諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「大日本帝国に本当に必要だったもの」としての社会学

この考え方、案外重要かもしれません。

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その続き。

そして…

発端はこの投稿。

ここで乱入。

これに追記。

×フランス社会学そのものがデュルケームの方法論的集団主義自体、○フランス社会学の起源たるデュルケームの方法論的集団主義自体。

デュルケームは、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだと主張し、個人の意識を扱う心理学的な視点から社会現象を分析することはできないとして、タルドの心理学的社会学の立場を批判した。

そして…

犯罪は遺伝的なものであると考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に対し関心をもって研究し、犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実であるという視点で厳しい批判を行う。も行っている。その後、社会と個人の関係について独自研究を進め「比較犯罪学(1886年)」「模倣の法則(1890年)」を刊行。

後に社会学の父と称されることとなるデュルケムに対して、分業が道徳的な事実であるか否か、犯罪が正常であるか否か、社会が実在するのか否か(社会実在論)といった多岐にわたる論点をめぐって論争を繰り広げた。

後に「世論と群集(1901年)」を刊行。ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示。

この考え方の登場と普及により「遺伝が人類にもたらす影響を描く文学」としてのエミール・ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書(1870年~1993年)」、トーマス・ハーディダーバヴィル家のテス(1891年)」といった自然主義文学の系譜は時代遅れとなり「歴史の掃き溜め」送りとなってしまいます。ちなみに大衆向け娯楽作品として受容されたが故に残ったコナン・ドイルシャーロック・ホームズ・シリーズ(1888年~1927年)」にもその影響が散見されるが、後世その部分が再クローズアップされる事もまたありませんでした。

7月王政時代(1830年~1848年)フランスの人間関係を描いたバルザック人間喜劇(1842年~1846年)」の第二帝政(1852年~1870年)版を志向したフランスの文豪エミール・ゾラ(1840年~1902年)のライフワーク。ゾラ自身が提唱した自然主義文学理論の実践である。ゾラはダーウィンの進化論クロード・ベルナール実験医学研究序説(初版1865年)」の影響を受け、自然主義文学を構想/理論化。その具体的実践として本叢書を企画/執筆した。理論的論文としては後に「実験小説論(1880年)」を執筆している。

  • 文学史的には「(名家の由来譚として始まった)家の文学」が「(産業革命がもたらした大量生産/大量消費の時代にあって消費活動の中心が王侯貴族や教会関係者といった伝統的インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層から、消費者だけでなく生産者でもある世俗に推移する変化を受けての)個人の文学」に切り替わっていく時代に対応する。

  • 一方、文学的才能を枯渇させたエミール・ゾラは、経済的に成功して「貧者の悪あがき」としてのハードボイルド文学を描けなくなって断筆したダシール・ハメット(1894年~1961年) 同様、政治の世界に足を踏み入れて党争の最中「殉死」とも見て取れる最後を遂げる。

  • こうした科学的背景を全く理解しないまま「自然(科学)主義文学」を受容した日本では、迷走の果てに私小説文化が誕生する。その一方で「自然(科学)主義文学」の精神そのものは「真景累ヶ淵」の様な「親の因果が子に報いる怪談文学へと継承されていく。

三遊亭圓朝「真景累ヶ淵(初演1859年、新聞連載1887年〜1888年、単行本化1888年)」冒頭

今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談噺と申すは近来大きに廃すたりまして、余り寄席で致す者もございません、と申しますのも幽霊というものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃っておりましたが、今日になって見ると、かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、あるいは流れ違いの怪談噺がよかろうと云うお勧めを頂きました。

その昔、私どもは幽霊というものは有ると存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おお恐い、変な物、ありゃ幽霊じゃないかと驚きましたが、ただ今では幽霊がないものと諦めましたから、とんと怖い事は御座いません。狐にばかされるという事はないから神経病、天狗に獲われるという事もないからやっぱり神経病と申しまして、何でも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在開けた偉い方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが現れればアッと叫んで尻餅を突くのは、やっぱり神経がちと怪しいせいで御座いましょう。ある物識りの方が「いやいや西洋にも幽霊はある。決して無いとはいわぬ。必ずあるに違いない」と仰ると、私どもは「ヘェ左様で御座いますか。幽霊はやっぱり有りますかな」と申します。また他の物識りの方が「なに決して無い。幽霊なんていうものがある訳ない」と仰りますと「ヘェ左様で御座いますか。無いというのが本当でげしょう」と(太鼓持ちの様に)どちらへも寄らず障らず、ただいうなり次第に合わせて済ませます。ところが大昔に断見の論というのがありまして、これは今で申す哲学の様なものなのですが、この派の論師の論には「目に見えないものは無いに違いない。どんなものでも眼に見の前に有る物でなければ有るとはいわせぬ。例えどんな理論があっても、眼に見えぬ物は無いと同じである」と説きました。すると釈迦が現れて「御前がいうのは間違っている。そもそも、あくまで無いものは無いと云いたがる方が迷っている」と仰りましうてますます訳が判らなくなりました。「ヘェそれでは有るが無いで、無いが有るなので御座いますか?」と訊ねると「イヤそうでもない」と仰ります。つまりどちらが確かかまるで分かりません。「釈迦という/悪戯者が世に出でて/多くの人を/迷わすかな」と申します狂歌もあるくらいで、私どもは何所へでも智慧のある方が仰る方へついて参るだけなのですが、つまり悪い事をせぬ方には幽霊なんて決して御座いませんが、人を殺して物を取る様な悪事をする物には必ず幽霊が有りまして、これがすなわち神経病と申しまして、あたかも幽霊を背負っている様な振る舞いを致します。

  • 断見の論」…当時の歴史的制約を熟慮すると、多種多様な怪異と共存する日本文化を嫌って「全ての怪異の原因は狐狸の類であり、一刻も早く全てを駆逐し尽くすのが望ましい」とした江戸時代儒学者による長期的キャンペーンを想起させる。あえて釈迦の時代に関連付けるなら「(全てを焼き尽くす)炎のみがこの世界を構成する唯一無二の実在(永遠不滅の存在)」なる教義を掲げ、釈迦に「我々はその前提に立つ説法しか受け付けない合理主義者」と豪語した拝火教信徒あたりが該当するのかもしれない。戦前日本でいうと、儒教的教養を備えた左翼知識人がこぞって山川イズムに傾斜し、その影響を今日なお留め続けている展開に対応する。

  • 釈迦の悪戯」…中庸の精神を奉ずる立場から、釈迦はトールキンの様に「所領や金銀財宝への執着心」を悪としただけでなく「(その反動としての)清貧を理想視して執着し続ける態度」をも悪とした。要するにそれへの熱狂的没入そのものが新たな倒錯的快楽の源と成り得る苦行が「解脱(あらゆる原生的束縛からの解放)」の障害となる事を指摘しての発言だったが、苦痛と快楽が表裏一体である事を認めた上で幸福の最大化を追求するエピキュロスの快楽主義ストア派の禁欲主義の延長線に生じた欧米的功利主義を知ったばかりの明治期日本人にはそれが物足りなく思えてきたとも。ちなみに(江戸幕藩体制からの開放が存在不安をもたらした士族や農村共同体を中心に)キリスト教への改宗や新興就航が流行したのも19世紀後半の特徴であった。日本の伝統的清貧思想については、坂口安吾日本文化私観(1942年)」も鋭いメスを入れている。

例えばアイツを殺した時にこういう顔付きで睨んで死んだが、もしや俺を怨んでやがったか、といった想いが胸に残って幽霊がこしらえられましたら、それこそ何でも怪しい姿に見えます。また執念の深い人が生きながら幽霊と化す事も御座います。もちろん幽霊は死んでから出ると相場が定まっておりますし、私も一度も本当に見た事は御座いませんが、生きながら出る幽霊というのが随分と居るそうなので御座います。執念深さとは恐ろしいもので、よく婦人が嫉妬の為に散し髪で仲人のところへ駆けていく著中で巡査に出くわしても、少しも目に入りませんから突き当たる弾みにかぶりつく様な事も起こります。また金を貯めて大事にしていると念が残り、その金を取った人間に取り憑くなんて事もある様なのです。

これはある種の方法論的個人主義型受容といえましょう。その一方で「デュルケームの方法論的集団主義」も発生時点の概念から離れ、実在をめぐる伝統的論争に吸収されていったのでした。

個人に対して全体としての社会や集団が、それを構成する個人には還元できない、個人を超えた一つの実在で、個人は社会という生きた全体のなかでのみ存在するという考え方、個人に対する社会の実在上の先行性を説く社会観の総称。社会名目論の反対概念となる。両者の対立は思想史とともに古く、中世哲学において普遍と個別の関係について、普遍の優先的存在を説く実在論と個別の先在を説く名目論の対立以来、社会有機体説社会契約説などの対立に示される。

この流れは最終的にゴビノー伯爵の「人種エントロピー」やニーチェの「距離のパトス論」を吸収する形である種の永劫回帰論に辿り着くと、私は考えています。

The Motion Picture Production Code of 1930 (Hays Code)序文

正しいエンターテイメントは国民全体の水準を引き上げ、間違ったエンターテイメントは国民の道徳的理想を引き下げ日々の生活を過酷なものにする。そして(劇場ごとに客層の異なる演奏会や芝居と異なり)フィルムに焼き付けられた映画の上映会は観客を選ばないので(子供もギャングも見に来る為)特に内容を慎重に吟味する必要がある。

  • 書物は冷ややかに説明するが、フィルムは鮮やかに提示する。
  • 書物は言葉を通じて心に到達するが、フィルムは撮影内容の再生結果を眼と耳に同時に届ける。
  • 書物が読者から引き出す反応は当人の想像力と熱意に比例するが、映画が観客から引き出す反応は提示の手際の良さに比例する。

とどのつまり良い意味でも悪い意味でもその影響力は書籍や音楽や芝居より顕著で一方的なのであり、だからその影響の範囲と方向性を「映画を通じて悪行は悪いもので、善行は正しいことであると観客が確信する」形に限定せねばならない。特に悪党に犯罪のヒントを与えたり、人々の心に粗暴な振る舞いや犯罪や麻薬や不実な愛といった悪徳への憧憬を惹起する様な振る舞いだけは絶対に避けねばならぬ。

そもそもカソリックは「人間は五感を通じて神の国を感得する」という前提から教育効果と芸術と儀礼を統合してきた伝統を有してきました。そして特に反宗教革命の使命を帯びて世界中に伝教の旅に出たイエズス会はこの方面のノウハウを徹底して研鑽してきたのです。

そうした経験の延長線上で「映画の登場が人類に与える影響」について考えている興味深い文章。まさしくガブリエル・タルド模倣犯罪学そのものというより、むしろ逆にこうした思考様式こそが「模倣犯罪学」の発想の起源だったとも。そして実際「ヘイズ・コード」が予測した様に、こうした考え方の影響は映画を通じ、日本の海外学問吸収力をはるかに超える形で日本に伝播し、その影響力を発揮する展開を迎えるのです。

その一方で「移民や労働者の実態調査」といった実践的立場から出発したアメリ社会学エビデンスが統計資料である必然上「方法論的集団主義」を採択する道を選択。

×この考え。○後者の考え。

何か失敗してショックを受けると「ショックのパー」と言って、体がバラバラになる(頭と腕、胴体も真っ二つになる)も、しばらくすると元に戻る。本人が何かしなくてもロボコンが何かヘマをした時や0点だった時にもバラバラになることが多く、ロボコン本人に「おせっかい」と文句を言われたことも。

ネガティブ思考で、自分は何も出来ないと思っている為、何かやって成功しても「うまく出来るなんて」とショックを受けてバラバラになるという、めんどくさいロボット。

ガンツ先生がロボパーを作った意図や目的用途は不明だが、この「ショックのパー」は視聴者及び作中の子ども達には大うけで、そこを遊園地の園長に見込まれ、就職することになった。

ここで思い出すのが以下の脳内アライさん提言「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ」。

歴史的には,通常 1880年代初期オーストリア学派の C.メンガーと新歴史学派の G.シュモラーとの間の経済学の方法論に関する論争をいう。争点は,社会科学あるいは経済学において自然科学のような厳密な意味での法則が存在するか否かということにあった。メンガーは理論的な考察の必要性を強調したが,シュモラーは今日の時点ではそのような法則は望みえないとし,さしあたり経験的な事実の収集に努めるべきだとした。

そして…

シェラーはコントから「宗教」「形而上(けいじじょう)」「実証科学」の知識を重視する立場を継承しながら、それが人類史にこの順番で現れたとする「三状態の法則」を批判。これら3種の知識を継起的なものではなく、同時共在的なものと考え、他方でマルクスの「上部構造―下部構造論」に反対して精神的価値の自律性を確保しようとした。そこには、自然支配と労働技術の知としての実証科学は教養の知としての形而上学に、それはさらに救済の知としての宗教に奉仕すべきだという価値観が働いている。しかし彼が実践的目標としたのはこれら3種の知識のバランスと協調であった。

これに対してマンハイムは、マルクスイデオロギー論からあらゆる知識の「存在拘束性」というテーゼを引き出し、その自己適用を迫ることでマルクス主義の絶対化を避けようとする。他方、その帰結としての相対主義の危険に対しては、それぞれの立場の視座制約性を見渡すことのできる「相関主義(Relationismus)」の優位を主張し、その担い手を「自由に浮動する知識層」に求めた。このような存在拘束性の普遍的適用によってイデオロギー論が知識社会学になるという主張には、とくにマルクス主義の側から多くの批判がなされたが、マンハイムの考えがその後の知識社会学の展開に基本的インパクトを与えたことは疑いえない。

実証主義論争(positive debate ; Positivismusstreit,1961年)

1961年ドイツ社会学会における、ポパー、K. とアドルノ、T. の報告に端を発する論争の名称。ポパーの側にアルバート、H. が、アドルノの側にハーバーマス、J. がつき、社会科学方法論をめぐって議論をたたかわせた(小宮[2012:533])。

  • ポパーたち批判的合理主義の陣営は、理論を事実による反証のテストにかける演繹的方法を科学的営為の根幹と考える反証主義の立場から、自然科学と社会科学の方法論的一貫性を主張した。それに対してアドルノたち批判理論の陣営は、社会科学においては観察対象である人間の営みと、観察という研究者の営みの双方がすでに社会関係に媒介されたものであると主張し、社会科学のもつ独自性に注意を促した。

アドルノ1961年、ドイツ社会学会のチュービンゲン研究会で使った用語。アドルノに代表されるフランクフルト学派批判的社会理論と、ポパーに代表される実証主義(批判的合理主義)理論との間の「社会科学の論理」をめぐる論争のこと(社会学小辞典[1997:234])

  • フランクフルト学派の批判的社会理論としてのアドルノの主張「事態をあるがままに認め、事態の示す法則を積み重ねることをもって科学の本質とする実証主義的態度に対する批判は、アドルノを含むフランクフルト学派本来の思想であった。アドルノによると、そのような実証主義的態度は、結局、個別的事態の背後にひそむ社会的関係、社会的総体性を見失っているのだという。したがって、社会科学の研究方法は、蓄積された経験を基にした概念と特定の社会的個別問題との不一致のなかで、こちらの概念への反省とともに、対象である社会的個別問題への批判や実践的働きかけをも含まねばならないとする(清水[1998:662])」
  • 批判的合理主義の立場からのポパーの主張ポパーにとっても、実験と観察によって事態の示す法則を書き記すことが科学的真理であるわけではない。われわれは多くの既得知識をもって事態に対処する。しかし、この既得知識なるものも暫定的なものでしかない。既得知識をもって提示された問題解決案(理論)は、事態に即してテストされる。もしその解決案が批判に耐えた場合、われわれはその解決案を批判される価値あるものとして暫定的に受けいれる。事態の方も固定的なものではなく、その都度の解決案によって構成される対象にすぎないものである(清水[1998:662])」

ポパーは問題から出発して仮説を提起し、その論理的帰結を吟味して反証を試みる仮説演繹法を基盤とする「批判的方法」を社会科学にも適用すべきことを主張する。彼によれば、科学の客観性とは批判的方法の客観性にほかならず、それゆえ科学的客観性は自由な討議と相互批判を可能にする「開かれた社会」を前提とするのである。それに対してアドルノは「方法の自律」を説くポパーを批判し、「方法に対する事態の優位」を対置する。すなわち、出発点となるのは社会的現実を構成する事態であり、この事態はつねに社会的全体性の中で構造化されているのであるから、方法はあくまで社会の全体性を過不足なくとらえる「弁証法」に基づくものでなくてはならない、と主張するのである。そこから彼は、方法論内部の批判ではなく、研究対象である社会そのものの批判をめざす「批判理論」を構想する(野家・門脇[2016:21])

*各引用元は参照元サイト参照の事。

このうちカール・マンハイム保守主義的思考(1927年)」の内容については、ロジスティック方程式を援用する形で、以下の様に理解しています。

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このグラフを「適正数=問題解決に最も最適な次元分割数」と考える。

  • すると0から適正数、及び「対応者が扱える次元分割数の上限」から適正数までが「合理的アプローチ」の(Core)、すなわちそれぞれが逆元を構成し得る範囲となる。前者は「とりあえず頭を空にして、最も効果が見込めそうな対策から実践に漕ぎつけていく立場」、後者は「列記した問題にプライオリティをつけて最優先課題から取り組んでいく立場」に対応。とどのつまり、結果としてやってる事は同じで、どちらも形式上漸進主義(Gradualism)に分類される。

  • この時「現実に我々が扱う問題対応は合理的アプローチによって対応可能な次元数を超える場合には、合理的アプローチの採択はむしろ非合理である」なる神秘主義(Mysticism)の 立場に立って限度を超えた既存路線の変更を拒むのが保守主義、あらゆる変更を拒むのが因循姑息な守旧派(マンハイム保守主義的思考」における伝統主義)、「あらゆる既存路線の否定こそが革新である」と考えて合理的プリオリティ設定を拒絶(冷笑)し、恣意的基準に基づく既存路線破壊に舞進するのが一揆主義(Blanquisme)=暴走リベラリズムと位置づけられる。そしてこの振る舞いをある種の関数集合と看做すなら、次元設定数が前者は「適正値より∞+の範囲」、後者は「0から∞-の範囲」に設定され互いに逆関数となる関係が構築される。

  • かかる全体像は明かに幾何学的アプローチではない。人間の「問題を適切な基底に区切ってそれぞれの線的特徴に特徴に対応する問題解決プロトコルが「(チェーンルールに基づく)微分積分」過程に依存するからこそ発生する制約といえよう。

ここで改めて思い出すのが以下の脳内アライさん提言「教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ」。

日本を救えたかもしれない社会学の上陸具合」って、そもそもこんな有様だったのですね。そんな感じで以下続報…