諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ギリシャ人は何処から来たか】正体不明のアイオリス人?

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今週はこの考え方をさらに発展させてみました。

それまで前提としてきた知識が幾つも崩壊して、ちょっとしたパラダイムシフト状態…

 ①アイオリス人ドナウ川流域よりテッサリアに渡ってきた紀元前三千年頃というのはギリシャ世界が新石器時代から青銅器時代に移行する端境期であり、しかもギリシャ青銅器時代は、テッサリアを素通りする一方、その後ミノア文明(紀元前二千年頃~紀元前1500年前後)の影響を受けて加速しミュケナイ/ミケーネ文明(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)へと発展する。

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  • かかる歴史的展開にアイオリス人がどう対応したのか完全には明らかになってないが、ヘロドトスに「数だけはむやみやたらと多かった(だから次々と新たな移民先を探し続け、結果としてギリシャアナトリア半島に高域分布)」と評された彼らは、その少なくとも一部が「アカイア人=ミケーネ文明の担い手」に合流したと推測されている。

    DNA調査によってミノア人ミケーネ人アナトリア半島エーゲ海地域の新石器時代から継承されてきたほぼ同質の遺伝子の持ち主(ただしミケーネ人には草原地帯からの遺伝子流入が見られる)だった事が明らかとなった。ただしミノア人には(黒海沿岸経由でカナンまで流入した)カフカス人の、ミケーネ人にはユーラシア大陸北部/中央の狩猟民の遺伝子混入が見受けられたという。だとすればおそらくミケーネ人に「ユーラシア大陸北部/中央の狩猟民の遺伝子」をもたらしたのがアイオリス人だったのであろう。専制的献納制を特徴としたミケーネ文化圏において彼らが「領主側」「領民側」あるいはその両方のどの立場で溶け込んだかまでは解らない。そもそもミケーネ文化圏は「領主側」と「領民側」に遺伝子的相違が存在しなかった社会なかった事も(従って征服王朝ではない)この設問の解消を難しくしている。

②「紀元前1200年のカタストロフ」に際してミュケナイ/ミケーネ文明の担い手達から警戒された「海の民」と総称された人々は、実際にはミタンニ(フルリ人)やヒッタイトミケーネ文明さらにはエラム人などが闊歩していたイラン高原のザクロス山脈の向こう側)などから「合成弓」「戦車」「(しばしば鉄製の)精巧な鎧や剣」といった最新の軍事技術を仕入れつつエジプト新王朝ヒッタイトミケーネ文明専制的体制には服しなかった蛮族、逃亡した奴隷や脱走兵や犯罪者、失業中の傭兵達を吸収して膨れ上がったある種の「(行き詰まってしまった伝統的身分体制上における)非合法集団」だった。そうまさに日本史において(武家を頂点に仰ぐ身分制の限界が露呈した)江戸幕藩体制末期に鉄砲まで装備した武装侠客集団として台頭してきて義賊行為や関所破りを繰り返した国定忠治の様な連中だったといえそうなのである。

  • 古くはカナンのアピル人(アララト王族の復権に手を貸した寄せ集めの放浪者集団)やレバノン山岳地帯のアムル王国(遊牧民が沿岸諸都市の逃亡者を受容し軍を強化)やエジプトのヒクソス、後にはパレスチナペリシテ人などもこの条件を満たす。

    <山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.71>

    ペリシテ人職業軍人の重装歩兵が編成する強力な武器を持ち、鉄の武器と戦車軍団、および弓兵をその軍事力の基盤としていた。(旧約聖書の)サムエル記によれば、ペリシテ人は鉄の精錬を独占してさえいたらしい。彼らは各地の拠点に守備隊を置き、征服地の実効的な継続的支配を図った」

  • こうした人々はパレスティナ(カナン)、レバノン及び(カリアやキリキアといったアナトリア半島内陸部の山岳地帯、古代リヴィア(クレタ島経由でシチリア島サルディーニャ島やイタリア半島南部に接続するアフリカ北岸のベルベル人居住地)やテッサリアといった当時の文明辺境部を跋扈しながら組織的動員力を養ったと目されている。
    *ああ、まさしく「幕末任侠の梁山泊としての赤城山」じゃないですか。

  • 実際、当時の「海の民」に関する記録では、メンバーとして当時テッサリアからアナトリア半島内陸部に移住した目されるフリュギア人、アフリカ北岸のリヴィア人(ベルベル人)、そしてギリシャアカイア人ばかりか、イタリア半島南部のエルトリア人シチリア島住人サルディーニャ島住人と推定される名前まで列記されている。ちなみに彼らはしばしば専制国側の傭兵や商人としても足跡を残しており、決して一枚板にまとまっていた訳ではない。
    *というか常備軍や中央官僚の力だけでは事態を好転させられなくなり、彼らの実力に頼らざるを得なくなっていく過程そのものが政権末期といえよう。そう、三国時代(紀元後220年~280年)後に現れた西晋の朝廷内紛の決着が蛮族間の抗争に委ねられる様になり五胡十六国時代(304年~439年)が始まってしまった様に。

    ちなみに最近のDNA研究によってイタリア半島南部に割拠していたエルトリア人がアナトリア半島出身だった可能性が指摘されている。

    紀元前1世紀の歴史家ディオニシオスが、エトルリア人はイタリア固有の民族であると伝えている一方で、著名な歴史家ヘロドトス紀元前5世紀)はその著書「歴史」の中でエトルリア人の起源について以下のように伝えている(巻1、94節。訳は松平千秋による岩波文庫)。
    リュディア全土に激しい飢饉が起こった。リュディア人はしばらくの間はこれに耐えていたが、一向に飢饉がやまぬので、気持ちをまぎらす手段を求めて、みながいろいろな工夫をしたという。そしてこのとき…(サイコロ遊びなど)あらゆる種類の遊戯が考案されたというのである。…さてこれらの遊戯を発明して、どのように飢餓に対処したかというと、二日に一日は、食事を忘れるように朝から晩まで遊戯をする。次の日は遊戯をやめて食事をとるのである。このような仕方で、18年間つづけたという。

    しかしそれでもなお天災は下火になるどころか、むしろいよいよはなはだしくなってきたので、王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供にとらせることとした。国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、…テュルセニア人と呼ばれるようになったという。

    リュディアというのは現在のトルコ西部、スミュルナというのは現在のイズミル市(エーゲ海岸にあるトルコ第三の都市)にあたる。つまりエトルリア人は現在のトルコからイタリアに移住した者の子孫だというのである。そういやローマ市を建設したアエネアスも、トロイアトルコ北西部)出身ということになってますな。

    ただし上記ディオニシオスはこのヘロドトスの記述に対して、リュディア人とエトルリア人では言語も宗教も違うので信じられない、とコメントしている。ただ現代の学問ではディオニシオスの主張を裏付けることも出来ないし、彼の時代にはエトルリア人はほとんどローマ化していたということも出来る。

    この起源論争に一石を投じる研究成果が先日発表された。古色蒼然としたこの問題に使われた研究方法は、DNA解析という最新技術を使ったものだった。

    トリノ大学のアルベルト・ピアッツァ教授を中心とする研究グループは、かつてのエトルリアの中心地であるトスカナ地方のムルロ、ヴォルテッラ、カセンティーノといった町に代々住む住民のDNAを採取し、イタリアはじめヨーロッパ各地の住民のDNAと比較した。この地の住民のY染色体はハプログループGに集中しているのだが(済みません、僕自身はなんのことやらさっぱり分からんのですが)、この特徴を持つ集団はイタリア国内には他にいなかった。似た傾向を持っていたのが、なんと現在のトルコに住んでいる人々だったという。

    エトルリア人のDNAに関する研究はここ数年すでに行われていて、イタリア・スペインの別の研究グループがエトルリアの遺跡から出土した人骨80人分のDNAを分析したところ、互いには非常に近いものの、現代イタリア人のそれとはかけ離れていることが判明したという。また現代のトスカナ地方の牛のミトコンドリアDNAを分析したところ、親縁性のある例はイタリアはおろかヨーロッパに全くみられず、中近東にあったという。

    これらの結果からピアッツァ教授らは、エトルリア人小アジアアナトリア)からイタリアへ移民したというヘロドトスの記述は信憑性がある、と結論付けた。牛については、テュルセノスに率いられたエトルリア人が最低限の家畜を連れていたためだろう、という。

    さらに「イタリア南部に移住するエルトリア人の一部がサルディニアに定住した」とする伝承もある。アナトリア半島西岸から出発して西に向かう途中で右に曲がればシチリア島/サルディーニャ/イタリア半島、左に曲がればリヴィア(アフリカ北岸)… まぁそれが地中海航路の地理感覚なのである。

それまでエジプト新王朝ヒッタイトミケーネ人の征服事業(ヌビア地方やエラムといったさらに富裕な周辺文明に対する略奪行為)によって回ってきたオリエント世界は、この時期その停滞によって未曾有の経済的危機を迎えており、その影響で彼らの様なアウトロー集団も中央政権からの脱落者/それに失望しての自発的脱落者の急増によって膨れ上がり蜂起のチャンスが巡ってきたと考えられよう。どの文化圏にも似た様な集団は現れるものである。そうまさに中華王朝史における明末清初期の様に…

この時代に遂行された「(何らかの理由でテッサリアを追われた)ボイオティア人によるミニュアース征服事業」はまさしく、かかる意味合いにおいて「海の民」の行動原理そのものだったし、実際彼らの拠点たるテーバイもまたミケーネ文明期の遺跡の跡地の上に建てられている。果てして彼らはミニュアースを自ら滅したのか、それとも支配原理の矛盾が炸裂して破綻して自壊した後の遺跡に移り住んだだけなのか…この問題はヒッタイト政権崩壊前後にアナトリア半島内陸部への移住を開始したテッサリアフリュギア人Phrygia, 古希: Φρυγία)についてどう考えるべきかという話にも重くのしかかってくるのであった。

現在のオロポスOropos)周辺にあったと推定される都市グライアGraea/Γραῖα)は、ギリシアで最も古い都市であると伝えられており、地名も「古い」「古代」という意味がある。何人かの学者は、ギリシャ神話に登場するギリシャ人の祖ライコスGraecus/Γραικός)との関係を指摘しており、日本人の彼らに対する呼称「ギリシャ」もこれに由来する。おそらくこの都市も、かかる歴史的激動に耐え切れず滅んだと目される。

③「紀元前1200年のカタストロフ」後の地中海商圏の再建はフェニキア商人に主導される形で「キプロス島」「クレタ島(及びリヴィアのキレネやシチリア島サルディーニャ島やエイルトリア人の割拠するイタリア半島南部を結ぶ縦のライン)」「エンボイア島(及びそれに隣接するコリントスなどのギリシャ人植民市)」を結ぶ形で進行。良港を保有してなかったが故にこれに加われなかった事がボイオティア零落の端緒となる。

  • ギリシャ人の時代」は一般に(紀元前8世紀頃、シリアのオロントス河下流域に共同交易拠点として設けられたアル・ミナに引き続き紀元前7世紀頃アッシリア帝国の介入もあって)リヴィア系ファラオが統治したエジプト第26王朝サイス朝, 紀元前664年~紀元前525年)からナウクラティスフェニキア商人と切り離された共同交易拠点として与えられた(運用開始自体はそれ以前の時代まで遡る)に端を発すると考えられている。なぜならこの地では商用共通語としての(つまり書き言葉としての)ギリシャ語の最初期の文献が発見されているからである。

    それ以前より地中海交易で重要な役割を果たしてきたイオニア系のミレトス古希Μίλητος=ミレートス, 羅Miletus, 土Milet)とサモスΣάμος / Samos)、エーゲ海地域に独自商圏を構築し、ギリシャ系植民市としては初めて独自の貨幣も発行したアイギナ(Aigina)以外には、以下の様な商業都市が共同交易に参画していた。
    *ミレトスは当時の地中海交易圏における最重要都市だったが、オリエント世界統一を成し遂げたアケメネス朝ペルシャに逆らったイオニアの反乱(紀元前500年~紀元前494年)の盟主に祭り上げられて以降、次第に没落。ちなみにこの蜂起に連動する形でペルシア戦争が勃発。

    *アケメネス朝ペルシャ台頭まで、サモスはアナトリア半島ギリシャを結ぶ重要な通商路を握ってきた。アテナイとの政争に敗れ没落。

    アテナイとの「仁義なき戦い」に敗れたアイギナも没落。

    • イオニア人系都市…キオス、クラゾメナイ, テオス、ポカイア
      *ヒオス島は実は紀元前8世紀頃に成立した「イーリアス」「オデュセィア」といった叙事詩の作者(編纂者)の出身地と目されている。

      海上帝国設立前夜、アテナイでオリーブ園を経営する在地有力者(貴族)がオリーブオイル輸出を試みて失敗し賢者ソロンを困らせた。実際にはクラゾメナイと異なり「製品量産に対する覚悟」が足らなかった?

      *テオスは伝承によればボイオティア人が建設した街とも。その後、イオニア系移民が殺到してイニチアシブを奪取。

      *一方、アテナイヘロドトスがポカイア人に与えた「ギリシャ系最初の航洋民族」なる称号を奪取せんと手段を選ばぬプロパガンダ作戦を展開。

    • ドーリア人系都市…ロドス島、ハリカルナッソス、クニドス、ファセリス
      *ロドス島は、その地政学的重要性故に様々な軍隊から高劇され続ける。特に十字軍時代に入り「海賊(異教徒への私掠が主要財源)」のヨハネ騎士団に本拠地を移されて以降…

      アレクサンドロス3世がアケメネス朝ペルシアと戦った場所。やはりヨハネ騎士団と縁が深い。

      *そしてロードス島との関係が深いクニドス…

      *やはりロードス島との関係が深いファセリス…

    • アイオリス系都市…レスボス島のミュティレネ
      *後にテーバイやスパルタの援助を当て込んで、アテナイへの反逆を試み自滅してしまう。

    概ねオリエント色の強い東方化様式の商品を流行させたドーリア商圏の主要交易都市に対応する。文化面においてこの流れを主導していたのは、ここに名前の現れないコリントスだった。

こうしたギリシャ民族形成期紀元前1200年頃~紀元前8年頃)には「アイオリス人/イオニア人/ドーリア=ギリシャ語を解して味方に加わるエーゲ海地域先住民」と「(トロイア戦争においてもトロイア側に立ったとされる)ペラスゴイ人=ギリシャ語を話さない敵対的エーゲ海地域先住民」の峻別が著しく進み、それに続いた植民市建設ラッシュ(紀元前8世紀~紀元前6世紀)と相まって東地中海沿岸交易におけるギリシャ商人の優位を確定。
*そう、おそらく歴史上のこの時点までアイオリス人は双方にいて、前者のみがギリシャ民族に合流した。メソポタミア文明を俯瞰しても、イラン高原のザクロス山脈を超えて侵入してしてくる蛮族が、僅か数世代を経るだけでネイティブ原住民に変貌している。言語自体の障壁性など所詮その程度なのである。

ギリシア語は、インド・ヨーロッパ語族の中で最も古くから記録されている言語であり、その歴史は3400年にわたる。ギリシア文字で記されるようになったのは、ギリシアでは紀元前9世紀キプロスでは紀元前4世紀以後のことである。それ以前では、紀元前2千年紀中旬には線文字Bが、紀元前1千年紀前半にはキプロス文字が、それぞれ使われていた。

ちなみに最近の研究ではギリシャ植民市の建設ラッシュ(紀元前8世紀~紀元前6世紀)の背景に人口爆発を見る学説は否定され、代わって浮上してきたのが「貴族政ポリスの相対的人口増加による貴族層内部の政争激化の回避策」説らしい。

東地中海商圏ではフェニキア商人の「在地有力者と政略結婚すると同時に神官を送り込んで宗教儀礼も抑え、泊地と祭具の売り先と忠誠心を確保する」戦略が、ギリシャ商人の「いきなり大人数を移民させ、相互交易を始める」戦略に敗れたとする学説はまだ無事なんだろうか? これまで陥落するとかなり痛い…

④こうして経済的繁栄から見捨てられたテーバイは軍事技術のみに起死回生の機会を賭する様になり、最終的にはギリシャ世界にマケドニアを引き込み、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)を滅ぼしたアレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)と、それに続くヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)が用意される展開を迎える。果てさて別時間線に分岐するチャンスは、あったのか、それともなかったのか…

かかる知見を得る過程で新たに得た知識。

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ミノア文明(紀元前二千年頃~紀元前1500年前後)のミュケナイ/ミケーネ文明(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)への移行とは、支配者階層の祭政一致体制から専制的献納体制への移行に過ぎず、また「紀元前1200年代のカタストロフ」によるミュケナイ/ミケーネ文明も、かかる専制的献納体制の崩壊に過ぎず、その文化の実際の担い手たる被支配階層の生活は、その都度それほどの影響は受けていない。むしろそれを達成して彼らを自給自足を原則とする自作農に変貌させたのは、かかる無政府状態を選好した「半農半牧の定住民を中心とするアイオリス人/ドーリア人の移動」だったが、おそらく「ヒッタイト崩壊後、テッサリアからアナトリア半島内陸部に移住したフリギュア人」同様、侵攻なる暴力手段に拠らず平和裏にそれを達成している。

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②アルゴナウタイの冒険の伝承は紀元前14世紀頃~紀元前13世紀頃黒海沿岸諸都市におけるコルキスの砂金産業(パーシス河(現在のリオニ川)で行われていた河床に羊の皮を置く砂金採集方法。「黄金の羊」概念の起源)や琥珀交易の中継地だったコリカリア(東方ではなくアドリア海の奥、ポー川下流マントヴァからほど近い場所にあった)の争奪戦、トロイア戦争の伝承は「ヘレースポントスを押さえたトロイア第6市, 紀元前13世紀頃の交易独占に対する他都市連合の挑戦」に由来するという考え方が浮上してきた。ならばそれはミケーネ文明圏というより、小麦の栽培化起源地域の候補地の一つとされるカフカスから黒海北岸に下ってきた半農半牧の定住民達が伝えた伝承だったのかもしれない。
*実際、最近のDNA調査によれば青銅器時代(紀元前3500年~紀元前1200年)のカナン地方住人には既に「レヴァント(東部地中海沿岸)の人々」や「イラン高原のザクロス山脈周辺からやってきた人々」ばかりか「カフカスから(おそらく黒海北岸経由で)やってきた人々」が含まれている事が明らかになったという。

  • 何に衝撃を受けたかといって「地中海と黒海の関門を独占した強国トロイアに連合して対抗する」主体は地中海側都市連合でも、黒海側都市連合でも物語はちゃんと成立するという思考様式。それまでそんな発想は全くなかった!!
    *ただしホメロスイーリアス」にはミケーネ時代から続くボイオティアの都市オルコメノスの攻城側での参戦についての言及もあったりするので実際に学説として成立するのは難しそう?

困った事に物語中の兵器や用兵の描写から元話の時代や地域を割り出す事は難しい。それを謳った紀元前8世紀~紀元前7世紀の吟遊詩人に紀元前13世紀頃~紀元前12世紀頃の軍事技術知識が欠落していたのが明らかだからである。

ホメロス叙事詩イーリアス(紀元前8世紀前後成立)」はファランクスに似た3つの記述を含んでいる。
liade (XVI, 215–217), extrait de la traduction de Frédéric Mugler. Voir aussi Iliade (XII, 105 ; XIII, 130-134) et peut-être Iliade (IV, 446-450 = VIII, 62-65).

かくて彼らは兜と円き楯を整えた。楯、兜、そして人が互いにひしめきあい、彼らが身を屈めると、馬の髪に覆われた兜が隣の見事な飾冠にぶつかる、さほどに彼らは密集していた。

ファランクスの導入時期には論争があるが、大部分の論者は紀元前675年頃であったとしている。

*実際には密集陣形自体は紀元前三千年紀から存在したが、ヒクソス登場(紀元前17世紀~紀元前16世紀)の頃より威力の絶大な複合弓が普及し、一時的に用いられなくなったのである。金属鎧の発達に従って新アッシリア帝国(紀元前934年~紀元前609年)時代途中の紀元前8世紀頃より復活し騎兵と共に有効活用される様になった。当時のエジプトがギリシャ人を重用する様になったのも、彼らがかかる意味での「最新の戦闘技術」を習得していたからと考えられている。

最も古いファランクス、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアですでに確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時に存在していたことを示している。
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しかし、その後中東では複合弓の発明によって戦場の主役の座は弓兵となっていく。その後紀元前700年頃アッシリアでも同様の隊形が用いられていたことが石版から確認できるが、鎧兜を着用した重装歩兵を用いたファランクスを大々的に用いたのは紀元前7世紀以後の古代ギリシアである。古代ギリシアにおいてファランクスを構成していたのは一定以上の富を持つ市民階級であり、当時の地中海交易の発達から甲冑が普及して重装歩兵部隊を編成することが可能となった。また、都市国家が形成されたことから同じ目的意識を持った集団が生まれたこともファランクスの形成に影響した。

 戦車二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている。英雄達は戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのであった。
*実際の紀元前千年代は戦車大量運用の時代で千台単位の投入例まで記録に残っている。

エジプトは当初軽装弓兵のみを載せていたが、ヒッタイトの運用から学習して白兵戦も闘う様に。

しか宣んすればヘクトール其同胞の言に聽き、武具を携へ戰車よりひらり大地に飛び降り、鋭利の槍を揮り舞はし諸隊遍ねく経りて、之を勵まし猛烈の戰鬪に驅け進ましむ。

また物語は青銅器時代のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている。

其胸甲の線條は十は眞黒き鋼鐵(くろがね)と、十二は光る黄金と、二十は錫と相まじる。左右おのおの頸に向き走る三條藍色の蛇あり、虹にさも似たり、虹は天王クロニオーン。言鮮けき人間に徴(しるし)と爲して雲に懸く。

 *また矢の鏃(やじり)も鉄製。

アポローン――リキエーに生れし神に盟かけ、弦――牛王の筋と共矢筈を取りて引きしぼる。弦は胸許、鋼鐵の鋭き先さきは弓端に。かくて大弓滿月の如くに張りて射放てば、弓高らかに鳴りひびき弦は叫んで鋼鐵の鏃(やじり)鋭き勁箭は、衆軍の上翔けり飛ぶ。

こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。オデュッセイアの旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。

なんと「トールキンの煙草問題(煙草は大航海時代に新世界から伝来する技術なので中世以前には存在しない筈という議論)」はこんな時代まで遡る? 

もちろん解らない事はちゃんと解らないままなのですが、こう考えると考え方の通り道が随分変わってきますね。