諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【性奴隷論】「ふしだら」の対語は「しだら」? ①

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この投稿をまとめる過程で「日本人が意味の輸入に失敗した仏教用語」をまた一つ発見しました。とはいえ「方便」の様にただ単に「法華経における火事のデマで人に動かす説話」の様な特定解釈が広まったケースもあり、本当に「輸入に失敗した」と考えるべきかについては慎重な判断が必要となるのです。

しまりがなく、だらしないこと。

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  • サンスクリット語「sutra」の音写「修多羅」を語源とする。

  • 古代インドにおいては教法を「多羅葉たらよう)」と呼ばれる葉に記して鉛筆の様な筆記具で経文を刻書し、散逸しないように穴を開けて紐を通し保存していた。この紐や糸を「修多羅」といい、正確で歪みなく秩序よく束ねることも意味していたのである。

  • そして「修多羅」が音転訛して「しだら」となり、「」をつけて「ふしだら」になったといわれる。

    お寺出身の植木等さんのヒット曲「スーダラ節1961年)」は、これをもじって生まれた曲らしいのです。

手拍子を打つことを意味する「しだら」を語源とする説もあるが、関連性がないため有力な説とは考えられていない。

まずは比較対象として「日本人が意味の輸入に失敗した仏教用語」の最重要例とされる「龍樹の二諦論」の内容を吟味してみましょう。とはいえこれほど複雑な概念の回析なんて到底一発では通りませんから「ある種の偏微分の積み重ね」によって問題を整理していく形をとるしかありません。

  • ここでいう「ある種の偏微分の積み重ね」とは、限られた観測結果を適宜「無限大から無限小の範囲について必要十分とされる精度で近似計算し、残りを誤差範囲として示す」実証科学の記法に基づいて「(最終的に求めたい結果に対応する目的変数Y」と「(その導出に関与すると推定される説明変数X」の関数Y=f(X)のフォーマットに落とし込んで無視可能な誤差範囲を逐次検討範囲外に追いやっていく思考様式を指す。

    こうした過程をある程度積み重ねた後、何とか手に負える事が証明された検討範囲のみを逆に「積分再統合)」すれば数理モデルが完成する。ここではこのプロセスの最もシンプルな実現例として近世以降の数学・物理学の最大の成果とも言うべき「円描写プロセスの理論化」を挙げておこう。

     

  • 最初に検討しなければならないのは必然的に「限られた観測結果そのもの」を説明変数X、「実際に実在する世界そのもの」を目的変数Yと置いた場合の誤差の生じ方そのものとなる。漸近展開において規定される誤差関数には概ね(計算を止めた剰余項がそのまま誤差範囲を提示するテイラー級数やマクローリン級数の様なケースを除けば)漸近展開そのもので用いられる数理とは全く異なる数理が投入されるが、偏微分を進めるに当たってはこれをまとめて一単位で切り捨てていく形式をとる。

大乗仏教の太祖」龍樹の二諦論の原型は以下の峻別である。

  • 世俗諦…常人の認識可能範囲内。
  • 第一義諦…覚醒者(ブッダ)のみが知覚可能な宇宙の真理。

これは概ねルネ・デカルトRené Descartes、1596〜1650年)の機械的宇宙論/心身二元論イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)の先験=アプリオリa priori数学者コンドルセMarie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)の学問体系論を継承しつつも「全てを統括するのは数理でなく実証主義哲学Philosophie Positiveを習得した科学者でなければならない」としたオーギュスト・コントIsidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)の科学独裁主義が前提とした以下の様な世界観に対応する。

  • 独Ding、英Thingの世界…人間の認識可能範囲内。実証主義科学が観測を通じて到達可能な世界。イタリア・ルネサンス14世紀〜16世紀)のパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部において、伝統的医学の既成概念を次々と破壊していく自らの立場を正当化すべくアリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こすが、その一方で実践知識の累積が引き起こす如何なるパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる楽観的ドグマdogma、教義)が流行。これが欧州で最初に成立した科学実証主義の起源となった。

  • 物自体独Ding an sich、英Thing-in-itselfの世界…人間の認識範囲外に広がる真理の世界で「先鋭化された直感」を通じてのみ到達可能とされる。数学界や物理界の偉大なる先人達の多くがこれを「(実証主義科学は到達不可能な、あるいはまだ未到達の純粋な数学的思考のみが到達可能な範囲」とか「(数理で掌握可能な範囲を超越する)全人類が「内面よりの声」として受け取る良心の世界」と考え形而上学希Μεταφυσική、羅Metaphysica、英Metaphysics、仏métaphysique、独Metaphysik)と対応させてきたが、ピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)やルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタインLudwig Josef Johann Wittgenstein、1889年〜1951年)」の様に「語り得ないものについては沈黙するしかない=それについてあえて語ろうとする語り得るとする形而上学はナンセンス」とする立場が現れ、現在はこちらが主流となっている。これは実証主義科学の世界が最終的に「無限大から無限小の範囲について必要十分とされる精度で近似計算し、残りを誤差範囲として示す」記法に到達した事とも密接に結びついている。

    例えば統計学の世界における「尤度ゆうど問題」や人工知能テクノロジーの世界における「過学習問題」は、どちらも「得られたサンプルが全てと信じ込む」誤謬から発生するが、これを克服するのはあくまで「ならば最終結論の精度を上げるには、誤差範囲をどう計算過程に組み込めば良いか」なるさらに精度を上げる為の技術論であって「そもそも計算による近似なんて小手先技で正しい判断が下せる筈がない。真理に到達可能なのは万人が内面よりの声として受容する道徳的警告に忠実に従おうとする形而上学的思考様式のみ」なる実証主義科学の全否定ではないのである。
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ところで日本仏教界においては伝統的に以下の様な思考様式が継承されてきた。

  • 世俗諦…世俗的勢力や信者との実際の勢力関係。教団存続の為に「長い物には巻かれる」判断に甘んじなければならない時もある。

  • 第一義諦…絶対矛盾が表面化しない様に慎重な積み上げを要求される厳格な教学研究の世界。

前者は欧州宗教戦争の発端となったルター的プロテスタンティズムが、現実の身分制度の打倒をも視野に入れたドイツ農民戦争独Deutscher Bauernkrieg, 英German Peasants' War、1524年〜1525年)を見捨てた流れにも対応する。マックス・ヴェーバーMax Weber1864年1920年)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus, 1904年〜1905年)」は、この観点からフランスのジャンセニスムJansénisme)やルター的プロテスタンティズムでなく(現実世界の改革を諦めなかったカルヴァニズムCalvinism)こそが現代資本主義社会の出発点になったとしたが、ドイツへも少なからぬ人数が移住したユグノーフランスのジャンセニスムやカルヴァニズム(Calvinism)の大源流となったフランスにおけるプロテスタンティズム運動)や「一応プロテスタンティズムに分類される英国国教会問題の影響についてまで踏み込んで論じている訳ではない。

誤差関数ごとの切り捨て」どころの話じゃありません。宗教(倫理)を絶対視する形而上学支持者側はむしろ逆に伝統的に「現実世界の改善を最優先課題としない実証主義科学などこの世に存在する意義がない」と叫んできたのであり、近世以降の欧州において数学や物理学が飛躍的発展を遂げたのは、かかる立場との峻別に成功したからなのです。現代社会においては、むしろ形而上学支持者側が「万人が内面よりの声として受容する道徳的警告」を代表している理由を問い質される形となるのでした。その最初にして最大の契機となったのは18世紀神義論theodizee)がリスボン地震1755年11月1日)を契機に引き起こした大規模モラルハザード状態だったとも。

欧州のギリシャ哲学は概ねアラビア哲学経由で伝来している。

スンニ派古典思想の完成者ガザーリーAbū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)は「神は無謬の存在の筈なのに、どうしてこの世には悪や対立が存在する」理由についてネオ・プラトミズムの流出論をもってこう説明する。

  • 神の英知そのものは確かに無謬である。
  • しかしながら神の英知は理念の世界から現実の世界へと全方向に向けて流出していく過程で数多くの誤謬を累積させていく。
  • こうした誤謬の累積がやがては矛盾や対立、さらに究極的には悪をもこの地上に誕生させる事となる。

こうした考え方は概ね欧州知識人の間でも共有されてきた。その発展例の一つがゴットフリート・ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz, 1646年〜1716年)が「弁神論Essai de théodicée sur la bonté de Dieu,la liberté de l'homme et l'origine du mal、神の善性、人間の自由、悪の起源に関する弁神試論、1710年)」で提言した神義論theodizee)となる。

公正世界仮説(just-world hypothesis)または公正世界誤謬(just-world fallacy) - Wikipedia

人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。

この世界は公正世界である」なる信念を公正世界信念belief in a just world)といい、その世界観においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、これを信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。

公正世界信念の保持者は「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者自分は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。

その一方でこうした人々は「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」なる結論に達する非形式的誤謬をおこし「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「」を非難する犠牲者非難をしがちである。

例えば「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、日本のことわざにもこの公正世界仮説が反映された言葉がある。この仮説は社会心理学者によって広く研究されてきており、メルビン・J・ラーナーが1960年代初頭に行った研究が嚆矢とされる。以来、様々な状況下や文化圏における、公正世界仮説に基づく行動予測の検証が行われ、それによって公正世界信念の理論的な理解の明確化と拡張が行なわれてきた。

なお、公正な世界としての「この世界」を定義する用語である「公正世界」とは反対に、邪悪な世界としての「この世界」を定義する用語は「Mean world卑しい世界)」と言う。また、公正か邪悪かはともかく、「この世界」が取り得るすべての世界(「可能世界(possible world)」)の中で最も善い世界のことを「最善世界Best of all possible worlds)」と言い、ゴットフリート・ライプニッツによると現実の「この世界」自身が「最善の可能世界le meilleur des mondes possibles)」だという。

そういえば「東日本大震災2011年3月11日)」に際して一部福音派歓喜して「異教徒に与えられた罰」と吹聴して回る事件がありました。実際に騒いだのは分別に欠けたネット上のほんの数人で、世界中の福音派教徒の大半はこの災害にちゃんと同情を寄せた声明を発表したり哀悼ミサを開いたりしていたのですが、一体何人がちゃんとした事実確認を行ったやら…実際この時起こったのも似た様な混乱でしたと推定されます。

  • 異教徒に与えられた罰」…ならば「どうして原爆はわざわざ大浦天主堂のある長崎に投下されねばならなかったのか」という話も出てくる。しかもこちらは標的を選べた人災なのである。そこに取材したのが山田風太郎外道忍法帖1961年)」という次第…そう冷戦下の1960年代には「因果応報が原爆投下で完結する時代劇」まで存在したのである!!

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特にこの時罹災したのが多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンであり、しかその日が祭日で被害を増大させた事が当時の神学界や哲学界を激しく動揺させたのです。それではこの災害を契機に起こった流れを整理してみましょう。

  • 復興を主導したセバスティアン・デ・カルヴァーリョ宰相後のポンバル侯爵によるイエズス会弾圧…実際にどれくらいの規模で「公正世界仮説に立脚する嘲笑的振る舞い」があったかに関わらず、それは当時のポルトガルにおいて最大級の権力を誇り驕り高ぶっていたイエズス会がやって良い振る舞いではなかったのである。だから世論もそれに続くイエズス会やこれを支持する貴族党派の弾圧を熱狂的に支持したのだった。

    実は冤罪説もあり「イエズス会がそう振る舞った」という主張で巧みに世論を味方につけて政敵を抹殺し尽くして復興財源も確保したポンバル侯爵のやり口にナチズムの手口の大源流を見る意見すら存在する。

    ポルトガルにおけるサラザール独裁政権1932年〜1968年)は、スペインと並ぶ「第二次世界大戦中は中立を保ち続ける事で戦後も執拗に生き延び続けたファシスト政権」で、しかもスペインより独裁体制が存続したのでその筋の人達からは完全に悪役扱いされていたのである。一時期は「ボンバルの改革」も一緒くたに悪役視されて「リスボン地震は天罰の先払いだったのだ」なんて極論まで存在した。

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    ただ日本人として困るのがボンバルの改革」と薩摩藩の経済危機を救った「調所笑左衛門の改革」の相似性。まぁ「ボンバルの改革」が植民地ブラジルを犠牲に成立した様に、「調所笑左衛門の改革」にも琉球王朝を犠牲に成立した側面が確実にあるので、「その筋の人達」が「大日本帝国は薩摩ファシスト政権の後継国家であり、それを無反省に継承した現日本政府もまた国際正義が決っして存続を許さない絶対悪である事実は揺るがない」とまくしたてるのも完全に故なき話とはいえない。

    それでは政治への不満というより、生活苦から起こった「カーネーション革命Revolução dos Cravos、1974年)」がポルトガル国民の生活を劇的に改善してくれたかというと、別にそういう奇跡も起こらなかった。その話をするとこの筋の人達はやっぱり沈黙してしまう。

    いずれにせよ公正世界仮説がそれに立脚する嘲笑的振る舞いと結びつ蹴られて罪として裁かれた事そのものが、それに立脚して来た欧州知識人達の立場を危ういものにした事は想像に難くない。

  • 理神論Deismの拡大…一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。神は世界を超越する創造主であるが,神の活動性は宇宙の創造に限られ、以降の宇宙は独力で自己発展していくが、その方向は善にも悪にも向かい得るとした。人間理性への信頼が背景に存在し、奇跡・予言といった神の介入はあり得ないとして除けるのが特徴。

    その具体的主張は概ねガザーリーの流出論や公正世界仮説に従うものの、スピノザBaruch De Spinoza、1632年〜1677年)は既にそこからの脱却の1歩目は踏み出していたと考えられている。「悪人もまた全体像を神の観点から俯瞰すれば善行の一部を為している」とはしながらも「誤謬や悪は個人の主観性、すなわち視界の制約から生じる」としている点において。

    スピノザBaruch De Spinoza、1632年〜1677年)は「エチカEthica、1677年)」の中で「神に誤謬がありえないのに、なぜ人間は誤りやすいのか」について、全体としての神が客観的であのに対して、その局所的な現れである人間の精神は主観性を免れぬとからだとしている。主観性とは制約された状態をさす言葉であり、制約されたことによって、主観性は情報不足や情報漏れを免れない。そこから誤謬といわれるものが生じるが、それはあくまでも主観の側から見た見方であって、神にとってはすべては必然であり、したがって真理であるとした。

    善や悪についても同じことが言える。我々はあることがらが自分自身から生じている限りそれを善とし、自分の外部からやってきて自分の意にならないことがらが起こったときにそれを悪という。しかし人間にとって外的な条件と思われるものは、人間が局所的な存在であることに起因している。全体としての世界には外部というものはないのであるから、したがって悪も起こる余地をもたない。神においてはすべては善なのである。

    そしてリスボン震災を契機にヴォルテールVoltaire)ことフランソワ=マリー・アルエFrançois-Marie Arouet、1694年〜1778年)が「悪もまた全体像を神の観点から俯瞰すれば善の一部を為している」考え方そのものを全否定する。この事を指してテオドール・アドルノは「リスボン地震ライプニッツの弁神論慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論からヴォルテールを救いだした」と述べているが、その一方でこうした考え方は理性崇拝の反対のベクトル、すなわち最終的にはカール・マルクスKarl Marx, 1818年〜1883年)の上部構造/下部構造論やシグムント・フロイトの象徴論、すなわち「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものの由来は、実は案外その外側からもたらされたもの」なる陰鬱な「我々の認識可能範囲外を跳梁跋扈する絶対他者」コンセプトに到達する事になる。

    『啓蒙の弁証法』テオドール・アドルノ&マックス・ホルクハイマー | 現代美術用語辞典ver.2.0

    ドイツの思想家テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによって1939年から44年にかけて共同執筆され、戦後の47年に出版されたフランクフルト学派による批判理論の代表的著作。ナチス・ドイツがヨーロッパを席巻しつつあった時代に、彼らは亡命先のフランスとアメリカでこの書物を執筆した。

    本書のなかでは、ヨーロッパ的な理性が全体主義という野蛮へと退行したことが批判されるが、その批判の矛先はヒトラーファシズムだけでなく、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカにも向けられている。特に「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。

    彼らの図式は、単なるマルクス主義的なイデオロギー論・疎外論・物象化論に収まらない。新しいメディア技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。

    このことを理解しないで、単に「抑圧的な権力」対「受動的な消費者」といった安易な疎外論的な立場から、これらのメディア消費社会批判を読むことはできないだろう。そのような意味で、この書物を貫く社会批判のトーンが、まったく政治的立場を逆にするハイデガーの同時期の著作と呼応し合うことは意味深長である。

  • ルソーJean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年の「自然回帰論」…ある意味、今日なお日本で跳梁し続けている盲目的反原発派の大源流。啓蒙主義を代表する思想家の一人たるヴォルテールVoltaire)ことフランソワ=マリー・アルエFrançois-Marie Arouet、1694年〜1778年)が翌年3月に「リスボンの災害についての詩Poème sur le désastre de Lisbonne)」を発表して「やはり地上に悪は実在する」と結論付けると「人間に悪をもたらしたのは神でなく人間そのものであり、もし人間がもし野生人のように素朴な生活のままだったら、こんな災害に遭う事もなかっただろう。火災や地震などのために、さまざまな都市が崩壊し、あるいは全滅していること、そのために何千もの人々が死亡していることも考えてほしい」と反論。都市の放棄とより自然な人間らしい生活様式への回帰を訴えた結果、両者の関係は完全なる断絶を迎える。当時発表された「人間不平等起源論Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes=人間の間の不平等の起源と基盤についての言説、1755年)」もそうだが、その(日本でいうと根来衆雑賀衆といった「傭兵=冒険商人集団」や甲賀郷や伊賀郷といった「忍者の里」の実史に対応する)歴史的経緯から王政や都市文化に敵意しか抱いてないスイス人の言説は本質的に「王政や都市なんて直ちに廃止しちゃえばいいのに」式の粗雑で適当で過激なものが多い(日本に来日した料理長サリー・ワイルも、ヴェネチアが本場のライス・グラタンに、歴史的に仇敵であり続けたジェノヴァ海将一族の名前を冠した「ドリア」なる料理を残している)。

    で、これを真に受けてフランス革命に際して「恐怖政治terreur)」を遂行しちゃったのが「ルソーの血塗られた手」ことロベスピエール率いるジャコバン派。「もはや科学は地上に必要とされなくなった。何故なら今日では革命こそが科学となったからだ」なる宣言の下、ラボアジエの様な科学者を処刑し、コンドルセ伯爵の様な数学者を獄死させる。フランス絶対王政の庇護下で相応には育ちつつあった資本主義的発展の目を「占領した都市のインフラを完全破壊して都市住民を尽く大砲の霞弾散弾の一種の斉射でミンチ肉に変える殲滅戦」や「王党派を支持する農村地帯を襲撃し「見つけ次第妊婦の腹を裂き、赤子を竈に放り込む」民族浄化作戦」によって完全に潰してフランスへの産業革命開始を半世紀以上送らせて大英帝国一教時代を準備した立役者。カンボジアクメール・ルージュことポルポト派とは、要するにこの所業の劣化コピーに過ぎなかったという話。

  • 英国のピクチャレスクPicturesque概念の影響を色濃くうけたカントの観念哲学の誕生…当時のドイツでは、英国と同君統治状態にあったハノーファー王国1714年〜1837年)経由で英国思想が際限なく流入しドイツ知識人に知的刺激を与える状態が続いていた。アイルランドより彗星の如く現れた若手時代のエドマンド・バークEdmund Burke, 1729年~1797年)が「崇高と美の観念の起原A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful、1757年)」を発表し、その中で「崇高Sublimeには美と戦慄が同居するイメージの源泉はスコットランドあたりの峻険な山岳地帯あたり)」と述べると、ドイツのイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)がこれに反応して「美と崇高の感情に関する観察Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen、1764年)」を発表し、そこでの考察が認識可能な「独Ding、英Thingの世界」の外側に茫漠と広がる認識不可能な「物自体独Ding an sich、英Thing-in-itselfの世界」を対峙させる構想の出発点になったのもこうした流れの一貫であり、当然こうしたやり取りの全ての背景に「リスボン大震災とは一体なんだったのか?」なる当時の欧州知識人全てが抱えていた設問が存在していたのだった。

イタリア・ルネサンス14世紀〜16世紀)におけるアリストテレス主義実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こすが、その一方で実践知識の累積が引き起こす如何なるパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」から18世紀ドイツにおけるカントの「独Ding、英Thingの世界」と「物自体独Ding an sich、英Thing-in-itselfの世界」を峻別する姿勢への推移にどうして数世紀に渡る歳月が必要だったかというと、こうした内面的パラダイムシフトを必要としたからだったのです(そして、前近代段階に止まる他地域のそれを圧倒する欧州科学の大躍進が始まる)。しかしながら形而上学支持者側の「現実世界の改善を最優先課題としない実証主義科学などこの世に存在する意義がない」なる叫び自体は以降も強くて昏い影響力を発揮し続けます。

  • 黎明期ドイツ社会学の世界における価値判断論争Werturteildiskussion)」…これはナチズム台頭のメカニズムの同時代分析として著名なドイツのヘッセン州ヴィースバーデン出身のユダヤ社会学ヘルムート・プレスナーHelmuth Plessner, 1892年~1985年)「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」ですら「かかる科学と社会改善を切り離そうとした社会学者の態度こそがナチス台頭を許した」と結論付けてるくらい根深い問題。

    20世紀初頭のドイツにおいて,おもに社会政策学会を舞台として行われた論争。社会科学における認識の客観性と倫理的=実践的な価値判断との関係をめぐって争われた。 G.シュモラーに率いられた講壇社会主義者たちが特定の倫理的理想を歴史的に把握し,この理想によって社会問題に実践的・政策的提言を行うべきであると主張したのに対し,M.ウェーバーは,社会科学的認識において実践的な価値判断を排除すべきことを力説した。以後この問題をめぐり激しい論議が続けられている。
    *ある意味、ルネ・デカルト機械的宇宙論/心身二元論イマヌエル・カントの先験=アプリオリ(a priori)論、オーギュスト・コントの科学独裁主義などに内包されてきた「科学の発展は社会に貢献する場合のみ許される」論の蒸し返し。

  • 大日本帝国時代における国家主義産業報国運動の連動…太平洋戦争敗戦後も高度成長期が続く間は気分として継続し、商品供給企業とマスコミが(主に徴収した税金を原資に要求される公的サービスを実現する客体として意識される様になった)国家に成り代わって国家主義遂行者の権限を継承しようとする「産業至上主義時代1960年代〜?)」へのバトンタッチも遂行されたが、反動として1970年代中旬頃より「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが急速に表面化して注目を集める様になり、価値観の多様化を求める声が次第に強まっていく。20世紀末からのインターネットの普及がこの流れに拍車を掛ける。

この分類でいくと現代は将来の歴史区分において「(インターネットと第三世代人工知能の普及が始まった)科学至上主義1990年代〜?)」へと分類される事になるのかもしれません。

さて、ここまでで「(宗教的権威や国家主義といった現実世界の実証主義科学への影響」の偏微分は一応一区切り。全体像を俯瞰すると説明変数Xに「Real=社会発展に対する権威主義的拘束」を配したら目的変数Yに「Status:Slaved=様々な拘束の強要によって社会発展が阻害されている状態」「Status:Forcing=権威フォルス側からの改革」「Status:Violenting=反権威ヴィオランス側からの改革」「Status:Salvated=社会改革が不要となった自由状態」の4象限で構成される遷移図が現れた形です。

統計言語Rによるグラフ化

pie.data<-rep(1, 4)
names<-c("Slaved","Forcing","Salvated","Violenting")
names(pie.data)<-names
pie(pie.data, col = heat.colors(4),main = "Transition diagram of authoritarian restraint")

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それでは残ったのは? 「各個人が内面より直感的受け取る良心の声こそ真理」とする理神論的形而上学と「語り得ない物については沈黙するしかない」とする実証主義科学の対峙、そして日本仏教界が顕密体制を敷いて守り抜こうとした教学上の整合性辺りという事になりそうです。後者については以下をピックアップ。

本覚・真如思想 - Wikipedia

本来の覚性かくしょう)」の意で、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。如来蔵や仏性をさとりの面から説明したものとも考えられる。大意としては、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、人間はもともと仏性を具えている(悟っている)ということである。用語としては『金剛三昧経』などに見られるが、後代の論書のように精緻な理論付けはまだない。

『金剛三昧経』序品第一

爾の時尊者大衆に囲遶され、諸大衆の為に一味真実無相無生決定実際本覚利行と名づくる大乗経を説けり。若し是の経を聞き、乃至一四句の偈を受持すれば、是の人、則ち仏智地に入るを為し、能く方便を以て衆生を教化し、一切衆生の為に大知識と作らん。
*仏典に「方便」という表現が登場する都度、日本人は困惑する。特に「清浄なる」なんて形容詞がつくとひっくり返る。「法華経における火事のデマで人に動かす説話」からもっと清濁併せ吞むイメージがついてしまっているのである。この性癖は不動明王の「方便としての憤怒相」を好む傾向にまで及んでいる。マキャベリいうところの「君主は、愛されないなら、恐れられねばならない。決っして侮られない為に」的な権力観と伝統的に結びついてきたからである。

本覚思想の成熟過程

理論付けとなる仏典としては、真諦訳とされる『大乗起信論』の用例が基本的なものである。そこでは、現実における迷いの状態である「不覚ふかく)」と、修行の進展によって諸々の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的にあらわになる「始覚しかく)」と相関して説かれている。迷いの世界にいながら悟りの智慧のはたらきが芽生えてくる過程の中で、そのような智慧のより根源的なありかたとしての本覚という観念の存在が考えられた。これは唯識思想における阿頼耶識種子しゆうじ)の本有ほんぬ)・始有の考えかたから発想されたと考えられ、われわれの日常心の根源的なありかたを説明する術語である。

本覚思想と日本仏教

日本の本覚思想では、心の絶対的なあり方(心真如)と同じと考えられ、「本覚・真如」と並べることもある。衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは全く相反するものである。

しかしこの本覚思想は、時代を経ると後々に他の教理と関連付けられ、新たな解釈を生むことになる。すなわち、人間は誰もが悟っているのだから修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになったのであった。

  • これは、最澄撰である(偽撰との説もある)『末法燈明記』の「末法には、ただ名字みょうじの比丘のみありこの名字を世の真宝となして、さらに福田なし末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり市に虎有るが如しこれ誰か信ずべきや」がよく引用されるようになったことに由来すると考えられている。

そして鎌倉仏教が天台本覚思想を否定することによって成立したという見方がごく近年になって、新奇な注目を浴びるようになったがこれは、伝統的見方ではなく、むしろ主にいわゆる奈良仏教学派よりの鎌倉仏教への遅すぎた反撃ともいえるものである。伝統的には、鎌倉仏教は天台本覚思想の発展とする考え方であり、従来から、島地大等や宇井伯寿ら仏教学者によってもこの説が支持されている。とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げているくらいである。

本覚思想と日蓮宗

鎌倉時代中期、浄土宗系の著しい発展のなか、当時の比叡山は本覚思想の教えがさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえした(この項資料必要。一般には、浄土教は本覚思想に上に成り立っていると解される)が(したがって以下の記述のように、この土台で、浄土教と対立したのではないとする見方が大半である日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意したといわれる。

日蓮を本仏とする宗派では、これらの文献や経典などから「末法無戒」を説き、釈迦在世の細かい戒律などは末法の世では無益であり何の役にも立たない、とする。したがって、修行せずとも題目を唱えることが受持即持戒である、とする宗派をも派生することになった。

ただしこの文章(文脈)では、日蓮が「名字即菩提」などと、「名字」の語義に注目し「煩悩即菩提」などと同じく、「名字即初めて正法を聞いて一切の法はみな仏説であると覚る位)」による転換を指し示したもので、単なる戒律を否定したものではない、あるいは「末法無戒」とは釈尊の法や戒律が末法では通用しないので、本仏である日蓮が明かした金剛宝器戒こそが末法に於ける戒律である、等々さまざまな説を生むきっかけとなった。

本覚思想と邪教

異教の教えとされた真言宗系の立川流天台宗系の玄旨帰命壇も、タントラ的な性交を以って即身成仏を体現するといわれる。そのため一般的には邪教として危険視されたが、この本覚思想の影響を少なからず受けているという指摘がされている。特に立川流は『理趣経』に説かれる自性清浄(経本では如来蔵の仏性や菩提心を指すが、これを一種の「本覚思想」と見ることもできる)がベースとなっている点を注目すべきであろう。

ただし、真言宗の異端に由来した宗派を本覚思想と結びつけたのは、近代仏教学の過渡期における論調から来る一部の仏教学者の説であり、真言宗の『大悲胎蔵曼荼羅』における単なる名称の字義を曼荼羅の意味と誤解している。如来蔵の原語である「タタガター・ガルバ」の意味である「胎蔵」を、仏教語ではない「胎盤や子宮」と直訳し混同して、それに無理に結びつける論理であり、正しい本覚の理解とはいえないとされる。これらの本覚についての誤った理解は、南北朝時代真言宗立川流の勃興からであるとしてよいであろう。一部の仏教学者の宗派意識によって、それらを故意に関連づけた説もある。

ここまでの範囲で、これまでの投稿との整合性を図ってみましょう。

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  • まず最初に理解しておくべき事。「大乗起信論」は仏教伝来を中継した中国人の感性に全く合わず(何しろ「空」の概念を「色即是空、空即是色」なる処理待ち空ループ状態でなく「あらゆる認識を全否定する懐疑主義」としか解釈し得なかったレベルでの絶望的理解度)、日本仏教界はこの経典を新羅仏教を統合した華厳僧元暁(원효, 本名薛思, 617年〜686年)の注釈書「大乗起信論」「大乗起信論別記」を通じてやっと理解し得た(その元暁が新羅仏教の統合過程で最も手を焼いたのは龍樹「中論」の内容を「全てを疑え」と解釈した高麗系中観派だったという)。しかもこの怪僧、大衆救済欲が恐ろしく強く後に還俗して妻帯して在野に下り新羅浄土教の先駆者と目されている上(要するに親鸞の大先輩)、息子の薛聡は儒教を修めて新羅儒教を代表する儒学者となり孔子を祀る朝鮮の文廟に合祀されたりもしている。この観点からすれば本覚思想そのものが朝鮮半島から伝来した外来思想だった可能性が浮上してくるのである。

  • もちろん国家鎮護の観点から朝廷が公的に選定した法華経が、実はインドの第三階級ヴァイシャ(商人階級)をパトロンとして編纂された「竜女の即身成仏」説話(「男の娘」起源譚でもある)」に典型的な形で現れてる様に女性に優しい経典で庶民にも大受けした辺りに根源が求められる日本仏教と、似た様な盆地ごとに似た様な伝統的共同体が延々と連なる景色が「(あらゆる海面の波に天上の月が映り込む景色を仏法が各個人に内面からの良心の声として届く景色に擬えた海印三昧の境地」のイメージにインテリ層が惚れ込んで国家鎮護経文として華厳経が選ばれた新羅仏教の間に直接の上下関係は存在しないのだが、インドや中国より次々と新たな仏教概念を仕入れてきた後世仏教の世界においてすら、その歴史を語る上では「大乗起信論」と「大乗起信論別記」の影響について言及するのが避けられない現実が存在するという事である。ただし密教導入熱は日本仏教にだけ存在した展開で(元暁も密教については「微蜜の門」と鶏肋扱いしかしていない)その弟子たる審祥が日本に華厳宗を伝えた為に元暁をもてはやした東大寺を始めとする南都諸寺院ですら(初会金剛頂経大日如来華厳経盧舎那仏を同一視するといった)様々な形でその導入を検討せざるを得なくなっていく日本の展開と、風水の流れを組む風流禅の流行が次第に国教の権威を蝕んでいく朝鮮の展開は両者の差異をさらに際立たせていく。不思議なのは、日本への仏教輸入に大きな役割を果たした渡来人達が、当時のインド仏教における行動(ヨーガ)を尊重する立場の影響からか(朝廷の動きの鈍さに見切りをつけて在野に下り勧進による知恵寺の建立、井戸掘り、橋の建設といった大衆救済思想に密着した民間ベースの公共事業に邁進していく流れも日本にしかみられなかった事である(移民という特殊環境の影響が生んだ展開だった可能性が高いとされる)。こうした矛盾の鬱積が爆発したのが東大寺盧舎那仏像建立事業で、それまで「(顕密体制の「密」の部分の究極の象徴たる秘められた宇宙の真理」の顕現としてインテリ有力者が私邸の地下室にこっそり設置されてきた盧舎那仏像がどうして当時の日本有数の大規模公共工事の結果、誰もが拝観可能な巨像として建立される運びとなったのか、発願者たる聖武天皇にすら理解不能だったという(概ねこれを権勢誇示の舞台として利用したかった藤原氏のせい)。今では部派仏教の本場たるタイ人まで日本観光の際には(本命たる鎌倉の大仏と併せ)必ず立ち寄る人気スポットとなってる辺り、もはや日本人にも訳が分からない。「宇宙神盧舎那仏の像とは言うなれば地球儀の如く華厳世界にける「宇宙のあるべき姿」の模型に過ぎず、願掛けすれば応えてくれる崇拝対象ではないのである(それに対し大日如来は宇宙の真理に照会した上で少しは対応を考えてくれる「話せる奴」という設定)。しかもあくまで大乗仏教の発展上現れた概念で、部派仏教には対応する概念が原則として存在しない。

    こうした歴史経緯から推察される様に日本の本覚思想は儒教分野にも絡んでくる。特に朱子学とセットで語られる事の多い陽明学大陸でいう陸王)左派の展開は重なる部分が多い。

    陽明学の方法論的側面を典型的な形で表す「致良知」なる言葉の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来し朱子学の言葉「格物致知」の「」に対応するが「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。

    ここでいう「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学においては非常に動的なものとして扱われる。

    致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。

    • 無善無悪是心之体善無く悪無きは是れ心の体なり
    • 有善有悪是意之動善有り悪有るは是れ意の動なり
    • 知善知悪是良知善を知り悪を知るは是れ良知なり
    • 為善去悪是格物善を為し悪を去るは是れ格物なり

    これは、理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ、というのが大意である。なお善悪を超えたといっても、孟子性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善/悪の観念・価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなった。

    陽明学左派の掉尾を飾る人物。ムスリムであったとされる一方で、万暦27年1599年)に南京に赴任していた折りにイエズス会マテオ・リッチと邂逅。以後何度か会い、相互理解を深めた。李卓吾はリッチの人柄や能力、その著作『交友論』に高い評価を下している。またリッチの方でも李卓吾キリスト教に一定の理解を示したことや文学にも科学にも精通していると書き残している。僧形で生活し、女性にも学問を抗議したりと様々な意味合いにおいて稀代の自由人であった。

    彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し「童心説」を唱えた。童心とは経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定したのである。

    坂口安吾が敗戦後の日本で広めたフランス行動主義すなわち「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる概念とも重なってくる。ある意味理神論Deism)の本質を突いているとも。

  • その一方で「末法無戒」の概念はしばしば国際的に「エロティズムの開放」と結びついてきた。

  • おかる勘平」発禁処分事件(明治43年/1910年、『屋上庭園』二号に掲載した掲題の作品が風俗紊乱にあたるとされ発禁処分を受け、同誌も年内に廃刊)以降、童謡作家に転じた北原白秋は遊戯に没頭して自分が今いる場所も時間も忘れる忘我の境地に入る「三昧」状態を理想に掲げる様になった。まさしく李卓吾の「童心説」。カール・マルクスと同時期に反ヘーゲル哲学の論陣を張ったキルコゲールの「時空間を超えた彼方で自己実現の目標として待つイエス・キリスト」。宮沢賢治がそれに対する憧れを文学として表現した法華経における「久遠の仏」概念。分別のついた大人なら誰でも抱える実存的不安への勝利の瞬間…

何たる反知性主義と反体制主義の集大成…一見この系統の思考様式は(常に標的の背後で目付役として目を光らせ続け、標的が暴走したと判定された瞬間に成敗する誤差関数的諸概念から完全に自由である様に見えますが、19世紀フランスのあらゆる革命に参加し続けた「欧州で最も危険だった革命家オーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)に言わせればどうやら違う様なのです。

 

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

ニーチェとて別に「」を完全に殺し切れる(mortalな)存在としてしかイメージしていなかった訳でもない。

  • ツァラトゥストラはかく語りきAlso sprach Zarathustra、1885年)」の中で彼は無心論者達が驢馬を神に見立てた祭祀を続ける様を活写する。「ああ所詮はお遊びさ。だがどうしてもこれまでは手放せないのだ」。

  • まさしくフランス革命の到達点とも言われる「最高存在の祭典La fête de l'Être suprême、1794年)」そのもの。

そもそも挑戦すべき対象なくば挑戦者は存在し続けられない。まさしく「罰がなければ、逃げる愉しみもまたない」の世界。

  • カール・シュミットの政治哲学も「政治家が真っ先にやらねばならないこと、それは適切な敵と味方の設定である」と述べている。敵側は可能な限り倒し難い方が良い。その方が長期間、味方の団結を煽り続けられるから。一方味方側は可能な限り追い詰められていた方が良い。その方が吸収併合に向けての「同化政策」が進めやすいからである。

  • 急進主義のジレンマ。それは権力フォルス)側から、生命や私財の安全や表現の自由と行った基本的人権すら否定された状態においてのみその存在の存続が正当化されるという辺り。これを認められてなお、ましてや訂正転覆に成功してなお抵抗ヴィオランス)を続けるなら、それは「無限に続く内ゲバに果てしなく無関係の第三者を巻き込み続けたジャコバン派の恐怖政治、「自民族の滅亡危機が去ると「予防戦争」と称して他民族殲滅に邁進した」ナチズム、「最初に標的として設定された共産主義者無政府主義者国粋主義者といった国家転覆を狙う陰謀家を狩り尽くしてしまうと狡兎死して走狗烹らる状況の到来を恐るあまり弾圧の範囲をカルト宗教団体や言論界や挙国一致体制下における庶民の風俗にまで広げていった大日本帝国時代末期の特高警察の様な絶対悪めいた存在に昇格してしまうのである。

こういう意味合いにおいて「欧州で最も危険な革命家オーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)は遅れてきたサド侯爵かもしれない。「海外に亡命した新左翼運動家達が日本人を代表する存在として国際謀略で大活躍する船戸与一の冒険小説(1984年〜1991年)の登場人物にも多かったタイプ…その彼が晩年、牢獄の中でこう綴っている。

  • 我らは何世紀も前から大気圏の柵につながれ、空しく自由もしくは歓待を求め続けている、哀れな囚人たちではないだろうか? 曙光と黄昏の光の中で、両回帰線間の太陽に照らし出される、あの蒼白きボヘミアンたち

  • 我々の一人一人は、何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう」。そこにあるのは無限の時間の中で必然的に生じる有限の反復――永劫回帰の憂鬱のみ。

革命に勝利なし。政権転覆に成功して権力側に昇格した瞬間から、新たな革命の打倒目標となるのみだから」と豪語してあらゆる政体を否定した陰謀家。その胸中にはこんな無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていたのである。

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監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ中心星)」は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト綱領)をつくらなかった。

ブランキズムとは - コトバンク

だがこうも考えられるのではなかろうか。絶対自由を求めての所業は、最終的にはむしろ自分に内面から届く良心としての「神の声」への絶対拘束を露わにする。まさに等速円運動Constant velocity circular motion)が、その見掛け上の単調さに関わらず加速運動に分類される様に。

19世紀前半のフランスに彗星の如く現れ「国王と教会の権威への無限闘争」を宣言しながら、その内実は「神に対するダンディズムカミュの言葉)」があるばかりで他者への配慮が一切欠け落ちた貴族的エゴイストに過ぎなかったが為に、国王の権威も教会の権威も失墜して以降は大衆から蛇蝎の様に嫌われる様になり、急速に没落した政治的浪漫主義者達の様に。

様々な要因から1970年代中旬以降「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」が急浮上。20世紀末以降はさらに「民族主義は、他民族からの加害に人一倍敏感になる一方、他民族への加害には人一倍鈍感になる事によって成立する。ナチズムの成立過程そのもの」とか「反差別主義は究極的には人間を被害者に全財産を遺して一家心中するか、それの出来ない偽善者として醜い言い訳を繰り返しながら生き存える状況の二択に追い込む」なんて言い回しも登場してくる。「無限遠点からこちら側を窺って無言の影響力を与えてくる存在」が神や国家主義といった「反体制側にとって選びやすい絶対権力」だった時代なんて、とっくの昔に終わってしまっているのである。「だったらどう生きるべきか?」といった設問に、オーギュスト・ブランキのこういう言葉が刺さるのである。

 大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

とりあえずここまでで偏微分2回目は一区切り。全体像を俯瞰すると説明変数Xに「Imaginaly=各個人が甘受している精神的自由」を配したら目的変数Yに「Status:Slaved=様々な拘束の強要によって精神が死んだ状態」「Status:Forcing=権力(フォルス)側への参画による精神的開放」「Status:Violenting=反権威ヴィオランス側からの改革」「Status:Salvated=社会改革が不要となった自由状態」の4象限で構成される遷移図が現れた形です。

統計言語Rによるグラフ化

pie.data<-rep(1, 4)
names<-c("Slaved","Forcing","Salvated","Violenting")
names(pie.data)<-names
pie(pie.data, col = heat.colors(4),main = "Transition diagram of mental state")

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これまでも随分と大鉈を奮ってきましたが、ここで偏微分1回目と偏微分2回目の結果を統合して暫定モデルを構築してみたいと思います。もちろん100点満点とは行かないでしょうが、何しろ年末が迫っているのです。デバッグ期間も想定すると、まだαテストにも至ってないというのは大変厳しい訳で…

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①当然このモデルの出発点はJ.S.ミルが「自由論On Liberty, 1859年)」において提示した古典的自由主義Classical liberalism、すなわち「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定され、それ以外の個人的な行為については必ず保障される」原理と、「共産主義の祖」カール・マルクスが(社会民主主義の祖」ラッサールのパトロネージュを受けて出版した)「経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において提示した社会自由主義Social Liberalismすなわち「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」原理の突き合わせなのである。

とはいえ偏微分の第1回と第二回の結果には見た目以上に複雑な内容を抱えていそうな箇所が多い。そこで以下の考え方の出番となる。

操作変数法(method of instrumental variables, IV) - Wikipedia

統計学計量経済学、疫学、また関連分野において、統制された実験が出来ない時、もしくは処置がランダムに割り当てられない時に、因果関係を推定するための方法である。直感的に言えば、説明変数と被説明変数の間の相関が二変数間の因果関係をもっともらしく反映していない時に用いられる。妥当な操作変数は説明変数に影響を与えるが被説明変数に独立的な影響を持たず、研究者が被説明変数に対する説明変数の因果効果を明らかにすることを可能とする。

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  • 説明変数(共変数)が回帰モデルにおける誤差項と相関している時に一致推定することを可能とする。このような相関は、被説明変数の変化が共変数の少なくとも一つの値を変化させる時("逆"の因果)、説明変数と被説明変数の双方に影響を与える除外変数が存在する時、共変数に測定誤差がある時(error-in-variables models)に起こるだろう。
  • 回帰の文脈において一つないしは複数の問題を持つ説明変数は時折、内生性として言及される。この状況下では、最小二乗法はバイアスを持ち一致性を持たない推定量を生み出すが、もし操作が利用可能ならば、一致推定量を得ることができる。

ここでいう操作とはそれ自身は説明すべき方程式には依存していないが、内生的な説明変数とほかの共変数の値による条件の下で相関している変数のことである。

②如何なる動きが正しいかは各時代の状態によって異なる。とりあえずここではそれに影響のあったと推定されるパラダイムシフトを伴う歴史区分をこうカウントする(工事中)。

  • うわぁ…絶対に年内完成なんて無理…流石に手を広げすぎたわ…orz

 ③とりあえず、こうした価値判断基準の遷移を厳密な直交座標系に落とし込むには、ますます相関係数の判定が重要となる。

相関係数(correlation coefficient)- Wikipedia

2つの確率変数の間にある線形な関係の強弱を測る指標。無次元量で、−1以上1以下の実数に値をとる。相関係数が正のとき確率変数には正の相関が、負のとき確率変数には負の相関があるという。また相関係数が0のとき確率変数は無相関であるという。

相関係数が±1に値をとるのは2つの確率変数が線形な関係にあるとき、かつそのときに限る。また2つの確率変数が互いに独立ならば相関係数は0となるが、逆は成り立たない。

例えば以下の図は(x, y) の組とそれぞれの相関係数を示している。相関は非線形性および直線関係の向きを反映するが(上段)、その関係の傾きや(中段)、非直線関係の多くの面も反映しない(下段)。中央の図の傾きは0であるが、この場合はYの分散が0であるため相関係数は定義されない。
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で、やっと話は冒頭の「不修多羅」の件に戻るのです。とりあえず「修多羅=正確で歪みなく秩序よく束ねられている」なる表現で連想されるのは「神格の習合」…

間違いなく相関係数で考えるべき案件なのでしょうが、そろそろSAN値が限界なので、以下続報…