諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ぜいたくは敵だ】「映画は教養に関係ナシ」?

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坂口安吾は「日本文化私観1942年)」の中でこう述べています。

坂口安吾 日本文化私観

庭や建築に「永遠なるもの」を作ることは出来ない相談だという諦らめが、昔から、日本には、あった。建築は、やがて火事に焼けるから「永遠ではない」という意味ではない。建築は火に焼けるし人はやがて死ぬから人生水の泡の如きものだというのは『方丈記』の思想で、タウトは『方丈記』を愛したが、実際、タウトという人の思想はその程度のものでしかなかった。然しながら、芭蕉の庭を現実的には作り得ないという諦らめ、人工の限度に対する絶望から、家だの庭だの調度だのというものには全然顧慮しない、という生活態度は、特に日本の実質的な精神生活者には愛用されたのである。大雅堂は画室を持たなかったし、良寛には寺すらも必要ではなかった。とはいえ、彼等は貧困に甘んじることをもって生活の本領としたのではない。むしろ、彼等は、その精神に於て、余りにも欲が深すぎ、豪奢でありすぎ、貴族的でありすぎたのだ。即ち、画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに如しかざるの清潔を選んだのだ。

茶室は簡素を以て本領とする。然しながら、無きに如かざる精神の所産ではないのである。無きに如かざるの精神にとっては、特に払われた一切の注意が、不潔であり饒舌である。床の間が如何に自然の素朴さを装うにしても、そのために支払われた注意が、すでに、無きに如かざるの物である。

無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば同じ穴の狢なのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純、高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない。どちらも共に饒舌であり「精神の貴族」の永遠の観賞には堪えられぬ普請なのである。

然しながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。

国家総動員体制と産業至上主義のさらなる狭間…

この種のニヒリズムがカウンター・カルチャーとしてのヒッピー文化やデフレ精神と交わるとさらに大変な展開を迎える訳です。

こうやって富裕層が理想視する清貧思想とは別次元の世界に「現実の貧困問題」は横たわっている訳です。

そして… 


言いたい事はわかるけど、むしろ重要なのは「敗戦からの復興期だった1960年代までと、それ以降では日本人の価値観やエンターテイメントの対象に大きな変化があった事」をどう後世に伝えるかかもしれません。実際、世界中の若者もミュージカル映画レ・ミゼラブルLes Misérables、2012年)」における貧困描写とか余裕で飛ばし見してましたしね。

実際問題として、こういう考え方もある訳です。