この考え方、案外重要かもしれません。
大日本帝国がおかしくなり始めたの、明治期には江戸期以来の村落秩序が変形しつつも流動性が低いまま強固に存在してたのが大正期以降流動化し始めて騒擾が頻発するようになり、これへの対応を失敗したことが背景にあるので、社会の中で起こってたことはかなりダイナミックだった。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月27日
社会が不安定化してたのでこれを政治が上手く処理できたら蛹が蝶になるような発展をできたのかもしれんが、期待された政党政治も結局しくじったので、蝶になり損なった蛹からとんでもない化け物が出てきた。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月27日
その続き。
明治初期に地方統治を円滑にするために村方など地方の伝統的リーダーを地方名望家として地方議会運営に携わってもらったが、徐々に土地のリーダー層への集中が起こって小作農が激増、明治末年以降はこれが流動層となって社会不安の背景をなすに至るので、昨日の名案が今日の致命傷になるのも政治。 https://t.co/3UbYpwd8Mu
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月28日
で、この流動層が増えた時期にちょうどロシア革命の煽りでマルクス主義が流入して小作争議や労働争議が更に激化。マルクス主義は原因というよりは既に不満があったところに上手く理論を提供したというところだが、明治期に育った人間の目には恐ろしい現象として映ったのは想像に難くない。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月28日
だから流動層が増えた現実に対応して男子普通選挙法が成立すると同時に治安維持法が成立するようなことにもなる。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月28日
そして…
昭和中期以降の高度経済成長の日本は、大正期頃に始まる大衆化の流れの延長線上にあったので、日本を戦争に突き動かした世代そのものの時代でもあるんよな。昭和末期頃からこの世界は忘れられ始め、長い平成を経て今やすっかり過去になってしまって理解し難い歴史となった。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月28日
市民社会が成熟する前に中身が出てきたから、全身が腐ってたのだろうな。巨神兵みたいに。 https://t.co/rfKmpAR0zX
— 笑い男 (@warai_otoco) 2022年1月28日
残念ながら納得してしまう面はあるな。「腐ってやがる、早すぎたんだ」て感じの大日本帝国ではあった。
— Sz73 (@Sz73B) 2022年1月28日
発端はこの投稿。
オウム真理教事件は衝撃的な体験だった。知能の高いと思われる人たちが簡単に思想にハマる。
— Danza Espanola (@DanzaEspanola) 2022年1月26日
世論では「洗脳」という言葉が飛び交っていたが、世論形成する知識人らには、自らのが社会的価値観や現代思想に洗脳されていないのかとの反省は一切なかった。
あくまで自分の価値観が正しく、その正しさの立ち位置から異形の価値観を間違いだと否定し攻撃する。
— Danza Espanola (@DanzaEspanola) 2022年1月26日
やっていることはオウム真理教側と大差ない。2つの立ち位置から離れて、外側の視座から2つの価値観を同列に観察することが本来は求められていた。
その意味で未だオウム事件は終わっていない。
ここで乱入。
そこでカール・マルクス「経済学批判」の本来の趣旨「我々が自由判断の結果と信じているあれこれは、その大半が社会的合意に型抜きされた量産品に過ぎない」。当時のフロイトの「自由は人間を解放する。ただし自由に、ではない」と合わせドイツ社会学の方法論的個人主義の出発点。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月26日
当時の文献はこれを「マルクス=フロイト主義」と総称してたりします。いずれにせよ「(産業革命進行によって破壊された)アソシアシオン(共同体)復興」の悲願から始まったフランス社会学の方法論的集団主義とは全くの別物。後世の社会学はこの2つのアプローチをどう統合したんでしょうか?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月26日
レスポンスありがとうございます。ただ私は学究的な人ではありませんので、申し訳ないのですが仰るような文脈で貴方の期待に応えられる返信はできかねます。
— Danza Espanola (@DanzaEspanola) 2022年1月27日
マルクスに指摘されるまでもなく、哲学的な原理から考えて、我々人間は生まれた時既に連綿と続く人間社会の価値観に周囲を囲まれています。
自分を取り巻く環境、大自然的なこと、人間社会的なことから価値観の影響を受け、そこに自己の生命的な力動が加わります。
— Danza Espanola (@DanzaEspanola) 2022年1月27日
自分の価値観や人格的思想的信条的なことは、影響を受けて形成されているにもかかわらず、そのことについての感性が鈍くなり無反省となってしまいがちです。
人間個体として、
何かを信じることと、その拡張した先にある社会との関係性を可逆的に考察することが宗教問題についての本質でもあると考えています。
— Danza Espanola (@DanzaEspanola) 2022年1月27日
前提として「信じる」という人間の性質はなぜあるのか、絶対に必要なのか、その様相が人それぞれ異なることをどう整理したら良いのかと考察課題が山積しています。
これに追記。
ここでいう「ドイツ社会学の方法論的個人主義とフランス社会学の方法論的集団主義の対峙」について、私は大学における社会学の授業の第一回目に習いました。1980年代の事ですから、今からざっと40年も前の話ですね。https://t.co/Mj59STpDZz
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
当然続きは「今日の社会学はこの二つのアプローチが統合される形で発生した」だと思うでしょ? しかし残念ながら授業の続きでこの件についてその形での伏線回収が得られる事はなかったのです。実際にあったのは統合どころか陰惨な学閥党争の話ばかり…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
まずフランス社会学そのものがデュルケームの方法論的集団主義自体、「犯罪者は遺伝の影響というより、自らを囲む環境に影響される形で生まれる」と考えたタルドの「模倣犯学」に「心理学的社会学」のレッテルを貼り、これを党争で倒す事により成立。https://t.co/7qP9LD3Hi1
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
×フランス社会学そのものがデュルケームの方法論的集団主義自体、○フランス社会学の起源たるデュルケームの方法論的集団主義自体。
デュルケームは、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだと主張し、個人の意識を扱う心理学的な視点から社会現象を分析することはできないとして、タルドの心理学的社会学の立場を批判した。
そして…
一方「タルドの模倣犯罪学」、海を渡って米国映画産業の自主的倫理規定「ヘイズ・コード」に影響を与えます。これ実は「叩き上げユダヤ人のなりふり構わぬ商業主義」への旧移民勢(プロテスタント=英国国教会や旧アイルランド支配階層)の非難を受けて…https://t.co/dDaoi8FZq1
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
犯罪は遺伝的なものであると考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に対し関心をもって研究し、犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実であるという視点で厳しい批判を行う。も行っている。その後、社会と個人の関係について独自研究を進め「比較犯罪学(1886年)」「模倣の法則(1890年)」を刊行。
後に社会学の父と称されることとなるデュルケムに対して、分業が道徳的な事実であるか否か、犯罪が正常であるか否か、社会が実在するのか否か(社会実在論)といった多岐にわたる論点をめぐって論争を繰り広げた。
後に「世論と群集(1901年)」を刊行。ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示。
この考え方の登場と普及により「遺伝が人類にもたらす影響を描く文学」としてのエミール・ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書(1870年~1993年)」、トーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(1891年)」といった自然主義文学の系譜は時代遅れとなり「歴史の掃き溜め」送りとなってしまいます。ちなみに大衆向け娯楽作品として受容されたが故に残ったコナン・ドイル「シャーロック・ホームズ・シリーズ(1888年~1927年)」にもその影響が散見されるが、後世その部分が再クローズアップされる事もまたありませんでした。
7月王政時代(1830年~1848年)フランスの人間関係を描いたバルザック「人間喜劇(1842年~1846年)」の第二帝政(1852年~1870年)版を志向したフランスの文豪エミール・ゾラ(1840年~1902年)のライフワーク。ゾラ自身が提唱した自然主義文学理論の実践である。ゾラはダーウィンの進化論やクロード・ベルナール「実験医学研究序説(初版1865年)」の影響を受け、自然主義文学を構想/理論化。その具体的実践として本叢書を企画/執筆した。理論的論文としては後に「実験小説論(1880年)」を執筆している。
- 文学史的には「(名家の由来譚として始まった)家の文学」が「(産業革命がもたらした大量生産/大量消費の時代にあって消費活動の中心が王侯貴族や教会関係者といった伝統的インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層から、消費者だけでなく生産者でもある世俗に推移する変化を受けての)個人の文学」に切り替わっていく時代に対応する。
- 一方、文学的才能を枯渇させたエミール・ゾラは、経済的に成功して「貧者の悪あがき」としてのハードボイルド文学を描けなくなって断筆したダシール・ハメット(1894年~1961年) 同様、政治の世界に足を踏み入れて党争の最中「殉死」とも見て取れる最後を遂げる。
- こうした科学的背景を全く理解しないまま「自然(科学)主義文学」を受容した日本では、迷走の果てに私小説文化が誕生する。その一方で「自然(科学)主義文学」の精神そのものは「真景累ヶ淵」の様な「親の因果が子に報いる」怪談文学へと継承されていく。
三遊亭圓朝「真景累ヶ淵(初演1859年、新聞連載1887年〜1888年、単行本化1888年)」冒頭
今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談噺と申すは近来大きに廃すたりまして、余り寄席で致す者もございません、と申しますのも幽霊というものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃っておりましたが、今日になって見ると、かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、あるいは流れ違いの怪談噺がよかろうと云うお勧めを頂きました。
その昔、私どもは幽霊というものは有ると存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おお恐い、変な物、ありゃ幽霊じゃないかと驚きましたが、ただ今では幽霊がないものと諦めましたから、とんと怖い事は御座いません。狐にばかされるという事はないから神経病、天狗に獲われるという事もないからやっぱり神経病と申しまして、何でも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在開けた偉い方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが現れればアッと叫んで尻餅を突くのは、やっぱり神経がちと怪しいせいで御座いましょう。ある物識りの方が「いやいや西洋にも幽霊はある。決して無いとはいわぬ。必ずあるに違いない」と仰ると、私どもは「ヘェ左様で御座いますか。幽霊はやっぱり有りますかな」と申します。また他の物識りの方が「なに決して無い。幽霊なんていうものがある訳ない」と仰りますと「ヘェ左様で御座いますか。無いというのが本当でげしょう」と(太鼓持ちの様に)どちらへも寄らず障らず、ただいうなり次第に合わせて済ませます。ところが大昔に断見の論というのがありまして、これは今で申す哲学の様なものなのですが、この派の論師の論には「目に見えないものは無いに違いない。どんなものでも眼に見の前に有る物でなければ有るとはいわせぬ。例えどんな理論があっても、眼に見えぬ物は無いと同じである」と説きました。すると釈迦が現れて「御前がいうのは間違っている。そもそも、あくまで無いものは無いと云いたがる方が迷っている」と仰りましうてますます訳が判らなくなりました。「ヘェそれでは有るが無いで、無いが有るなので御座いますか?」と訊ねると「イヤそうでもない」と仰ります。つまりどちらが確かかまるで分かりません。「釈迦という/悪戯者が世に出でて/多くの人を/迷わすかな」と申します狂歌もあるくらいで、私どもは何所へでも智慧のある方が仰る方へついて参るだけなのですが、つまり悪い事をせぬ方には幽霊なんて決して御座いませんが、人を殺して物を取る様な悪事をする物には必ず幽霊が有りまして、これがすなわち神経病と申しまして、あたかも幽霊を背負っている様な振る舞いを致します。
- 「断見の論」…当時の歴史的制約を熟慮すると、多種多様な怪異と共存する日本文化を嫌って「全ての怪異の原因は狐狸の類であり、一刻も早く全てを駆逐し尽くすのが望ましい」とした江戸時代儒学者による長期的キャンペーンを想起させる。あえて釈迦の時代に関連付けるなら「(全てを焼き尽くす)炎のみがこの世界を構成する唯一無二の実在(永遠不滅の存在)」なる教義を掲げ、釈迦に「我々はその前提に立つ説法しか受け付けない合理主義者」と豪語した拝火教信徒あたりが該当するのかもしれない。戦前日本でいうと、儒教的教養を備えた左翼知識人がこぞって山川イズムに傾斜し、その影響を今日なお留め続けている展開に対応する。
- 「釈迦の悪戯」…中庸の精神を奉ずる立場から、釈迦はトールキンの様に「所領や金銀財宝への執着心」を悪としただけでなく「(その反動としての)清貧を理想視して執着し続ける態度」をも悪とした。要するにそれへの熱狂的没入そのものが新たな倒錯的快楽の源と成り得る苦行が「解脱(あらゆる原生的束縛からの解放)」の障害となる事を指摘しての発言だったが、苦痛と快楽が表裏一体である事を認めた上で幸福の最大化を追求するエピキュロスの快楽主義やストア派の禁欲主義の延長線に生じた欧米的功利主義を知ったばかりの明治期日本人にはそれが物足りなく思えてきたとも。ちなみに(江戸幕藩体制からの開放が存在不安をもたらした士族や農村共同体を中心に)キリスト教への改宗や新興就航が流行したのも19世紀後半の特徴であった。日本の伝統的清貧思想については、坂口安吾「日本文化私観(1942年)」も鋭いメスを入れている。
例えばアイツを殺した時にこういう顔付きで睨んで死んだが、もしや俺を怨んでやがったか、といった想いが胸に残って幽霊がこしらえられましたら、それこそ何でも怪しい姿に見えます。また執念の深い人が生きながら幽霊と化す事も御座います。もちろん幽霊は死んでから出ると相場が定まっておりますし、私も一度も本当に見た事は御座いませんが、生きながら出る幽霊というのが随分と居るそうなので御座います。執念深さとは恐ろしいもので、よく婦人が嫉妬の為に散し髪で仲人のところへ駆けていく著中で巡査に出くわしても、少しも目に入りませんから突き当たる弾みにかぶりつく様な事も起こります。また金を貯めて大事にしていると念が残り、その金を取った人間に取り憑くなんて事もある様なのです。
これはある種の方法論的個人主義型受容といえましょう。その一方で「デュルケームの方法論的集団主義」も発生時点の概念から離れ、実在をめぐる伝統的論争に吸収されていったのでした。
個人に対して全体としての社会や集団が、それを構成する個人には還元できない、個人を超えた一つの実在で、個人は社会という生きた全体のなかでのみ存在するという考え方、個人に対する社会の実在上の先行性を説く社会観の総称。社会名目論の反対概念となる。両者の対立は思想史とともに古く、中世哲学において普遍と個別の関係について、普遍の優先的存在を説く実在論と個別の先在を説く名目論の対立以来、社会有機体説と社会契約説などの対立に示される。
この流れは最終的にゴビノー伯爵の「人種エントロピー論」やニーチェの「距離のパトス論」を吸収する形である種の永劫回帰論に辿り着くと、私は考えています。
新移民勢(カソリック=旧アイルランド被支配階層やオーストリア=ハンガリー帝国出身者)を精神的に主導したイエズス会会士が起草したカキテズモという側面があり「トーキー映画の登場がせっかくの階層ごとの教養分断を破壊する」なる危機感が背景に。https://t.co/YBfJYG5c54
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
The Motion Picture Production Code of 1930 (Hays Code)序文
正しいエンターテイメントは国民全体の水準を引き上げ、間違ったエンターテイメントは国民の道徳的理想を引き下げ日々の生活を過酷なものにする。そして(劇場ごとに客層の異なる演奏会や芝居と異なり)フィルムに焼き付けられた映画の上映会は観客を選ばないので(子供もギャングも見に来る為)特に内容を慎重に吟味する必要がある。
- 書物は冷ややかに説明するが、フィルムは鮮やかに提示する。
- 書物は言葉を通じて心に到達するが、フィルムは撮影内容の再生結果を眼と耳に同時に届ける。
- 書物が読者から引き出す反応は当人の想像力と熱意に比例するが、映画が観客から引き出す反応は提示の手際の良さに比例する。
とどのつまり良い意味でも悪い意味でもその影響力は書籍や音楽や芝居より顕著で一方的なのであり、だからその影響の範囲と方向性を「映画を通じて悪行は悪いもので、善行は正しいことであると観客が確信する」形に限定せねばならない。特に悪党に犯罪のヒントを与えたり、人々の心に粗暴な振る舞いや犯罪や麻薬や不実な愛といった悪徳への憧憬を惹起する様な振る舞いだけは絶対に避けねばならぬ。
そもそもカソリックは「人間は五感を通じて神の国を感得する」という前提から教育効果と芸術と儀礼を統合してきた伝統を有してきました。そして特に反宗教革命の使命を帯びて世界中に伝教の旅に出たイエズス会はこの方面のノウハウを徹底して研鑽してきたのです。
そうした経験の延長線上で「映画の登場が人類に与える影響」について考えている興味深い文章。まさしくガブリエル・タルドの模倣犯罪学そのものというより、むしろ逆にこうした思考様式こそが「模倣犯罪学」の発想の起源だったとも。そして実際「ヘイズ・コード」が予測した様に、こうした考え方の影響は映画を通じ、日本の海外学問吸収力をはるかに超える形で日本に伝播し、その影響力を発揮する展開を迎えるのです。
その一方で「階級的制約を失った人々が人々が一体化する」予感が思わぬ展開を見せます。太平洋戦争に向けた挙国一致体制下、旧移民勢と新移民勢の和合が達成され「支配階層としての白人」が成立。これに反抗する形で「黒人」と「ヒッピー」が登場。https://t.co/KY3x6vHGlg
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
日本のリベラル層はこれを誤読し「子供にいかがわしいものを一切見せなければ品行方正に育つ」と考える様になりましたが、1970年代以降はランダムに「絶対やってはいけない事を繰り返し見せる事で、子供はそれをしなくなる」とも考える様になります。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
その一方で「移民や労働者の実態調査」といった実践的立場から出発したアメリカ社会学はエビデンスが統計資料である必然上「方法論的集団主義」を採択する道を選択。
この考え方が何処から来たかは正直不明です。パブロフの条件反射等、共産主義景倫理観の影響が感じられますが、いずれにせよオブジェクト指向プログラミングで厳禁される「無分別な多重継承」はクラスの振る舞いの暴走しか引き起こしません。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
×この考え。○後者の考え。
そう、こうした過程を経て、あたかも事あるごとに「ショックのパー」と叫んで爆散する事しか能が無い「頑張れロボコン」のロボパーの如き振る舞いが着本動作となったのです。まぁ、普通の考えではこの時点で既に使いものにならないポンコツ。https://t.co/kSIDV3rcmR
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
何か失敗してショックを受けると「ショックのパー」と言って、体がバラバラになる(頭と腕、胴体も真っ二つになる)も、しばらくすると元に戻る。本人が何かしなくてもロボコンが何かヘマをした時や0点だった時にもバラバラになることが多く、ロボコン本人に「おせっかい」と文句を言われたことも。
ネガティブ思考で、自分は何も出来ないと思っている為、何かやって成功しても「うまく出来るなんて」とショックを受けてバラバラになるという、めんどくさいロボット。
ガンツ先生がロボパーを作った意図や目的用途は不明だが、この「ショックのパー」は視聴者及び作中の子ども達には大うけで、そこを遊園地の園長に見込まれ、就職することになった。
ここで思い出すのが以下の脳内アライさん提言「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ」。
一方、ドイツ社会学の方法論的個人主義の支柱たる「マルクス=フロイト主義」は純粋な実証主義科学への脱皮を志向しつつ…https://t.co/RiiJBqqdpn
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
歴史的には,通常 1880年代初期のオーストリア学派の C.メンガーと新歴史学派の G.シュモラーとの間の経済学の方法論に関する論争をいう。争点は,社会科学あるいは経済学において自然科学のような厳密な意味での法則が存在するか否かということにあった。メンガーは理論的な考察の必要性を強調したが,シュモラーは今日の時点ではそのような法則は望みえないとし,さしあたり経験的な事実の収集に努めるべきだとした。
そして…
「ドイツ民族の救済を志向しないイデオロギーにドイツにおける存在意義はない」なるドイツ民族主義に振り回され続けます。皮肉にもドイツ人社会学者が魅了されたのはマルクス主義の「(ドイツ以外も視野に含めた)普遍的部分」だったので矛盾が発生。https://t.co/yBoJ2Sa1Ks
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
シェラーはコントから「宗教」「形而上(けいじじょう)学」「実証科学」の知識を重視する立場を継承しながら、それが人類史にこの順番で現れたとする「三状態の法則」を批判。これら3種の知識を継起的なものではなく、同時共在的なものと考え、他方でマルクスの「上部構造―下部構造論」に反対して精神的価値の自律性を確保しようとした。そこには、自然支配と労働技術の知としての実証科学は教養の知としての形而上学に、それはさらに救済の知としての宗教に奉仕すべきだという価値観が働いている。しかし彼が実践的目標としたのはこれら3種の知識のバランスと協調であった。
これに対してマンハイムは、マルクスのイデオロギー論からあらゆる知識の「存在拘束性」というテーゼを引き出し、その自己適用を迫ることでマルクス主義の絶対化を避けようとする。他方、その帰結としての相対主義の危険に対しては、それぞれの立場の視座制約性を見渡すことのできる「相関主義(Relationismus)」の優位を主張し、その担い手を「自由に浮動する知識層」に求めた。このような存在拘束性の普遍的適用によってイデオロギー論が知識社会学になるという主張には、とくにマルクス主義の側から多くの批判がなされたが、マンハイムの考えがその後の知識社会学の展開に基本的インパクトを与えたことは疑いえない。
実証主義論争(positive debate ; Positivismusstreit,1961年)
□1961年ドイツ社会学会における、ポパー、K. とアドルノ、T. の報告に端を発する論争の名称。ポパーの側にアルバート、H. が、アドルノの側にハーバーマス、J. がつき、社会科学方法論をめぐって議論をたたかわせた(小宮[2012:533])。
- ポパーたち批判的合理主義の陣営は、理論を事実による反証のテストにかける演繹的方法を科学的営為の根幹と考える反証主義の立場から、自然科学と社会科学の方法論的一貫性を主張した。それに対してアドルノたち批判理論の陣営は、社会科学においては観察対象である人間の営みと、観察という研究者の営みの双方がすでに社会関係に媒介されたものであると主張し、社会科学のもつ独自性に注意を促した。
□アドルノが1961年、ドイツ社会学会のチュービンゲン研究会で使った用語。アドルノに代表されるフランクフルト学派の批判的社会理論と、ポパーに代表される新実証主義(批判的合理主義)理論との間の「社会科学の論理」をめぐる論争のこと(社会学小辞典[1997:234])
- フランクフルト学派の批判的社会理論としてのアドルノの主張「事態をあるがままに認め、事態の示す法則を積み重ねることをもって科学の本質とする実証主義的態度に対する批判は、アドルノを含むフランクフルト学派本来の思想であった。アドルノによると、そのような実証主義的態度は、結局、個別的事態の背後にひそむ社会的関係、社会的総体性を見失っているのだという。したがって、社会科学の研究方法は、蓄積された経験を基にした概念と特定の社会的個別問題との不一致のなかで、こちらの概念への反省とともに、対象である社会的個別問題への批判や実践的働きかけをも含まねばならないとする(清水[1998:662])」
- 批判的合理主義の立場からのポパーの主張「ポパーにとっても、実験と観察によって事態の示す法則を書き記すことが科学的真理であるわけではない。われわれは多くの既得知識をもって事態に対処する。しかし、この既得知識なるものも暫定的なものでしかない。既得知識をもって提示された問題解決案(理論)は、事態に即してテストされる。もしその解決案が批判に耐えた場合、われわれはその解決案を批判される価値あるものとして暫定的に受けいれる。事態の方も固定的なものではなく、その都度の解決案によって構成される対象にすぎないものである(清水[1998:662])」
ポパーは問題から出発して仮説を提起し、その論理的帰結を吟味して反証を試みる仮説演繹法を基盤とする「批判的方法」を社会科学にも適用すべきことを主張する。彼によれば、科学の客観性とは批判的方法の客観性にほかならず、それゆえ科学的客観性は自由な討議と相互批判を可能にする「開かれた社会」を前提とするのである。それに対してアドルノは「方法の自律」を説くポパーを批判し、「方法に対する事態の優位」を対置する。すなわち、出発点となるのは社会的現実を構成する事態であり、この事態はつねに社会的全体性の中で構造化されているのであるから、方法はあくまで社会の全体性を過不足なくとらえる「弁証法」に基づくものでなくてはならない、と主張するのである。そこから彼は、方法論内部の批判ではなく、研究対象である社会そのものの批判をめざす「批判理論」を構想する(野家・門脇[2016:21])
*各引用元は参照元サイト参照の事。
このうちカール・マンハイム「保守主義的思考(1927年)」の内容については、ロジスティック方程式を援用する形で、以下の様に理解しています。
このグラフを「適正数=問題解決に最も最適な次元分割数」と考える。
- すると0から適正数、及び「対応者が扱える次元分割数の上限」から適正数までが「合理的アプローチ」の核(Core)、すなわちそれぞれが元と逆元を構成し得る範囲となる。前者は「とりあえず頭を空にして、最も効果が見込めそうな対策から実践に漕ぎつけていく立場」、後者は「列記した問題にプライオリティをつけて最優先課題から取り組んでいく立場」に対応。とどのつまり、結果としてやってる事は同じで、どちらも形式上漸進主義(Gradualism)に分類される。
- この時「現実に我々が扱う問題対応は合理的アプローチによって対応可能な次元数を超える場合には、合理的アプローチの採択はむしろ非合理である」なる神秘主義(Mysticism)の 立場に立って限度を超えた既存路線の変更を拒むのが保守主義、あらゆる変更を拒むのが因循姑息な守旧派(マンハイム「保守主義的思考」における伝統主義)、「あらゆる既存路線の否定こそが革新である」と考えて合理的プリオリティ設定を拒絶(冷笑)し、恣意的基準に基づく既存路線破壊に舞進するのが一揆主義(Blanquisme)=暴走リベラリズムと位置づけられる。そしてこの振る舞いをある種の関数集合と看做すなら、次元設定数が前者は「適正値より∞+の範囲」、後者は「0から∞-の範囲」に設定され互いに逆関数となる関係が構築される。
- かかる全体像は明かに幾何学的アプローチではない。人間の「問題を適切な基底に区切ってそれぞれの線的特徴に特徴に対応する」問題解決プロトコルが「(チェーンルールに基づく)微分→積分」過程に依存するからこそ発生する制約といえよう。
この問題が日本で急浮上してきたのは20世紀における学生運動を通じてでした。当初それはGHQの大学改革によって教育面での特権階層再生産を妨げられた大日本帝国時代のインテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層の反感表明に他ならなかったのですが…https://t.co/blvL57VqOu
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
「安田講堂陥落=その年の東大受験中止(1969年)」なる展開を迎えてしまった結果「日本民族の発展を志向しないイデオロギーに日本における存在意義はない」と考える日本民族主義を敵に回してしまい、その存続が不可能になってしまったのでした。https://t.co/HpLjqYQBkf
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
そう「学問より人類救済の方が優先課題である」なる甘言を弄してきたマルクス主義にとって人類救済の建前の喪失はすなわち死。代わって穴を埋めたのはマックス・ヴェーバーの誤用、吉本隆明「共同幻想論(1968年)」、栗本慎一郎の経済人類学などでした。https://t.co/Jfpoq8dc71
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
こうして1980年代日本を席巻したポストモダニズム運動が「インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層の維持に都合良く編集された方法論的集団主義」に傾斜し過ぎた事実の隠蔽にとりあえず成功する展開を迎えます。しかし「ソーカル事件(1995年)」が発生。https://t.co/gRzh0ZdrzF
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
時期を同じくして人工知能研究も「人間の知性の模倣を至高と考える黎明期段階」を過ぎてさらに高度な数理が投入される様に(第三世代人工知能ブーム)。方法論的集弾主義と方法論的個人主義の対峙も「解析学におけるマクロ視点とミクロ視点」といった…https://t.co/pmdgRTBsfb
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
新たな着眼点からの再出発を余儀なくされる展開を迎えたのでした。一方、日本のインテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層は自らの存続を正当化する新たな離論的既版の再構築に失敗し、今日に到るという次第。素人考えにはそうも思えるという話ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年1月28日
ここで改めて思い出すのが以下の脳内アライさん提言「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ」。
「日本を救えたかもしれない社会学の上陸具合」って、そもそもこんな有様だったのですね。そんな感じで以下続報…