諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】「まさかお前も輪廻転生対象だったのかい」?

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驚きの展開…まさか黎明期(0次元~1次元未満)には「ティンダロスの猟犬」が出没し、末期(下手をしたら正6角形以降)には半径1の円弧への合一を果たすまで単層トーラスの小半径(Minor Radius)の無限収束が淡々と続くだけの熱死(Heat Death)状態を迎えるオイラーの公式Eulerian FormulaCos(θ)+Sin(θ)iの一般形Cos(θ)+Cos(θ-π/NoS)i(NoS=Number of Sides)に周期単位化(Cycle Unitization)とインデックス化(Indexing)による集合化の可能性が浮上してくるとは…

とはいえ、そもそも「無限(Inf(inity))/無限(Inf(inity))=1」なる超越演算(Transcendental Operation)によって(統計的観測手段しか存在しない)一次元状態から脱した世界構造が、最後には全て半径1の単位円に飲まれて終わる事は何を意味しているのでしょうか? もしかしたら1の元来の姿たる無限遠点へと回帰していくのではないでしょうか?そしておそらくその頃までにはCos(θ)-Cos(θ)を峻別する意義もすっかり消失していて、この世界観における「始まりと終わりの前提」そのものが崩壊しているのです。

そもそも、この世界モデルにおける意味論Semantics)はどうなっているのでしょう…そう確率密度空間(Probability Density Space)の概念を導入した以上、それが「三昧の世界=観測者自身の定めた精度基準をクリアした観測結果に基づく観測者自身の思惟」以外の何者でもを超えた何者でもない事を受け入れざるを得ないのです。まさしく龍樹が「中論」の中で展開している「色即是空空即是色」解釈。ならば観測者そのものが存在しなくなった時、何が起こるのでしょう? 龍樹の答えは「縁起の世界(要するに我々の生きている現世)そのものまでなくなるものではない」というものでしたが、さて現代風に考えるとそれは一体どういう展開に対応するのでしょう?

  • こう書くと恐ろしい程までに哲学や宗教めいて聞こえるが何の事はない、そもそも最近統計モデル選択論などで頻繁に触れられる様になった、ポパー反証可能性Falsifiability)論の元来の由来たる科学的実証主義(Scientific Positivism)の基本理念がそういう立場なのである。そしてもちろん誰も「科学そのものが滅ぶ」展開まで想定している訳ではない。

    統計的モデル選択 - 後藤研究室

そういえば初めて関数Cos(θ)+Cos(θ-π/NoS)i(NoS=Number of Sides)のアニメーション化に成功した時、そのクネクネした動きが軟体生物の海中遊泳の様に見えたものです。それが今やすっかり鋼鉄製の遊園地のアトラクション施設か何かの様に映る様になりました。おそらく(相関係数概念ではこの円盤に射影される)正規分布(Normal Distribution)を「この世で最も自然な分布」ではなく「(多様で多態な状況に支えられた、それぞれが個性的な諸分布を数の暴力で併呑する)統計データーの墓場」と考える様になったからです。まぁ今はもう21世紀なんですから「最終的には正規分布から導出される答えだけに恒久性がある」なんて主張を展開する原理主義も死に絶えたと信じたいところですが…

皮肉にも、そうした「(二乗法信者だった)ガウスの遺産」が揃って(統計上の平均を狂わせる)外れ値に弱く、その事がベイズ検定やMCMC法、上掲の統計モデル選択論台頭の契機になった側面も。「そうやって世界は回っていく」という考え方もアリはアリでしょう…と、そんな感じでとりあえず以下続報…