諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】「数理補充宣言から三年目」を前にしての原点回帰

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思えば2019年初頭に「数理を補充する」と決意して最初に本格的課題に取り組んだのは近世数学をリードし、最初のコンピューター開発競争を引き起こした「常用対数表コンピューティング」の世界だったのですね。

とどのつまり、この続き…

当時の投稿を読み返してみると、この課題を選ぶ前段階として、以下の様な事を考えていた様です。「カンブリア爆発期における眼の獲得」への言及は当時まで遡ります。

  • 後期ハイデガーいうところの「集-立Ge-stellシステム」への考察

  • 仏教における「空の哲学」すなわち「色即是空空即是色」概念とコンピューターの駆動の中心としてのカーネルのメインループの比較

  • そしてこの二つの問題意識の積として現れてくる「自動化に伴う労苦からの開放は救済なのか、それとも堕落なのか? 脅威への脆弱性が弱まる事についてどう考えるべきか?」といった新たな問題意識の発生…

自動化に伴う労苦からの開放は救済なのか、それとも堕落なのか? 脅威への脆弱性が弱まる事についてどう考えるべきか?」なる課題には(偏微分の積み重ねによって抽出される)個々の具体的数理(Mathematical Things)しか対応しないであろう事への気付き(およびそれに時代を超越する汎用性があったかなる疑問の到来)、「Kernel Main Loop中心の現代のComputer Architecture登場以前のコンピューターの在り方」への関心の高まりなどと、丁度それまで裏で必死に勉強を重ねてきた統計言語Rで挑戦するには良さそうな課題に思えたので、そういう取り組みとなった次第。そしてこの経験を踏み台に吉田武「オイラーの贈物」片手にオイラーの公式(Eulerian Formula)e^πi=cos(θ)+sin(θ)iへの挑戦が始まった感じとなります。

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そして、(0±1i)^2x関数Cos(θ)+Cos(θ-π/NoS)i(NoS=Number of Sides)関数との邂逅を経て次第に数直線論に始まるこの本の構成が気に入らなくなってきて原始座標群(Primitive Coordinate Group)=距離の概念も方角の概念も成立し得ない極座標(Polar Coordinate System)」から出発する新たな座標系に取り組む展開に。

とりあえずこうした展開の原点の確認という意味でQiitaに以下の投稿をしてみました。

世界初のSF映画月世界旅行(Le Voyage dans la Lune,1902年)」が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされるモノクロサイレント映画「メトロポリス(Metropolis,1926年製作,1927年に公開)」を手掛けたフリッツ・ラング監督は、脚本を担当した妻のテア・フォン・ハルボウがそれを出版した際、序文で「(もっとちゃんとした形で)機械と人間の関係について語られるべきだったかもしれない」と不満を漏らしています。私はこれをカート・ヴォネガット・ジュニアが「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God Bless You, Mr.Rosewater,1965年)」の冒頭「蜜蜂にとって蜂蜜(Honey)を主題とする物語が有り得る様に、人間にとってお金(Money)を主題とする物語が有り得る」とセットで覚えていて、「認識外を跋扈する絶対他者」へのイメージ力が枯渇しそうになる都度、思い返してきました。そう、見逃してはならないファクターは、しばしば完全に視野外に追いやられた時に最大の存在感を発揮するものなのです… 

やっと思い出せた「20世紀に置き去りにして、ほとんど忘れかけていた自分」…まさしく「見逃してはならないファクターは、しばしば完全に視野外に追いやられた時に最大の存在感を発揮する」ものという…