諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「子供の自由」「大人の自由」?

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今年最初の頃にこういう投稿をしました。

親族の基本構造 - 内田樹の研究室

多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効率的な方法なのである。

成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。

成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。

それ自体は「罪を知る者に罪はない。なら汝の罪は何か?」みたいなトリッキーな問い掛けですね。一般化可能な回答はありません。

私は以前から回答の一つを北原白秋(1885年~1942年)のいう「三昧の境地」に求めてきました。「一心に遊びに熱中する幼児の如き」目の前の問題への集中による一点突破戦略。その結果得られた答えに汎用性があるかどうかは、また別問題…

私は歌つた。歌はねばならなくなつて、私はただ歌つた。かうして私の詩が流れ出して来た。こんこんとして大地の底から湧き上り溢れ出づるものの如く、これらは皆私の心肉から真実に溢れて言葉となつたものであつた。とりもなほさず私のものであつた…(中略)…人間はただその本元に還り、ただ自然のままに己れを還す、かうした恭礼三昧の境地に私は私自身を見出して来た。

そしてこの問題には、こういう別解も存在するのです。

これがややこしい話で「社会学の誕生過程」 みたいな話題と絡んでくるんです。

  • フランス社会学大統領ルイ=ナポレオン(1848年~1851年)/皇帝ナポレオン3世(1851年~1870年)時代における産業革命導入本格化を契機に伝統的地域共同体が崩壊。「それでも社会は実在し続ける」という立場からデュルケーム(1858年~1917年)らが19世紀末に創始した。

    ここで興味深いのが、フランス社会学が現代に至るまでアレクシ・ド・トクヴィルアメリカの民主政治(De la démocratie en Amérique, 第1巻1835年/第2巻1840年)」以来の伝統で開拓期米国の地方分権体制を理想視したアソシアシオン概念(Association Concept)を現代に至るまで重視し続けてきた一方…

    …その米国ではフランスにおいてデュルケームが仕掛けた社会実在論で政治的に敗れた心理学的社会学の代表格ガブリエル・タルド(1843年~1904年)の模倣犯罪学アイルランド移民や彼らの敬愛するイエズス会師の「ヘイズ・コード(Hays Code,1934年~1968年)」起草などを通じて受容し、米国占領下日本(Occupied Japan,1945年~1952年)のエンタメ業界まで一時的にその統制下に組み込まれた入子構造にあったりする。

    戦中は内務省終戦後はGHQの検閲に苦しめられた黒澤明監督(1910年~1998年)が独特の屈託を抱え(急遽能「安宅」と歌舞伎「勧進帳」を元とする「虎の尾を踏む男達」は、戦中にそうした主題しか企画が通らなかったからこそ撮影されたが、終戦直後のGHQ検閲で「封建制を助長する要素がある」と判断され非合法作品となり、1952年まで上映が禁時られた。その一方で菊田一夫の戯曲「堕胎医」を原作とする「静かなる決闘(1949年)」の脚本が原型も留めない程破壊され尽くした)、反動で石原慎太郎太陽の季節(1955年)」発表を契機とする「太陽族映画(1956年~1957年)」が制作されて映倫が滅茶苦茶な状態に追い込まれる一方で…

    …当時の日本のリベラル層は「白人の誕生」すなわち米国におけるプロテスタント(英国や北欧からの旧移民)とカソリック(主にアイルランドからの新移民)、南アフリカにおけるオランダ系旧移民英国系新移民の妥協の産物たる(利権構造から排除された黒人が米国公民権運動や反アパルトヘイト運動を開始する契機となった)いわゆる宗教右派の価値観を無批判に受容した時代、フランス社会学は不毛の時代が続いている。

    再建の突破口を開いたのは「贈与論ーアルカイックな社会における交換の形態と理由(Essai sur le don: forme et raison de l'échange dans les sociétés archaïques,1924年) を発表したマルセル・モース(1872年~1950年)や「親族の基本構造(Les structures élémentaires de la parenté, 1948年)」のレヴィ=ストロース(1908年~2009年)の構造主義。それは
    ソ連ウラジーミル・プロップ1895年~1970年)による昔話の形態学的研究やブルバキ数学原論(Éléments de mathématique,プロジェクト開始1935年,刊行1939年~)」の影響も受けた本格派で、ゴビノー伯爵の純血主義に回帰しつつソーカル事件(1995年)による構造主義傍流やポストモダン思想の枝刈りを生き延びる。

  • 一方、同じく産業革命導入による社会動揺の研究を契機として19世紀末より始まったドイツ社会学は真逆に「社会環境が個人に与える影響」に注目。マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」における「鉄の檻(Gehäuse)」理論やゾンバルト(1863年~1941年)「恋愛と贅沢と資本主義Liebe, Luxus und Kapitalismus, 1912年)」「戦争と資本主義Krieg und Kapitalismus, 1913年)」などの人間観がその典型とされる。

    当時のドイツ社会学カール・マルクス経済学批判要綱Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie、執筆1857年〜1858年、出版1859年)」が示した「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる基本テーゼや「自らの内なる邪な衝動を無意識下に閉じ込めつつ、完全にそれに従って行動する神経症的人格は、皮肉にもそうした自己欺瞞の試みが成功に近くと内的破綻の恐怖からそれを回避しようとする」としたフロイト神経症理論から出発し「マルクス=フロイト主義」を自認していたから、ある意味当然の帰結ではあった。その一方で破壊の時代を経てやっとサン=シモン主義が軌道に乗ったフランスや(これをモデルに「ええとこどり」を遂行し)版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)を淡々と遂行した大日本帝国(1868年~1946年)と異なり王国連邦として出発したドイツ帝国(1871年~1918年)/ヴァイマル共和政(1919年~1933年)では封建的遺構の棄却が遅々として進まず、あくまで社会そのものは学問でなく政治の対象であり続けた。

    ヘルムート・プレスナードイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes, 1935年/1959年)」は、こうした黎明期ドイツ社会学者が価値判断論争を通じて「学問の自由」と引き換えに政治的発言権を喪失していったプロセスを批判する。「そして大衆には民族生物学Ethnobiologyのみが残りナチス台頭が始まった」。軍事国家化した大日本帝国末期において日本仏教界が独自の二諦論を展開したのと似た方便だったが、かかる戦前ドイツ社会学への失望感が(主に米国留学生が再興した)戦後ドイツ社会学との断絶を産んでしまう。

  • 一方、版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)の淡々とした遂行によって原則として封建的遺構が一掃され、大英帝国の様に保守派が主導する形で普通選挙性も淡々と導入された戦前日本においては社会学の居場所そのものが存在せず、それが「(上掲引用で批判される)大人不在の社会」の原風景となった感は否めない。マックス・ヴェーバーの誤用、吉本隆明共同幻想論(1968年)」、栗本慎一郎の経済人類学などの台頭もかかる状況を背景としている。

 私が大学時代(1980年代)に学んだ社会学は「方法論的個人主義と方法論的集合主義の対峙を二本柱とする」と規定されていました。長い間それは上掲の様なフランス社会学とドイツ社会学の対峙に由来すると考えてきましたが、さらなる大源流が存在した様です。

ミルが方法論的個人主義ミクロ的手法)に立って人間性から心理学的に物事を捉えようとしたのに対して、コントは方法論的集合主義マクロ的手法)の観点から人間を社会的単位から歴史的に考察しようとした。コントの立場は『論理学体系(1843年)』を執筆中のミルの思考方法にも影響を与えた。調査によって得られたデーターが既知の法則に適合するか否かを検証して既存の知識の修正を進めていく科学手法「演繹法」という方法論をミルにもたらした。こうした点から考えると不可解だが、コントはミルに「精神衛生上好ましくない」として自著の『実証哲学講義』や少数の古典文献以外は読まないほうが良いと薦めていた。1840年になるとコントは経済学や心理学におけるミクロ理論を拒絶し始め、自分の世界観に閉じこもるようになっていたようだ。清水幾太郎氏によれば、レオン・ワルラス一般均衡理論を知るほど長寿であれば、精神異常を起こしていたに違いないと言われている。20世紀以降社会学はコントが構想した綜合化に基づくマクロ的なシステム論が提示される一方で、これに対置するように社会的行為理論などミクロ理論に基づく研究モデルが提起されている。コントの期待とは裏腹に、社会学の研究手法が個別領域を扱うようになって専門化しはじめ、この潮流が進行するに従って研究は領域社会学のかたちに特殊化・分化を遂げながら発展している。

そして、コントが柔軟性の欠如を表し、ミルと決定的に異なる立場をなしたのが女性観であった。

広く知られていることだが、ミルはエルヴェシウスの影響から男女平等と教育の万能性を主張する代表的な女性解放論者であった。これに対して、コントはヘーゲルの『精神現象学』に基づいた当時の内省的手法による心理学の風潮を拒絶していたのだが、コントは生理学や神経解剖学に強い関心を寄せており、フランツ・ヨーゼフ・ガルの脳機能局在論と骨相学の影響を受けていた。ガルは人間の先天的不平等、男女間の異質性を強調しており、コントは平等に対して懐疑的であったため、男女の不平等性を支持していたのである。コントによれば、「女性は子供同然である」という考え方が存在していた。ミルはコントの見解に反対を表明したが、コントはなかなか聞き入れようとしなかった。

逆演繹法

実験的探求の方法の4()つの公理。これらの方法は「帰納法」ではあるが、その本質は、むしろ演繹的なものなのであり、自然の種族を確定しつつ普遍永遠の法則を得る確実な方法である。

  • 類同法」…複数の事例に共通する唯一の事情があれば、それがそれらの事例の原因または結果と考える。
  • 差異法」…肯定的事例と否定的事例を分ける唯一の事情があれば、それがそれらの事例の原因または結果と考える。
  • 類同差異併用法」…複数の肯定的事例に共通する唯一の事情があり、複数の否定的事例の唯一の共通点がその事情を欠くことならば、それがそれらの事例の原因または結果と考える。
  • 剰余法」…ある現象から既知の因果を差引くならば、残りの事情と現象が因果関係にあると考える。
  • 共変法」…ある事情の変化に従って変化する現象は、その事情と現象が因果関係にあると考える。

なるほど確かにフランス社会学の出発点に実際にあったのは、数学者として「大数の法則」を教育の平等や女性解放運動に繋げたコンドルセ侯爵(1743年~1794年)やジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)の掲げた古典的自由主義に対するオーギュスト・コント(1798年~1857年) が実証主義哲学Positivism)研究を通じて提言した「科学は数理以外の何者かによって統制されるべきである」なる確信だったのです。

コンドルセ伯爵(1743-1794)

そしてコントが実証主義哲学の完成に失敗する一方、分散(Variance)を巡る新たな論争が始まった訳です。かくして社会学は居場所を失った?

やっとこのブログ最初期の主張と最近の主張が繋がってきた様な…とりあえずはそんな感じで以下続報。