諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「龍樹の仏教」の科学実証主義(Scientific Positivism)性について。

私も一応は「自認:オタク」なのですが、いつの間にか自分が何のオタクなのか分からなくなってしまいました…

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今回の投稿の契機はこのtweet

ここに乱入

この言葉、日本史の中ではまた独特のニュアンスが…

そして「この世の唯一の実体が中そのものだけである事」と「(それ自体仮象に過ぎない)眼前の事象について、それを説明する(やはりそれ自体は仮象に過ぎない)基底の一時結合状態が一意に定まる事」は矛盾せず、これを私は「三昧の境地」と捉えてきた訳です。最近はさらに数学の多様体(manifold)概念の援用を考えていますが、ここで鍵となるのが「(世界そのものは定義不可能でも)各アトラス内の空間構成なら基底の一次結合で表現可能」という事。こう考えれば「どのアトラスが最も正しいか」特定しないまま(それに拘る事は執着として忌避されるべき)「視野範囲内における正解」が算出可能となる訳です。

まぁこれ自体は概ねマインドフルネスの世界観という…

ガブリエル・タルド模倣犯罪学メディア公衆論から出発した「間の思想和辻倫理学もほぼ同じ構造に到達。というより仏教における「」概念に、無理矢理そうやって西洋哲学の建て付けを施したのがその実体だったと考えるべきかもしれません。

データとして古事記日本書紀の故事を流し込んだので全体像としては随分違ったものとなりましたが、その発想自体はアーネスト・フェノロサ岡倉天心が日本に持ち込んだ国粋日本画、ひいては「聖書やギリシャ・ローマ古典や異教秘儀に結びつけたエロティズムだけを許す」欧州のアカデミズム絵画や活人画の伝統に由来したのです。

『中論頌』における「見」の研究

龍樹をニヒリスト(虚無主義)と位置付ける西欧の学者は、シチェルバツキー(1927年)に詳しい。なお、神秘主義者という指摘はシチェルバツキーシャイエルラーダークリシュナンエドワード・トマスなどである。

梶山雄一MMK第18章に表れる三昧への言及から龍樹が神秘主義者である面を否定しない。三枝充悳は、龍樹が神秘主義者であると主張する説の根拠「直観(intuition)」を否定する立場をとる。シチェルバツキーやシャイエルの主張する「直観(intuition)」は山口益(1951)によるとprajJAに相当する。しかし三枝は MMK においてprajJapitaという動詞はあってもprajJAは用いられていないので「直観(intuition)」という語をもって龍樹の特徴をつかむことはできないという。

こういう風に「サンスクリット語の知識の必要性」は浮上してくる訳で。

論調が変わった様に見えるのは、それまでの章が「現在の有無論への反駁」だったのに対し、それまで展開してきた自説を「釈迦の伝統への回帰」なる着陸地点に落とし込む流れだから?

冒頭で「何であれ依存的に生じたものは、止むことも生じる事もなく、滅する事も永続する事もなく、来る事も去る事もなく、独自の性質がないので区別が不可能で、あらゆる概念構造から解放されている」と宣言し、これを(我々が生きている)縁起世界の特徴と定義付ける。現世をそう捉える考え方自体は(ヘレニズム文化の継承者としてのイスラム文化の精緻たるアラビア教学の衣鉢を継いだ)スコラ哲学などのキリスト教学にも見られるが「神のみがこの世に実存する唯一の実体であり、現世とは神の英知が流出する過程で(伝言ゲーム的に)誤謬が重ねられた産物としての虚妄に過ぎない」なる唯一神信仰に吸収されてしまう。

その体裁は、整然と秩序立てられた論駁というより「モグラ叩き」のように、そうした説の論点を1つ1つ取り上げながら「そうした前提に則ると、矛盾する」といった帰謬論証(背理法)を重ねながら、地道に斥けていくものである。より具体的に言えば、

  • 「(相依性)縁起」と、事物の「有・無」は両立しない(事物が「有」でも「無」でも、「(相依性)縁起」は成立しない

という前提の下に、論敵の主張を「(あるいは「無」)」を主張しているものとして分類し、それを「(相依性)縁起」と両立しない主張をしているものとして斥けていく。

そうした地道な帰謬論証の積み重ねが、徐々に「自立的なものなど何ひとつない」という、龍樹の徹底した「無自性()」「相依性(相互依存性)」の思想を炙り出していく。

そして「こうした過激な考えは、むしろ従来の釈迦の説と両立せず、それを踏み越え、蹂躙し、台無しにするものではないのか」という批判に対してナーガールジュナ2つの真理(二諦)の区別を持ち込み、自分が示しているのは釈迦が悟った本当の深遠な真理(真諦・第一義諦)であり、同時にもう一方の世俗の真理(世俗諦)を基礎付けてすらいるが、論敵(有自性論者)はそのことが分かっておらず、釈迦の教えや自説の存立すら困難にしていることにすら気付いていないと反論する(第24章)。

さらに、真の涅槃(ニルヴァーナ)とは「一切の分別・戯論が滅した境地」に他ならないこと(第25章)、そして、それこそが古典的な十二因縁(十二支縁起)の「無明」を消し去り、「逆観(苦滅)」を成立せしめるものでもあること(第26章)などを示しつつ、最後に改めて総括的な内容を挟み、釈迦を讃えて『中論』は締め括られる(第27章)。

そもそも神秘主義とは何者なのでしょうか? 不可視論者との峻別点は?

生物学的にはこういう観点も。

その一方でニーチェはこんな文章も残しているのです。

ニーチェは「アンチクリスト」の中で、仏教の素晴らしいところをこう記している。

  • 仏教はキリスト教に比べれば、百倍くらい現実的です。仏教のよいところは「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。

そして仏教が注意していることを二つあげています。

  • 感受性をあまりに敏感にすること
  • 何でもかんでも精神的なものと考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること

仏教は様々なことに気づくことを教えてはいるが、そこで終わり、その先にあれこれ考えない、つまりそこから怨み、ねたみ、おごり、怒り、欲を高じさせないことを大事にしている。また、あまりに頭だけで考えることも推奨していない。修行実践が大切だと教えられている。この辺りのことをニーチェは指摘しているのだと思われる。また以下の様にも記す。

  • 重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。普段の状態が、宗教的にも完全なのです
  • ところがキリスト教の場合は、負けた者やおさえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。・・・キリスト教では最高の目標に達することは絶対に出来ない仕組みになっているのです
  • 仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的処方箋なのです

私は何もここでキリスト教を断罪する気は毛頭無い。それよりも実は、現実には私たちの仏教がキリスト教化してはいないかと懸念しているのだ。信仰ばかりを語ってはいまいか。読経、写経もよいがニーチェの唱える仏教の本来あるべき姿勢、論理的に冷静にものを考える伝統をおろそかにしてはいないか。教えの何たるかも知らせずに、ただ手を合わすことばかりを強要してはいないかと問いたい。ニーチェは、ものを信じ込む人は価値を判断することが出来ず、外のことも自分のことも分からず牢屋に入っているのと同じだとも指摘する。

要するに(シェラフタ=ポーランド貴族階層出身である事に強い自負心を抱いていた)ニーチェが理想視したのはホメロスの英雄叙事詩で語られる様な「軍事貴族の行動主義」であり(その立場からギリシャ悲劇作家も「称揚されるべき英雄主義者」アイスキュロス&ソフォクレスと「唾棄されるべき」エウリピデスに二分)、これがインド思想だと「バガヴァッド・ギーター」を奉じるクシャトリア(軍人・行政家)階層の実践主義に対応するので(それと適度な緊張感を保ちつつ)「法輪のもう一方」を担うバラモン階層(知識人階層)が奉じる思弁的なウシャニパッド哲学と観想を重視する修行法は「虚無主義」と退けつつ、「かかる英雄主義を衰弱させるソクラテスプラトン形而上学や「愛に立脚するキリスト教のカウンターとしての仏教は称揚したのです。

時期的にも歴史的課題の捉え方においても「南北戦争(1861年~1865年)」およびそれに続いた「金鍍金時代(1865年~1896年)」における伝統的価値観崩壊を受けて「人は究極的には分かり合える」「神は人間に解決不可能な課題は課されない」なる楽観主義から姉リカ人の価値観を建て直そうとした実用主義(プラグマティズム)と重なってくる部分があったりしますね。

そして両者が思わぬ形で交錯…

カウフマンの翻訳が顕在化させたものは何であろうか。それは「プラグマティスニーチェである。
(1)反基礎づけ主義、(2)多元的視点、(3)影響や効果の重視という、プラグマティズムの本質的特性を有する点で、カウフマン(の翻訳)が生み出したニーチェは、紛れもなくプラグマティストである。プラグマティストとしてのニーチェを顕在化させたからこそ、ニーチェが「高い汎用性」に基づいてさまざまに利用されるようになった。

カウフマンの翻訳は、ウィリアム・ジェイムズと比較考察することによって、ニーチェの「プラグマティズム」を浮き彫りにしたが、同時にジェイムズのプラグマティズムの本質を、アメリカの読者に感じ取らせることにもなった。その本質とは、ルイ・メナンドの言葉を借りれば、プロテスタント宗教改革にも匹敵するほどのアメリカ文化の中の脱制度的衝動――あらゆる社会制度の偶然性の洞察や制度、画一性への敵意――を現わしているものである。まさにこのジェイムズが、ニーチェのもつ反制度性反体系性ならびに自己主権性に対する理解を容易にしたのである。

フランス現代思想の受容において「哲学を文学化」したように、アメリカ受容の「カニズム」は、分かりにくいニーチェ哲学を「反基礎づけ主義のプラグマティズム」として、すなわち「なじみ深い」言葉遣いの哲学者として普及させていく。

とはいえ「アメリカにおけるニーチェ 理解」がそうだったからといって「欧州におけるニーチェ 理解(およびニーチェ自身の自認)」が「ヨーロッパ大陸における合理主義や普遍主義的思考と対決する緊張感をはらんだ最初の徹底的なニヒリスト」であった事実もまた動かないのです。ただその独特の悲観性を帯びた「距離のパトス」論が「歴史浅き移民大国アメリでその対応物を実用主義以外に見つけられなかっただけで。

この意味合いにおけるニーチェには「(なまじ国王と教会の絶対権威性に宣戦布告したせいで、それとの対消滅を余儀なくされた)フランス小ロマン派」の面影も感じます。

ただ「遅れてきた存在」だったが故に「」なるもう少し持続性のある絶対的権威を喧嘩相手に選ぶ僥倖に恵まれたという訳です。(ある意味英国における小ロマン派運動とでもいうべき)英国若手貴族層のダンディズム運動が新興ブルジョワ階層の成金趣味を揶揄するという形で生き延びた様に。

19世紀末イギリスの服飾観―ダンディと新しい女

19世紀末のイギリスでは,前半を風擁したダンディズムの思想を受け継ぎながらも,デカダンス的要素をもった世紀末ダンディズムが生み出されていた。

ダンディズムとは,19世紀初頭フランス革命によって貴族の服飾から革命派の服飾へと変化していった時代にジョージ・ブライアン・ブランメルを中心としてイギリス宮廷に起こった美意識である.イギリスではウール地を使用した男性のコートがテーラーの技術の追求と相俟って紳士服の中心となっていった.ブランメルは優れた装いの感覚によって,時の摂政皇太子(後のジョージ4世)に認められ,皇太子取り巻きの青年貴族の仲間入りをしたのである.このときに確立したダンディズムは,優れた品質の素材と完全に身体にフィットした仕立ての技術,目立たずさりげないおしゃれである.ダンディは
このような装いにのみ凝るのではなく「冷徹な頭脳と何ものにも揺るがない信念を持った生き方をする人物」をあらわす言葉である.当時の作家であるカーライルは,『衣
服哲学』においてダンディを「洒落者集団」と表現し,「やがてイギリスを二分する勢力となる」と評している。

ダンディの信条は「何ものにも揺るがない冷徹な精神」「社会に対する反抗の精神」であるといえ,ブランメルは自己を崇拝し,自己の信念を貫き,繊細さと皮肉な表情の中に人を見抜く洞察力を持っていた.ダンディはこのような美的な態度や生き方を理解しない人々に対して,一種の反抗の姿勢を持っていたのである。

その代表格がオスカー・ワイルドであったという…思わぬ形で19世紀末欧州オカルティズムとの接点が浮かび上がってきた感じ?

フランス式実証主義の精神は法学の分野にも及んで生ます。その「全国各地の慣習法を一つずつ吟味しながら何を取り入れるか決めていく」方法論は、日本の近代民法制定過程でも役立てられています。

中世においては天台智顗の五時八教説により釈迦が晩年に説いたとされていたが、近代文献学に基づく仏教学によって紀元後に成立した創作経典であることが明らかにされている。その具体的な時期については、以下に述べる如く諸説ある。

代表的な説として布施浩岳が「法華経成立史(1934年)」で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀頃に思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年頃第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。

20世紀後半になって苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は「成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。

西北インド西暦40年~220年頃に成立したとする説

現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる。

中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。
上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。
下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ王の時代で、これ以降は急激に衰退している。

法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している

法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。

インドで伝えられてきた様々な仏典が、4世紀頃中央アジア(西域)で編纂されたと推定されている。 華厳経全体のサンスクリット語原典は未発見であるが「十地品」「入法界品」などは独立したサンスクリット仏典があり現代語訳されている。

漢訳完本として、

  • 東晋東晉天竺三藏佛馱跋陀羅訳(418年~420年)『大方廣佛華嚴經』60巻(六十華厳)、旧訳または晋経、大正蔵278
    唐の于闐國三藏實叉難陀訳(695年~699年)『大方廣佛華嚴經』80巻(八十華厳)、新訳または唐経、大正蔵279

がある。

一周して2年前に突き当たったこの問題に回帰してきた気がしてます。

成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。

成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。

フランス式実証主義なる強力なツールを得て大きく前進した気がします。

そんな感じで以下続報…