カール・マルクスは「ドイツ・イデオロギー(1846年)」の中で「共産主義は需要と供給の関係といった人間を疏外する非人間的要素を一切排除した真の生産を提供する。逆をいえば労働者を真の創造的な生産に従事させるのが共産主義の本懐なのである(意訳)」と述べています。プルードンやヴァイトリングに魅了されているドイツ人手工業職人を彼らから引き剥がすには、そう断言せざるを得なかったのです。
- むしろこの時マルクスが主張した「共産主義=自らの手で作品を生み出す職人がきちんと対価を受け取れる世界」なる理念は(浮世絵出版を含む)江戸時代日本の出版産業、フランス近代芸術、アールヌーボー運動、バウハウス運動、日本のオタク産業などが実現したといって良い。一方、マルクス自身の関心は「余剰価値論(1847年)」以降「資本家による労働者からの労働力搾取」に向かいこうした観点から完全に逸脱してしまう。それどころかこの系譜からは、かかる意味合いにおいて原義としての共産主義が自明の場合として含んでいた「表現の自由の保証」なる概念が完全に欠落した社会自由主義の概念が派生してくるのだった。
- 私は社会を「(主権国家とその国際協調体制に担保された)法実証主義」「(企業の可能な限り自由な営利活動によって担保される)経済実証主義」「(法実証主義と経済実証主義の価値判断基準が直交するだけでなく、この二者とも価値判断基準が直交する事によって担保される)文化実証主義」の三段階に分けて把握しようと試みている最中だが、社会自由主義者はそうは考えない。それは社会自由主義者がマルクス主義から「常に自らを被害者と考え、党争における勝利を最優先課題に掲げる」ある種の原理主義を継承し、かつ先導して兵力として動員する人々の多くがこの区別に疎いのに譲歩しての事である。結果として彼らの勝利は「真の共産主義」の立場からすれば「全てを廃墟に変えて喜ぶ虚無主義」としか映らないが「党争における勝利を最優先課題に掲げ、これだけは守り抜きたいという価値観を一切備えない(勝つ為には手段を選ばず、何を犠牲に捧げても惜しいとは思わない)」とはそういう事なのである。
そう、出発点が全く異なるのにフランス革命もナチズムもほぼ同じ結末を迎えたのは決して偶然ではない。「社会自由主義者の夢見る最終的勝利」とは、実際に実現してしまうと、自明の場合としてそういう顛末を迎えざるを得ないのだった。
今回の投稿の発端は以下のTweet
最近、腑に落ちたこと。デジタルネイティブ世代は誰でもネットで発信できるのが当たり前で『誰もが消費者で創作者で発信者』の意識があるから、クリエイターや企業の立場に共感できる。でも、上の世代はこの感覚が無い人がいて「あくまで自分は消費者」の認識だから、作る側を想像できずに文句を言う。
— 神崎ゆき (@yukinoko811) 2022年4月24日
個人的に思ったことをリプさせてください。
— 取手井野団地 (@TORIDEINODANCHI) 2022年4月25日
「『誰もが~』の意識がある」という定義には賛成。ただ、定義の後者「(自分は)創作者で発信者」である為に若い世代は創作者発信者への敬意を忘れる時があります。
何も創作できない私ら上の世代は、例えたら宝塚のステージを客席から見上げていました。
つづき
— 取手井野団地 (@TORIDEINODANCHI) 2022年4月25日
ですが若い世代はその内容が自分の意に沿わない場合は、客席からステージに上がってすべてを台無しにする負の面を持っているということです。
対象に敬意を抱かなければ上の世代、下の世代という区別なく「文句を言う」だけなのです。
そんな感じで以下続報…