諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【メイドインアビス】【オメガファンタジー】「ロマンティック」を偽装した本格派ロマン主義

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日本における「ロマンティック」の概念は、その起源を「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半~1970年代)から企業やマスコミが「国民総動員」の概念のみを継承した産業至上主義時代(1960年代~1990年代)へと推移していく過渡期に有しています。

それはまさしく(「子供達の夢を動力源とする異世界」ファンタージェンが「夢を絞り尽くされた子供達」を次々と「かなえるべき夢をなくした冷酷な独裁者」へと変貌させ切り捨てていくディストピアを描いた)ミヒャエル・エンデの原作「はてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」が恥も臆面もなく「(元来は輝かしい冒険譚と表裏一体で不可分の関係にあった暗黒面の一切を隠蔽した)オメガファンタジー」と銘打たれた映画「ネバーエンディングストーリー(Never Ending Story、1984年)」へと容赦なく改変されていった時代でもあったのです。
*主題歌を歌ったリマールはゲイだったが、当時はまだまだ到底そのカミングアウトを歓迎する雰囲気など醸成されていなかった。国際的に見ても大衆はまだまだ「パーティで少しばかりつまみ食いを楽しみたい」レベルに留まっており、様々な物事の本質について突き詰めて考える準備など整っていなかったのである。

 *「オメガファンタジー」…暗黒面の一切が隠蔽された事によりむしろ「ゴキブリホイホイのゴキブリに対するプレゼンテーション」という捕食動物的側面が剥き出しになったとも。まさしく沙村広明「ブラッドハーレーの馬車(2005年~2007年)」の世界。当時の流行語が「誰からも何の為にも利用されない人生なんて意味がない(カート・ヴォネガット・ジュニア)」だったのも今から思えば随分と意味深。ある意味「産業至上主義」の本質を突いている。

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*それまでカルトの世界でのみ熱狂的評価を得てきたデビッド・ボウイティム・バートンの様な暗黒世界のカリスマ達がメジャー・シーンに堂々と登場する様になったのも当時の特徴の一つ。商業至上主義は、その強欲ゆえに「次第に自分達の制御下に置けなくなっていく狂乱」を自ら世に放ってしまったのだった。

こうした世界観の延長線上に現れたバリエーションの一つがつくしあきひとの漫画「メイドインアビス(単行本2013年~、アニメ化2017年~)」だったという次第。


*実は「ドラゴン飯」同様、当初は「(日本作品の悪い癖で)こじんまりとまとまってしまう可能性」を懸案していたまさかメインヒロインのリコが「(ミーティやプルシュカと一緒に冒険を続ける)本格派ロマン主義英雄」に成長するとは。しばしばファンから「芯が強い」と形容されるが、狂気と倒錯性が既にウィリアム・トマス・ベックフォード「ヴァセック(Vathek、1786年)」の域にまで到達。そういえば総力戦体制期と産業至上主義の狭間には松本零士銀河鉄道999(1977年~1981年)」なんて文化史上の位置付けに困る問題作も存在していたのだった。そして「黎明卿」ボンボルドこそ「(欧米ではエヴァンゲリオン碇ゲンドウを最後に日本では滅びたと認識されてきた)「白鯨」のエイハブ船長=「パイレーツ・オブ・カリビアン」におけるフライング・ダッチマン号のデイヴィ・ジョーンズ船長タイプのロマン主義英雄」復活の狼煙。何が凄いといって「マグニフィティセブン」における「略奪男爵」が小粒な劣化コピーにしか見えなくなってくる。

  • 総力戦体制時代(1910年代後半~1970年代)」の代表的搾取者は国家(およびそれに癒着した軍産複合体)。当時のロマン主義的主体として「国家が存続してこその国民」なるイデオロギーを掲げてきた。

  • 産業至上主義時代(1960年代?~1990年代?)」の代表的搾取者は企業やマスコミ。当時のロマン主義的主体として「商品が供給されてこその消費者」なるイデオロギーを掲げてきた。

こうした時代の変遷を最もスマートに象徴するのが「探検ロマン」に対するイメージの変遷、すなわち「国家の威信を賭けて競われたエベレスト登山競争や宇宙開発競争への熱狂」が「視聴率獲得にしか興味がない広告代理店より強いられ続けた無理が祟って事故死に追いやられた「民間冒険家」植村直己の悲劇(1985年)」や「(国家的大義でなく探検家個人の心理に照明を当てた夢枕獏神々の山嶺(1994年~1997年、漫画化2000年~2003年、映画化2016年)」に至る流れ。

そういえば元来「ロマン主義的主体(Romanticist)」とは(それを自力では為し得ない一般人に成り代わって)自らが「日常の裂け目」に対峙し、以下の2つのジレンマの狭間に苦悩する悲劇的英雄を指す言葉だったのです。

  • 「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」独裁者のジレンマ

  • 圧倒的多数派の意見に盲従し流されるだけでは「自動車やスマートフォンの発明」といったパラダイムシフトが起こせず、結果として期待に応えられず見捨てられるだけという大衆専制主義のジレンマ

多様化の時代」とは要するに「誰かが安全にロマンを追及する手段を用意してくれる」なんて共同幻想が破れ、誰もが「自分の幸せは自分で決めるしかない」現実に向き合う事を強制される様になっていく時代なのかもしれません。

自らがロマン主義的英雄を目指す(あるいは第三者としてそれに巻き込まれていく)事自体のリスク」は昔も今もそう変わってない気がします。ただ、こうした判断に対する社会的態度はかなりラディカルな変遷を辿ってきた気がします。果てさてこうした流れは未来にどういう形で継承されていく事になるのでしょうか?