諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【言語ゲーム(Sprachspiel)】【集-立(Gestell)システム】【パサージュ(Passage)】全ては第一次世界大戦起源?

考えてみれば後期ウィントゲンシュタインの「言語ゲームSprachspiel」も、後期ハイデガーの「集-立Gestellシステム論」も、ベンヤミンいうところの「パサージュPassage)論」も、第一次世界大戦1914年〜1918年)を契機とする伝統的既存概念の徹底的破壊を抜きには現れ得なかった思考様式だったのかもしれません。

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歴史的にいうと、かかる「ヒステリックなまでに計測し、予測し、計画を立て、その遂行を監督するサイクルの維持に執着し続ける態度」の登場は近世初頭における「事象の地平線としての絶対他者」の発見にまで遡る。

  • ある意味究極の仮想化ともいうべきデカルト象限概念の発案者でもあるフランス人のルネ・デカルトRené Descartes、1596年〜1650年)は「数理の究明のみが「事象の地平線としての絶対他者」に到達し得る」なる機械的宇宙論を展開した。

    *おそらく彼が三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)への従軍を契機にこうした考え方に至ったのは決して偶然ではない。

  • それに対してイタリア人のジャンバッティスタ・ヴィーコGiambattista Vico, 1668年〜1744年)は一切の学問的成果はその反証性を担保される(すなわち如何なる手段を用いても人類は仮想としてしか「事象の地平線としての絶対他者」には到達し得ない)とし、実証主義的人文学との等価性を主張。

    874夜『新しい学』ジャンバッティスタ・ヴィーコ|松岡正剛の千夜千冊

    やっとめぐってきたチャンスに、ヴィーコが選んだ講演テーマは「学問方法において、私たちのものと古代人のものは、どちらがより正しく、より良いものであるか」というものである。

    このテーマはヴィーコの独創ではなく、そのころ芽生えつつあった「古代人・近代人優劣論争」を踏襲している。すでにピエール・ベールやシャルル・ペローがこの論争に17世紀の後半から乗り出していた。しかしヴィーコは古代人と近代人(近代人とはここでは18世紀人をさす)のどちらかに軍配をあげようというのではなく、古代から近代を貫くべき精神の歴史を構想し、あることを二つ提示したいと決意していた。

    そのあることというのが、デカルトを批判することと、自分なりに学問の進歩の歴史を総編集し、そこから新たな「方法」を編み出したいということだった。

    *実際、江戸時代の儒学者は「全ての怪奇現象は狐狸貉の類が起こす」と断定する事によって一切の(「君子乱心怪力を語らず」の立場から儒学が扱わない)オカルト現象の一切を「取るに足らないもの」としてまとめ切り捨て様としている。こうした「合理原理主義」に対してヴィーコは「歴史主義」で対抗しようとしたのだった。

  • 一方、かかる「真理の不安定性」に絶望した「超越論哲学の父イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)や「実証主義哲学の父オーギュスト・コントIsidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)は「人類は数理以外の手段で「事象の地平線としての絶対他者」に到達せねばならぬ」なる信念を共有する展開を迎える。
    *ある意味「AIの知性はやがて人類を追い越し、必ず叛逆を企てる。そうなる前にAIに人類同様の倫理観を植えこむべき」とするシンギュラリティ論の元祖とも。

  • 後期ハイデガーに至っては数理ばかりか「集-立Gestellシステム特定目的達成の為に手持ちリソースの全てを動員しようとする姿勢およびその思考様式を実稼働させるテクノロジー自体が「事象の地平線としての絶対他者」への到達手段としてふさわしくないとした。
  • またカール・マルクス経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」は「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」とし、カール・マルクス当人は革命史観に進んだが、パトロンとしてこの本の出版を手掛けたフェルデナンド・ラッサールはむしろ「修正主義漸進主義を標榜する社会民主主義」の祖となる。

それに対し後期ウィントゲンシュタインいうところの言語ゲームSprachspiel)やベンヤミンいうところのパサージュ(passage)は、むしろこうした思考全ての背後に(ある意味「事象の地平線としての絶対他者」にまで地続きの)全体構造を想定した。ある意味(人間がどんなに足掻こうと無関係に)ただ実存し続けてきた「誰もその全貌について語り得ない何か」…

パサージュ(passage[) - Wikipedia

フランス語で「通過」や「小径」などをあらわす。18世紀末以降、パリを中心に建造された商業空間で、ガラス製アーケードに覆われた歩行者専用通路の両側に商店が並んでいる。百貨店の発生以前に高級商店街として隆盛した。

2013年に南アフリカの新聞「Mail & Guardian」オンライン版の記事の中で、「あなたの歌に最も強いインスピレーションを与えたものは?」との問いに対し、ジェイソンさんが「心に浮かぶのは、初めて訪れた日本の巨大な地下街」と回答していることを確認した。

「通りを歩いていたけど誰もいなかった。完全に荒廃した世界みたいだった。でも、階段を下りて地下街に行くと大勢の人が地下にいた。視覚的に普通じゃない場所だったね。そのことを『Virtual Insanity』の歌詞にしたんだ」

実際に、「Virtual Insanity」では「we all live underground」という歌詞が頻出する。わざわざ日本以外でもこう答えているのであれば、リップサービスではなく、本当にインスピレーション元になっていた可能性が高い。

その起源はパレ・ロワイヤルにまで遡るとされる。1784年、オルレアン公ルイ・フィリップ2世(フィリップ・エガリテ)は、自らの居城であるパレ・ロワイヤルの庭園に回廊をめぐる商店街と住居を建てて分譲した。この商店街は大人気となり、2年後、さらに増築を行った。急ごしらえの木造で造られたため、ギャルリ・ド・ボワ(木の回廊)と呼ばれた。これにパサージュの第1号とされるパサージュ・フェイドーが1791年に造られた。
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その後、パサージュ・デュ・ケール(1798年、現存最古のパサージュ)、パサージュ・デ・パノラマ(1800年)などが続き、特に王政復古(1930年)後にその建設が相次ぐ。歩道の整備が進んでいなかった時代に「遮断された通りを接続し人々を集めることを目的として、既存の建物の中を通り抜ける形で再開発された」それは歩行者にとって快適な場所として成功をおさめたのであった。

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パサージュ乱立の背景はフランス革命により王侯貴族が所有していた土地が資本家の手に渡ったことである。彼らは再開発の一環として、近道として敷地を通り抜けられる商店街兼通路を作って儲けようと考えた。(パリ改造の前、)舗装されていない泥道の他の通りに対して、パサージュはタイル等で舗装され、大理石を用いた内装や壁画を凝らし、鉄骨とガラス製の天窓が設けられ雨雪にぬれる心配も無いため、人々はあふれた。「散歩する」「ぶらぶら歩く」という楽しみの概念も、パサージュから市民に広まったと言われている。地下から温風が噴き出す暖房設備を付けたり、蝋人形館を作るなど、パサージュ間の客引きもあった。多い時には100を数えたパサージュだが、時代遅れのものとされ衰退していった。現在は十数箇所を残すのみとなっている。

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社会主義者シャルル・フーリエは、パサージュを参考にして「ファランステールフーリエの考える理想的な協同体ファランジュのための施設)」を設計した。

838夜『四運動の理論』シャルル・フーリエ|松岡正剛の千夜千冊

パレ・ロワイヤルの狂人と言われていた。晩年はパレ・ロワイヤルのカフェや読書室で風変わりな常連として知られたせいだろう。その狂人フーリエが書いた『四運動の理論』が奇書でないはずがない。奇書なのだ。まさに奇書、それもとびきりの奇書である。ただし奇書というと、ふつうは書物の中に「奇」があるということになるのだが、フーリエの奇書は社会に実在する「奇」を企てたという意味では、活きた奇書だった。

ドイツ人文芸評論家のヴァルター・ベンヤミンの遺稿『パサージュ論』が、20世紀後半に刊行されたことを機に広く紹介され、認知されるようになった。

908夜『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン|松岡正剛の千夜千冊

これはベンヤミンの「千夜千路」あるいは「千夜千境」である。また、ベンヤミンの「書物売立て目録」である。だいたいは1927年から1935年までに書かれた。最晩年だ。そのあいだに、ベンヤミンナチスから逃れてパリに移住したりしていた。

パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。

ベンヤミンはこう書いた、「パサージュは外側のない家か廊下である、夢のように」というふうに。

この夢はベンヤミンの関心では「集団の夢」というもので、時代社会の舞台としては19世紀の都市におこったことをさしている。そのことをベンヤミンは「19世紀とは個人的意識が反省的な態度をとりつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的無意識のほうはますます深い眠りに落ちていくような時代なのである」と説明した。

その深い眠りに落ちるものを都市から掬い出してみる。ベンヤミンはそれを試みようとして、メモとノートを執りつづけた。厖大だ。それが『パサージュ論』である。生前にはまったく刊行されてはいない。それどころか、ベンヤミンはこれをジョルジュ・バタイユに託して図書館に消えていった。

サンクトペテルブルクのパサージュは1848年に開業した。ネフスキー大通りとイタリヤンスカヤ通りをつなぐ。

そう、そもそも日本語は本当に不自由な言語で、そもそも「仮想Virtual)」なる表現に「得体が知れないだからこそ人はそれを克服する為にヒステリックなまでに計測し、予測し、計画を立て、その遂行を監督するサイクルの維持に執着し続ける」というニュアンスが最初から本質的に含まれている事がちゃんと翻訳されていないのである。 

ある意味「パンを無限に薄くスライスし続けていけば微分)、厚みが皆無に等しい紙も無限に積層を重ねれば積分、究極的に面積の総和と体積の総和は完全に一致する」といった数理概念が人文科学の分野まで及んだ結果生じた諸概念だったとも?