諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

本当は恐ろしいロリコン(Lolicon)概念⑥これまでのまとめと新たなる課題設定。

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既に過去投稿で何度も触れてきた話ですが、2010年代前半に全盛期を迎えた(主にTumblrをフロントエンドとする)国際SNS上の関心空間においては、ニンフェットNymphet世代概ね女児の成長速度が一時的に男児のそれを抜く9歳〜14歳に対応)が以下の二派に別れ、激しい党争を繰り広げていたのです。
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  • ビリーバーBelieber)」Justin Bieberの熱狂的ファン層。Facebook上の実名アカウントを拠点とするリア充派が多かった印象。

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  • Miku派Hatsune Miku lovers)」…岸本斉史NARUTO -ナルト-原作1999年〜2014年、アニメ化2002年〜2014年)」や「アバター 伝説の少年アンAvatar: The Last Airbender、2005年〜2008年)」「The Legend of Korra2012年〜2014年)」といった武闘派アニメのファン層だが、団結の旗印として(ビリーバーから最も激しく攻撃された初音ミクを掲げる。親世代向けの子供監視ツールがFacebook上で大流行し、子供世代がこれを嫌って逃げ込んだ(当時国際SNS上の関心空間のフロントエンドとして栄えていた)完全匿名制のTumblrの匿名アカウントが多かった印象。

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展開の詳細はいかに書いた通り。スキャンダル続きでJustin Bieberの人気が凋落すると(ナルトが最終回を迎え、アバター・シリーズも一区切りしたのも手伝ってMiku派も自然解散状態に陥理ました。後続世代がInstaglamで満足する様になり、Tumblrそのものも(当時の繁栄の主要因だった)ネット上の他集団との対立が生み出す緊張感を維持出来ず衰退したせいとも言われています。

 

 2010年代後半に「ネット社会は中世的段階にあって、それぞれの集団はその存続の為に価値観の異なる他集団との恒常的対立を必要とする」なるカール・シュミットいうところの友・敵関係Freund-Feind Verhältnis)めいた暗黒時代回帰論が流行する契機となったかもしれない事件…

  • 20世紀までの科学の発展は伝統的社会を支えてきた諸概念を破壊する形で「究極の自由主義当事者以外の全てに対する専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマを剥き出しにした。
  • 近世に端を発っする(相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家羅civitas sui iuris)間の競争が全てとなった総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)が終焉すると、大衆社会を支える(商品供給を担う)企業や(情報流通を担う)マスコミが主権者の立場の継承を主張する様になったが、インターネットの普及によって消費者が直接交流して独自のコミュニティを構築する様になると次第に「党争においてどの集団が最終的に政治的勝利を飾るか」のみに着眼し、そこに自らの存在意義を見出そうとする後進性を露呈し始める。

  • そう、時代精神Zeitgeist)の関心は既に不可逆的な形で「党争においてどの集団が最終的に政治的勝利を飾るか」ではなく「如何なる分散状態の保ち方が最も個人の多様性と多態性を担保し得るか」に推移してしまったのである。

これまでの関連投稿のまとめ。

ちなみにこうした問題についての私の立脚点。

そして最近話題になっているのが「ネット社会における選択的接触の容易さが党争を激化させる段階は既に過去のものとなりつつあり、むしろ穏健な人が増えている」なる理論の登場。

ネットでは自分の好きな情報だけを見ることができるので、意見が偏りやすいと言われる。新聞やテレビでは情報はセットで提供され、ある話題について賛成意見にも反対意見にも触れることができる。しかし、ネットでは自分と同じ意見の人をフォローし、同じ意見の人とSNSで友人となり、気にいったブログだけ読むことで、自分と同じ意見にだけに接するようにすることができる。人が自分と似た意見の相手を選ぶことを「選択的接触」と呼ぶが、ネットではこの選択的接触がこれまでよりはるかに簡単にできるのである。自分と異なる意見に触れることなく、同じ意見にばかり接していると視野が狭くなり、意見は極端化しやすい。

したがって、人がネットで情報収集や意見形成をはじめると、視野の狭い極端な意見が増え、社会は分断されていくことになるとされる。分断された個人は意見が異なり過ぎ、過激になっているために相互理解が困難であり、罵倒と中傷の応酬を引き起こす。これは民主主義にとって望ましいことではない。この分断の懸念は最近、陰に陽に指摘されるようになってきた。ネットは社会を分断し、民主主義を危うくするのではないか、と。

しかしながら、事実を詳細に分析すると、そうとも言えないということが分かってきた。ネットは社会を分断しないというのである。

どうしてそうなるのか?

考えてみると、選択的接触はリアルの世界でこそ強い。例えば、朝日新聞を購読し「報道ステーション」を見て、週刊金曜日を読めばリベラル寄りの情報が多くなる。一方で、産経新聞をとって「そこまで言って委員会」を見て、月刊Hanadaを読めば保守寄りの情報が多くなる。リアルの場合、情報取得にはコストがかるため、わざわざ自分の意見と異なる情報源に接する人は少ないだろう。これに対しネットでは、コストをかけず簡単に反対意見に接することができ、それゆえネットでは選択的接触の低下が起きたと考えられる。選択的接触が少ないなら、ネットを利用し始めて穏健化が起こり、若い層が分断化されていないのもうなずける。すなわち、ネットは社会を分断しない。

ネットの議論が分断されているように見えるのは、極端な意見ばかりが目につくネットの特性のためである。(中略)しかし、これは書き込む人が限られているからであり、ネットの利用者の意見全体が過激化し、分断されているわけではない。大半の人は自分と反対の意見に接し、むしろ穏健化している。ネットを使う若い人ほどこの傾向は顕著であり、時間がたつにつれてこの傾向は次第に広がっていくだろう。ネットによって自分と異なる意見と接し、相互に理解が深まっているとすれば、これはネット草創期の人々が期待していた姿である。ネット草創期の人々の希望はまだ死んでいない。

で、最近気になってるのがコンドルセやJ.S.ミルの様な古典的自由主義の樹立者は同時に数学者でもあったものの、ベルヌーイ大数弱の法則 (WLLN: Weak Law of Large Numbers) から出発する彼らの数理、すなわち近似・推定理論においては上掲の「分散を可能な限りそのまま取り扱う理論」がまだ十分に発達していなかった辺り。偏微分を繰り返す過程で何とか定数に落とし込んで計算対象外に追いやってしまおうとする傾向ならが今日なおあちこちに散見される有様です。例えば権威主義的心理学の創造者たるフロイト流の「若者の体制への反抗心は、その一員として迎えられる過程で自らの所属する組織への忠誠心へと収束する」みたいな考え方がその典型…

古典的自由主義は「統計的多数決による決定論」を提唱したコンドルセ伯爵や「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」としたジョン・スチュアート・ミルの平等論に由来します。

可能な限り全てを数理に委ねようとする立場故に「それまで見落としてきたパラメーターが思わぬ影響を発揮する可能性」や「アルゴリズム自体が間違っている可能性」により神経質にならねばならないとする進歩主義的立場。だからこそ「事象の地平線としての絶対他者に対する黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」の運用が重要になってくる訳です。

最大の問題点は、統計科学そのものが主に総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)に樹立されたある種の権威主義的解釈をそのまま引き摺っている辺り。
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その一方でコンドルセやJ.S.ミルが元来企図した数理的理念はフェミニズム無政府主義といったイデオロギー分野において相応の成熟を迎えます。

与謝野晶子 母性偏重を排す(1916年)

私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。

一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。

このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

 大杉栄「新秩序の創造 評論の評論(1920年6月)」

『先駆』五月号所載「四月三日の夜」(友成与三吉)というのがちょっと気になった。

それは、四月三日の夜、神田の青年会館に文化学会主催の言論圧迫問責演説会というのがあって、そこへ僕らが例の弥次りに行った事を書いた記事だ。友成与三吉君というのは、どんな人か知らないが、よほど眼や耳のいい人らしい。僕がしもしない、またいいもしない事を見たり聞いたりしている。たとえば、その記事によると、賀川豊彦君の演説中に、僕がたびたび演壇に飛びあがって何かいっている。

しかし、そんな事はまあどうでもいいとして、ただ一つ見遁みのがす事の出来ない事がある。賀川君と僕との控室での対話の中に、僕が「僕はコンバーセーションの歴史を調べて見た。聴衆と弁士とは会話が出来るはずだ」というと、賀川君が「それは一体どういう訳だ」と乗り出す。それに対して僕がフランスの議会でどうのこうのと好いい加減な事をいう、というこの最後の一句だ。何が好い加減か。この男は自分の知らない事はすべてみんな好い加減な事に聞えるものらしい。

僕らの弥次に対して最も反感を抱いているのは警察官だ。

警察官は大抵仕方のない馬鹿だが、それでもその職務の性質上、事のいわゆる善悪を嗅かぎわけるかなり鋭敏な直覚を持っている。警察官の判断は、多くの場合に盲目的にでも信用して間違いがない。警察官が善いと感ずることは大がい悪い事だ。悪いと感ずることは大がい善い事だ。この理屈は、いわゆる識者どもには、ちょっと分りにくいかも知れんが、労働者にはすぐ分る。少なくとも労働運動に多少の経験のある労働者は、人に教わらんでもちゃんと心得ている。そしてそれを、往々、自分の判断の目安にしている。いわばまあ労働者の常識だ。

僕らの弥次に反感を持つものは、労働者のこの常識から推せば、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間だ。僕らは、そんな人間どもとは、喧嘩をするほかに用はない。

元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。

たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか殴れとかほざき出す。何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片でも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。

奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

それにはやはり、何よりもまず、いつでもまた何処どこにでも、みんなが勝手に踊る稽古けいこをしなくちゃならない。むつかしくいえば、自由発意と自由合意との稽古だ。

この発意と合意との自由のない所に何の自由がある。何の正義がある。

僕らは、新しい音頭取りの音頭につれて踊るために、演説会に集まるのじゃない。発意と合意との稽古のために集まるんだ。それ以外の目的があるにしても、多勢集まった機会を利用して新しい生活の稽古をするんだ。稽古だけじゃない。そうして到る処に自由発意と自由合意とを発揮して、それで始めて現実の上に新しい生活が一歩一歩築かれて行くんだ。

新しい生活は、遠いあるいは近い将来の新しい社会制度の中に、始めてその第一歩を踏み出すのではない。新しい生活の一歩一歩の中に、将来の新しい社会制度が芽生えて行くんだ。

僕らのいわゆる弥次は、決して単なる打ち毀しのためでもなければ、また単なる伝道のためでもない。いつでも、またどこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩一歩を築き上げて行くための実際運動なのだ。

弁士と聴衆との対話は、ごく小人数の会でなければ出来ないとか、十分にその素養がなければ出来ないとかいう反対論は、まったく事実の上で打ち毀されてしまった。

怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。音頭取りめらよ。犬めらよ。

そしてこうした時代には「旧悪」はまた姿を変えて人間の目に映るものなのです。

 こうした話は、どうしても例の話題に直結してしまいます。

なるほど、2020年代がどういう時代になりそうかやっと可視化されてきた? それは不思議にも100年前に大杉栄与謝野晶子が掲げた自由主義への回帰という体裁になりそうだ? まぁ反対勢力も(100年前同様に)強まってる訳ですが…