う食材のさらなる新鮮化。これで遠隔地で量産されるアスパラガスやブロッコリーが一般家庭にまで届く様に。またマヨネーズの大量生産が可能になり、ソースが缶詰やインスタント製品の形で家庭に普及)

    それはスウェーデンからのノルウェーの独立に際して財源を供給したりもした。

それにつけても現代人の観点からすれば意外に思えるほどの食文化とナショナリズムの関係の深さ…

そしてその枠を遥かに超えた「フランス宮廷文化」の影響力…

まずは産業革命導入の影響を改めて俯瞰してみましょう。

  • 鉄道や汽船の国際的ネットワークや冷凍/冷蔵技術の発展に伴う食材のさらなる新鮮化。これで遠隔地で量産されるアスパラガスブロッコリーが一般家庭にまで届く様に。ソース(ドレッシング)の勢力図も必然的に影響を受ける。

  • マヨネーズの大量生産が可能になり、サワーソースの需要を完全に凌駕する。ちなみに同時期には工場で生産されるチョコレートプロセスチーズが大躍進。

  • 缶詰やインスタント製品の形でソースやスープが原材料として家庭に普及。味の均質化が進む。

ヌーベル・キュイジーヌ運動」には、こうした展開を踏まえ「新鮮な食材の味を引き立てる料理法を模索する事で味の均質化に対抗する」という側面もあった訳です。

ボキューズとトロワグロが見つめ、感じてきた日本 - 料理王国

とはいえ…

一時期は主要なレストランがヌーベルキュイジーヌに席巻されたが、現在、ヌーベルキュイジーヌの発想は活況を呈しているとは言えない。1980年代中頃になると、フランス料理の伝統技法を土台としながら、新しい技法を融合させていく「キュイジーヌ・モデルヌ」というスタイルが新たに提唱され、再びバターや伝統的なソースの重要性が認識されるようになった。その代表的なシェフが、ジョエル・ロブションアラン・デュカスピエール・ガニェールなどであり、古典回帰と新技法の調和によって、世界的名声を博するようになった。

フランス人の美食術」が2010年無形文化遺産登録されるまでには、こうした激動の歴史が存在した訳です。

戸川律子「和食という思想の誕生-ユネスコ無形文化遺産の登録を契機として日仏比較の視点から- 」

フランスでは、2010年に「フランス人の美食術」が無形文化遺産に登録された。

1970年無形文化遺産保護条約が採択された後、フランスの料理人たちが「フランス料理」の登録を提案し、2008年ニコラ・サルコジ前大統領は「フランス人の美食術」を無形文化遺産代表リストに登録申請する意向を表明した。それまで〈食〉という分野からはリストに登録がなかったので、フランス政府は、フランス人にとって食事とは「出産、結婚、誕生日、成功、再会など、個人や集団の生活の最も大切な時を祝うための社会的慣習」と定義し、料理そのものだけでなく、生活や習慣を含む大きな枠組みで〈食〉を捉え、それを守るべき伝統文化の一つとし、登録に至った。

当該要素に関係する社会は海外在住を含めたフランス国民全体であり、その社会は広大、多様、かつ統合されており、それは美食のような行為を共有することで実現化されてきたという。だから、この社会的習慣は特定の料理というより、むしろ「美味しく食事をするという共通の視点」に結びついている。それゆえに、食事の全構成要素が重要であるとされた。その内容は以下とされる。

  • 絶えず増加するレシピ集から慎重に料理を選ぶこと。
  • 全体の風味がよく合い、特に地元の良質な食材を仕入れること。
  • 料理とワインの組み合わせ。
  • 食事の様式の尊重(美食と呼ばれる食事では、食事作法も重要であり、食前酒で始まり食後酒で終わり、間に少なくとも 2 品から 4 品の料理が続く、すなわち前菜、魚または肉料理、チーズ、デザートなどである)。
  • 食卓の美学。
  • 美食の懇談、飲食中の行動および会話。

この様にフランス人にとっての食事は、他の文化的アイデンティティとの結びつきが強く、その保護については、フランス独自のメソッド「フランス味覚教育」の実施を通じて意識啓発を行うとされている。

一方、2013年12月4日和食」がユネスコ無形文化遺産に登録された。日本での無形文化遺産申請発起人は京都の料理人であり、子どもたちに食材や料理の知識を伝える「食育」の活動の中で、日本の伝統的な料理を知らない子どもが多くいることに気づいたこととされる。

当初、日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では「会席料理」を「もてなし料理」いわゆる高級料理として申請する予定であったが、「和食」としてより大衆化し、日本の社会的習慣を強調することで申請に至った。それはフランスの提案内容に影響を受けていたからである。

和食」は「日本人の伝統的な食文化」であり、当該要素に関係する社会は、全ての日本人で構成されるという。

また「和食」は「食の生産から加工、準備及び消費にいたる技能や知識、伝統に係る包括的な社会的習慣」であり「資源の持続的な利用と密接に関係」し「『自然の尊重』という基本的な精神に因んでいる」とされる。

そしてその意義は「他の日本人が消費し、また祖先も味わった文化的・社会的・栄養的に適切な食事を共にすることにより、日本人は帰属感を強め日本人としてのアイデンティティを再認識」することとされる。
またその保護については、食育推進基本計画により活動していくとされている。

無形文化遺産和食」と異なり、無形文化遺産フランス人の美食術」にはしっかり「食の実証主義(全体集合の補集合に追加される新要素への対応スタイルの連続性)」の理念が謳われているのですね。

そんな感じで、以下続報…