宗教革命の本質は、言うなればローマ教会や絶対王政が「文字に拠らず視覚で直接グローバルに愉しむ聖書」として推進したゴシック文化やバロック文化と母国語聖書の鋭い対比? そして当然後者の普及は(文章読解力が直接信仰心と結びつくので)識字率の向上を伴うという…
一方、産業革命導入には既得権益を貪る「公家領」と「寺社領」の解体が不可欠でした。19世紀ロシア文学に活写された様に、これを放置しておくと例え地場産業が育っても彼らに捕食されて潰えてしまうのです。
- イングランドではそもそもノルマン・コンクェスト(The Norman Conquest of England、1066年)以来、王権が大貴族連合の権力より突出してきたが、薔薇戦争(Wars of the Roses、1455年〜1485年/1487年)なる内ゲバで大貴族連合が自滅し、その結果成立したテューダー朝(Tudor dynasty、1485年〜1603年)が修道院領を没収して「(より身分流動性の高い)王国の藩屏」ジェントリー階層に再配分した。
- フランス国内勢力として王権が突出するには(大貴族連合が勝手に自滅した)公益同盟戦争(1465年〜1477年)およびフロンドの乱(Fronde, 1648年〜1653年)、そして(国内の教会を教皇の干渉を排除して君主の統制下に置こうとする)ガリカニスム(Gallicanisme)運動の盛り上がりが不可欠だった。
ガリカニスム(Gallicanisme)運動
ただしそれだけでは足りなくてフランス革命(仏Révolution française, 英French Revolution 1789年〜1799年)による(貴族領と教会領の没収を伴う)既存体制の破壊と、サン=シモン主義による体制再建を必要としたのである。フランス革命(仏Révolution française, 英French Revolution 1789年〜1799年)
- ロシアや東欧諸国には「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」なる概念が存在する。すなわちこれらの国々は「領主が領土や領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の伝統が根強過ぎてそのままでは近代的資本主義国家に移行出来なかったので、それを破壊すべく(一時的に)共産主義体制を採用せざるを得なかったというのである。実際にリブートに成功出来たかどうかは、その後サン=シモン主義などに移行して「再建」に成功できたかなどにかかっており、中国やベトナムやポーランドはこの方面において「顕著な成功例」に分類される。
ちなみに近世欧州を見舞った最大のイベントは「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」。これを契機に地中海世界の衰退が始まるが、当初は北西ヨーロッパの人口急増に伴って穀物価格が急騰したので「食料輸出で栄える農本主義国家」として生き延びる選択肢が存在した(再版農奴制の広がり)。ところがこうして誕生した新農場主達は、新大陸より伝播した作物(馬鈴薯、隠元豆、玉蜀黍)の普及によって各現地で食料自給が可能となって食料価格が下落の一途を辿る様になっても「新たな選択肢」を探す事はなく損失分を小作人に回し続けるばかりだった。それで搾取が壮絶なレベルに達した上、自助努力でこの苦境を脱する機運が生まれる事もなかったのである。まさしく「蛙の煮付け」の出来上がりという有様…
*同時代の大英帝国経済を支えた太平洋三角貿易も同じくらい冷酷で無慈悲な奴隷搾取体制だったが、産業革命導入期の大英帝国はこれが不利益しか産まなくなると自ら廃止に追い込んでいる。同じく産業革命導入期のプロイセンのユンカーも(産業労働力として必要とされた)領民を解放する一方で、その穴を(より安価に使役可能な)ポーランドからの出稼ぎ小作人の雇用で埋める形で生き延びた。実はマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」は(米国南北戦争で解体された南部奴隷農場主同様、倫理に反する)ユンカーの将来の滅亡を予告する内容でもあったのだが、蓋を開けてみたらその予告は完全に裏切られてしまったのだった。
日本史上において同様のプロセスが以下の様な形態で進行し「全面破壊なきフランス革命(あるいは共産主義革命)」としか言い様がない何かが達成されています。
- 公武合体の産物として生まれた室町幕府(1336年〜1573年)こそ名目上、守護大名連合が征夷大将軍(足利氏)を擁立する体制に過ぎなかったが、織田氏、豊臣氏、徳川氏と着実に直轄領を増やし続けた。
豊臣政権末期には、全国検地高1850万石余の内、12.2%に相当する222万3641石余が豊臣氏の蔵入地であった。一方徳川氏の関東入国当時の蔵入地の実態は明らかではないが、所領伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六か国240万石余のうち、100~120万石が直轄化されていたと推定されている。関ヶ原の戦いののち、豊臣氏の蔵入地の接収を含む没収高622万石余が論功行賞の加増・加転に、さらに徳川一門や譜代大名の創出、直轄領の拡大に当てられているが、江戸幕府の直轄地も、初期においては豊臣氏のそれと大差なかったものと考えられ、江戸幕府成立時点で230~240万石が幕府直轄領であったと考えられる。
上方・関東の天領の石高・年貢高に関しては、向山誠斎著『癸卯日記 四』所収の「御取箇辻書付」により享保元年(1716年)から天保12年(1841年)までの年度別の変遷が古くより知られていたが、さらに大河内家記録「御取箇辻書付」の発見により、17世紀中頃からの天領の石高の変遷が明らかになった。それによれば、天領の石高が初めて300万石を超えたのが徳川家綱政権下の万治3年(1660年)だが、寛文印知の前後には300万石を切り、延宝3年(1675年)に至って再び300万石台を回復し、以降300万石を下回ることはない。徳川綱吉政権下になると大名改易による天領石高の増加が著しく、元禄5年(1692年)に初めて400万石を突破し、宝永6年(1709年)以降400万石を下回ることはない。徳川吉宗政権下では無嗣断絶による公収が相次ぎ、享保16年(1731年)には450万石に達し、延享元年(1744年)には江戸時代を通じて最大の463万4076石余となった。その後徳川御三卿が相次ぎ分立することにより、延享4年(1747年)以降天領の石高は減少する。宝暦13年(1763年)から寛政5年(1793年)まで430万石台を維持した後、寛政7年(1795年)~寛政10年(1798年)には再び450万石台に戻るが、その後徐々に石高は減少し、天保9年(1838年)には410万石台に落ちる。天保以降では文久年間の石高の数字が残っており、幕末まで410万石台を維持したと考えられる。
日本全国の総石高に占める天領の割合
慶長10年(1605年)にける日本全国の総石高2217万1689石余に対して推定230~240万石であり、10.4~10.8%となる。また元禄10年代(1697年~1703年)の全国の石高(元禄国絵図・郷帳高)2578万6929石余に対して約400万石であり、15.5%となる。さらに天保期における日本の天保年間の総石高(天保国絵図・郷帳高)は3055万8917石余と算出されているが、勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」によると、天保13年(1842年)の天領は総石高の13.7%に当たる420万石弱を占めた。
*まさしくさいとうたかお「影狩り(1969年〜1973年)」の世界?
さいとうたかお「影狩り(1969年〜1973年)」 - Wikipedia
徳川時代、封建制度のひずみはその財政破綻となって現れた。無策に悩む幕府は、最も卑劣な手段でその窮地から逃れようとした。それは諸大名の取潰しによる領地没収である。そのため、数多くの隠密や忍者が諸大名の些細な落ち度を暴こうとして、各地で暗躍した。世人は、この隠密や忍者を“影”と称して恐れおののいていた。影の跳梁に対する大名の自衛手段はひとつ、それは密かに潜入してくる“影”を殲滅し、その口を封じることである。
ここに、3人の浪人が世に現れた。1人を室戸十兵衛と言い、残る2人を日光、月光と呼ぶ三人衆である。彼らは大名に雇われて、その“影”と対決する“狩人”である。
やつらが血の臭いに乗ってやって来た!!
幕末期には譜代大名の分や旗本への知行召し上げ分も総計して相当な量に達したが、それでも欧米列強の脅威に対抗するには十分でないと考えられた。それで大政奉還(慶応3年10月14日/1867年11月9日)と王政復古の大号令(慶応3年12月9日/1868年1月3日)が遂行され、新体制下で「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」が決行されて(フランス式の)郡県制へと移行し、新たに編成された国民皆兵軍「鎮台兵」が不平士族の反乱を鎮圧したのである。
- そもそもその途中の応仁の乱(1467年〜1478年)から戦国時代にかけて一円領主による公家領や寺社領の押収が進行し、公家や寺社は地主から(幕府に充てがわれた禄を)檀家からの布施や伝統的権威に由来するサービスの提供料などによって補う体制へと移行していた。
応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。
一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正五年(1508年)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。
武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。
ただし、江戸時代にベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田・上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。
その始期と終期についていくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。全国一律の始期と終期
一般に1467年の応仁の乱または1493年の明応の政変に始まり、豊臣秀吉が関東・奥羽に惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることが多い。また、一般に1568年の織田信長上洛または1573年の信長による将軍足利義昭追放で室町時代が終了し織豊時代や安土桃山時代の始まりとすることが多い。長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。
従来は、1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、明応2年(1493年)の明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが、鈴木良一が提唱して近年に有力になった説である。
戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分であり、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大坂の陣を最後とする考え方(元和偃武)、島原の乱を最後とする考え方なども存在する。
地域ごとの始期と終期
戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが、始期は地域ごとに大きく異なっている。
畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。
また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。
東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。
一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する。
*古墳時代(3~7世紀頃)もそうだが、一つの改革がスムーズに全国の大半を覆う規模で完遂されるのが重要。フランス革命ですら王党派の根強い地域ではこれが完遂出来ず「ホロコースト」としか言い様がない大虐殺が繰り返されている。
最後まで残ったのが「中央政権が全国の農本主義的在地有力者に選ばれる形でしか存続出来ない体制」だったが、こちらはこちらで「我田引鉄」政策などを駆使した立憲政友会の主導下、比較的混乱の少ない形で制限選挙段階を経ての普通選挙段階への移行が達成され、政党政治への移行が完遂される形となった。 - ただし最終的に日本の農本主義的伝統を解体したのは太平洋戦争敗戦後、GHQが遂行した農地改革(1947年)だったとする立場もある。またGHQは教育改革も遂行し(フランス式に)身分格差を温存する「少数精鋭のみの育成を目指す」大日本帝国路線を改めたとされる。
それでは「ドイツ」は?
1517年に始まった宗教改革はその後の歴史に重大な影響を及ぼしたと言えるけど、ドイツにおけるプロテスタンティズムの拡散は産業革命以前(19世紀初頭)の経済成長を促進したという研究があるのだ。
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プロテスタンティズムは信仰の在り方だけでなく、制度にも影響を与えたのだ。プロテスタントを受容したドイツの各都市では教会法が新たに制定され、カトリック教会の権力が剥奪されただけでなく、社会保障制度も同時に整備されたのだ。
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宗教改革において主要な役割を果たしたの大衆だったのだ。要は市民運動みたいなもので、中小レベルの商人やギルドが主導したのだ。そういった「下からの圧力」の結果として制定された教会法は、教育制度にも大きな変化をもたらしたのだ。
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教会法により、カトリック教会は(エリートの為だけに)教育を行うというある種の「特権」を剥奪され、大衆に向けた学校教育が拡充したのだ。教会施設が学校に建て替えられたり、新たに学校が建設されたり、教育のための基金が設立されたりしたのだ。
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さらに病院の建設や貧民救済など、幅広い社会保障制度が一挙に整備されたのだ。このように、プロテスタントの拡大が教会法によって制度化され、あらゆる再分配政策が行われるようになったのだ。宗教改革が大衆運動の性格を持っていたからこそ起こったことなのだ。
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この研究では、ドイツの都市を対象に、教会法の制定(プロテスタントの受容の制度化)が人口の成長に与えた影響を統計的に分析したのだ。1600年までに各都市で教会法が制定されたか否かを大量の古ーい歴史的文献を整理してデータ化したのだ。凄い労力なのだ。
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注釈を入れると、産業革命以前の経済成長は人口の成長率や多寡で測ることができるのだ。豊かな都市・国であれば人はたくさん生まれ、生き延びることができるけど、貧しい場合には即死に繋がる世界だったからなのだ。
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統計分析の結果、1600年までに教会法が制定された都市は、そうではない都市と比較して、1800年までにより人口が成長していることがわかったのだ。これは教会法によって社会保障制度が整備された結果と考えることができるのだ。
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さらに、同期間の富裕層の個人レベルのデータ(なんでこんなのが残っているのだ!?)を使った分析もしているのだ。その結果、富裕層は教会法が制定された都市により移住していたことがわかったのだ。充実した教育制度を求めた結果なのだ。
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「なんでこんなのが残っているのだ!?」…そういえば「フィレンツェ最富裕層、600年前と変わらず」なんて研究もありました。
このように、教会法を制定した都市には人がより生まれ、生き延び、集まるようになったのだ。さらに富裕層という質の高い人的資本が集積し、都市の経済成長が促進されたのだ。300年も先の経済に影響を与えるぐらい、宗教改革は大きな出来事だったのだ。
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ヴェーバーは『プロ倫』の中で、プロテスタント(カルヴィニズム)特有の労働倫理(ブラック労働の精神に聞こえなくもないのだ)によって資本主義がもたらされるということを書いているのだ。でもこの研究では、別の道筋が示唆されていると言えるのだ。
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(11/14) pic.twitter.com/UvYyqaoDIc
今回紹介した研究やそれに類する研究では、宗教改革によってプロテスタントが拡散し、その結果識字率が向上するといった「人的資本の蓄積」が経済成長には重要であったと言われているのだ。ヴェーバーが考える宗教と経済をつなぐ要因、そして道筋がちょっと違うのが面白いポイントなのだ。
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(12/14) pic.twitter.com/h2sadbWkKy
お尻さん的には経済成長に重要なのは制度変化だと思うのだ。ヴェーバーは「倫理」という価値に関するシステム/制度を重視したけど、政治制度や教育制度も重要なんじゃないかなと思うのだ。もちろん両者は相互排他的な訳では無いから、同時に正しい可能性も十分にあるのだ。
— ア㊙️イさんのお尻 (@bot99795157) May 14, 2019
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「経済成長に重要なのは制度変化」…これには同意せざるを得ませんね。
論文はここから読めるのだ。https://t.co/CTzvbSDQDF
— ア㊙️イさんのお尻 (@bot99795157) May 14, 2019
あと、宗教改革とヴェーバーに関連した最近の計量経済学/経済史の研究動向のレビューもついでに貼っておくのだ〜。https://t.co/g09hOjhYAI
(14/14)
政教分離が行われていない当時にあって、カトリック教会の保守性がもたらす停滞を改革する力が必要だったのだな。宗教的な迫害によってドイツ等に移住した新教徒が多かったことよく知られているけれど、先進的な社会制度も魅力になっていたと言うのは新しい視点なのだ。
— 障(害者雇用で)働(くアラ)イさん (@hataraku_Arai) May 14, 2019
この研究では無いけど、神学校に行ってもこの先立身出世できるかわからない世界になってしまったから、科学や技術を高等教育で学ぶエリートが増えて、結果的に経済成長に繋がったって話もあるのだ。掘れば掘るほど面白いテーマなのだ…!
— ア㊙️イさんのお尻 (@bot99795157) May 14, 2019
19世紀のドイツって突然イギリスを上回る科学技術立国になって違和感バリバリだったんだのだ。そんな背景があったとはおどろきなのだー。鉄血宰相の上からの改革だけでなく下からの改革もあったと知ったのだ
— 障(害者雇用で)働(くアラ)イさん (@hataraku_Arai) May 14, 2019
その一方で反ユダヤ(プロテスタントは高利貸しを許容したので商売仇になった)を助長したという負の側面が指摘されているみたいですね;https://t.co/yJkNdlqhR9 面白いお話です!
— 新井雅之 (@CharNoctambule) May 15, 2019
改めて、これまで投稿してきた「ドイツ問題」と突き合わせてみましょう。
- 近世欧州を見舞った最大のイベント「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」に際し、南ドイツ商人は(それまでスイスなどを経てイタリア商人と陸路で行なってきた)交易の主体を(ライン川を経ての)オランダに切り替えた。まさしく産業革命導入期に台頭する「ライン川流域の工場貴族」大源流…
クルップ社を支えたArbeitsfanatimus(熱狂的勤労主義)については、当時の文献にこういう記述がある。「勤労・誠実・中庸・家庭と家庭内の人倫と秩序が繁栄の確かな基礎であり、これらの徳目が不況の時こそと支えとなる。それに反してあらゆる能力、あらゆる狡知と悪意ある強力な約定にも関わらず、反逆、無秩序、不道徳は一時的に強引に獲得する事はあっても結局は破滅に陥る…」
*まさに「領民と領土を全人格的に代表する領主=家長」の世界。そういえばこうした論調、大日本帝国時代の温情主義(Patriarchy=家父長主義)資本家も受け売りしていた。五味川純平「戦争と人間(1965年〜1982年)」で暗躍する五代家もクルップ家をモデルにしたと考えられている。*大日本帝国時代の「温情主義資本家」についてもう一つ興味深い点は「アナキズムのプリンス」クロポトキンの標語「革命はパンの不足から始まる」をひっくり返し「毎食(それまでは贅沢品だった)白飯が食べられていれば革命は起こらない」と豪語していた辺り。実際(さらに社員食堂では毎食、魚の干物などもついたせいか)「米騒動(1918年)」の様にその米が食べられない事態でも訪れない限り労働者は蜂起しなかった。実はこの辺りの展開、むしろ英国保守党がプリムローズ・リーグ(Primrose League)運動を成功させ労働者や女性を味方につけて「票田」とするのに成功した結果、自由党や労働党が選挙権拡大運動を弾圧ないしは傍観する側に回った経緯に近い。そういえば英国映画「未来を花束にして(Suffragettes、2015年)」が封切られた時、日本のフェミニズム関係者で「(奴隷貿易廃止に際してはあれほど活躍した)自由党が女性参政権運動を残酷に弾圧してる皮肉」について言及した人は誰もいなかった。その一方で海外では、こうの史代原作・片渕須直監督映画「この世界の片隅に(原作2007年〜2009年、映画化2016年)」において黙々と戦争遂行に協力し続け敗戦時に絶叫するヒロインについて「戦時下の女性がよく描かれている(さすがは「アリーテ姫(2001年)」の監督)」という評価があった事についても。
*こう書くともちろん「ならば大正デモクラシーとは一体何だったのか?」という指摘が出てくると思うが、それならそれで大正政変(1912年)や大隈重信の葬儀(1922年)に集った人々はどうしてシンボルとして胸にプリムローズの花を差していたのか問わねばならなくなるのだった。当時の展開には当時なりの背景もあるので、そう何もかも簡単に単純化して考えてはいけないという話…
- その一方で(新世界作物が普及するまでの)北西欧州における食糧不足、17世紀以降の北欧諸国と帝政ロシアの台頭、さらにはアメリカへの移民熱の高まりは新たな需要を生み出した。北海に注ぐエルベ川流域の河口に位置し、オーストリア公国の経済的中心だった時期もある港湾都市ハンブルク。そしてドイツ騎士団国の首都にして東欧の穀物輸出港としてハンザ同盟内においても重要な役割を担ったケーニヒスベルク(現在はロシア連邦のカリーニングラード)…
- とにかく当時のドイツ語圏の成長の足を引っ張っていたのはアウクスブルクの宗教和議(1555年)以降の領邦国家化による分断で、例えば上掲論文で「プロテスタント受容が反ユダヤ(プロテスタントは高利貸しを許容したので商売仇になった)を助長した可能性」が指摘されてはいるものの、その検証事態が難しい。そもそも(中世から東欧中心に内陸部で高利貸しや管財人や徴税吏といった憎まれ役を押し付けられてきた)アシュケナジム系(ドイツ系)ユダヤ人には商業上(ローマ教皇庁御用達なる看板を背負った)ロンバルディア商人というライバルが伝統的に存在したし、フランスから逃げ込んできたユグノーとの関係も完全には明らかにはなってない(というか、そもそもフランスのユグノー自体、スイスのカルヴァニズムの母体なのにマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」に言及がない辺り、推して知るべし)。さらにはセファルディム系(スペイン系)ユダヤ人がマグリブ(アフリカ大陸北岸のチュニジア以西)に開闢したベルベル人王朝ムラービト朝(المرابطون al-Murābiṭūn、 1056年〜1147年)とムワッヒド朝(الموحدون al-Muwahhidūn、1130年〜1269年)で迫害されてイベリア半島のアラゴン王国や南仏プロヴァンス地方などに避難した一方、マリーン朝(المرينيون、1196年〜1465年)では優遇されてイタリア商人と盛んに交易を行なった事との関係も不明。17世紀に入ると彼らはオスマン帝国での政争でギリシャ人やアルメニア人に破れ欧州に新天地を見出す。彼らがハンブルグ入りを果たしたのはこの時とされるが、そもそも彼らとアシュケナジム系(ドイツ系)ユダヤ人の交流がどういう内容だったか正確には分かってない有様なのである。当時の資料から読み取れるのは「ユダヤ人は農本主義的伝統が根強く残り貨幣経済浸透も十分でない後進地域には最初から立ち入れない一方、先進的な商業地区ではその金に人々が群がってくる」といったザックリした風景に過ぎない。こちらはオランダを舞台とした経済推理小説だが、デイヴィッド・リス「珈琲相場師」の様な人と人の生々しい駆け引きの情景を思い描くには到底足りないのだった。
ちなみに(製紙業界の過当競争の副産物として発達した出版文化の標的とされた)江戸幕藩体制下の庶民にも同じ傾向が見て取れるが、かかる国土分断状態下で文書行政の洗練が進んだドイツでも「庶民」レベルまで至る識字率の劇的向上が見て取れた。ただし「生まれた土地を一度も離れた事がない人間なんて半人前」といわれるほど旅行好きだった江戸幕藩体制下の庶民(およびその気質を継承した大日本帝国臣民)と異なり「軍人や官僚や僧侶の命令には絶対服従を誓うが、プライベートでは享楽の限りを尽くす(表面上は大人しいが、匿名投稿ではあらゆる偏見を剥き出しにして罵詈雑言の限りを尽くす)」ドイツのビーダーマイヤー的市民はむしろ生まれた場所を一生離れないのが普通で、ナチスドイツがこの状態の存続を心配して「慰安旅行事業」を立ち上げた程だったのである。
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そしてその「神聖ローマ帝国(ナポレオン戦争以降はオーストリア帝国と名乗っていた)」からイタリア王国とドイツ帝国が独立を果たす。とはいえ「版籍奉還(1869年)」や「廃藩置県(1871年)」や「藩債処分(1876年)」や「秩禄処分(1876年)」が決行可能な状況には程遠く、様々な問題が次第に表面化してくる。
*イタリア王国が独立出来たのは盟主がサルディーニャ王統サヴォイア家だったから。ドイツ帝国が独立出来たのは、盟主がプロイセン王統ホーエンツォレルン家だったから。要するにどちらも神聖ローマ帝国臣下ではなかったから。逆を言えば残りは全員「外様」あるいは王室だけが「外様」。これではスムーズな体制移行など望むべきも…ドイツ帝国に至っては、当時は関税同盟の盟主としてしてきたプロイセン王国がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を通じてナショナリズムが滋養され、普澳戦争(1866年)と普仏戦争(1870年〜1871年)に勝利していく建国期そのものだった。
歴史のその時点ではユンカーを中心とする東部地主層(自由貿易を希望)と西部工業家層(クルップやジーメンスといった重工業初期段階を担う企業家群が切実に保護貿易を希望)の利害が対立していたが、大不況時代に入ると外国産の安い農産物がヨーロッパ市場に大量に流入してきて経済問題となった事からビスマルク宰相が主導する形で保護関税法(1879年。別名「鉄と穀物の同盟」)が成立し、西部工業家層はイギリスを出し抜く形でアメリカに次ぐ規模の鉄鋼産業育成に成功したが、その一方では海外在住のドイツ商人中心に「他の列強同様にドイツ帝国も植民地を獲得すべし」とする声が高まる。そして1890年に「植民地の獲得と経営は採算に見合わない(だからこそフランスがそれに邁進するのを放置してきたのだ)」という立場に立つビスマルクが失脚して以降、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はその声に応えるべく世界中で強引なまでの植民地獲得に邁進する一方(三国干渉(1895年)から膠州湾租借(1898年)に至る過程で完全に怒らせてしまった)大日本帝國を牽制すべく最初はロシアに日本との対決を煽り、日露戦争(1904年〜1905年)以降はアメリカに日本との対立を煽り続ける。その一方で汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の激突する東欧の金融業界にも積極的に進出し第一次世界大戦の重要な遠因の一つを生み出してしまう。
*その一方でビスマルク宰相は欧州中世的調和(ハルモニア)の世界観すなわち王党派やウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)や公会議主義(Conciliarism)といった(身分格差を容認する)和諧社会を称揚する「ガチ宗教右派」理念と対決する展開に。
- イタリアでファシズムが、ドイツでナチズムが台頭するプロセスもこうした「不安定な政情」を前提としないと語るに語れない。特にドイツの場合「ワイマール憲法」を制定したSPD(Sozialdemokratische Partei Deutschlands=ドイツ社会民主党)が①そもそもビスマルク宰相に接近したラッサール派が国際的に社会主義者の間で嫌われていた。②参政権に目がくらみ第一次世界大戦に邁進するドイツ皇帝の立場を支持。③第一次世界大戦終戦間際、「人殺し乃助」が「右翼」フライコール(Freikorps=ドイツ義勇軍)を招聘し、ロシア革命におけるソビエト(Совет、労兵協議会)乱立状態に勇気付けられ、神聖ローマ時代の領邦国家状態への回帰を夢見て蜂起したスパルタカス団(Spartakusbund)と革命的オプロイテ(Revolutionaren Obleute)を大量虐殺。④ソ連共産党の意向を受けてコミンテルンが「絶対悪」社会ファシズムのレッテル貼り。⑤フランスの国辱的内政干渉に対する無抵抗。⑥世界恐慌を契機に国際的に広がった社会不安を押さえ込む為、独裁色の強い内閣大統領体制を開始(ただしむしろ「決められない政治」に苛立って「主権者とは例外状態において決断を下す者である」と発言した政治学者カール・シュミットはこの展開を喜んだ)、と「過去の精算」問題で身動きが取れなくなっていたところへ、SPD左派を切り取りつつスターリニズムに心酔して指導者神格化を進めていたKPD(Kommunistische Partei Deutschlands=ドイツ共産党)が「(民主集中制=ボルシェビキズムに敬意を払わない)異端者」たるスパルタカス団や革命的オプロイテの残党狩りを弾劾するどころか却って喜んでむしろ積極的にかかる動きを支持する姿勢を見せる。こうした既存政党の醸し出す絶望感こそが、次第にドイツ国民を「少なくとも現時点では、如何なる形でも誰の手垢もついてない」NSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国家社会主義ドイツ労働者党)選択に駆り立てていく。
それにつけても「変革の時代には(当時の既存社会の規範に合わない)不良少年にスポットライトが当たる」現象に何か名前をつけたいです…